bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

上田信著『伝統中国』を読む

グローバリゼーションによって、色々な国の人と付き合うようになった。文化が異なる人々とはそのつもりで構えるので、異質なことに出会っても気になることはない。しかし顔かたちでは区別ができず、漢字文化なので多くのことを共有していることだろうと思っている中国の人が、予想もしない行動や考え方を示したしたときには、かえって面食らってしまう。これもそのひとつである。中国の大学との交流を始めるために、かつては長安、現在は西安と呼ばれているところの大学を訪問した。案内を兼ねて中国人同僚が同行してくれたが、会議のあとで、同僚が普段は見ることがないほどに憤慨していた。聞いてみると、相手の対応が礼を欠いていたという。中国での大学への進学は、全国統一の大学入学試験の結果によって決まる。この試験制度は、文化大革命で中断されて鄧小平が復帰したあと、復活された。最初の数年間は、それまで機会を与えられなかった若者たちが殺到したために、競争は想像を絶するほどに熾烈だった。同僚は信じられないほどに優秀な成績だったのだろう、開始された2年目に17歳(通常は18歳、このころは希望者が山積していたので20歳以上も普通)で入学を許された。訪問した大学で対応してくれた学部長クラスの教授も、同じ年に合格したようだった。ところが彼の態度が威圧的だったようで、同僚はとても憤慨していた。詳しく聞いてみると、統一試験の結果は、学部長クラスの方が劣っていたので、点数の高かった同僚の方を敬うべきだと言う(同僚はただの教授なので、身分から言うと相手が上)。中国の人たちを観察していて、なにかを基準にして上下関係をつけているとは感じていたが、試験での成績までもがその対象となっていることにビックリ仰天した。彼らは、見つけにくい時でも何とかして基準を見出し、上下関係を決めないといけないのだろう。

このような経験があったので、益尾知佐子さんの『中国の行動原理』を読んでいるときに、あれ?と思うところがあった。全体的には、この本はなかなか優れた本で、分かりにくい中国の行動を、エマニュエル・トッドの家族構造を基本にして解き明かしてくれる。トッドは、中国のそれは権威的で平等な「共同体家族」、言葉を変えると、「家父長制」であると言っている。彼女もそのように説明している。それに基づいて、中国の社会秩序は、①権威が最高指導者に一点集中する、②組織内分業についてはボスが独断で決める、③同レベルの部署同士では上の指示がない限り連絡を取らず、助け合わない、④トップの寿命や時々の考え方によって波が生じる、という特徴があると説明したうえで、中国の歴史を紐解いてくれる。魅力的な説明なのだが、私が体験した「上下関係」と、彼女がよって立っているところの「権威的で平等(父親が絶対的な力を有し、子供たちの間ではそれぞれに差がない)」との接点が見つからず、消化不良を起こした。

その後すぐに、文庫本として今月発売された講談社の「中国の歴史」シリーズの最後の巻『日本にとって中国とは何か』を講読した。この巻は5人の著者により執筆されていて、その中の一人である上田信さんが「中国人の歴史意識」について書いている。冒頭に母親が子をあやす言葉が出てくる。何と、おじいさんやおばあさん、おじさんやおばさんをどのように呼んだらよいかを教えている。父方なのか母方なのか、兄(姉)なのか弟(妹)なのかによって、呼び方が変わる。幼いころから、子守歌を介して教えてもらわないと覚えきれそうもないほど、複雑である。親族での上下関係は、この呼称によって著わされている。小さい時から身に付けておかないと、礼を失することになる。同僚が礼を知らないと憤慨したようなことが起きてしまう。中国の社会はやはり上下関係だということを確信して、もう少し詳しいことが知りたくなり、同じ著者が若いころに書いた『伝統中国』を図書館から借りて読んだ。

