bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

神奈川県立歴史博物館で特別展「錦絵に見る明治時代」を鑑賞する

コロナウイルスの一回目のワクチン接種が済んだので、少し気楽な気分となって、先週は歴史博物館に足を運んだ。鳥獣戯画の展示会が東京国立歴史博物館(トーハク)で再開されたので、その当日に見学に行った。大勢の人が訪れることを防ぐために予約制をとっており、参加者数は限られていたにもかかわらず、見学者の列が、展示ケースに沿って間隔がないほどに、つくられていた。列は一列だけで普段のように幾重にもはなっていなかったので、十分に堪能できたものの、変異株のウイルスに対しては緩和し過ぎのように感じた。

トーハクを楽しんだのでさらにもう一つということで、神奈川県立歴史博物館(県博)をと考えて、インターネットでの予約を試みた。前の夜に予約が取れるかどうか確認しておいたので、自信をもってアクセスしたのだが、予約の画面に行くことができない。不思議だと思って色々な方法を試している最中に、知り合いから、警備員の人が感染したために今日からしばらく休館になるというメールが入った。世の中上手くいかないこともあると感じた数日後に、同じ人から土曜日に再開されるという知らせがあった。早速お昼頃の時間帯を予約して、ここも再開当日に訪問した。

県博で開催されていた特別展は「錦絵に見る明治時代」であった。錦絵は浮世絵の一種で、多色刷りの版画を指す。県博には、丹治恒夫さんが収集された錦絵が6000点ほど保存されていて、その中の1000点は明治時代の作品だ。今回の展示では明治時代の出来事を伝えてくれる錦絵が展示され、当時の様子をビジュアルに伝えてくれる。展示品は撮影してホームページに載せても構わないということだったので、興味を引いたものをいくつか紹介しよう。なお、特別展は前期と後期で展示物がそっくり入れ替わった。ここに紹介するのは後期の展示である。

最初の作品は、「東京八ッ山下海岸蒸気機関車之図」。作品が作られたのは明治3~5年。新橋・横浜間に鉄道が開通したのが明治5年9月なので、開通前にこの作品は作られたのであろう。奇妙なことに線路が描かれていない。また列車の車輪が、馬車のそれと似ているので、想像で描いたのであろう。
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次は「上州富岡製糸場之図」。明治5年、群馬県富岡市に創業した製糸場の様子。レンガ造の建物に、女工さんが一列に並んで糸をくくっている。
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次は「板垣君遭難之図」。自由民権運動の指導者で、自由党総理であった板垣退助明治15年4月6日に、岐阜県で演説中に相原尚褧(しょうすけ)に襲われて負傷する。のちに「板垣死すとも自由は死せず」という表現が広く使われるようになった場面である。
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次は「賊魁の首級実検之図」。明治10年西南戦争で敗れた西郷隆盛の首実検をしている場面。何ともおどろおどろしい。
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次は「憲法発布式桜田之景」。憲法発布を祝うために、天皇・皇后が桜田門を出て、青山練兵場に向かう場面。右上に皇居、左上に富士山、その下の中ほどに茶の着物の雀踊り集団、左隅に山車と、祝賀ムードいっぱいである。
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次は「第二会廿五年国会議事堂」。明治25年開会の議会で、議長は星亨。上の一覧表にはこのときの衆議院議員の名前が記されている。
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次は「靖国神社大祭執行横綱式場之図」。一時期、靖国神社の相撲場がよく見える会議室をよく利用した。人影もなく土俵だけが寂しそうに待っている景色を見て、どの様な時に利用されるのだろうかと不思議に思ったが、この錦絵を見て、かつては大いに利用されたのだと納得した。
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次は「大日本東京吾妻橋真画」。墨田川では初の鉄橋となった吾妻橋明治20年、原口要により設計された。現在は真っ赤な橋に生まれ変わっている。
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最後は「上野公園地第三回内国博覧会之図」。この作品は明治23年につくられた。西洋人のように背が高く、足も長く描かれているのが印象的である。そして空は華やかに真っ赤である。皇太子も軍服姿の正装で参加している。
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特別展の会場で全体を見渡すと、赤の色に驚かされる。一つ一つ紹介するとそれほどでもないが、全体を並べてみるとこの色が目立つ。明治錦絵の色ともいえるのだろう。県博の方は所々に見学者がいる程度だったので、それぞれの作品をじっくりと鑑賞することができ、安全な環境の中で堪能できた。

西谷正浩著『中世は核家族だったのか』を読む

住宅街を歩いていると、苗字が異なる表札がかかっている家が、割合に多いことに気がつく。かつての日本は、男系の直系相続だったため、異姓の親子が同居していることはまれであった。しかし近年の現象は、娘に老後の面倒を見てもらう親が多くなったため、異姓の同居が増えたようである。三世代が同居している割合が最も高いのは平成22年の調査では山形県で、その割合は21.5%である。ちなみに核家族の方は48.3%である。国税調査で、家族類型を調べ始めたのは平成7年からのようだが、今日に至るまで三世帯同居の割合は減少している。ここで紹介する『中世は核家族だったのか』では、今とは逆の現象が起きていたようである。すなわち、現在と同じように核家族が優位であるが、その割合が減少していく方向にあったとのことである。それでは紹介に移ろう。

本のタイトルが疑問形になっていたので、正解を先に知ってしまおうと思い、今回はエピローグからプロローグへと、これまでとは異なる読み方を試みた。結果的には成功と思っているが、これを確認する方法はない。後ろから読んできたにもかかわらず、読み返すことがなかったので、悪くはなかったと考えている。当然と言えば当然なのかもしれないが、結果を知って、理由を読んでいるので、頭に入りやすかったのだと思う。しかしここでの紹介はいつもの通り前から後ろへと、普通に進めていくこととしよう。

この本は、タイトルの通り、中世の民衆の家族構造について論じたものだが、冒頭でその前の時代の状況を簡単に説明している。古代末期(9・10世紀)は、大飢饉・疫病そして大地震・火山噴火が頻繁に発生し、国土は荒れ果て、農村には荒田や不安定耕地が多く存在し、荒涼たる景観であったとのことである。古代の農業は支配者層に依存する共同体であっただろうが、困難に直面して、従来の共同体の存在を背景としない新しい勢力、大農を営む農民が出現しただろうと見ている。貧しい人たちや困った旅人を援助したことで天長10年(833)に勲位を得た安芸国佐伯郡の三人の力田(りきでん、富裕層)を『続日本紀』から引用し、それぞれ30町歩(36ha)有していたと大農の例を示している。さらに10世紀後半に成立した『うつほ物語』からも富裕層の様子を紹介している。

古代末期は温暖で乾燥した時代であったが、11世紀以降、気温は次第に降下し、湿潤で冷涼な気候となり、江戸時代中頃に最も寒冷となる。このような気候変動の中、平安時代後期になると11世紀をピークに大開墾時代となったと次のように説明している。開発された土地は私領となり、その所有者は領主・地主となった。開発された土地は荒野だけではなく、荒田の再開発も含んでいた。また公田(公領)の中に開発された私領(公田私領)もあった。開発者は国司に開発を申請し、その認可(立券)をえて私領とした。しかし開発領主は、国司からの干渉によって私領を奪われることを防ぐために、貴族や寺院などの有力者に寄進した。摂関家や大寺院などにはたくさんの土地が寄進され、これは荘園と呼ばれる。あまりにも多かったのだろう、永久4年(1072)には後三条天皇が、荘園整理令を出すような事態となった。また、開発領主はのちに述べる荘司や田堵となり、現地での実質的な所有者となった。

中世は荘園制社会となるが、初期の頃はまだ未分化な組織で、単純化すると、領主と呼ばれる所有者、荘司の管理者、田堵の農業経営者によって荘園は運営されていた。田堵の経営規模は大小さまざまで、田堵の中には五位の位を持つような有力者もいた。またある荘園では田堵だが、他の荘園では領主であったり荘司であったりすることもあった。また領主と田堵は、「一年請作」の契約を結んだ。大開墾時代には開発すべき土地が大量で、それを担う人の方に希少価値があったため、田堵は移動しやすい立場にあり、放浪の時代ともいえた。

大開墾時代には農民たちは放浪することも厭わなかったが、他方で同時に定住し始め、村々が簇生(そうせい)した。鎌倉時代は、不安定な耕地での粗放農業の平安時代後期から、安定した耕地での集約農業の室町時代への移行期に当たり、農民は定住化したが、開発の余地があったので、よそ者の浪人を積極的に受け入れた。『定訓往来』からこれに関する記述を引用している。中世荘園では、組織化が進み、本家→領家→預所下司(地頭)・公文→名主(みょうしゅ)・百姓、となる。本家は大貴族・大寺院で荘園のオーナー、領家・預所は中央のエージェント(代理人)、荘官下司・公文は現地の管理責任者、名主・百姓は荘園の労働者である。百姓は荘地の耕作を請けおい、請作者である限り領主の支配を受けたが、自分の意志で領主との関係を解消し移住する権利も有していた。また身分格差もあって、荘官の職には侍身分(六位クラス)のものがなり、平民の百姓はなれなかった。

この時代の在地社会では、名主職を務める中農層が農業生産の中心を占めていた。また鉄の価格が大幅に下がったため、零細農家でも鉄製農具を所持できるようになった。さらに中農層は役畜、馬鍬、犂(かんすき)を駆使して先進的な農業を実践した。中世前期はこのように中農の時代であったと筆者は述べている。

中世前期の荘園の村落では、名主・小百姓が村落共同体を形成していた。そこでの家族の形態については次のように説明されている。名主の家族は、溝や土塁により外部とは明確に区画された広い屋敷地の中で、複数の核家族世帯を統合した屋敷地共住集団を形成していた。名主層の大家族は近親者を中心に組織されていたが、非親族者もオープンに受け入れていた。これは、中農層である名主一家の経営規模は、数人の男子では賄いきれるものではなかったことによるとしている。名主の大家族のきずなは深かったが、居住だけでなく、食事や家計も核家族ごとに独立していたと述べている。一方、小百姓の場合には、その屋敷地には1~2棟、多い場合には3棟の家屋が立てられていた。複数存在する場合には、親子と兄弟・姉妹がそれぞれ夫婦ごとに暮らしていたとみている。

このころの民衆の家族構造は、単婚の家族構造で、分割相続を基本とし、女性も財産相続をうけた。民衆は姓名も有していて、結婚により姓が変わることはなく、母の財産を相続した子は異姓相続となるが、これにこだわることはなかった。すなわち母方の親族に戻すということはなかった。名主職の相続に関しては、領主から補任を受ける前に、譲り状を荘官や同輩に示して承認を得ることが慣習となっていた。また順位は低かったが、女子でも可能であった。

中世前期の集落は散村であったが、地域によって時間的な差はあるものの、後期になると家々がコンパクトに集まった集村となる。この本では、山城国上久世荘(京都市南区)での例を説明している。明治末と現在の上久世は下図(埼玉大学今昔マップ)の中心にある。明治末でも集村の様相を呈しているが、現在は都会の一部となっている。
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上久世は、鎌倉時代には垣内(かいと)ごとに家々が距離を置いて分布する散村だったが、末期には集村に生まれ変わっていた。後期には北条得宗家領であったが、建武3年(1336)に足利尊氏が地頭職を東寺八幡宮に寄進して東寺領となった。歴応4年(1341)の上久世荘実検名寄帳を調べると、土地所有において圧倒的に優位に立つ土豪的な所有者が存在し、村の主導権を握っている一方で、農業経営に関しては、規模の大きい経営では自作分の比率が小さく、大部分を中小農民に委託して小作分が中心になっているとともに、小百姓層の経済的成長と農業環境の改善による生産性の向上を受けて、小農が村の農業の主役を担うようになったと説明されている。山城国では、地主のことを「名主」、領主に対して直接的に年貢・公事の納入義務を負うものを「百姓」と呼んだ。さらに、下作している百姓を脇百姓ともいった。

後期の農村について筆者は次のように説明している。鎌倉時代の村では、開発可能な荒地が残り、耕地の安定化も道半ばだった。名主=中農家族は、耕作だけでなく、開発者の性格も期待されていた。しかし、村内の満作化と耕地の安定化が達成されると、開発者の存在は不要となり、中小農民の力だけで村の農業は事足りるようになる。上久世荘では14世紀後半には百姓名体制が崩れ、特権身分としての百姓名の名主も消滅した。農業環境の改善で生産性が向上した中世後期の集村では村の庇護のもとで自立した小農が農業生産の主力を引受ける時代を迎えていた。地侍層を中心とする有力農民は、自身が農耕に従事するとともに、不在地主と村人の媒介項として管理者的な役割を担った。また、中世後期には後半に存在した名主層の屋敷地共住集団も、こうした社会状況の変化の中で次第に存在意義を失い消滅していったと述べている。

