bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

伊藤俊一著『荘園』を読む

伊藤俊一さんが書かれた『荘園』は高い評判を得ているようである。日本の中世の骨格をなしたのは荘園であるが、領主と農奴という単純な構造からなる西洋のそれと比較すると、土地が幾重にも権利化されいて実態を捉えにくい。また荘園に対する考え方も、かつて学校で学んだものとは随分と異なるようである。そこで、荘園に対する最新の考え方を知りたくて、また今までに得た知識の整理もしたいと思ったので、この本を精読した。

国が成立すると税をどのように徴取するかが問題となるが、日本が国家の形を整え始めたのは、推古天皇が遣隋使、遣唐使を派遣した頃だろう。中国の律令制度をまねて、大化の改新の頃には班田収授法や国評制などが始まり、大宝律令が制定されたころには国の体系はしっかりとしてきた。班田収授法は人頭税で、民に田を与える見返りに税(租庸調)を納める制度であった。

誰が述べたのかは忘れてしまったが、人間は生きていくために、欲求と欲望を持っているそうだ。欲求は、動物に共通な性質で、生命の維持を図るためのもので、「食べる」ことで満たされる。欲望は、人間だけにある性質で、「もっと多く持ちたい、できれば他人よりも優っていたい」というものである。欲望は満たされることで充足感や幸福感が得られるが、それで満足せず、さらに大きな欲望へと向かう厄介な性質がある。

班田収授性は、欲求は満たしてくれるが、もっと多く土地を持ちたいとか、もっと良い土地を持ちたいなどの欲望は満たしてくれない。そこで、あてがわれた土地を捨てて未開発の土地で自由に収穫をあげて、欲望を満たしたいという、浮浪の民が生まれたと思われる。さらには国家にも税収を増やしたいという欲望があり、このための策を考えたことだろう。

奈良時代聖武天皇朝の墾田永年私財法発布(743年)は、そのような要求に応えるものであったことだろう。これは開墾した土地の永久私有を認めた。これに基づいて、豊かな貴族や大寺院が開墾し始めた。これは初期荘園と呼ばれる。開拓が進むにつれて、班田から多くの民が初期荘園へと逃亡した。このため人頭税による税制の維持が難しくなった。さらには逃亡したものの中には裕福なものもあらわれ、このような人たちは富豪の輩と呼ばれた。

嵯峨天皇の時代(902年)、藤原時平(菅原道真を失脚させたことで有名)によって、最初の荘園整理令が出される。この整理令によって、人頭税から土地税への移行、国司の権限強化、荘園の免田化が始まった。土地税へ移行したことで、税金の収納単位となった土地は名と呼ばれ、名の税金の支払いを請け負った者は負名と呼ばれた。この時期の荘園は、開墾地に耕作者を招き、土地代を支払ってもらうというもので、人を支配するというものではなかった。このような中で、田堵(たと)と呼ばれる斡旋業的な役割の者が現れた。田堵は、開発領主と契約を結ぶとともに、農具と耕作者を用意して、荘園の開発と耕作を請け負った。

摂関時代になると、国司は受領国司となり、任地国で税金を徴収して朝廷に納税する請負業者的な役割を担なった。税金を越えての収入は自身の懐に入ることとなったため、荘園の開発を進めるとともに、開発当初は税金の免除を行うものの、歳月がたった後ではそれを取りやめたり、荒れ地となった荘園の公領化を進めたりと、開発領主との摩擦が強まった。開発領主は、受領国司からの苛酷な攻撃から逃れるために、中央の貴族に寄進して税を免れた。このような荘園を免田型荘園という。この他にも、便補免田(国司は、貴族・寺院への封物として、官物や臨時雑役の納入をする)や寄人(貴族・寺院に仕える人々)の田を公務によると見なしての免田などで、摂関時代には免田型荘園が増えた。
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また受領国司の下で活動していた在庁官人たちは専門的な知識を身に付け、受領国者が任地に赴かなくても、彼らだけで地方の行政をこなせるようになった。このため、受領国司は都にとどまるようになり、遥任国司と呼ばれるようになった。在庁官人の能力が高まるにつれて、荘園のような私有地ではなく、公有地として墾田の開発が行われるようになった。対象となる税の枠組みによって別名あるいは保と称せられるこのような土地は、郡と同じであるとみなされ、郡を介さず直接、国へ納税した。

