bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

ペリー提督から国書を受け取った井戸石見守ゆかりの町田市堂之坂公苑と東雲寺

恩田川の桜が満開になったのではと思い、出かけてみた。
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しかし余りにも人手が多いので、わき道にそれて散策していると、門構えが立派な公苑を見つけた。
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由緒正しそうな公苑で、恐る恐るのぞき込んでみると、案内の看板があった。
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そこには、井戸石見守の名前がある。先日、『ペリー提督日本遠征記』(角川ソフィア文庫)を読んだばかりだったので、この名前は記憶にあった。その部分を引用すると、

「提督と幕僚が接見の部屋に入ると、左側に座っていた二人の高官が立ち上がってお辞儀をし、提督と幕僚は右側に用意された肘かけ椅子に案内された。通訳がこの日本高官の名前と称号とを告知した。ひとりは戸田伊豆守すなわち伊豆侯戸田で、もうひとりは井戸石見守すなわち石見侯井戸〔弘道。戸田と同じく浦賀奉行〕であった。二人ともかなりの年配で、前者は五〇歳くらい、後者はそれより一〇歳から一五歳年長らしかった。戸田侯は井戸侯より風采が良く、知的な広い額や端正な親しみやすい容貌は、皺だらけで貧相で、彼より知的に劣っていそうな顔つきをした同僚の石見守と好対照をなしていた。二人とも非常に豪華な服装をしており、衣服は精巧に金銀の模様をちりばめた重々しい絹の紋織だった」と書かれている。


これは、1853年7月14日(安政2年7月26日)に、アメリカ大統領からの国書を日本側に引き渡すために、ペリー提督が久里浜(横須賀市)に上陸し、浦和奉行の戸田氏栄(うじよし)と井戸弘道(ひろみち)とに対面したときの様子である。井戸弘道の会見時の役職は浦賀奉行、ペリーとの接見を無事にこなしたことによるのだろうかその年に大目付に就任した。しかし残念なことに在職中の2年後(1855年)に亡くなっている。ペリーは、井戸がしわだらけのみすぼらしい顔で、戸田より知性がないようだと、記述している。

井戸弘道は、成瀬村・小川村(現在は町田市)に450石余りの知行地を与えられた旗本で、旗本の役職としては最高位の大目付まで出世したのだから、ペリーの見立てとは異なり、優秀な実務官僚だったのだろう。たまたま訪れたこの公苑は、井戸氏の米蔵の跡であった。

公苑にはクリスマスローズ
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ハナニラ
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そして、椿がきれいに咲いていた。
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明治になると、俸禄を失った井戸弘道の妻と子が、米蔵があったこの地に身を寄せ、明治2年に妻が亡くなり、遺体は近くの東雲寺に埋葬された。

ついでに東慶寺も訪れてみよう。なかなか立派で、
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境内にあった可愛いらしい掃除小僧と梵鐘、
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小ぶりの釈迦堂、
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そして井戸石見守の墓所へ、
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お墓(なお、弘道の菩提寺は池上の法養寺である。ここの墓は妻が亡くなった時に一緒に造られた)。右は顕彰碑、
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満開の墓地の桜並木、
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地蔵菩薩
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となりは杉山神社杉山神社はこの辺ではとても一般的で、あちらこちらにあり、家の近くにもある。
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春爛漫の一日、平日にもかかわらず、老若男女が列をなして花見を楽しんでいた。コロナ感染者は増えることはあっても減ることはないだろうと、好ましいことではないがこのように確信した。みんなのワクチン接種が済むまで、何とか持ちこたえて欲しいと寺と神社に祈って、人込みを離れた。

追:
明治39年と現在を比較できるように、この地域の地図を参考までに加えておく。今ではこの辺りは横浜線成瀬駅を中心に住宅街が広がっているが、明治末期の頃は、横浜線は走っているものの、成瀬駅はなく、恩田川に沿って田んぼが広がり、谷戸に沿ってところどころに小さな集落が展開していることが分かる。また東雲寺の西500mのところに杉山神社があるので、東雲寺と杉山神社神仏分離によって分離したのではなく、後から杉山神社が東雲寺の隣に移転してきたことが分かる。地図からは、この地に学校があったことも分かる。明治6年に「成高学舎」が東雲寺に設置され、明治13年に「成瀬学校」に、明治41年に「南尋常小学校」と改称された。現在はここより南300mのところで「南第二小学校」として伝統を引き継いでいる。
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