このような集落を基礎に住民は地縁的な結びつきを強め、支配単位である荘園や郷(公領)の内部にいくつかの自然発生的な村が形成され始め、農民たちが自らの手で作りだしたこのような自律的・自治的な村を惣村というようになる。惣村には、一般の百姓(地下分)とともに、殿原と称される侍身分の者が住んでいた。長禄3年(1459)の徳政一揆の際に室町幕府に提出した起請文では、上久世荘には、侍分21名、地下分85名、下久世荘には、侍分11名、地下分56名となっている。侍分は名字・実名を有し、地下分は仮名(けみょう)のみを称していた。その他に主人から扶持を受ける下人、耕地を任された自立的な農民である作子もいた。農繁期や農閑期では必要とする労力に差があったので、作子はその埋め合わせを担った。前期には名主は百姓の身分であったが、後期になると彼らは侍分となることで侍身分となった。なお、惣村によっては侍がおらず、平百姓だけのところもあった。その例に同じ東寺領の上野荘(京都市南区)がある(下図、上久世荘の約4㎞北)。ここでは、経済力・政治力を蓄え、経験を積んだ長老格の者たちがヘゲモニーを握っていたが、15世紀後半になると長老支配体制が交代し、やがて庄屋(百姓政所)という突出した存在が現れたとの説明がある。
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それでは中世後期の民衆の家族構造はどのようになっていたのだろうか。筆者は次のように述べている。中世後期の畿内村落では、多くの青年が結婚前に実家を出て、親の家の近辺に小屋を建てて暮らし、独身のあいだは母親の世話になった。一方、娘の方は、親元で暮らしたらしいと説明した後で、核家族であり、親夫婦と成人した子供はそれぞれ夫婦単位で世帯を構成したと説明している。さらに、中世民衆の家は寿命の短い掘立柱式の建物であり、相続財産としての価値は低かった。しかし室町時代には、礎石建ての耐久性のある本格的農家住宅が出現し、世帯を超えて代々相伝されるようになる。一家にとって共通の場である家を相続したものは、やはり特別な存在としてみなされるであろう。財産相続慣習や居住形態には、その地域・時代の家族関係や社会の価値体系が姿を現すと述べている。このあと、近世の直系家族へと説明は繋がっていくので、本でどうぞ。

いわゆる支配階層に対する家族構造について記述した本はそこそこあるが、百姓と呼ばれる民衆に対してのものはあまり見かけない。この本を読む前までは、直系家族に移行してたのではないかと勝手に想像していたが、この本によりそうではなく核家族であったという説明を受け、見直しているところである。

五味文彦著『武士論』を読む

緊急事態宣言のために東京国立博物館は閉鎖され、楽しみにしていた「国宝 鳥獣戯画の全て」をゴールデンウィーク中に鑑賞することはかなわなかった。幸いなことに再開されるということなので、早速チケットを入手、明日実現できることになった。擬人化された動物たちを通して、平安時代末期から鎌倉時代初期の様子を伺えることを楽しみにしている。

この時代の歴史学の第一人者である五味先生は、一次史料のみを良としてきた歴史研究の中に、これまでは二次史料とされていた物語や絵巻を積極的に活用して、一次史料には現れない日常の出来事を掘り起こし、歴史学に一石を投じてきた。今回の『武士論』でもその姿勢がいかんなく発揮されている。

表紙を開くと、「男衾三郎絵詞」の口絵が11枚ほど並んでいる。これは都に上って宮仕えをし、都の美しい女房を娶り、きれいな娘を得たが、山賊に襲われて死んでしまう兄の吉見二郎と、関東一の醜い女を妻にし、同じように醜い娘を得たが、武芸一筋に励み、残された兄の妻子を引き取り使用人としてこき使う弟の男衾三郎によって、当時の武士の相異なる典型的な生き方を描いた作品を見せることで、この本が何を語ろうとしているのかを教えてくれる。なお、男衾三郎絵詞国立文化財機構所蔵品統合検索システムから閲覧することができる。その中の一場面だが、男衾三郎の館の様子が次のように描かれている。中央上が、三郎と縮れ毛の妻。その左の空間に同じように縮れ毛の娘。
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筆者は、「はじめに」という章で武士という言葉を整理しており、古代に対しては、「続日本紀」から、武士とは朝廷に武芸を奉仕する下級武官で、文人と対をなす諸道の一つと定義されているとしている。また、中世に対しては、「十訓抄」を例に引いて、武士とは朝廷に武を以て使えるものと定義されていると紹介している。古代の定義から下級武官を省けば、同じことになるとも説明している。武士と同じ意味合いで、「兵」もしくは「武者」が頻発して使われるようになる10世紀から武士論を考えるのが良いとしたあとで、本論に移っている。

本論は「今昔物語集」の中の一節で始まる。芥川龍之介の「芋粥」でも紹介された部分なので、知っている人も多いと思う。越前国敦賀の豪族の藤原有仁の娘婿になった利人(平安時代前期、従四位下鎮守府将軍)は、芋粥をたらふく食べたいという、うだつの上がらない「五位の侍」を実家に招待した。彼は、あきれるほどに芋粥を大量に見せられ、飽きてしまったという話である。この逸話から、都の武者(五位の侍)、国の兵(藤原有仁)、その本拠の宅(有仁の住まい)など、当時の日常生活を推し知ることができる。筆者はとても簡潔に要領よく記述しているので、詳細を知りたいと思うことであろう。そのときは、今昔物語集を読むと面白い。五位の侍を家に招いたときの手厚い接待の様子が細かく描写されているので、あやかりたいと思わせてくれる。利人の流れをくむ子孫の兵は、加賀斎藤氏、弘岡斎藤氏、牧野氏、堀氏、富樫氏、林氏となって、北陸道に広がっていたとのことである。

その次も、「今昔物語集」から、平将門藤原純友などを紹介している。そしてこれら兵の住家である「宅」については、『宇津保物語』から紀伊牟婁郡(むろぐん)の長者の宅を解説した後で、古志田東遺跡(出羽国置賜郡)と大島畠田遺跡(日向国諸県郡)の復元図を紹介している。古志田東遺跡は、河川跡の東側に、母屋・馬屋・倉庫と思われる建物跡7棟が確認され、母屋は10間x3間と大型で、三方に庇(ひさし)がある。この時代の兵の生活を想像するのに必要な資料を与えてくれる。

そして、京・九州の武者たちの紹介のあと、兵・武者から武士へと移行する前九年の役へと進む。かなりのスペースを割いて、『陸奥話記』を引用しながら、この戦いで大活躍した源頼義が紹介される。黄海(きのみ)の戦いから衣川関の戦いを経て厨川柵の戦いまでの安倍貞任との攻防は、なかなかにすさまじい。下図は国立文化財機構のColBaseより、前九年合戦絵巻の一つの場面を転写したものである。この時代の戦いの様子が分かる。
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前九年の役安倍氏が滅んだあと、東北の覇者となった清原氏に内紛が発生する。前九年の役で活躍した武則が没し、その後を継いだ武貞も亡くなったあと、その子供たちの間で内紛が発生し、紆余曲折の末、武貞の妻の連れ子であった清衡が勝利をおさめ、父方の藤原氏へと姓を改めたため、清原惣領家は滅亡するが、ここに四代にわたって栄華を極める奥州藤原氏が成立する。この戦いで、源頼義の子の義家が活躍する。しかし朝廷からはこの戦いは私戦と見なされたため、関東から出兵してきた将士たちに、義家は私財を投じて恩賞を出した。この二つの戦いを通して、武士の間の主従関係が強化されたと言われている。著者はこの戦いを『後三年合戦絵詞』を利用しながら見事に描いている。ここにもその一場面を載せておこう。前と同様に、国立文化財機構ColBaseの前九年合戦絵巻からの転写で、清原軍の放った矢が16歳の鎌倉権五郎景政の右目に刺さり、三浦平太郎為次が矢を抜こうとしている場面である。二人のやり取りが面白いが、それは本でどうぞ。
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後三年の役の後、武士は家を形成してゆく。鎌倉権五郎景政は、先祖伝来の私領を伊勢神宮に寄進、そして開発し、大庭御厨を成立させた。また三浦平太郎為次の子孫は三浦郡を中心に勢力を広げた。この例に見るように東国の武士たちは、領主支配を通して家を形成していった。それらには、武蔵の秩父氏とその支族である河越・江戸、房総半島には上総氏・千葉氏、相模では梶原・大庭などの鎌倉党、三浦半島には三浦一族、相模西部には波多野・中村、上野の新田、下野の足利、常陸の佐竹、甲斐の武田、越後から会津にかけて城氏などが勢力を広げた。

京ではもちろん平氏と源氏が巨大な勢力を有することになる。そして朝廷・貴族の間で、武士を戦力とする衝突が発生する。保元・平治の乱である。保元の乱は、皇位継承権問題と摂関家の内紛が絡み、朝廷は後白河天皇方と崇徳天皇方とに分かれ、関白家は忠通と忠実・頼長が対立し、源義朝平清盛源為義・平忠貞が武士同士で戦うことになった。結果は後白河方の勝利で、義朝は父為義を、清盛は叔父忠貞を、何とも恐ろしいことに武士の習いによって斬った。そして平安京ではこれまで実行されることのなかった死刑の復活となった。2年後に起きた平治の乱は、勢力を増してきた後白河院近臣たちのあいだで争った、すなわち院の寵臣であった藤原信頼と急速に勢力を増してきた信西との争いで、清盛が熊野詣をしているすきをついて、信頼・源義朝が兵をあげた。信西は逃げきれずに自害し、帰京した清盛によって信頼・義朝は滅ぼされた。これらは、物語の『保元物語』『平治物語』と絵巻の『平治物語絵巻』を用いて、描かれている。信西の首を掲げているところは随分とむごい光景である。

このあと、源平の合戦・奥州藤原氏との戦いを経て、鎌倉幕府の成立、北条政権の樹立、承久の乱、蒙古襲来を経て、鎌倉幕府の滅亡、足利尊氏・直義の活躍、南北朝時代、そして武士政権の頂点である義満の時代へと、同じように物語や絵巻を利用しながら導いていく。このあとは読んでの楽しみとしたいが、中世の時代に確立した「家」に興味があるので、残りの部分ではこれについて、記しておこう。

兵・武者と呼ばれていた時代の家は、宅と呼ばれていて、これについては既に紹介した。鎌倉時代になると、武士たちは立派な館を構えるようになる。モンゴルが襲来したときの竹崎季長の活躍は『蒙古襲来絵詞』で語られている。その中で恩賞が与えられないことに不満を持った季長が、鎌倉に赴いて安達泰盛に直訴する。九大コレクションの蒙古襲来絵詞には泰盛の館での様子が描かれている。
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さらに絵巻の『一遍聖絵』のなかに、筑紫国の武士の屋形で念仏をしている場面がある。舘の遺跡としては、今小路西遺跡(鎌倉市)と中山舘(飯能市)があり、詳しい説明がある。また、国人の居館として、伊豆出身の江馬氏が飛騨に移ったのちに築いた絵馬氏館も例に挙げられている。

家にはこれまで述べてきたように物理的な建物としての家と、代々にわたって先祖から継承する有形・無形の概念的な家とがある。概念的な家は、武士の階級ではいつ頃に生じたのだろうか。筆者はその時期を北条幕府が皇族将軍を迎えたころとしている。源頼朝・頼家・実朝と三代の源氏将軍が続いたあと、将軍が存在しなくなったわけではなく、摂関家から藤原頼経・頼嗣(よりつぐ)を迎え、5代執権北条時頼のときには、宗尊(むなかた)親王を6代将軍として迎えた。親王の鎌倉下向に伴い、飛鳥井・難波など和歌・蹴鞠の家の人々をはじめとする公家の廷臣たちが一緒についてきたため、将軍家は武家宮廷の体をなした。これに刺激されるように武家にも家職の概念が生まれるとともに、継承されるようになったと筆者は説明している。

