昨日(6月29日)の夜は、国分寺でワインを楽しむ会があったので、夕方、国分寺跡を訪ねてみた。
5年近く前になるが、社会科を教えてくださった恩師の先生に伴われて、中学時代の仲間たちと訪れたことがあるが、その時は散策とおしゃべりを楽しむことに費やしてしまった。
今年になって、古代史を勉強し始めた。書物を読んでいるだけではつまらないので、実際のものを見たほうがもっと楽しいだろうと思っていた。そうこうしているうちに、国分寺巡りをしている人に会いましたよという話を先週聞いた。全国には70を超える国分寺があるので、全てを訪問することは大変なことである。近いところのいくつかをと思って、手始めに、武蔵国の国分寺・国分尼寺を訪ねることにした。
国分寺・国分尼寺は、聖武天皇の詔(741年)によって、一国一寺が建てられた。当時は、奈良時代の中頃で、律令制が引かれ、地方行政区画として五畿七道が定められていた。これを説明したホームページには、下図がある。
上の図から分かるように、武蔵国は、最初の頃は、武蔵国は、東海道ではなく、東山道に属していた。そのため、国分寺には、東山道の名残もあるので、ついでに訪れることにした。
国分寺・国分尼寺は、国分寺駅よりは、西国分寺駅の方が近い。下の図で、下の真ん中あたり、武蔵野線を挟んで左側に、黒鐘公園とあるが、このあたりが国分尼寺の跡である。また、右側に、国分寺緑地とあるがこのあたりが国分寺の跡である。
地図をもう少し大きくすると国分寺・国分尼寺の跡がはっきりする。左下が国分尼寺、右上がが国分寺の跡である。
まずは、国分寺跡を訪ねてみる。東京都教育委員会のホームページを見ると、下図のような伽藍になっていたと想定されている。奈良の東大寺と同じ形式で、南北一直線にならば、南から、南門、中門、金堂、講堂が並んでいた。また、金堂から東の方に七重塔があった。
さて、現地の写真だが、金堂の跡には下図のような石碑が立っている。
周囲は次のようになっている。金堂を作った礎石が残され、夏草の中に埋もれそうになっていた。
次は講堂の跡だ。
講堂の跡も夏草に埋もれかけている。礎石を強調したのが下図だ。丸くてしっかりした石だ。
この近くに、国分寺跡の説明もあった。
次は、国分尼寺だ。国分寺と同様に、南門、中門、金堂、講堂、そして、女坊で構成されていたと推察されている。このうち発見されているのは、金堂と女坊である。
金堂跡は次のようになっていた。
女坊と思われる辺りは次のようになっていた。
また、近くには東山道の跡も残されている。
Google Mapで東山道を見ると、その偉大さが分かる。下図で、右端の上半分の茶色い道が東山道武蔵路である。道幅が12m(4車線の道路と同じ)もあったそうである。路づくりのためにたくさんの人が駆り出されたことが想像される。
そして、奈良の都から、武蔵国の国司へ、国書を携えての使いは、左手に国分寺を右手に国分寺尼寺を見て、府中へと向かったのだろう。
追
現在の国分寺は、国分寺跡の奥(北東の位置)にある。遺跡の方から北に向かって進むと、まず、楼門に出くわす。
さらに進むと、本堂が現れてくる。
門をくぐると、左右に万葉集にちなんだ植物が植えられている。
また、門の前を左側(東側)に折れると、お鷹の道である。江戸時代はこの辺りは尾張徳川藩の御鷹場だったそうで、ハケ(崖を表す古語、武蔵野台地には国分寺崖線、立川崖線などがある)の湧水が作る清流に沿って散歩コースがある。
また、右手(西側)に行くと、薬師堂があり、そこには、新田義貞が寄進したとされる木造薬師如来坐像があるが、今回は訪問しなかった。