bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

佐々木閑著『大乗仏教 こうしてブッダの教えは変容した』を読む

博物館を訪問する機会が増えるにしたがって、仏像を見る機会も多くなってきた。しかしそれぞれの歴史や意義を問われると答えに窮してしまうことのほうが多い。どうも仏教に関しての知識が頭の中で整理されていないことが原因のようだ。そこで手抜きをして重要なポイントだけを得ようと思いこのテキストを熟読した。

NHK Eテレの「100分de名著」はもう10年以上も続く教養番組で、世間で名著とされている本をその分野の専門家を招いて25分ずつの4回で分かりやすく説明してくれる。司会役の伊集院光さんの意表を突いたコメントにハッとさせられる面白い番組だが、何と言っても短い時間でそのキーポイントがつかめるところにその素晴らしさがある。

ここで紹介する『大乗仏教』は6年ほど前に放送されたもので、そのときに視聴したかどうかは覚えていない。200ページ余りの読みやすい長さの本で、青年が疑問を投げかけ、それに講師が答えるという問答形式である。仏教のことを知りたいと思っている読者が、常日頃から疑問に思っていることあるいは新たに生じる疑問をタイミングよく取り上げ、簡潔な説明をしてくれる均整の取れた構成となっている。

それでは内容の説明に移ろう。今日の仏教を大別すると、出家し特別な修行を積んだものだけが悟りに近づくことができる上座部仏教(小乗仏教)と、在家のままでも悟りに近づくことができる大乗仏教がある。大乗仏教上座部仏教の500年後に誕生したが、上座部仏教もオリジナルな仏教とは異なるので、この本ではオリジナルな仏教を「釈迦の仏教」と呼んでいる。

仏教の開祖である釈迦は「生きることは苦しみである」と捉えた。そして「釈迦の仏教」では、全ての生物は輪廻の世界に住んでいるために苦しみが永遠に続くとし、それから脱するためには、すなわち苦しみから抜け出すためには、二度と生まれ変わることのない世界「涅槃」に到着することだとした。輪廻させているのは「業(ごう)」のエネルギーで、このエネルギーは煩悩によって作り出されるとした。煩悩を消し去るためには、それまでの生活スタイルを離れ、修行だけに特化した生活(出家生活)をすることだとした。要するに「釈迦の仏教」は「自分の力で切り開く」という点に最大の特徴がある。これに対して大乗仏教は後で説明するように「外部の力(超越者・神秘性)」を救いのよりどころとした。

釈迦(ゴーマン・シッダッタ)は、2500年前ごろにインド北部(ネパール)の釈迦族の王子として生まれ、人間は「老いと病と死」の苦しみもだえる生き物であると知り、29歳の時に新たな生き方を求めて出家した。菩提樹の下での瞑想修行により悟りを開き、80歳になるまで弟子とともに各地を回りながら教えを説いた。口伝で次の世代に伝わり、さらに文字を使えるようになると経として伝わるようになった。

紀元前3世紀中ごろ、インド亜大陸の統一をなしたマウリア王朝第三代のアショーカ王が仏教に帰依したことから全土に広まったとされているが、著者の佐々木さんは、仏教が様々な環境で暮らす人々の状況や立場に合わせて選べる「選択肢の多い宗教」に変化したためとみている。アショーカ王の時代に、「部派仏教(釈迦の教えの解釈の違いによって仏教世界が20ほどのグループに分かれた)」という捉え方が成立する。解釈の違いを異端とするのではなく、「釈迦の教えについて違った考え方をしても、同じ領域内に暮らし、布薩(ふさつ:半月ごとの全員参加の反省会)や羯磨(こんま:サンガの事柄を決める会議)をみんなと一緒に行っているかぎり破僧ではない」とした。これによって、仏教の教えの中にはいろいろな解釈があってよい、異なる考えを持つものを否定するのではなく、お互いに仲間として認め合おうという状況が生まれた。

マウリア王朝が滅びるとインドは混乱の時代を迎え、特に北インドガンダーラ周辺では、さまざまな異民族が流入して乱世の状態になり、出家生活を送れるような状況ではなくなった。このような状況の中で、出家せずとも在家のままで悟りへと近づく方法が探求された。「釈迦の仏教」では修業を積んで阿羅漢(悟りを開いたものが到達する境地で、ブッダよりも下位のレベルに属す)になれるのに対し、大乗仏教では、悟りを開いたときはブッダに成れるとした。「釈迦の仏教」では「現世にブッダは一人しかいない。そのブッダが亡くなると何十億年という長いことブッダの不在期が続く」とされていたのに対し、大乗仏教ではこの世に何人ものブッダが存在するとした。

もう少し具体的に説明すると、輪廻を繰り返すうちにブッダに出会い、そこで誓願をたてブッダから授記され(即ち、ブッダに対してあなたのようになりたいので努力すると誓い、そしてブッダから頑張りなさいと励まされること)、誓願・授記を契機として菩薩となり、輪廻によって何度も生まれ変わり、同時に何人ものブッダに会って励まされ、パワーをもらいながら、利他の気持ちを持って行動することで、最終的にブッダになるというのが、大乗仏教の基本的な考え方である。