その例として、3代執権泰時から5代執権時頼を補佐した北条重時は、北条氏惣領の得宗への対処法を子孫への武家家訓に残した。重時の子の長時は6代執権となったが、これは幼い時宗が成人するまでの代官としての役割であった。代官を置くことで執権を家職とする得宗家が誕生し、併せて長時の極楽寺家が確立し、さらには名越・赤松・大仏・金沢などの北条一門と外戚の安達は評定衆・寄合衆・六波羅探題となる家を形成したと筆者は述べている。また、得宗に仕える尾藤・長崎・平氏御内人(みうちびと)の家を、源氏一門の足利・武田・小笠原、諸国の守護となった三浦・佐原・長沼・結城・佐々木などは守護職を継承する家を、政所・門柱所・引付などの幕府機構の実務・事務を担う二階堂・太田・矢野・摂津は奉行人の家を形成したと説明している。

家職は有形無形の家の財産を継承していくことであり、相続制度とは切っても切れない関係にある。武士が出現した頃は分割相続であったが、家の成立とともに変化していく。それについては本書で確認して欲しい。

さて読後感。この本の一行一行の情報量の多さには感心する。気を抜くと、その内容が分からなくなってしまうので、読んでいる間はとても緊張を強いられる。海外の本だと、数倍もの厚さにして出版されることだろう。機会があれば、関連する書籍を参考にしながら、もう一度じっくりと読みたいと思っている。

藤田達生著『災害とたたかう大名たち』を読む

コロナに対する戦い方は、国によってさまざまである。自由が大好きな国民たちの米国や西ヨーロッパの国々は、ロックダウンによる強い規制を敷いて国民の行動を抑えようとしたが、コロナの蔓延は防ぎきれず、最後は科学を信じてワクチン投与を早い時期に開始し、集団免疫の獲得により重い空気から脱しようとしている。それに対して東アジアの国々は、お互いを気遣って自己規制する国民の協力をてこにして感染者が爆発的に増えることを抑えていたが、この春以降はウイルス変異による感染力の増強に伴ってこれまでの政策がほころび、あたふたとした状況が続き、さらにはワクチン対応にも遅れて国民を失望させている。

このような状況の中で、面白い本が出版された。藤田達生著『災害とたたかう大名たち』である。今でこそ災害は非日常的なものであるが、江戸時代は年がら年中生じていた。地震、大噴火、水害、旱魃、飢餓、疫病、そして火事との戦いは、今日世界が戦っているコロナウイルスとは比較にならないほど、壮絶であっただろう。

この本の著者は、伊勢・伊賀の藤堂藩を主に例にしながら、江戸時代の対応を紹介している。財政が豊かであった前半には、藩は被災者の小屋掛けから食料までの面倒を見たばかりか、町人や百姓たちの焼失した家屋の再建に取り組んだと説明している。さらに財政が破たんしていた幕末の安政地震でも、藩は藩庫を空にしてまで金子(きんす)や米穀を領民に与えて支援の手を差しのべたばかりか、死者を弔うための大規模な鎮魂の儀式まで行ったと述べている。

江戸時代の藩と農民との関係については、イメージ的には「百姓は生かさぬよう殺さぬよう」(『昇平夜話』)という家康の有名な言葉が思い出されるが、決してそのような粗野なものではなかったと著者は述べている。

江戸時代の幕藩体制の基本的理念をなしていたのは、「預治思想」であると著者は言う。聞き慣れない言葉であるが、著者は、「天下の領知権、具体的には領地・領民・城郭については、天(万物の創造主である天帝・上帝のことで、北極星がそのシンボルとされる)から天皇を介して天下人(将軍)が預かっており、天下人は器量に応じて諸大名にその一部を預けるものである。従って、領知権は天下人と諸大名による共有制と位置付けられる」と説明している。

天という言葉を聞くと、中国の儒教思想を思い出す人も多いだろう。著者も、「かかる思想は、『周礼(しゅらい)』(中国周代の理想的な王朝西周の制度を記した儒教の古典で、周公旦の作とされる)を始めとする儒教に由来するものであり、古代律令制の導入により都城の建設に伴い浸透した。即ち、藤原京に始まり平城京平安京などの首都の位置は、「天」が地上の中心点として指定した場所であり、天命によって諸侯に君臨する天子の居住地とされた」と述べている。

さらに、信長や秀吉がこれを彼らの正当性を示すために用いたとも説明している。すなわち、「天から統治権を預けられた天皇は、律令国家建設に当たって、地方豪族出身の官人たちを都城に住まわせて、律令制度に基づく官僚として位置づけたのである。ふたたび天下を統一するにあたり、信長や秀吉がその正当性を古代律令国家の思想に求めたのであり、家康を始めとする徳川将軍も基本的にこれを継承した」としている。

預治思想では、領地は私的な財産ではなく、公共財ということになる。著者は、「この確認システムが、将軍と藩主の間で行われる国替と江戸の拝領屋敷替、藩主と藩士の間では城下町における屋敷替である」と述べている。即ち、藩主・藩士を移封・移転させることで土地を私有していないことを認識させるとともに、藩主に対しては城郭が、藩士に対しては武家屋敷が「官舎」としてあてがわれていることを認識させたということである。

それに加えて、百姓にとって田畑は公儀からの預かり物、すなわち古代のように「公田」であると、著者によれば位置づけられている。これに対する立証として割地制度をあげている。これは村内の土地を共有財産として、一定年限これを農民の持ち高に応じて割り当て、年限が来ると再び割り当て直すというものであった。

江戸時代は、預治思想に基づく官僚制と、将軍―藩主―藩士という身分制による主従制を融合して統治が行われたとしたあとで、先に示した災害のときに、被害者を手厚く保護するという政策がどこから出てくるのかについての説明がある。著者は前期と後期に分けて述べている。

前期については、藤堂高久(藤堂藩)、池田光政(岡山藩)、細川忠利(熊本藩)、保科正之(会津藩)の前期明君と呼ばれる人たちを例に挙げ、「無私」を掲げて「仁政」に基づく国家感を浸透させていくことに努めたと説明している。ここで、無私は恣意的な支配を否定することを、仁政は百姓成り立ちのために尽力することを意味する。

例えば、池田光政は預国論で、人民は天から預かったものなので、安心して暮らせるように、藩主、家老、藩士は努力していかなければならないと、次のように紹介している。
上様(将軍)は、日本国中の人民を、天より預けなされ候、国主(藩主)は一国の人民を上様より預かり奉る。家老と士(藩士)とは、その君を助けて、その民を安んぜん事をはかるもの也。一国の民の安きと安からざるは、一国の主一人にかかるべき事なれども、天下の民の一人も、そのところを得ざるは、上様お一人の責となれば、その国の民を困窮せしむるは、上様のご冥加(利益)を減らし奉る義也。不忠なることこれより甚だしきはなし。上に不忠、民に不仁、国主の罪、死にも入れられず。今時何事もあらば御用に立たんと、乱世の忠を心掛け候もの、あまたこれありと聞き候へども、上様ご冥加減りて何事あらんには、忠を存ずるとも益あるまじく候。寸志ながらこの国においては、上様の冥加を増し奉り、長久のお祈りを致し、無事の忠を致さんと存ずるもの也と、かねてご趣意を仰せ出されけり。

しかし、江戸時代も中期から後期に差し掛かると、諸事物入りの藩財政の逼迫と、郷方には商品経済が浸透し、地主制が広く根付き、身動きが取れないような軋みが生じ、幕藩体制を支えた預治思想は、私有化の激しい本流によって風前の灯火となる。このような中にあって、上杉鷹山(米沢藩)、松平定信(老中)、松浦静山(平戸藩)、鍋島直正(佐賀藩)ら江戸時代を代表する明君が中・後期に登場し、殖産産業、洋式技術導入、義倉制度(災害や飢饉に備えて穀物を備蓄すること)開始、藩校設置などをした。藤堂藩でも、九代藩主高嶷(たかさと)が藩政の改革(借金棒引きなどの金融政策、殖産興業、均田制の導入-これにより一揆発生)を開始し、次の高兌(たかさわ)が、義倉積米制度、藩校開設などを行ったと、説明されている。

それでは災害に対する藤堂藩の対応を見ていこう。最初は、財政が厳しくなっている後期の事例である。日本列島では、安政年間(1854-60)に巨大群発地震が発生した。安政2年(1855)には安政江戸地震によって関東は大きな被害を被った。今年の大河ドラマ「青天を衝け」を観ている人は、この地震藤田東湖が死去し、竹中直人演ずる水戸藩主斉昭が慟哭している姿を覚えているだろう。これに先立つ1年前に、安政伊賀地震が発生した。6月15日午前2時ごろ、マグニチュード7.25の直下型地震により、藤堂藩の伊賀領で、死者597人、負傷者965人、全壊家屋2028軒、半壊家屋4357軒の被害が発生した。当時の伊賀領の人口は90,000人を少し超える程度であったので、大半の人が被害を被ったことだろう。これに対する藩の対応は、藩主が江戸にいるにもかかわらず、素晴らしく速い。日ごとにその対応を追ってみると次のようになる。

15日:地震当日夜が明けると、城内と城下に被災した武士と町方のために仮小屋を設置。被災町人には、藩から雨露をしのぐための竹や渋紙、炊き出しとして玄米粥、味噌が支給され、火の用心と盗難防止のため拍子木が一晩中鳴り響いた。
16日:町中の倒家・けが人に対して御救米(玄米1日2合/1人)が下行。
17日:郷方にも下行(玄米1日2合/1人)。郷方・町方に100俵下行。棟梁2人・大工50人・人夫150人の派遣を要請。寺社に地震の鎮まりを祈願させる。
18日:医師の派遣を命じる。謝礼は藩もち。
29日:町方に再度の御救米。
7月1日:報告書を江戸藩邸に送付。
6日:十一代藩主高猷(たかゆき)の名代が江戸から上野に到着。
7日:藩士に対して金子下賜(100石につき15両)と無利息年賦の金子貸与(100石につき15両)。
その後:町方に見舞金(全壊:金2両・米4俵、半壊:金1両・米2俵)、
    郷方に見舞金(全壊:金3両・米1俵、半壊:金2両・米2斗)、
    町方・郷方:死者を葬るため米1俵、負傷者の養生に米3斗、無被害に鳥目200銅。
16日:施飢餓の儀式を予定するも風雨のため中止、20日に改めて挙行。
18日:町方・郷方に対して米6000俵余りと金1万2000両余りが追加給与。
1年後:一周忌法要。

この地震での藩の出費を筆者は概算している。下行した米は町方に対して138俵、村方に対して459俵の合計597俵である。また下行した金子は、全壊家屋に対して町方に878両(1億1414万円)、村方に4767両(6億1971万円)、半壊家屋に対して町方に716両(9308万円)、村方に7282両(9億4666万円)で、合計で1万3643両(17億7359万円)である。なお、1両13万円となっている。下行された金子は、追加給付を加えると2万5643両となる。藤堂藩は、伊勢も含めて総収入は3万5600両であった。先の金子は伊賀の分だけなので、伊勢の分も含めると金子だけで総収入を越えたと予想され、藩士や領民の生活復興を最優先したことが分かると筆者は説明している。

それでは前期にはどのような手当てがなされたのかを見ていこう。史料は藤堂藩伊賀付家老石田氏の懐中手控である「統集懐録」である。ここには火事にあったときの救済の仕方が書かれていて、間口1間につき、松10本、竹3束、米2俵だそうである。藩より、建物再建に必要な資材と再建期間の食料までもが提供されていることが分かる。町方の家といえども、藩士の家のように舎宅としてみなされていたことが伺える。藩主が国替になると城下町も入れ替えとなり、町人も一緒に移住したので、家屋も藩の持ち物と見なされ、再建は藩主の努めと考えられたのだろうとやはり筆者は述べている。

コロナウイルスに対する政府の対応と、江戸時代の藤堂藩の災害に対する取り組みを比較すると、今日の政府の対応があまりにも後手後手であることが浮き彫りになり、大丈夫なのかと不安になってしまう一方で、江戸時代には予想を越えてしっかりと対処していたことに感心した。