上田さんは、三つの民族を例にして、家族構造を分類している。タイ族の親族関係が「何をしてくれたから何を返す」という互恵性に基づいていることから動詞的社会関係とよび、日本では「ホンケ」や「ブンケ」のように名詞を用いて親族の関係を規定していることから名詞的社会関係とし、中国に対しては始祖から数えたときの世代(世輩)の上下(尊卑)や年齢の老若(長幼)に基づく相対的な関係(あなたより尊い、あるいは年を取っている)、すなわち形容詞で親族の関係が規定されることから形容詞的社会関係と呼んでいる。トッドの分類を用いれば、動詞的社会関係は核家族(タイ族はさらに詳細な分類では母系一時的同居核家族)、名詞的社会関係は直系家族(詳細では父方居住直系家族でいとこ婚可)、形容詞的社会関係は共同体家族(詳細分類では父方居住共同体家族)となる。

上田さんが伝統中国を研究するためのフィールドワークの地として利用したのは、諸曁県(しょき、浙江省)である。杭州市から南に50km下ったところで、周囲は山に囲まれた盆地である。彼はこの地点での、景観の変化、親族関係の形成、中国王朝とのかかわりという観点から、伝統中国を読み解く。なお、このような研究の仕方を彼は史的システム論と名付け、生態システム、社会システム、意味システムの三視点からの観察としているが、これについては触れないでおこう。
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景観の変化では、諸曁盆地の風景が歴史の歩みとともにどのように変化してきたかについて説明している。その概略は次のようである。①唐代ごろまでにこの盆地に来た人々は、図の中心にある河川の合流点周辺の低湿地を望む微高地に定住した。当時は、あたりは照葉樹林で覆われていた。②宋代には浙東・徽州などの盆地から移住民が流入し、生産技術を身に付け、照葉樹林を焼き払い、開墾しながら丘陵の脚部や山麓に居住した。③明代になると丘陵は飽和状態になり、それまで人手の及んでいなかった扇状地の内部を開拓し、丘陵の足元にある母村を飛び出し、新たな村落を形成する。また盆地底部にも、排水工事(水路・堤防)を施し、住み着く。④清代には盆地内は開発しつくされているので、新たに移住してきたものは山地の内部に入り込み(棚民と呼ばれた)、トウモロコシやタバコなどを生産し、2~3年耕作しては他の山へと移住した。

諸曁盆地への人の移動は把握できたが、それではこれらの人々は何族なのだろうか。古代にはこの地を含む中国東南部の盆地には、「越」と呼ばれる民族が住んでいたと考えられている。唐代までこのような状況が続き、宋代になると先に見たように新しい住人が移動してくるが、彼らが漢民族である。漢民族は、身体的な特徴によって識別されるのではなく、文化的な特質によって識別される人々で、華北で発達した定住農耕を行い、積極的に商業活動に参加し、余裕があれば漢字を学習して『論語』などの古典の暗記に努める人々をさす。

漢族の社会関係は、先に説明したように、尊い/卑しい・年長な/年少なという形容詞により上下関係が決定される形容詞的社会関係である。それでは彼らはどのように家族・親族を構成しているのだろう。近世日本には、イエという概念があり、その実体は家督・家産であった。イエは分割されることなく長男に相続され、次男以下はそれぞれ独立して新たなイエを形成した。前者はホンケと呼ばれ、後者はブンケと呼ばれ、別々のものと見なされた。このような別れ方を分化と呼ぶ。しかし、漢族では、別れたものは、異質ではなく同質と見なされ、分節と言われる。その仕組みは、①系譜の流れは父からムスコへと引き継がれる、②系譜の継承は、祖父を祭る資格を引き継ぐことで、不動産の保有権がそれに付随する、③ムスコが複数いる場合は、ムスコたちは同等の資格で系譜を継承する、である。益尾さんもトッドさんも、共同体家族では子供たちは平等といっていたが、その根拠は③である。しかし、上田さんは、ここの部分をもう少し上手に説明してくれる。即ち、同類であるということは、平等であることではないと言っている。

