bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

北海道・縄文の旅(1日目)

歴史の勉強を始めてすぐに、北海道の歴史は、本州、特に畿内を中心としたそれとはずいぶん異なる、ということを知った。知っただけでなく興味を持つようにもなった。そのきっかけを与えてくれたのは、ある会合で、北海道の小中学校で副読本として利用されている『アイヌ民族:歴史と現在』を頂いたことだ。副読本を読むことで、アイヌの人々が身近に感じられるようになり、さらに瀬川拓郎さんの『アイヌの世界』で、独自の文化が形成されたことを知った。そこで北海道の歴史に一度触れてみたいと思っていたところ、ある旅行会社が北海道の縄文時代の遺跡を中心にしたツアーを企画しているというのを知り、今回それに参加した。

国内ツアーの多くは、2泊3日だが、このツアーは3泊4日だ。添乗員さんは当然のこと、案内人付きという、どちらかというと、オタク系のツアーだ。参加者は、このような人ばかりと想像して、二の足を踏まないでもなかった。しかし歴史の勉強を始めてから4年目となり、かなりの知識をため込んだので、話題についていけるだろうと思って意を決した。

初日の見学場所は千歳から札幌に沿っての縄文遺跡で、キウス周堤墓群、恵庭市郷土資料館、江別市郷土資料館、江別古墳群の4か所で、全行程70km超だ。
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1.キウス周堤墓群

古い教科書を見ると、縄文時代は平等な社会だったと書かれている。しかしあるシンポジウムで国立歴史民族博物館教授の山田康弘さんから次のような話を伺った。かつては山田さん自身もそのように考えていたそうだが、他の縄文時代遺跡とは比較にならないような大規模な構造物の周堤墓に出会い、階層社会が始まったと考えるようになったと話してくれた。それがこれから行くキウス周堤墓群だ。

入り口にはパンフレットが置かれていたが、日本語のパンフレットはツアー参加者全員分には足りなかったので、英語のパンフレットをもらった。このパンフレットによれば、造られたのは3,200年前の縄文時代後期後葉、8基の周堤墓が発見されている。その中で、大きいのは1,2,4号周堤墓で、その外周の直径はいずれも75m、内周のそれは39m、32m、45mだ。外周と内周の間には堤がある。内周の内部は掘られていて、その深さは2m、5.4m、2.6m、掘った土を積んで堤にしたのだろう。

このうち1、2号周堤墓を見た。2,4号周堤墓は道路によって切削されているので、完全な姿で見ることができるのは1号周堤墓だ。この周堤墓の中心付近では5基の墓穴が発見された。

1号周堤墓
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2号周堤墓。道路が横切っていて、古代の墓の中を現代のトラックが走り抜ける。この周堤墓からは楕円形の墓穴が1基みつかり、8個の石によって囲まれているそうだ。
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山田さんが大規模だと言っていたので、その言葉を過度に受けてしまい、実際に周堤墓を見たときは正直がっかりした。期待していたよりはずっと小さかった。1号周堤墓の写真は、堤の上から中心部に向かって撮影した。堤が周りを囲んでいるのが見え、中心部がくぼんでいるのが分かる。樹木が生えているため、墓は林の一部になっている。自然の中に溶け込んでいるので、それほど大きく感じられない。それにもまして、自然の中に溶け込んでいる周堤墓群を良くも発見したものだと、発見者に感謝を申し上げたい。

山田康弘さんの『縄文時代の歴史』には、千歳市教育委員会が行った2号周溝墓の土砂移動量の計算が紹介されている。それによれば2,780~3,380平米だ。1人の成人男子が1日8平米運んだとして、432日かかるそうだ。これに穴を掘る作業も加えれば、大変な土木工事になる。このように具体的に数値が示されると、この遺跡の偉大さを実感できる。

土坑墓は周堤墓の中心だけでなく、堤の上、周堤墓の外にも造られた。また中心の墓は多くの装身具・副葬品を伴っていた。このため何処に埋められるかの区分がなされていたのではないか、即ち社会的階層があった、というのが山田康弘さんの意見だ。

2.恵庭市郷土資料館

次に向かったのは恵庭市郷土資料館だ。カリンバ遺跡から発掘された出土品を展示している博物館だ。カリンバ遺跡は、恵庭駅の北方800mのところにある。
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1999年の道路工事に伴う発掘調査によって発見され、近くにはカリンバ川(カリンバは「桜の木の皮」というアイヌ語)が流れ、川沿いの低地面と、2~3mほど高い丘陵面を利用して人々が生活した、縄文時代から近世アイヌ文化期にかけての遺跡だ。縄文時代後期末から晩期はじめ(3,000年前)の土坑墓が36基見つかり、内4基は直径が1.6~2.5mの合葬墓で、残りの32基が単葬墓だ。

低地面は生活の場であったようで、貯蔵穴・建物跡・炉跡が残されていた。また段丘面からは縄文時代から近世に至る各時代の竪穴住居跡・土坑墓・建物跡・炉跡など、多数の遺構が残されていた。

これらの遺構は、発掘調査が終了したあと、埋め戻され、カリンバ自然公園となっている。

4基の合葬墓の内の3基からは、埋葬された人が身に付けていた漆塗りの櫛・腕輪・腰飾り帯などたくさんの漆塗り装身具が見つかった。副葬品は合わせて397点で、先に述べた漆塗り装身具の他に、玉、土器、サメ歯で、これらは重要文化財に指定されている。