白石典之著『モンゴル帝国誕生』を読む

モンゴル系民族の歴史として、杉山さんと島田さんの著書を紹介してきた。歴史学の手法は大別して、先人たちが残してきた文献資料を丹念に調べその当時の歴史をひもといていく文献史学と、遺跡を発掘して遺物からその当時の状態を解明していく考古学とがある。二人は文献史学に属するが、今回紹介する白石さんは考古学を専門としている。調査地域はモンゴル国である。モンゴル高原に存在する国だ。この国はかつてモンゴル人民共和国と呼ばれ社会主義国家であったが、ソ連・東欧の民主化に惹起され、1992年に国名を変え市場経済化がすすめられた。このころから日本・西洋の研究者との共同研究なども行われるようになり、白石さんはパイオニアである。2001年以来チンギスが首都としたアウラガ遺跡で調査を行っている。また1991年にはセルベンハールガ碑文の発見にも貢献された方である。
研究手法も先に紹介した2人とは随分と異なる。異分野の人たちとの共同研究が目を引く。本の中でも「ハブ」と考古学を位置付けている。理系・文系の異なる分野を結びつけ、相互に有意義な相乗効果をもたらしていると主張している。また、当たり前と言えばそれまでだが、外国文献の引用が多いことも特徴の一つだろう。日本人研究者という枠組みから飛び出て、世界の研究者と交流することの重要性を改めて認識させてくれる。

彼は本の末尾に近いところで、経営学的視点からチンギスの功績をまとめている。チンギスが抱いたヴィジョンは「モンゴルの民」の安全と繁栄の実現であり、この達成のために活動したと述べている。ヴィジョンの実現のため、「騎馬軍団の機動力向上」「鉄資源の安定確保」「高原内生産の活性化」という三つの戦略を立て、遊牧リテラシーに基づく「シフト」「コストダウン」「モバイル」「リスク回避」「ネットワーク」という五つの戦術を駆使したと著者は記している。チンギスの成功の理由は何かと尋ねられたら、確固たるヴィジョン、戦略の的確さ、戦術の巧みさにあったと答えるそうである。
それではその中の「シフト」についてみていこう。彼は、シフトを領域の移動という意味で使っている。殻の大きさが合わなくなった蛇が、それを脱ぎ捨てて新天地に向かっていくように、活躍の範囲が大きくなる場所を求めて、狭き場所より広い場所へと行動拠点を変えたことを指している。チンギスは、今日のモンゴル国の首都であるウランバートルから東に350㎞ぐらい離れたヘルレン川沿いに居住していた。この川はこの辺りでは北から南に流れている。北は森林地帯、中央は森林ステップ、南はステップと環境が変わる。彼は北から南へと拠点を変え、活動できる領域を広くしていく。
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モンゴルの民にとっての生活の糧は家畜(ヒツジ、ヤギ、馬、牛、ラクダ)である。家畜の主食であるステップに生える草は気候変動に敏感であり、わずかな変動であっても、壊滅的な打撃を与えることがある。家畜などを生育させる平原が持つ力を草原力、草原の中で生きてゆく遊牧民の知識を遊牧知といい、遊牧知を活用して草原力を発揮させることがいかに重要であるかについて述べている。これらは、我々には備わっていない、草原で生き抜いていくために必要とされる能力の源泉である。
ヘンティー山地オノン川谷で生まれ育ったチンギスは、タイチウトに敵視され、ヘンティー山地ヘルレン川上流に移動した。モンゴルでは有力な集団にキヤトとタイチウトの二つの血縁集団がいて、チンギスの父はキヤトの武将であった。チンギスが9歳のとき父はタタルに殺され、チンギスはケレイトの庇護のもとでヘルレン川上流に移った。史料には、落人のように落ち延び、貧しく暮らしたとなっている。しかし気象状態を調べてみると、当時の冷涼で乾燥傾向の強い気候を過ごすうえではきわめて適した場所だったことが分かったそうである。このときの移動には、彼の意思は余り働かなかったであろう。ある面でラッキーだったのではと感じる。もし、オノン川で住み続けていたならば、この川は東西に流れているので、環境の変化が少なく、草原力を知る機会も失われ、遊牧知も豊かにならなかったであろう。
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チンギスを飛躍させたのは、オルズ川の戦い(1196年)に勝利したときである。当時、中国北半の金と、中央アジアの西遼とのパワーバランスの下で、モンゴル高原は両国の代理戦争の場となっていた。チンギスは当初親遼派であったが、金とタタルが戦った時、金派に寝返り、金の指揮下の下でタタルと戦い、オルズ川の戦いで勝利した。父がタタルに殺されているので、敵の敵は味方ということで、金の勢力下にはいったと推察されている。この戦いで、金の将軍の完顔(ワンヤン)襄が戦勝碑文を残したと『金史』にあるが、著者の白石さんはこの碑文の発見に多大な貢献をされている。その秘話については本で楽しんで欲しい。

オルズ川の戦いの後、チンギスは凶暴な一面を見せ、ヘルレン川が北から南への流れを変えて東に流れ出す屈曲部への進出を図る。ここは水と草原に恵まれた豊かなところで、チンギスも属するキヤト族の本家が拠点としていた。1197年春チンギスは、再従兄妹で当主のジュルキンの本営を急襲、多数を殺害、多くを収奪した。
その後、チンギスは、ボヤン・オラーン山を冬営地とし、コデエ・アラルを夏営地とした。遊牧民の戦いは騎馬戦。優れた馬と武器の入手が戦略となる。新たに移り住んだ地域は、優れた馬と牧草で知られているところであり、チンギスが仕掛けてここに拠点を移したと著者はみている。馬具と武器の材料は鉄である。鉄についての知識は、前の拠点の近くに鉄を産出する山があったことから、そこで鉄を製造する一連の知識を得たと著者はみている。鉄の製造には、製錬・精錬・鍛錬の工程が必要である。製錬では、鉄鉱石を溶解させて鋳鉄を得る。精練では、鋳鉄から炭素を取り除いて強靭で軟性な鋼(インゴット)を得る。鍛錬では、インゴットを加工して製品を作る。チンギスは、コデエ・アラルの北10㎞のところに、宮廷としての大オルドを設営した。この地が著者の調査対象であるアウラガ遺跡である。ここからは、精練後に出る鉄滓が大量に発見されたので精練されていたことが、また、1300㎞以上も離れた金の国の金嶺鎮鉄山(山東省済南市郊外)から運ばれた良質のインゴットが発見され、鉄コンビナートと呼んでもいいような鍛冶工房がアウラガ遺跡には展開されていたと著者はみている。また、持ち運びに便利なインゴットは移動先でも鉄器生産に使われたであろうから、移動する鍛冶屋の役割も担い、革新的なことであると見なしている。

良質の馬と鉄を得たチンギスは、それらを利用して彼の子供たちとともに中央アジアの征服へと向かう。これらの様子については本でやはり楽しんで欲しいが、一つだけ付け加えておこう。著者はアウラガ遺跡の調査をとおして、チンギスの人となりを観察したようだ。ユーラシア大陸の大半を征服したのだから、金銀宝石がちりばめられた豪華なパビリオンの中で住んでいただろうと想像されていたが、発掘を通して余りの質素さにビックリしたそうだ。宮殿遺跡から発見されたのは、一辺が17mの天幕の跡で、基礎は掘立柱と日干しレンガを使った質素な構造だったそうだ。あまりのつつましさになぜだろうと疑問を抱き、彼の経営者としてのヴィジョン、戦略、戦術を考えるに至ったとのことであった。

コロナウイルスによって不確実さが増している中、為政者には、彼のような豊かな構想力、優れた戦略、巧みな戦術を有していて欲しいと思うのだが、現状はどこまで満足されているだろうか。残念ながら疑問に思うことのほうが多い。

島田正郎著『契丹国』を読む

東京に出されている非常事態宣言は、大方の人が予想していた通り、ゴールデンウィークで終わるわけはなく、月末までの延長となった。さらなる延長がなければと願うばかりだが、イギリス株やら、さらに怖そうなインド株の広がりも予想され、予断を許さないようだ。

ゴールデンウィーク中の課題であった原稿の執筆作業は順調に進み、期限の月末までには何とか間に合いそうだ。久しぶりの英語での論文で思うようなスピードでは進まなかったが、翻訳関係のソフトが、かつてとは比べようがないほどに進歩していて助かった。

一つはDeepLである。これは翻訳ソフトだが、出来上がった英語の論文を、日本語に翻訳させることで、内容が正しく伝わるのかを調べるのに役立った。翻訳された日本語が怪しい時には、英語の方に表現上の問題があることを教えてくれた。表現を変えて、分かりやすい日本語が出てくるようにすると、大丈夫ということになる。逆に、日本語の文を入れると翻訳例がいくつか提示されるので、このような表現もあると知り活用できた。

さらに役立ったのがGrammarlyである。こちらは英文チェックソフトで、誤字・脱字は言うに及ばず、幼稚な表現かどうかまで指摘してくれる。言い換えは有料なので使わなかったが、指摘がなくなるまで書き換えて文章のブラッシュアップを図った。

このような生活を送る中で、大分古い本だが、島田正郎さんの『契丹国』を読んだ。1993年に初版本が発行され、2014年に新装版なって発売され、読んだのは2018年の電子版である。30年近く前に書かれた本で、著者も2009年に亡くなられている。80年代の後半ころに明治大学の総長をされていたのでご存知の方も多いだろう。私も名前は存じ上げていたが、専門については知らなかった。

高校時代の世界史では、契丹(キタイ)については建国者の「耶律阿保機」と講和条約の「澶淵の盟」ぐらいしか触れないので、それほど馴染みのある国ではない。しかし論文を書いているときに、モンゴルの軍事・行政組織である千人隊(ミンガン)が、契丹の影響を受けたものであるということを知って、興味をもって調べていたらこの本に出合った。

契丹という国が存在したのは、菅原道真大宰府で憤死したあとの頃から、後鳥羽上皇が鎌倉の北条氏に争いを仕掛けた承久の乱の前までの時期で、摂関期から院政期までの時代に当たる。始めの2/3強はモンゴル高原を中心とした遼の国として、終わりの1/3弱は中央アジアを根拠地として西遼の国として存在した。

それでは耶律阿保機が初代皇帝になったころの遊牧国家の様子を見てみよう(下図)。9世紀の半ばに、北アジアを支配してきたトルコ系ウイグル帝国が崩壊、中央アジアを抑えてきたチベット系の吐蕃帝国では内乱、さらには唐帝国も財政難で北アジアを抑え込めなくなったため、多くの遊牧民族が一斉に活動を開始した。モンゴル高原では勢力を伸ばしてきたモンゴル系のタタル人の攻勢によってトルコ系のキルギス人が力を失い、トルコ系民族活躍の時代の終わりを告げた。北モンゴリア東部のタタルからは黄頭室韋が嫩江(のんこう)流域に遊牧し、その南に面したシラ=ムレンの流域には契丹が、さらにその南のラオハ=ムレンの上流域に契丹と同系統の奚が遊牧した。これらの西には黒車子室韋が、その南の大同盆地にはトルコ系の沙陀が遊牧した。大同の西南には、のちに西夏王国となるチベット系の党項が遊牧していた。さらに西には、タタル人から逃げてきたキルギス人が、その南には故郷を失ったウイグル人が遊牧していた。
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この中で最初に力を得たのは沙陀で、五代王朝後唐(李克用)・後晋(石敬塘)・後漢(劉知遠)を建国した。また、後周・宋の建国者たちも沙陀系軍閥出であり、沙陀が大きな影響を与えている。

多くの国々には誕生神話がある。契丹も例外ではない。それによれば、昔白馬に乗った神人がラオハ=ムレンに来て、青牛にひかせた車に乗ってシラ=ムレンを下ってきた天女と、その合流点で出会い、夫婦となって8人の子を産んだ。それぞれが氏族の祖となって、八部族が生まれた。それぞれの部族はバガトールと呼ばれる首長に統率され、時に激しく争うこともあったが、そのうちに結合する意識が芽生え、八部首長の中から3年交替制で君長を選ぶようになった、とのことである。

さて、契丹国の初代の皇帝の耶律阿保機(やりつあぼき)は、契丹八部の一つである迭剌(てつら)部の出身である。当初、遙輦(ようれん)氏の痕徳菫(こんとくきん)可汗に仕え、彼が没したとき、選挙交替制のしきたりを守らずに、古式に従って自ら君長に就き(907年)、さらには中国式の天皇帝を称した(016年)。阿保機の一生は戦いに明け暮れた。部族内の内乱を鎮めたあと、北のタタル、西のウイグル、隣の沙陀などへ、大きな成果を得ることはなかったが、侵入し続けた。そして東の渤海国を滅ぼして東丹国を樹立し、長男の図欲(とつよく)を国王に据えた。契丹の皇帝を継承したのは、次男の堯骨(ぎょうこつ)であった。図欲は芸術の才に恵まれ、堯骨は戦い上手であった。東丹国は彼一代で滅したが、契丹国を継承したのは彼の子孫となった。運命の皮肉というべきである。