日本の「親族(血族)」に当たるものは、漢族では「宗族」である。親族には同じ「血」が流れていると考えられているが、これと同様に、宗族にも同じ「気」が流れていると考えられている。「気」は宇宙を活動させている活力ともいうべきものだが、これは骨を媒介として親から子へと流れていると考えられている。そして骨は父親から肉は母親から引き継ぐと信じられている。ムスコは父親から継承した「気」を子供たちに引き継げるが、ムスメは産んだ子に引き継ぐことはできないとされている。「気」の継承した順序と早さによって、宗族中での上下関係が決まる。大きな枠組みは、始祖から始めて何世代目(世輩)、すなわち尊卑関係によって上下が定まる。世輩が小さいほど、すなわち、始祖に近いほど、上となる。また、同世輩のときは早く生まれたほうが上である。そして名前の付け方にも特徴がある。『ワイルド・スワン』の中で、祖母の名は「玉芳」で、「玉」は一族の同世代に当たる子供たち全員に与えられた字という説明がある。この「玉」が世輩である。男子の場合にはこれに続けて、何番目の子であるかを示す番号が、宗族の中での通しとして付けられる。例えば、32番目の男子であれば、玉三二となる。このようになっていると、宗族での会食があったときに、たとえ初対面であったとしても、どちらが上であるかが容易に認識でき、席決めが容易となる。宗族は族譜を有し、そこには構成員の名前と簡単な略歴が記されている。巨大な宗族であったり、遠隔地の人々を含んでいたりする場合には、その維持・管理は大変だっただろうと容易に想像できる。

宗族を可視化したのが下図である。この図で三角は男、丸は女、塗りつぶされているのは現存者、中抜きは物故者、青枠のものは、「気」を共有していると見なされている人々で、同じ宗族に属する人たちである。枠が橙色の人たちは、この宗族には属さない人たちで、嫁いできた人たちである。
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左側下にある水色の枠の人々は、同一の家屋に住んでいる家族で、両親と男子二人がおり、一人は結婚している。結婚すると宗族の「気」とは別に、もう一つの「気」が流れると考えられ、これは「房」と呼ばれた。漢族では、男子が結婚すると、両親の家屋の傍らに建てられた部屋で生活した。「房」は傍ら(方)の部屋(戸)をイメージしているとのことである。

右側の家族は、男子二人、女子一人で、男子はどちらも結婚しているので、二つの房となっている。この家族で父親がなくなると、耕地や家屋は男子の間で均等配分され、房は独立した家族となる。それを示したのが下図である。そして、新たな家族で、男子が結婚するとまた「房」が作られる。
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宗族は同じ「気」を有するものを結びつける機能を有するが、「房」は別れさせる要素を有している。

宗族の構造が分かったところで、宗族はどのようにしてできるのであろうか。宗族を構成する人々の系図を示したものは、族譜と呼ばれる。日本の家系図に相当する。族譜は、宗族の始まりの人、すなわち始祖から始まり、現在のメンバーまでの「気」で繋がった人たちの関係を示している。上田さんがフィールドワークをした諸曁県での宗族のいくつかが紹介されている。それぞれの宗族の始祖は、この地に移動してきたときの人、あるいはその後継者で特に顕著な業績を上げた人となっている。偉大な人の「気」を受け継いでいるという自負心が自然に湧いてくるように、宗族は人為的に作られているようである。中国で最も大きな宗族は、おそらく、孔子を始祖とするものであろう。私も、孔子の子孫ですという方にお目にかかったことがある。

宗族は固定的ではなく、流動的である。宗族がくっついたり、分離したりということもある。地域の支配をめぐって宗族間で争いが生じるが、その優劣は宗族の大きさによって決まりがちである。そのため、婚姻関係を利用して、二つの宗族をくっつけて一つの宗族にしたという事例もある。このときは、構成メンバーの尊卑長幼の順序に基づいて、名前の付け替えなども行われた。また宗族から分離して新しい別の宗族を形成するということもあった。多分に宗族は人工的な構成物であった。しかしどの宗族も、その内部では族譜、祖先祭祀、族産などをともにした。

宗族は私的な組織であり、それとは別に役所のような公的な組織がある。そして私的な組織と公的な組織での上下関係が逆転することがある。公的な身分では、甥の方が叔父よりは上ということが生じる。このようなことが起きたとき、中国の社会ではどのように解決しているのであろうか。これについては最後の章で記述されている。ここではその説明は省く。中国の家族構造には、宗族内の結合が強く、宗族という組織力で生き抜いていこうとする意識が強く感じられる。王朝が頻繁に入れ替わることに代表されるような不安定な社会で生き抜いていくことの知恵として、自己防衛が働いた結果がこのようになったのではと考えている。