後三条天皇は、朝廷からの許可を得ていない荘園の廃止(1069年)を決めた。これは朝廷の許可を得ずに定められた免田型荘園を廃止させたが、他方で荘園立券の基準が明確になったため、続く院政時代での朝廷・摂関家・大寺院による領域型荘園が増える切掛けを作り出した。領域型荘園とは、従来の荘園を核にして、不輸不入(租税免除と国司らの立入禁止)と認められた広大な土地を囲い込んだ領域である。免田型荘園が、私領の田畠とその周りの不輸不入が認められていない開発予定地を、国司などの押領から保護するためであったのに対し、領域型荘園は、朝廷・摂関家・大寺院による、四至で囲まれた領域の支配へと形を変えた。

これまで荘園の誕生は、開発領主が保護を求め、領家となる中小の貴族に寄進し、領家がさらなる保護を求め、本家となる摂関家天皇家に寄進したと、ボトムアップ的に説明されていた。しかし最近の議論は、そうではなく、朝廷・摂関家・大寺院が、所有している小規模の私領を核に、広大な領域を囲い込むことで領域型荘園が誕生したとトップダウン的である。
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鎌倉時代になると、治承・寿永の乱(1180~1185年の源平の戦い)と承久の乱(1221年後鳥羽上皇との争い)に勝利した鎌倉幕府は、膨大な領地を手に入れ、これらの土地の管理者として、幕府の御家人を地頭として送り込んだ。このため、幕府が支配する地では、荘官・郡郷司・保司の職は、地頭職にまとめられた。将軍(幕府)と地頭は、主従関係があるため、同じような関係で維持されている西洋の荘園と似た面を持つようになった。しかし鎌倉幕府は、これまでの荘園の根本的な枠組みを遺し、くさびを打ち込むような感じで、地頭を送り込んだ。このため朝廷・寺社の荘園に対する支配力は、弱まりはしたが失われることはなく、領家・本家の体制は維持された。そして地頭と領家との間で争いが生じることがあったが、下地中分(領域分割)などで解決された。

室町時代になると、鎌倉時代からの基本的な枠組みは残されたが、本家の力が弱まり、領家が実質的に管理するようになる。また、領地でも今日でいう外注が始まり、代官に請け負わせるようになった。代官には、領主の組織内の人間(直務代官)や、僧侶や商人など経営的な専門知識のある人材や、国人・守護・守護代・守護被官などの武家(武官代官)などが任命された。また室町時代の前半は、守護大名は都に居住したため、任地は守護代・国人などが管理した。また、南北朝時代の戦いが続いているときは、守護は荘園から、戦費にかかる費用として、半濟を徴収した。
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室町時代の後半になると不順な天候が続き、作物の収穫もままならず、一揆が各所で発生し、社会が不安定になった。そのような中、畠山家の内紛を発端に応仁の乱が発生し、京都は戦乱の真っ只中となった。この戦乱によって室町幕府の力は弱体化し、乱がおさまると京都で政権を支えていた守護大名たちは、自身の身の安全を保つために国へ戻ってしまった。国元での荘園の横領が始まり、荘園は姿を消した。

以上が荘園の移り変わりの概要である。それでは、矢野荘を例にとりあげ、荘園がどの様に変化したかを具体的に見ることにしよう。矢野荘は、現在の相生市のほぼ全域にあたる。相生市は、忠臣蔵で有名な赤穂市の東側に位置し、古代・中世には播磨国赤穂郡に属していた。相生という市名は、鎌倉時代相模国の海老名氏が矢野荘の地頭に任命され、大嶋城の城主になったので、「相模生まれ」の漢字を用いてつけられた。古代に開発が進んだところは、揖保郡家と赤穂郡家を結んだ古代山陽道が通っているあたりと思われている。
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中世に入って墾田の開発がすすめられたのは久富(ひさとみ)保である。ここは相生駅の南側の地域である。その西側にある若狭野(わかさの)には条里制の遺構が存在しているので、久富保の開発が始まるころには、公領の田がこの地域を潤していたことであろう。他方、久富保の地域は荒れ地で、開発を待っていたものと思われる。下図で、右側の住宅で埋め尽くされている地域が相生駅を中心とした市街地で、このあたりが久富保で、中世が始まるころにはまだ荒れ野であった。左側の小規模な集落の集まりは条里制の遺構がある若狭野で、北側に大きな扇状地があり、古代より水田が開けたものと思われる。
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下図は若狭野にある条里制の遺構で、図の中間を上から下に少し曲がりながら遺っている道が、条里制の遺構である。道の両側に1町(106m×106m)の大きさの田が並んでいる。
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それでは、保としての久富保の設立、そしてこれを核としての領域型の矢野荘の設立の経緯を見ていこう。