耶律阿保機は数々の改革を行った。一つ目は、これまでの契丹八部連合を、皇族を中心とする部族連合へと再編したことである。阿保機の妻の出身氏族は述律(じゅつりつ)氏で、ウイグル人の子孫とされた。遊牧民族では、男子は狩猟や戦闘などで家を空けることが多く、家庭を守る女性が高い地位を占めていることが多かった。契丹も例外ではなく、皇帝がなくなった後、皇后が摂政を行うことも多かった。述律氏の子孫は耶律氏の子孫と互酬的な通婚関係を結び、多くの皇后を輩出し、簫(しゅう)氏と名乗るようになった。また、再編された部族連合の中でも、后族として特別に遇された。

二つ目は親衛隊の設置である。後に斡魯朶(オルド)と呼ばれるが、阿保機は豪健二千余人を選抜し、最も信頼する一族のものに統率させた。皇帝は春・夏・秋・冬にそれぞれ決まった幕営地を移動して暮らしていた。これは捺鉢(なば)と呼ばれるが、斡魯朶を伴ってのものであった。これは皇帝の私兵とも呼ばれるもので、皇帝が入れ替わるたびに新たな斡魯朶が形成された(古い方は亡くなった皇帝の墓守などになる)。この制度は、契丹が強い軍事力を持つ源泉となった。

三つ目は二元体制である。阿保機は農耕民の漢人華北から東北に徙民(しみん)させて、農耕に従事させた。農耕の地域には城郭を築き、中国伝来の郡県制により支配した。一方遊牧民に対してはこれまで通り、契丹の制度で統治をおこなった。次の堯骨の時世に、主要な民族の中心地に五京と呼ばれる五つの城市を建設した。上京臨潢府(りんこう、契丹人)、中京大定府(奚人)、東京遼陽府(渤海遺民)、南京析津府(せきしん、漢人)、西京大同府(沙陀人)である。これに先立って後晋の建国を支援したことにより、華北の燕雲十六州を得た(図で濃い青が雲、薄い青が燕の州である)。これ以降五代の国々がこの地を奪還しようとするが、一部を奪還したに過ぎなかった。宋の王朝になったとき、契丹はこれをもう一度奪い返すために軍を送り、宋もこれに応じるものの、膠着状態となり和平交渉がもたれ、その結果が澶淵の盟である。宋を兄とし、契丹を弟とし、宋から契丹に対して年間絹20万匹・銀10万両を送ることなどが決められた。
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四つ目は、契丹文字の制定であろう。阿保機の弟の耶律迭剌がウイグル文字を参考にして考案した。その後に起きた仏教の興隆も特筆すべきことである。

以上が『契丹国』からの抜粋だが、1章で契丹の歴史が、2章で契丹の制度と社会が、3章で図欲(長じて倍と称した)について書かれている。

本を読んでいると、この部分は史料がなく不明という部分が少なからず現れる。筆者が活躍されたころは、中国との交流もなく、苦労されての研究だったろうと想像された。しかし戦前に中国で研究に携われているので、そのときに得た情報が生かされているのだろうとも想像された。いずれにしても大変にご苦労されての研究だっただろう。頭が下がる思いである。

カリフォルニアからの贈り物:オレンジケーキ

ゴールデンウィークは非常事態宣言が発令され、うんざりとする中で巣ごもりをしている人も多いことだろう。私は3月の初旬ごろに断り切れないところから原稿を頼まれた。なんとかテーマを定め、そして下調べにと10冊近くもの関連書籍を読み、構想がおぼろげながらまとまり、文字化する作業にやっとたどり着いた。連休中はこのことに追われ、好むと好まざるとにかかわらず、巣ごもりだ。

Zoomでおしゃべりをしているカリフォルニアの友人から、またレシピが送られてきた。今度のレシピは妻あてなので、彼女がメインで、私がサブになって、挑戦することとした。頂いたレシピは6人前用である。アメリカでは多くの人たちのワクチン接種が終了し、日常生活が取り戻されつつある。知人宅でもお客さんを招き始めたと聞いていたので、そのために使ったレシピを送ってくれたのだろう。このようなことは我が家ではまだかなわないので、取り敢えず量を半分にして作ってみた。

材料: カッコ内の量は送られてきたレシピのもの。
・クッキングオイルスプレイ
・バター 100g (1カップ)
・グラニュー糖 240g (1 1/4カップ)
・卵 中2個 (大3個)
・オレンジ 1個 (2個)
・薄力粉 275g(2 1/2カップ
・塩 小匙1/8 (1/4)
重曹 小匙1/8 (1/4)
・ベーキングパウダー 小匙1/4 (1/2)

・粉砂糖 3/4カップ(1 1/2カップ)
・オレンジジュース 18cc(大匙2杯と小さじ1杯)

作り方
1) オーブンを170℃で余熱を始める。
2) 型にクッキングオイルをしっかりとスプレイしておく。
3) 大きなボールにバターとグラニュー糖をハンドミキサーでミディアムスピードでふわふわになるまで混ぜる。
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4) 卵を加えてさらにかき混ぜる。
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5) 水洗いしたオレンジを、半分ぐらい皮をそぎ落とし、6等分ぐらいに切り分け、フードプロセッサーで、ピューレ状になる前の、ほぼ粒がなくなるくらいまで、細かくする。
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6) 5)のオレンジを4)のボールに加え、さらに混ぜる。
7) 薄力粉と塩と重曹とベーキングパウダーを混ぜて、6)のボールに加えて、さっくり混ぜる。
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8) 型に入れる。
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9) オーブンで40分焼く。
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10) 型をオーブンから取り出して、ひっくり返して、皿の上にのせて冷ます。
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11) 粉砂糖とオレンジジュースを小さなボールで混ぜる。
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12) ケーキの上から霧雨のように11)をかけて、糖衣をつける。
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13) 紅茶とともに頂く。
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カタチのよいケーキができ、ブランチにして美味しくいただいた。

読んでいて気がついた人も多かったことと思うが、グラニュー糖が実は半分になっていない。アメリカから送られてきたレシピとは別に、参考のためにネットで調べたレシピには240gとなっていたので、勘違いも手伝って、この量を用いたそうだ。もともとのアメリカのレシピには甘さ控えめとなっていたので、そのうたい文句のようにはなっていないが、日本のケーキ程度の甘さになっている。甘味を抑えたいときは、グラニュー糖は半分でよい。

ペリー提督から国書を受け取った井戸石見守ゆかりの町田市堂之坂公苑と東雲寺

恩田川の桜が満開になったのではと思い、出かけてみた。
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しかし余りにも人手が多いので、わき道にそれて散策していると、門構えが立派な公苑を見つけた。
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由緒正しそうな公苑で、恐る恐るのぞき込んでみると、案内の看板があった。
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そこには、井戸石見守の名前がある。先日、『ペリー提督日本遠征記』(角川ソフィア文庫)を読んだばかりだったので、この名前は記憶にあった。その部分を引用すると、

「提督と幕僚が接見の部屋に入ると、左側に座っていた二人の高官が立ち上がってお辞儀をし、提督と幕僚は右側に用意された肘かけ椅子に案内された。通訳がこの日本高官の名前と称号とを告知した。ひとりは戸田伊豆守すなわち伊豆侯戸田で、もうひとりは井戸石見守すなわち石見侯井戸〔弘道。戸田と同じく浦賀奉行〕であった。二人ともかなりの年配で、前者は五〇歳くらい、後者はそれより一〇歳から一五歳年長らしかった。戸田侯は井戸侯より風采が良く、知的な広い額や端正な親しみやすい容貌は、皺だらけで貧相で、彼より知的に劣っていそうな顔つきをした同僚の石見守と好対照をなしていた。二人とも非常に豪華な服装をしており、衣服は精巧に金銀の模様をちりばめた重々しい絹の紋織だった」と書かれている。


これは、1853年7月14日(安政2年7月26日)に、アメリカ大統領からの国書を日本側に引き渡すために、ペリー提督が久里浜(横須賀市)に上陸し、浦和奉行の戸田氏栄(うじよし)と井戸弘道(ひろみち)とに対面したときの様子である。井戸弘道の会見時の役職は浦賀奉行、ペリーとの接見を無事にこなしたことによるのだろうかその年に大目付に就任した。しかし残念なことに在職中の2年後(1855年)に亡くなっている。ペリーは、井戸がしわだらけのみすぼらしい顔で、戸田より知性がないようだと、記述している。

井戸弘道は、成瀬村・小川村(現在は町田市)に450石余りの知行地を与えられた旗本で、旗本の役職としては最高位の大目付まで出世したのだから、ペリーの見立てとは異なり、優秀な実務官僚だったのだろう。たまたま訪れたこの公苑は、井戸氏の米蔵の跡であった。

公苑にはクリスマスローズ
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ハナニラ
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そして、椿がきれいに咲いていた。
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明治になると、俸禄を失った井戸弘道の妻と子が、米蔵があったこの地に身を寄せ、明治2年に妻が亡くなり、遺体は近くの東雲寺に埋葬された。

ついでに東慶寺も訪れてみよう。なかなか立派で、
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境内にあった可愛いらしい掃除小僧と梵鐘、
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小ぶりの釈迦堂、
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そして井戸石見守の墓所へ、
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お墓(なお、弘道の菩提寺は池上の法養寺である。ここの墓は妻が亡くなった時に一緒に造られた)。右は顕彰碑、
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満開の墓地の桜並木、
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地蔵菩薩
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となりは杉山神社杉山神社はこの辺ではとても一般的で、あちらこちらにあり、家の近くにもある。
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春爛漫の一日、平日にもかかわらず、老若男女が列をなして花見を楽しんでいた。コロナ感染者は増えることはあっても減ることはないだろうと、好ましいことではないがこのように確信した。みんなのワクチン接種が済むまで、何とか持ちこたえて欲しいと寺と神社に祈って、人込みを離れた。

追:
明治39年と現在を比較できるように、この地域の地図を参考までに加えておく。今ではこの辺りは横浜線成瀬駅を中心に住宅街が広がっているが、明治末期の頃は、横浜線は走っているものの、成瀬駅はなく、恩田川に沿って田んぼが広がり、谷戸に沿ってところどころに小さな集落が展開していることが分かる。また東雲寺の西500mのところに杉山神社があるので、東雲寺と杉山神社神仏分離によって分離したのではなく、後から杉山神社が東雲寺の隣に移転してきたことが分かる。地図からは、この地に学校があったことも分かる。明治6年に「成高学舎」が東雲寺に設置され、明治13年に「成瀬学校」に、明治41年に「南尋常小学校」と改称された。現在はここより南300mのところで「南第二小学校」として伝統を引き継いでいる。
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アメリカからの要望に応えて:豚ひき肉とコーンのスープ

日本料理のレシピを紹介して欲しいとアメリカから依頼が来た。いろいろ考えた末に、我が家に伝わるスープと、アメリカ人には人気が高い鳥の照焼き、そして付け合わせの簡単サラダピクルスを送ることにした。ここで紹介するのは、最初のものだ。私が好きな料理ということで、私の母から妻に伝えられた料理である。妻に伝えられているので、作ってもらうことにし、今回は横で写真を撮るだけだ。

まずは材料だ。主役は豚ひき肉とねぎ(玉ねぎも加えるとさらに良い)とコーンの缶詰である。脇役は生姜で、ピリリとした優雅な味を醸しだしてくれ、欠かすことができない材料である。
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材料
1) 豚ひき肉:100g
2) ねぎ:1本
3) 玉ねぎ:1/4
4) 生姜:1片
5) 水:1000cc
6) マギーブイヨン:3個
7) コーン缶詰:435g
8) 塩と白コショウ:少々
9) 片栗粉またはコーンスターチ:少々

