ハワイ先住民の人口はどのように推移したのであろうか。あまり資料は多くないのだが、Dye氏とKomori氏の論文”Pre-central Population History of Hawai`I”(1992, New Zealand Journal of Archaeology)から情報を得ることができる。論文によれば、クックが到達した1778年までの人口の推移は次のようになっている。
彼らによれば、人口の推移の傾向は3分類されると言っている。最初の傾向は400年から1150年までで、「創設フェーズ」だ。入植地が海岸近くに作られ、数百人から2万人ぐらいの人々が定住した。次の傾向は1150年から1450年までで、「成長フェーズ」だ。好環境の中、人口は10倍となり、最大で140,000-200,000人に達した。最後の傾向は1450年から1778までで、「均衡フェーズ」だ。人口は110,000~150,000人で、最大時のそれよりは若干少ない。
この傾向は、農業とのかかわりの中で彼らは説明している。ハワイの気候は、湿潤な緑の森に覆われた高地と、乾燥した開けた森の風下の低地からなる。これらの森は植物性の食物には恵まれていなかった。
「創設フェーズ」には、海岸近くに住み着いた入植者たちは、鳥や魚貝を狩猟採取したと思われる。しかし、糖質の食物が必要だったので、タロイモなどの栽培をし始めた。
栽培が進むにしたがって、既存の農地を焼き畑で再利用することや、新たに森林を切り拓くことで農地を開墾することを覚え、焼き畑農業へと移っていったと思われる。このときが「成長フェーズ」である。農地の拡大は低地からはじまり、高地へと広まっていった。
さらに、開墾が進みすぎ新たに開墾できる森林が減少し、このため人口増加が抑制された。これが「均衡フェーズ」である。
Dye氏とKomori氏はこのような農業の推移を、炭の量の変化によって説明している。既存の土地の焼き畑のよって生じる炭と、森林を焼くことで生まれる炭とでは、後者の方が圧倒的に多いであろうから、時代ごとの炭の量を調べることで開墾された森林の規模が分かると彼らは考えた。炭素14年代法で調べた結果は次のようになっていた。
この図から、「成長フェーズ」が始まる150年前から炭の量は急激に増え始め、そのピークは「成長のフェーズ」の終了時にピークに達する。そして、「均衡フェーズ」では最大時の半分程度までに落ち込んでしまう。これは、「成長フェーズ」に入る前に先立って、森林の開拓がはじまり、「成長フェーズ」の終わりごろには最大に達するが、その後は、新たに開墾する場所がなくなったと解釈している。
さらに、宗教との関係についても説明されている。ハワイ先住民の宗教は多神教で、11世紀ごろに南ポリネシアからもたらされたと言われている。その中に神官パアオ(Pa`ao)がおり、彼の子孫は1893年までハワイ島を支配した。この宗教は、ヘイアウ(Heiau)と呼ばれる聖域を有していた。この聖域の建設・改修に投じられた労働量の変化によっても人口の推移を説明できると彼らは説明している。これについては文献を参照して欲しい。
彼らの研究が1992年である。今日ではDNAを調べることで、人の移動に関する情報をより詳しく得ることができるようになっている。それほど遅くない時期にハワイの先住民についても、詳しいデータが得られるようになると思う。もしかすると、狩猟採集民が最初にハワイに定住し、焼き畑農業に長けた農耕民がその後に到着し、この二つの集団が交雑してハワイの先住民を形成したということになるかもしれない。また、パアオは後から来た農耕民の一人だったかもしれないなどと想像すると、歴史は本当に面白いなあと思う。
最後に英語版のWikipediaにヘイアウのイラストが載っていたので掲載しておこう。