1071年に国司三等官大掾(だいじょう)の肩書を持つ在庁官人の秦為辰(ためたつ)が、播磨国久富保の屋敷・畠・桑・荢(からむし)の保有権の確認を留守所に求めた。この訴えは、従者の重藤に預けて耕作させていたが、彼が亡くなると、掾文王というものが権利を主張、桑・荢を持ち去ったことに起因している。

1075年には赤穂郡司も兼任していた為辰が、田地の開発に人夫動員の許可を国衙に求めた。田地と用水を開発、国衙はこれらの保有権を認めた。3年間官物の納入免除。4年後に官物を納めたが、保有権は維持された。

1098年には為辰は、久富保の公文職と重次名の地主職を、息子の為包(ためかね)に譲った。このころ久富保は、白河上皇の院近臣で播磨守でもある藤原顕季に寄進され、子の長実を経て、孫娘で鳥羽上皇妃の藤原得子(後に美福門院)に伝えられた。

1137年には久富保を核にして、田畠163町余り、野地4所が付属する領域型荘園の矢野荘が立券された。荘域は相生市全域に及んだ。入り組んでいた公領・私領、山野が一括して矢野荘に組み込まれた。矢野荘は、美福門院が建立した歓喜光院の所領となり、領家職は藤原長実の一族が相伝した。荘官下司には惟宗貞助、公文には播磨なる人物が任じられた。あとで説明する承久の乱で惟宗貞助の末裔と推察される下司の矢野氏は没落した。秦為辰の末裔を称する寺田氏が公文職を相伝し、重藤名という巨大な名を本拠地にした。このため秦為辰が開発した一部は、寺田氏が引き継いだと見られる。

1160年に美福門院が没し、娘の八条院は矢野荘を例名と別名に分割し、別名を歓喜光院に寄進する。

1221年の承久の乱での鎌倉型の勝利により、下司の矢野氏が没落し、相模国海老名郷の海老名氏が矢野荘例名の地頭職を得た。海老名氏の本家は室町時代永享の乱で滅亡したが、西遷御家人の海老名氏は矢野荘を足場に国人領主へと成長した。

1299年に領家の藤原範親と地頭の海老名氏との間で矢野荘例名の下地中分が行われ、田畠と山野はほぼ等分に分割された(図で浦分とあるのは、13世紀前半頃にこの地域の開発が進み、一つのまとまりができ、浦分と呼ばれるようになった。この地は地頭に割り当てられたが、争いが残った)。

1300年に亀山上皇は矢野荘別名を南禅寺に、1313年には後宇多天皇は矢野荘例名を東寺に寄進し、1317年には浦分も東寺に寄進された。
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1314年に、「都鄙名誉な悪党」と称される、矢野荘例名の公文職の寺田法然が在地領主としての成長を目指して、地頭職の海老名氏と争い、南禅寺領の別名に討ち入るなどしたが、結果は失敗に終わった。

1377年には、一揆逃散が発生した。矢野荘には東寺より直務代官裕尊が派遣されていた。守護権力にすり寄る裕尊に反発して、百姓たちは一味神水して逃散。裕尊は国人たちに取り締まりを依頼。事態を憂慮した東寺が裕尊の代官を解任した。

1380年には明済法眼が代官に任じられたが、やはり一揆逃散。様々な和解策が講じられたが、1396年に弟子を代官とした。

応仁の乱後も矢野荘は生き延び、1546年まで年貢を納め続けた。

中世は権力の分権が起きた時代で、朝廷・寺社・公家などの権門は、荘園を利用しながら、それぞれの政治的・経済的な権力を、それぞれの地に確立していく。伊藤俊一さんの著書には、その姿が分かりやすく描かれており、荘園とその移り変わりに関する知識を整理するのにとても役立った。