本番に入る前の下ごしらえをしておこう。
1)ねぎは小口切り、
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2)玉ねぎをみじん切り(今回は使わなかったが、味が良くなるので加えることをお勧めする)、
3)生姜はすりおろし、
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それでは、本番に移ろう。
1)鍋にサラダオイルを熱し、豚ひき肉とねぎと玉ねぎと生姜を加えて炒める。
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2)水とマギーブイヨンを加えて、沸騰させる。
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3)沸騰したら灰汁を取り除く。
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4)コーン缶を加える。
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5)塩、胡椒で味を調える。
6)片栗粉を水で溶き、とろみをつける。(ポイント:必ず沸騰したところに加え、かき混ぜながら1分加熱)
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出来上がったスープをカップに入れて、食卓へと運ぶ。
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子どもの頃から慣れ親しんだ味で、とても美味しく頂くことができた。アメリカ人の彼らにも、気に入ってもらえると嬉しいのだが、あとで感想を聞いてみることにしよう。

アメリカからの要望に応えて:鶏もも肉の照焼き

アメリカからの要望に応えての、日本料理の紹介の続きである。ブログをいろいろ調べていたら、アメリカ人に好評なのは鶏肉の照焼きであった。甘辛い醤油味が彼らの舌に会うのだろう。

春爛漫が近づいている。レシピとともに、桜の写真を添えておこう。近くの恩田川の桜だ。前にも述べたように、ここは町田市では有名な桜の名所。2kmにわたって川の両側に桜の木が植えられ、その数は400本。しかし老木になってきたために、見事さは年々弱まりつつあるが、それでもまだまだ見ごたえはある。都心は満開というのに、都下はやはり寒いのだろうか、まだ5~8分咲きである。この川は、町田市を起点に横浜市へ流れ込み、鶴見川へとつなぐる。大きな鯉が群れを成し、それと競うかのように鳥たちも群れている。今日もカモが、小さな水の段差を利用して戯れていた。
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それでは料理の説明に移ろう。材料はいたって簡単で、主役は鳥のもも肉である。調味料に特徴があって、日本料理に頻繁に使われる、醬油、酒、みりん、砂糖である。混ぜ方はそれぞれの家庭の味でということだが、今回は砂糖を除いて等量で、砂糖を1とすると、他はその1.5倍を用いた。鶏肉や焼く前に塩、胡椒した後で、片栗粉を表面に軽くまぶして、サラダオイルで焼く。いたって簡単なので、時間がない時は便利な料理だ。しかも美味しいので利用しない手はない。

材料
1)鶏もも肉:150~200g
2)調味料
・醤油:大匙1 1/2
・酒:大匙1 1/2
・みりん:大匙1 1/2
・砂糖:大匙1
3)片栗粉:少々
4)サラダオイル:少々
5)塩、黒胡椒:少々
調味料は、
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作り方
1)皮目にフォークで穴をあける。
2)一様な厚みになるように広げる。
3)肉両面に塩、胡椒を少しふる。
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4)調味料を混ぜておく。
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5)片栗粉をビニール袋に入れ、肉を入れて振りながら表面にまぶす。
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6)フライパンに油をひいて、十分に熱する。
7)鶏肉の皮を下にして強火で焼く。
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8)表面に焼き色がついたら裏返し、蓋をして、弱火で中まで火を通す。
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9)合わせておいた調味料を加え、肉にかけながら煮詰める。
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10)汁が煮詰まり、表面に照りが出たら出来上がり。
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11)食べやすいように切る。
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ということで、試してください。お酒は、辛口の日本酒が合うと思いますが、なければ、白ワインのシャルドネがあう。

アメリカからの要望に応えて:簡単サラダピクルス

日本の本格的な漬物を好むアメリカ人は少ないだろうということで、油を使わないサラダ感覚で食べられるピクルスである。

調味液は酢と砂糖を用いるが、米酢などの穀物酢が手に入らないときは、白ワインビネガーを用いるとよい。野菜は好きなもので構わないし、量も好みでよい。

材料
1)調味液
穀物酢または白ワインビネガー:大さじ5
・砂糖:大匙5
・塩:大匙1/2
2)キュウリ:1/3
3)にんじん:1/6
4)玉ねぎ:1/6
5)赤パプリカ:1/5
6)黄パプリカ:1/5
7)セロリ(茎のみ):1/6
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料理の仕方もいたって簡単。用意した酢、砂糖、塩を混ぜ合わせ、スティック状に切った野菜を漬けるだけである。
作り方
1)調味液の材料を混ぜ合わせる。
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2)野菜をスティック状に切る(4cm程度の長さ)
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3)容器(またはジップロック)に2)の野菜を入れ、1)の調味液を注いで、冷蔵庫で半日ほど漬ける。
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出来上がりはこのような感じ。
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野菜は好みに応じて、そして季節に合わせて変えるといい。ラディッシュや大根(アメリカでは入手しにくいらしい)なども美味しい。半日程度つけておくと美味しくなるが、1時間程度でも大丈夫なので、急ぎのときでも間に合う優れものである。

Quick Steak Stir-Fryに挑戦

横浜市へと流れる恩田川は、町田市側の方は2kmにわたって、400本の桜の木が植えられている。この辺が開発されたころに植栽されたので老木になっているが、まだ頑張って毎年見事なショーを繰り広げてくれる。満開の頃には桜祭りが開催されるが、今年は、昨年に引き続いて中止である。楽しみにしていた人々にとっては、寂しいことだろう。今年の桜は早く、もう咲き始めている。来週になると綺麗に咲きそろうことだろう。コガモもそれを心待ちにしているようで、大勢集まって、川面でえさをついばんでいる。
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同じころに作られた住宅街の桜の並木は、やはり老木となっていたが、倒木の危険があるということで、若い桜の木にとってかわられた。今までのソメイヨシノではなく、ピンク色が少し濃い、華やかな色合いのジンダイアケボノである。ソメイヨシノより開花時期が早いので、いま満開である。何年か経てば桜の名所として復活することだろう。
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アメリカから来たレシピの2つ目。やはりJamie Oliverの”5 Ingredients Quick and Easy”からである。タイトルにstir-fryという単語が使われているが、「(かき混ぜながら)強火ですばやくいためる」という意味である。fryは、油で炒めるあるいは揚げるという意味だが、日本語でのフライとはニュアンスが異なり、炒めるに近い。小麦粉やパン粉を使って揚げる場合には、deep-fryが正しい使い方である。

さて今日の役者は、
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オッと出遅れてしまったものがいる。また白コショウは先走りだ。黒コショウの出番である。
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主演から端役へと列挙すると、
1) ヒレステーキ肉:2x150g(頂いたレシピには4.5オンスの肉2枚)
2) アスパラガス:200g(レシピは12オンス、これは少し多すぎるのではという気もする)
3) 豆鼓醤(トウチジャン):大さじ2杯(レシピはテーブルスプーンとなっていた)
4) ニンニク:4片
5) 生姜:4㎝程度
6) 赤ワインビネガー:大さじ1杯
7) オリーブオイル:大さじ1杯
8) 塩と黒コショウ:適量

まずは下準備。アスパラガスは底の固い部分は切り落とし、2分する。
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生姜は皮むき器を利用して、薄くはぎ取る。
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にんにくは薄切り。
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肉の両面に塩と黒コショウをかける。

それでは、本番に移ろう。
フライパンにオリーブ油大さじ1杯を加え、生姜をのせ、強めの中火で炒める。
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カリカリになったところで、生姜を皿に移す。油はそのまま。
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ニンニクをフライパンに入れ、やはりカリカリに焼く。
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ニンニクも皿に移す。
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アスパラガスをフライパンに移して炒める(レシピにはさらに熱を上げてとなっていたが、IHを利用していて、フライパンは中火までとなっているので、強火にすることはできない。仕方なく熱めの中火のままで調理した。stir-fry、すなわち強火でとはならないが堪忍してください)。
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火が通ったら、肉をフライパンに移し、蓋をして片面を2分焼き、裏返しして、反対の面を1分焼く(焼き上がりはミディアムレアになる)。
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豆鼓醤を大さじ2杯、赤ワインビネガーを大さじ1杯加える。
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蓋をして1分ほど焼く。なお途中で一回ひっくり返す。そのあと、食べやすいように肉を切る。
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肉、アスパラガスを皿に盛る。
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さらにカリカリになった生姜、にんにくをのせる。
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そして食卓へ。
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豆鼓醤は、我々に馴染みのあるところでは麻婆豆腐で使われていて、黒豆を塩漬けして発酵させたもので、にんにくが加えられている。この料理を作った人のブログの中に、辛すぎたという書き込みがあったので、好みに合わせて調整するとよい。今回は大さじ2杯を用いたが、私には少しから過ぎたが、妻にはちょうど良かったようだ。ワインは昨日の残りの白を用いたが、料理がからかったので、赤ワインの方がよかった。

Ginger Shakin' Beefに挑戦

コロナウイルスにより旅行がかなわない中、カリフォルニアに住む友人たちと、Zoomで定期的におしゃべりをしている。よもやま話が主で、楽しみを作っているという面が多い。料理の話が出たときに、「それではレシピを送るからね」と言われ、第一弾として、ビーフ編が送られてきた。

何と、味噌や豆鼓醤(トウチジャン・Black Bean Source)を用いたアジアンテイスト。我々が日本人だから選んでくれたのではなさそうに思える。カリフォルニアでは、一般家庭でもこれらの食材は普通に使われるようになっているのだろう。彼らが住んでいるところは、サン・ルイス・オボスポ。サンフランシスコとロスアンゼルスの中間地点にある町で、カリフォルニア州内では最古級の街なのだが、知っている人はそれほど多くない。5万人に満たない人口なので、アジアの食材をどのようにして手に入れているのだろう。

ここで紹介する料理は味噌味の肉料理である。サーロインステーキ300gが必要と書かれていたので、早速近くのスーパーに出かけて購入しようとしたところ、150gで2000円以上。霜降りで美味しそうなのだが、今日の料理には合いそうもない。もっと安い肉を得るために足を延ばし、アメリカ産のサーロインステーキを手に入れた。

それではレシピに移ろう。二人分のこの料理の役者たちは、
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残念なことに、ハチミツが恥ずかしがったため、写真に納まっていない。彼らの体重は、
1) サーロインステーキ:255g (もらったレシピは10オンス(283g)だったので、少しでも合うようにと、一番重量の多いパックを購入)
2) 生姜:右側の1個を利用(レシピでは1.5インチ(3.8cm)のピースを推奨)
3) 味噌:大さじ1杯(レシピではテーブルスプーンとなっていた)
4) ハチミツ:大さじ2杯
5) チンゲン菜:2束(レシピでは8オンス(227g))
6) 赤ワインビネガー:大さじ2杯

推奨された重さよりも、サーロインステーキは少し小ぶり。チンゲン菜ははるかにオーバーしていた。なんと400gを越えているが、野菜は多くても健康にはいいだろうと思い、このまま使用した。

頂いたレシピは、炒めたり茹でたりしながら材料を切っているが、ここは自流を通して、下準備してから、本番に入ることにした。まずは肉から、購入した肉はこのような感じ、
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最初に見た霜降りの肉と違って、脂肪分が固まってある。大きな脂肪の部分を切り取り、肉の部分は3㎝角程度に切った。
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生姜は、つまようじの細さぐらいに切ることが推奨されていたが、できる範囲内で処理した。
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次はチンゲン菜、なかなか立派。
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食べやすさを考えて、縦方向に1回、横方向に2回切った。あとから考えると、良い姿を強調するためには、縦に1回切っただけで止めておけばよかった。
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肉に大さじ1杯の味噌を塗りつける。
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フライパンに脂身をのせ、熱めの中火で炒め、溶け始めたら生姜を加えて炒める(脂身が少なめだったので、牛脂を2個加えた)。
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カリカリになったところで止める(レシピではcrispyとなっていた)。
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油の部分はフライパンに残し、生姜を皿に移す。
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フライパンに肉を移し、4分間転がしながら焼く(レシピではtossとなっていた。料理英語なのだろうか。ボールを投げるという意味でしか知らなかった)。
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ハチミツ大さじ2杯と赤ワインビネガー大さじ1杯を加え、さらに一分間転がしながら焼いた。
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これと並行して、沸騰した湯の中にチンゲン菜を入れて、同じように1分間茹でた。
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お皿に盛っていく。まずはチンゲン菜、
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続いて肉、さらにカリカリの生姜。
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今日の食卓。ワインは大好きなニュージーランド産の白。
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アメリカ産のサーロインステーキと味噌の味がマッチし、さらにハチミツの甘さが味に彩をもたらしてくれ、美味しい食事を頂くことができた。

