bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

家族システムの変遷(III) ケーススタディー:律令制成立期における大伴氏

今年もまた古代の家族システムについて考えてみました。今回は大伴氏の家族システムだ。

大伴氏は神話にも登場するような有名な古代の氏族だ。壬申の乱(天智天皇崩御したあと、皇位継承者となった天智天皇の子大友皇子を、天智天皇の弟大海人皇子(天武天皇)が倒した内乱)で功績をあげた大伴氏は、そのあと朝廷の中心にあって活躍した。しかし孫の時代ごろになると新興の勢力が出始め、古い世代となり始めた功臣たちの子孫が邪魔な存在となった。第一の功労者であった高市皇子の孫である長屋王は、皇位を継承できるような高い身分であったため、長屋王の変(727)により、吉備内親王とその子供たちとともに自殺に追い込まれた。

敏達天皇の末裔である橘諸兄(葛城王)は、大友皇子から要請された九州からの軍兵の徴発を拒否した栗隈王の孫で、藤原四兄弟天然痘の流行で病死したあと、政権の頂点に立った。しかし新しい勢力側からの圧力を受け、謀反の疑いの嫌疑をかけられて職を辞する(756)。橘諸兄の子奈良麻呂は、新しい勢力を除こうとするが、計画が発覚し、長屋王の子供たち、大伴氏の多くの人たちが、死罪・流刑になった。

そのあとも、藤原仲麻呂暗殺計画、藤原仲麻呂の乱氷上川継の謀反、家持の死後には藤原種継暗殺事件と続き、万葉集の編者である大伴家持はこの事件の首謀者と見なされ、埋葬さえ許されなかった。平安京に移った後の大伴氏は伴氏に改名、応天門事件などによってさらに没落の一途をたどった。

新しい勢力は、藤原氏を中心とする勢力だ。大化の改新で、中大兄皇子に協力した藤原鎌足壬申の乱ではすでに没していたが、同族は大友皇子側に立ったので一掃された。藤原鎌足の子とされる不比等はその時13歳で処罰の対象から免れ、そのあと実力で這い上がり、右大臣にまで上り詰め、娘の宮子を文武天皇に嫁がせるほどの権勢を得た。彼の四人の子は政権の中枢に躍り出るが、先に述べた天然痘にかかり薨去した。いったん新しい勢力の力は衰えるが、藤原四兄弟の子供たちの中から藤原仲麻呂が頭角を現し、天皇家の後継問題が厳しさを迎えるころには、政権の中枢となるに及び、古い勢力の大友氏は強い圧力を受けた。

このような時代の大きなうねりの中で、大友氏は没落してゆき、その家族システムも大きな影響を受けた。律令制が導入されるまでの日本は、母方居住あるいは双処居住であった。律令制を導入し、平城京に都を遷したとき、貴族たちは都に宅地を班給された。これは男性たちの官位に基づいてのあてがいであり、同時に導入された蔭位制とともに、父方居住へと導くものであった。

婚姻での母系居住と、職務での父型居住の摩擦の中で、没落してゆく大伴氏が家族システムの中でどのような戦略をとったかを、大伴家持を中心にまとめたのが、以下の論文である。