次の写真は118号土坑墓を復元したものだ。この土坑墓から漆製品やサメの歯などが発見された。
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土坑墓に埋葬された人たちの様子を示したのが、下の写真だ。この土坑墓には4人が屈折された状態で埋められていたと考えられている。説明してくださった学芸員の方によれば、4人はいずれも女性で、残されている副葬品などの具合から一緒に埋められたようで、祭祀を司る女性が亡くなったとき、殉葬されたのではないかと教えてくれた。もしこれが正しいとすれば、単葬墓からは副葬品が発見されないことを配慮すると、この時代には社会的な格差が存在したと考えてよいだろう。キウス周堤墓群から200年ほどたっているので、さらに目に見える形で表れたのだろう。
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カリンバ遺跡からの出土品も展示されていた。漆製品は劣化を防ぐために、年に一度だけ公開され、残りの期間はその複製品だ。


118号土坑墓からだ。
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同じく118号土坑墓の出土品(複製品)だ。
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同じ土坑墓からの土器だ。
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118号土坑墓(左下)と他の土坑墓から発掘された首飾りだ。
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3.江別市郷土資料館

次の訪問場所は、江別市郷土資料館だ。女性職員の方が説明をしてくれた。

江別市は、石狩川(地図の上部)と原生林(地図の下部、現在は野幌森林公園になっている)とに挟まれた平野部に展開した街だ。明治11年(1878)に屯田兵が入地し、開拓が本格的にスタートした。
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屯田兵制度は失業士族の救済と、ロシアに対する国防の要地としての北海道内陸部の開拓という課題を解決するために設定された制度で、最初の屯田兵は明治8年(1875)に札幌の琴似に、次の年に札幌の山鼻に入っている。明治10年西南戦争があったために中断され、次の年には江別に入地した。入地した場所は、この後に敷設された函館本線の西側で、岩手県から10戸56名を迎えた。地図で右端が最初に入地した人々の場所だ。12戸なのは分家により2戸増えたため。
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当初は碁盤の目のように区画されたが、明治15年に鉄道が開通し、それ以降は鉄道に並行になるように区画されたため、平行四辺形になった。

屯田兵には耕宅地として4,000坪(1町=3000坪=約1ha)が与えられ、3年後に成功しているならばさらに10,000坪が加えられた。また、移住後の3年間は扶助米と塩菜料が与えられた。米の量は1人当たり1日7合(当時の人は5合食べたので、2合余るが、これは必要品の購入や将来の蓄えに使われただろう)。屯田兵としての軍事訓練が午前中に行われ、耕宅地の開拓は午後からであった。原始林や熊笹で覆われた土地の開墾は、妻子に大きな負担を強いたことだろう。

江別には屯田兵に先立って入植してきた人々が存在する。明治8年(1875)にロシアとの千島樺太交換条約によって、千島列島を日本に、樺太全域をロシア領にすることが決まった。このため樺太に住むアイヌ人は、樺太に居住する場合にはロシア国籍に、日本国籍を選択する場合には日本へ移住することとなった。日本へ移住することになったアイヌの人々841人は、農業に従事させようとする開拓使(政府)の思惑もあって、宗谷を経て、対雁(ついしかり、江別)に移住させられた。開拓使は彼らに戸地を与え、学校や製鋼所を作って定住を試みたが、漁業を生業としていた彼らは営農に馴染むことができず、遺民漁場場が設けられた来札(石狩)などに移り住むようになった。そして追い打ちをかけるように、コレラ天然痘などの疫病にかかり多くの人が命を落すという悲劇にも見舞われた。明治19年ごろには生存者の大半は来札に移り住んでいた。その後、日露戦争の勝利によって南樺太が日本領になると、彼ら336人は故郷樺太に戻っていった。

しかし江別の歴史はこれらの人々が開始したわけではなく、太古の昔に始まった。縄文時代草創期(13,000~10,000前)の土器が大麻1遺跡から、早期(9,000~7,000前) の土器が大麻15・坊主山・吉井の沢1遺跡などで、また竪穴住居跡が大麻6遺跡などで発見されている。

北海道の時代区分は、稲作文化が伝わらなかったことから、縄文時代のあとは、続縄文時代(紀元前3世紀~紀元後7世紀)、擦文時代(7~13世紀)となっている。江別市の主要な遺跡は、江別太遺跡、坊主山遺跡、高砂遺跡、旧豊平河畔遺跡、元江別遺跡、大麻遺跡、萩ヶ岡遺跡 、江別古遺跡などである。

これらの遺跡から出土した土器は、2階の展示室に、時代を追いながら、所狭しと飾られていた。

縄文時代早期から前期(6,000~5,000前)
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縄文時代中期(5,000~4,000前)
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縄文時代中期
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縄文時代後期(4,000~3,000前)
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縄文時代晩期(3,000~2,300前)
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縄文時代
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縄文時代
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擦文時代
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このようにたくさんの土器が展示されている中で、注目したいのは続縄文時代の江別式土器と呼ばれているものだ。アイヌ文様の原形ではと思わせるような文様が描かれていた。
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木製品が残されているのも特徴だ。木製ナイフ(続縄文時代)だ。
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琥珀白玉(続縄文時代)
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時代は遡るが土偶(縄文時代晩期)もある。果たして何を表しているのだろう。熊という人も多い。
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4.江別古墳群

初日の最後の見学場所は江別古墳群だ。最も北に位置する古墳として知られている。江別市郷土資料館にジオラマが飾られていた。
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雨の中、藪をかき分け古墳群についたが、草が生い茂っていて、ただの野原にしか見えない。古墳の一つと言われたのが、イタドリの群生に占拠されているこの写真の場所。激しい雨でびしょ濡れになったが、その甲斐もなかった。
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靴の中もぐしょぐしょになり、寒さも感じる中、札幌市内のホテルへと向かった。到着したときはほっとした気分になった。