なおここで紹介した料理は Jamie Oliverの"5 Ingredients Quick and Easy"からだそうだ。

虎尾達哉著『藤原冬嗣』を読む

藤原冬嗣は西暦800年の前後25年を生き抜いた。794年に平安京に遷都されたので、平安時代初期に活躍した公卿となる。父は藤原内麻呂、母は百済永継(えいけい)。母は苗字から分かるように渡来系、長男真夏と次男冬嗣を儲けた。そのあと桓武天皇後宮に入り子を得た。その子は臣籍降下した良岑安世である。当時は、子供たちは母の実家で育てられたので、冬嗣と安世は一つ屋根の下で育ったことであろう。

このころの藤原家は四家に分かれており、冬嗣は北家に属する。四家は、奈良時代初期に活躍した藤原不比等の四人の子供を祖とする。父の内麻呂が貴族の仲間入りした頃は(781年に従五位下)、南家が隆盛で、継縄(つぐただ)が政権を握っていた(790年に左大臣)。内麻呂のライバルは2歳年下の南家の雄友(おとも)であった。二人の間での昇進レースは抜きつ抜かれつのデッドヒートを繰り広げたが、最後は内麻呂が征して右大臣に昇任し、南家の優勢は崩された。追い打ちをかけるように平城天皇が即位したあと、伊予親王に謀反の企てがあると報告され、雄友は親王の叔父であったことから、連座していると見なされ、流罪となった。これにより、二人の出世レースは終了した。

冬嗣のライバルは、1歳年長の式家の緒嗣(おつぐ)だった。彼は徳政相論で有名である。桓武天皇は、彼と菅野真道に対して、現在の政治の問題点について質問した。緒嗣は、「今、天下の民を苦しめているのは軍事(東北地方での対蝦夷戦争)と造作(長岡京平安京での造営工事)であります。この二つを止めれば人々は安穏に暮らせるでしょう」と主張した。これに対して真道は桓武天皇の施政を擁護する立場から、執拗に異議を唱えて緒嗣の主張を認めなかったが、軍配は緒嗣に上がった。

緒嗣の父の百川は、光仁桓武の擁立に活躍したため、百川が亡くなっているにもかかわらず、緒嗣は目をかけられ、29歳の若さで参議に昇進した。朝廷組織の最高機関は太政官で、長官は太政大臣であったが、この時代にはこの地位に就くものはなく、左大臣と右大臣が長官としての役割を担った。次官は大納言・中納言および参議で、大納言の官位は正三位中納言従三位、参議は四位以上の位階を持つ廷臣の中から才能のあるものが選ばれた。参議以上は公卿と呼ばれ、いわゆる上級貴族である。

一方の冬嗣は10年近く遅れて参議になったが、昇進が遅かったわけではない。緒嗣があまりにも若くしてなりすぎたためである。嵯峨天皇の時世になると、冬嗣の出世は早まる。巨勢野足(62歳)とともに、新たに設置された蔵人頭に36歳のときに昇進する。この職は天皇の身近にあって、勅使や上奏の伝達を行い、身辺の世話を仕切る役割であり、天皇の側近グループとなる。また、太政官への登竜門ともなった。野足と冬嗣は、嵯峨天皇が皇太子であった時に、春宮坊の長官と次官であった。このことから、彼らの重用は、天皇からの信頼が厚かったことによると見られる。

蘇我天皇治世前期は、冬嗣の父が政権を握り、彼が亡くなると、同じ北家の園人が政権を握る。このころになると冬嗣は、緒嗣を追い抜く。そして園人が亡くなると、冬嗣が政権を担い、緒嗣は次席に就く。しかし冬嗣は享年52歳で亡くなり、そのあとの20年近くを緒嗣が政権を担うこととなる。緒嗣は享年70歳で亡くなるが、40年以上もの長い歳月を太政官として過ごした。二人の出世レースはどちらの勝だったのだろう。なお、冬嗣の後継と見なされていた同母兄弟の良岑安世は、冬嗣が亡くなった数年後に亡くなり、その夢は絶たれた。

さて冬嗣が政権を担ったのは、園人が病床についた弘仁7年(816)から冬嗣が亡くなる天長3年(826)までのおよそ10年間である。しかしこの時期は、運が悪いことに、災害が頻発していた。

弘仁5年(814):疫病(天然痘)
弘仁8年(817):旱魃(不作・凶作)
弘仁9年(818):旱魃(不作・凶作)、関東地方を襲った弘仁地震(M7.5)、疫病(天然痘)
弘仁10年(819):飢饉(山城・美濃・若狭・能登・出雲)、旱魃・長雨(不作・凶作)
弘仁11年(820):豊作
弘仁12年(821):秋まで順調(公卿の昇任人事あり)、10月洪水(河内・山城・摂津)
弘仁13年(822):旱魃(不作)
弘仁14年(823):疫病(天然痘)

この時代、不作・凶作や災害・疫病の発生は天皇に徳がないためとされた(天人相関思想:有徳の天子が善政を行えば、天はこれを寿ぐサインとして祥瑞を送り、不徳の天子が悪政を行えば、これを譴責するサインとして災異を送る)。嵯峨天皇は、この責を負って譲位した。

冬嗣を始めとする公卿たちも、災害の責任の一端は自分たちの不徳にあるとして、災害対策を行った。これらの中には富者の社会的義務(ノブレス・オブリージュ)を果たすという面もあったと著者は述べている。
(1) 先貧後富の灌漑ルールの徹底:灌漑は最も貧しいものの田から始める。
(2) 富豪の貯えている稲殻を供出させ、困窮の徒に借貸する。
(3) 百姓の農業では損害が少なくないので、財源の逼迫を救うため、当分の間、臣下の封禄の4分の1を削減し、その分を国費に充てる。
(4) 在地の富豪層に救済を請け負わせ、その見返りに位階を与える。
(5) 大宰府内での公営田(くえいでん)制度の実施:口分田の1割強を回収し、国家の直営田とし徴用して耕作させ、佃功(手間賃)と食料を支給する。
(6) 国司の不正禁止:国司は災異対応に精勤することを命じ、災異に便乗しての私益の追求に走ることを禁じた。

冬嗣は、実利を重んじる積極的財政によって、政権を担った一方で、藤原一族の族長としても業績を上げた。氏族を代表する族長は古来氏上(うじのかみ)と呼ばれたが、のちに氏長者が用いられるようになる。藤原氏の場合は、氏族の同族意識はそれほど強くなかったが、平安時代以降になると北家を中心に絆が強まりはじめ、基経のあたりから氏長者が定着した。このため冬嗣は氏長者の準備段階、プレ「藤氏長者」と言えるようなものであった。しかしそれにもかかわらず一族のために大きな貢献をした。

この時代になると、藤原氏といえども困窮するものが現れ、一族を盛り立てることが課題になった。その中でとられた方策の一つが勧学院である。これは大学寮で学生として勉学する藤原一族の寄宿舎で、在院の学生には学費を支給するなどの便宜を図った。

もう一つは施薬院の基盤強化である。施薬院聖武天皇妃の光明皇后悲田院とともに開設した病気を療養するための施設で、光明皇后が亡くなったあとその活動は減退していたが、冬嗣が自身の財源を投入することで財政基盤の確立を図った。

ここから、本を読んだあとの考察をしてみよう。本では冬嗣は摂関家の基盤を築いたとなっていたが、そのことについて少し検証してみよう。ここでは、藤原家と天皇家の間に存在する様々な関係を引き出すことができる遺伝的な性質を利用する。DNAには次のような性質がある。全ての子供は母親のミトコンドリアDNAを継承し、男の子供は父親のY染色体を受け継ぐ。それでは冬嗣の子孫と、天皇家の関係を見ることにしよう。

下図で、緑色は、藤原北家の中で、冬嗣のY染色体を受け継ぐ男性子孫でたちである。図左上の総継は藤原北家末茂流で、曾祖父を冬嗣と一緒にするので、冬嗣と同じY染色体を曾祖父から受け継いでいるが、冬嗣から受け継いだわけではないので、緑色にはしていない。可能性は低いが突然変異によってちょっとだけ異なる可能性もある。

また青色は、嵯峨のY染色体を継承している天皇(すべて男性)である。淳和の場合には、総継と同じ理由で青色にしていない。そして冬嗣につながる藤原北家から天皇家に嫁いだ女性を母親とする天皇については、青色を濃くした。また嵯峨を起点にして、即位の順番を付した。

赤色は、冬嗣あるいはその子孫から天皇家に嫁ぎ、天皇を儲けた皇后(贈皇后・中宮を含める)である(但し、右下の姸子は娘の内親王天皇を儲けた)。

上の図から、ミトコンドリアDNAが藤原氏を介して天皇家へ受け渡されているように見えないだろうか。

少し様子を変えてみよう。下図に示すように、A家の娘さんがB家へ嫁ぎ、その娘さんがC家へ嫁ぎ、さらに同じような状況が続いたとしよう。

A家に嫁いだ女性のミトコンドリアDNAが、B家に贈られ、さらにC家に、そしてD家へと伝わっていく。まるで、ミトコンドリアDNAが、家から家へと贈与されているように見える。マルセル・モースが『贈与論』で説明していたことが、ここでも見ることができる。

男系継承では、それぞれの家で男性由来のY染色体が継承され、女性由来のミトコンドリアDNAが家々をめぐる。いとこの間での結婚を推奨するような内婚制の家族システムでは、ミトコンドリアDNAは、その家系から出ていく機会が失われる。そうではない外婚制の家族システムでは、ミトコンドリアDNAは渡り歩く。

平安時代においては、天皇家に生まれた内親王は、皇族と結婚するか、伊勢神宮賀茂神社の斎王になるしかなかったので、天皇家に入ったミトコンドリアDNAは門外不出となる。面白い発見に見えるのだが、賛成していただけるだろうか。

またもし女系家族だとすると、これまでの説明とは反対の状況が生じることとなるが、詳しくはご自身でどうぞ。

杉山正明著『疾駆する草原の征服者』を読む

今度の日曜日から大相撲三月場所が開催される。コロナ禍の中、家に閉じこもりがちなので、楽しみにしている人も多いことだろう。この間発表された番付から幕内力士の出身地を調べてみると、42人中10人が外国出身の力士だ。率にして24%。グローバリゼーションが進んでいるとみていいだろう。中でもモンゴル出身の力士の活躍は目覚ましく、二人の現役横綱もこの国の出身だ。

ところで歴史の中でのモンゴルへの印象はどうだろう。多くの人は鎌倉時代の蒙古襲来(文永の役弘安の役)を思い出すだろう。恐ろしいいでたちの兵士たちが、大規模な艦隊を擁して、九州北部に襲い掛かってきたことを思い浮かべるだろう。

ところが先日読んだ杉山正明著『疾駆する草原の征服者』は、このようなイメージとは異なる創造的な人々を活写してくれる。2005年に講談社から発売された「中国の歴史シリーズ」が昨年より文庫本化され、順を追いながら出版されている。2月の配本がこの本であった。前にも説明したが、このシリーズは中国と台湾で翻訳出版されたという滅多に見られない現象を起こしたシリーズで、どの分冊もユニークで面白い。『疾駆する草原の征服者』もその例外ではない。

中国は、万里の長城の内側いわゆる中華と呼ばれる農耕地域、その西側・北側の遊牧地域、東北側奥の狩猟・採集地域に大別できる。中国の歴史は中華について語られることが多いが、この本はその外側の遊牧民たちが築いた歴史を、唐滅亡のきっかけとなった安禄山の乱をスタートにして、契丹突厥女真族、そして大モンゴルまでの600年について、語ったものである。テンポの良いリズミカルな本で気持ちよく読み進んでいたが、大モンゴルの説明に入った途端に、調子が崩され、前のページを読み返す機会が多くなった。

冒頭の大相撲の力士につながってくるというわけではないが、モンゴル帝国が成し遂げたグローバリゼーションについて書かれているのだが、何ともすっきりと頭に入ってこない。そこで、作者の意図とは異なるところがあるかもしれないが、数学的な手法を組み入れながら、第6章「ユーラシアの超帝国モンゴルの下で」をまとめてみた。

モンゴル帝国の歴史を簡単に纏める。12世紀にモンゴル高原では遊牧民が争いを繰り返していたが、13世紀初頭モンゴル部のテムジン(のちのチンギス・カン)が諸民族を統一、千人隊集団(千戸制)と呼ばれる軍事・行政制度を取り入れて、キタイの人々が築いてきた政治・行政制度を発展させ、初代のモンゴル帝国皇帝チンギス・カンとなった。彼は、華北の金(女真族)へ進入、西アジアのホラズム・シャー国、中央アジア西夏(タングート族)を滅ぼして、ユーラシア大陸の平原に広大な帝国を築いた。2代目のオゴデイは金を滅ぼし、カラコルムを首都とした。さらにはロシアを征服し、ヨーロッパへも進撃したが、オゴデイの死によってヨーロッパ征服は叶わなかった。5代目のクビライは南宋を滅ぼし、朝鮮の高麗を属国とし、日本や東南アジアの支配を目指すが失敗に終わった。首都を大都(現在の北京)と上都とに造営して二都とし、大帝国が完成し、東西交流が活性化された。


チンギス・カンの時代には、その版図はユーラシア大陸の平原地帯全体に及び、モンゴルの習慣に従って王族やその部将(ノヤン)たちに分封された。分封されたもの(領地と言いたいだが正確には領民)はウルスと呼ばれた。現在のモンゴル語ではウルスは国を意味するが、本来の意味は人々の集まりである。近代国家においては、境界を定めることが重要な政治課題の一つであるが、羊や馬を伴って遊牧する遊牧民にとっては一緒に移動する人々の集まりが最大の関心事であった。このため遊牧民たちは、領地を大切にする農耕民とは国という概念を異にしていた。モンゴル帝国の時代にあっては、ウルスは支配する領域というよりも、一緒に行動する政治集団という意味合いが強かった。モンゴル帝国には多くのウルスが存在したが、これらウルスは緩やかに結びついた連合国家(イエケ・モンゴル・ウルス)をなし、連合国家の長は大カアンと呼ばれた。

移動して生活する遊牧民にとって重要なものは、持ち運びのできる金銀財宝などの貴重品である。これらは他の部族から武力を用いて略奪したことだろうが、そのときに欠かせないのは軍事力である。チンギス・カンは前にも述べたように、組織力と機動力に優れた千人隊を編成した。麾下の全遊牧民を95の千人隊集団に再編成し、有力部族の族長を千人隊長とした。彼の子たち(長子ジョチ,次子チャガタイ、三子オゴデイ)にはそれぞれ4団の千人隊集団を与え、西部のアルタイ山方面に配置した。彼の弟たち(次弟ジョチ・カサル、アルチダイ(第三弟カウチンの遺児)、末弟テムゲ・オッチギン)にはそれぞれ1,3,8団(これには母の分も含まれる)の千人隊集団を与え、東部の興安嶺方面に割り当てた。モンゴルでは、伝統的に右翼・左翼・中央と鳥が羽を広げたような形に軍隊を布陣するが、千人隊集団の割り当てはこれに倣ったものである。

チンギス・カンの滅後、諍いはあったものの、大きな混乱を引き起こさずに皇帝は選出されてきた。しかしクビライが皇帝を名乗ったときに抵抗があり、弟アリクブケそしてそのあとにオゴデイ家のカイドゥとの戦いは、クビライが亡くなるまで40年間にわたり続いた。このような内部抗争を抱えながらもモンゴル帝国は、東アジアの大元ウルス(元朝)、中央アジアチャガタイ・ウルス(チンギス・カンの次子チャガタイを祖とする)、キプチャク草原のジョチ・ウルス西アジアのフレグ・ウルス(クビライの弟)の4大政権に分かれ、大元ウルスの皇帝であるクビライを盟主(大カアン)とする緩やかな連合国家に再編された。

クビライの大元ウルスの版図はモンゴル高原と中華であった。モンゴルに併合される前の中華は、宋と呼ばれる王朝が支配していた。しかし満洲から南下してきた女真族によって華北は奪われ、江南だけを支配するようになった。女真族華北に建てられた国は金と呼ばれ、江南に逃げてきた宋は南宋と呼ばれた。金は第2代皇帝オゴデイによって滅ぼされ、宋は第5代皇帝フビライによって滅ぼされた。これによりフビライは中華の地を獲得するが、遊牧民が農耕民をどのように統治するかが課題となった。

エマニュエル・トッドの『家族システムの起源』によれば、遊牧民モンゴル高原では一時的父方同居もしくは近接居住を伴う核家族であり、農耕民の華北・江南では父方居住共同体家族である。これら二つの地域は、家族システムが大きく異なるので、統治が容易でないことはすぐに気がつく。

この難事業をクビライは統治システムの中に独創的なアイデアを導入することで解決した。それを見ていくことにしよう。統治目標は、モンゴル高原の草原世界と中華(華北・江南)の農耕世界とを、政治的・経済的・軍事的に纏めることである。

これを論理的な構造で表そうとすると、接着空間(adjunction space)を用いるのがよさそうである。接着空間は数学的な概念だが、数学的な用語を用いないで説明すると、二つの空間が与えられたとき、同じと考えられるものを一つにまとめ、そのほかはそのままに残して新たな一つの空間を作ることとなる。数学的な記述では、二つの(位相)空間\(A,B\)において、二つの空間を張り合わせる接合関数(adjunction map)を\(f\)としたとき、\(A \sqcup_f B\)と記される。

チンギス・カンが支配した世界は広大だが草原世界にとどまる。しかしクビライの時代になると、農耕世界が加わる。彼の統治目標を数学的に表すと、草原世界と農耕世界をそれぞれ\(A,B\)としたとき、これらを張り合わせた新たな世界\(A \sqcup_f B\)を実現することである。
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それではクビライの実績を見ていくことにしよう。

最初は首都である。

モンゴル帝国第2代皇帝オゴデイのときにモンゴルの本拠地であるカラコルムに首都が造営された。江南を含む中華全体が支配領域に含まれるようになった第5代クビライのときに、首都は大元ウルスの中心へと移された。しかも一つの都ではなく二つの都が設けられた。草原世界と農耕世界は万里の長城によって分けられる。その外側の草原世界の都として上都が、内側の農耕世界の都として大都が造営され、上都は夏の都として、大都は冬の都として使われた。夏と冬の居住地の間を移動している遊牧民の習慣をそのまま踏襲したと考えられる。

この様子を接着空間で表すと下図のようになる。草原世界と農耕世界が首都を介して接着される。
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上都と大都の間は350Kmほど離れていて、二都の間に3本の主要路と1本の補助路が造られ、その間には、官営工場都市、宮殿都市、軍事基地、屯営集落などが設けられ、二都を結ぶ長楕円形の移動圏は、首都圏として機能した。 そこで接合関数\(f\)は首都圏を一体と見なすように定義すれば、クビライの構想に合致することになる。
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クビライは大元ウイルスを3人の子たちに分封して統治した。第二子チンキムには燕王にしたあと皇太子にして腹裏(首都圏を含む中心部)を、第四子ノムガムには北平王にして「国家根本の地」であるモンゴル高原を、第三子マンガラにはフビライの私領であった京兆(けいちょう)・六盤山地区を割当てた。マンガラが支配した地域は、中華の西部の陝西・甘粛・四川・ティベットで、上都・大都と同じように、開成(六盤山)を夏の都、京兆を冬の都とし、その間を小型の首都圏として、腹裏と同じような機能を持たせた。その他にも王族に分与された地域で同じような状況を発見できる。このため首都圏は、草原社会と農耕社会を接合する機能として生かされたということが分かる。
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それでは次に統治システムへ進むことにしよう。
モンゴルの統治システムは側近政治で、重要な意思決定はクリルタイと呼ばれる集会でなされた。この集会には、王族や部将たちが集まり、カアン(君主)の選挙、外国に対する征服戦争の開始と終結、法令の制定などの重要事項が協議された。また軍事・行政の実務的システムは千人隊集団により行われた。

他方、中華の統治システムは、中央集権体制の官僚機構で、官僚たちは科挙制度により採用され、登用は能力主義である。中華を支配する歴代王朝によって長いこと培われたきた成熟した統治システムであった。この異なる統治システムをいかに統合するかがクビライに課せられた課題であった。
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彼が導入した統治システムは、見かけは中華、中身はモンゴルのハイブリッドであった。中央の統治システムは、中華のそれに倣って三省六部の構成である。三省は、行政を担う中書省、軍事を担う枢密院、監察を行う御史台からなり、また中書省の下には、吏部・戸部・礼部・兵部・刑部・工部が設けられた。

しかしそれぞれの役所に配属される役人は、中華の科挙制度によるものではなく、草原世界(モンゴル)の伝統に従った。すなわち中央の官僚システムの首班には、部族軍や私兵を持つ有力な族長やケシク長と呼ばれるクビライの親衛隊長が就いた。また、中央の行政事務を統括する高級官僚は、実務・指令能力が重視され、民族に関わらず、有力家系出身者やクビライの個人ブレインあるいはケシク(親衛隊)から選ばれた。このため、モンゴルだけでなく、ウイグル、キタイ、タングト、ムスリム漢人など、それぞれの民族が有する能力が生かされた。しかも組織の決定は、官僚組織の枠組みを超えて、モンゴルの伝統に従って有力者の集まりで決定されることが多く、官僚の任命も官僚組織の階段を登っていくのではなく、クビライや有力者の推薦によって恣意的に行われがちであった。
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また地方を統治する機関として、各地を11ないし12の地域に大区分し、そこに行中書省という出先の機関が設けられた(上都や大都を含む主要な地域は、腹裏と呼ばれ、中書省の直轄とされた)。見かけ上の組織は農耕世界(中華)の郡県制であったが、その運用は草原社会(モンゴル)での千人隊集団の制度を利用した。

華北や江南など宋が統治していた農耕社会の地域である。これらの地域をモンゴルが支配するようになると、一族分封の原理に基づいて、一族で均等になるように領域が分配された。その結果、大元ウルスの領域は、クビライが所領する直轄地と、帝室諸王・貴族・土着諸侯が有する投下領とが混在した。そこには、農耕社会と草原社会との接合だけでなく、大元ウルスによる中央政府と、投下領主による地方政府との接合も課題になった。

それは次のように解決された。それぞれの行政地域では、中央政府と地方政府(投下領)とから、そこでの長がそれぞれから任命された。例えば、路には路総監府が設けられたが、中央政府からは総監が、地方政府からはダルガチが送られ、州では中央政府から知州が、地方政府からダルガチが来た。府と県についても同じである。中央政府からの役人は、中央政府に関わる行政、例えば国税(塩専売制・商税)の徴収を行った。地方政府は、征服された土地でもその前からの人材が登用されることが多かったので、従来のしきたりに従った地方税の徴収を行った。このため地方税は地域によって異なった。
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これを接着関数で表すと次のようになる。ファスナーだと考えればよい。ファスナーを閉めること、すなわち中華的官僚組織のポジションにモンゴル的側近制度の人材を割当てることで、統治システムが形成されると考えることができる。
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最後に交易に関する部分を簡単に纏めておこう。モンゴル帝国が隆盛を極めた大きな要因は、ユーラシア大陸、アフリカに渡る広範囲な世界で交易をおこなったことである。帝国各地を運輸・通信で結ぶ駅伝制(ジャムチ)による陸の道、江南の物資を首都大都へ運ぶための大運河、そして、中近東・ヨーロッパ・アフリカまでをもつなぐ海の道でつないだ。

これらはこれまでと同じように接合関数によって表すことができる。ムスリム商業勢力は、陸の道と海の道を利用して交易の拡大を図り、モンゴルの拡大を図る資金源・情報源となるとともに、クビライ政権では財政管理・経済振興を図るムスリム経済官僚として活躍した。
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軍事国家を経済国家・財政国家に飛躍させた交易は、モンゴル帝国の偉大なイノベーションと言えるものであろう。モンゴルの伝統的な力ずくでの略奪を平和的・合法的な交易に代え、世界の貴重品を大都に集めるという概念の発見は、モンゴル、漢人ウイグル族ムスリムなど、多様な民族・宗教の人々が、現在の基準に照らしても、差別なく自由に活躍できる世界を作り出し、中世におけるグローバリゼーションの姿を示してくれた。一方で、広範囲にわたる活発な人々の異動は、史上有名な14世紀の黒死病というパンデミックを引き起こし、世界の人口の1/4がなくなるという悲劇をもたらした。今日の新型コロナウイルスパンデミックを考えるとき、歴史は繰り返されると思わざるを得ない。