それでは大乗仏教の教えを系統別に見ていこう。最初に紹介するのは、「私たちは前世でブッダと会っていて誓いを立てているから、すでに菩薩である」とした般若経である。「釈迦の仏教」では、この世は「天・人・畜生・餓鬼・地獄・(後に阿修羅が加わる)」の五道からなり、生きとし生きる者はこの間を生まれ変わり死に変わることで永遠に繰り返す。出家修行して善行を積めば、阿羅漢として天に生まれ変われるが、しかしここでの生命を終えれば五道のいずれかにまた生まれ変わる。これに対して般若経では、日常生活で善行を積めばブッダと成ることができ、輪廻から逃れられるとした(五道ではなく涅槃の境地)。

「釈迦の仏教」が因果律に基づいて論理的に展開されているのに対し、般若経(紀元前後の成立)は「すでに菩薩にあっている」や「ブッダに成れる」などのような神秘性を帯びている。この考え方を理解するための糸口は「空」である。「釈迦の仏教」ではこの世界をいくつかの方法で分類しているが、その中で五蘊(ごうん)は人間の存在と経験を分析し五つの要素に分けた。それらは色(肉体・木や石などの外界の要素)、受(感受の働き)、想(構想の働き)、行(意思の働き)、識(認識の働き)で、これらが複雑に関係し合いながら寄り集まって定められた因果律に従って刻々と転変し(諸行無常)、世界が形作られていくとした。

石や木を見たとき、我々はそこに実在しているものと考える。しかし釈迦は、実在しているのは目や手がとらえた色や形や感触で、石や木というのはそうした要素を心で組み上げた架空の集合体に過ぎないと考えた。同じように人間も、実体はなく(諸法無我)、確実に存在するのは構成要素だけとなる。これに対して涅槃経では、(石や木に実体がないと見なした考え方をさらに推し進めると)すべての構成要素にもその実体はないと考えられるので、生まれたり消えたり、汚れたり綺麗になったり、増えたり減ったりしているように見えていることもすべて錯覚であるとし、諸行無常さえも否定した。このため因果律はここでは成立しない。行為と結果の関係、すなわち業の因果律(出家修行して善行を重ねれば阿羅漢になれること)すら存在しないこととなる。そこで般若経では、理屈を超えた別の超越的な力によってこの世は動いていて(これにより「釈迦の仏教」が構成した世界観を無化した)、これこそが「空」であるとした。

「空」の理論を理解した人だけが、日常的な善行のエネルギーを全て悟りの方に向けることができるが、その為には六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)と呼ばれる回向へと向かう修行が必要である。最初の五つは、見返りを求めることなく人と接し、自分を戒める姿勢と慈悲の心を持ち、常に第三者の目で自分を冷静に見つめよと言っている。最後の智慧は、真理を見極めて煩悩を消し、悟りを完成させることと言っている。さらにこれらに加えて、般若経を讃えることをあげている。大乗仏教では、ブッダと会って崇め、供養することがブッダになる近道である。ブッダには簡単に会えないので、経そのものをブッダととらえ、経を讃えることが供養になるとし、さらには書くことも推奨した。このため写経が急速に広まった。

次に説明するのは法華経である。般若経誕生後の50~150年後に北インドで作られたとされる。中国に仏教が伝わったのは紀元1~2世紀とされ、「釈迦の仏教」と大乗仏教の両方が伝わったが、中国で広まったのは大乗仏教であった。中国で法華経を広めることに貢献したのは天台宗の開祖・智顗(ちぎ)で、彼は「法華経が誰でも仏になれる」と強く主張していることに惹かれた。日本には聖徳太子の時代に伝わってきた。しかし広く浸透したのは平安時代で、最澄があらゆる仏教の教えを統合するものとして位置づけた。

法華経の原典はサンスクリット語で書かれ、いくつかの言語に訳されている。漢語訳には三種あり、その中で鳩摩羅什(くまらじゅう)が訳した「妙法蓮華経」が広く流布した。般若経との最大の違いは、法華経が一乗仏という新たな教えを説いたことである。般若経では悟りを開くためには、三つの修行方法(三乗思想)があるとした。それらは、釈迦の教えを聞きながら阿羅漢を目指す「声聞乗(しょうもんじょう)」、孤独な修行をしてたった一人で悟りを開いて他者には説かない「独覚乗(どっかくじょう)」、自らを菩薩と認識し、日常の善行を積むことでブッダを目指す「菩薩乗」である。

一乗仏は菩薩乗と同じではないかという見方もあるが、筆者は三乗思想の一段上にあるものと考えている。般若経では、声聞乗や独覚乗で「釈迦の仏教」における仏道を認めながら菩薩乗で別の道があることを示したのに対し、法華経は「釈迦の仏教」を信じて修行している声聞や独覚に対しても実はすでに菩薩になっていると言い切ってしまっている。このため釈迦の教えとは食い違いが生じている。そこで整合性をつけるために、初転法輪(釈迦が5人の修行者たちに初めて悟りの道を説き、彼らは悟りを開いて阿羅漢になった)を書き換えた。初転法輪では修行者は菩薩でありブッダになれないといっている。そこで初転法輪は方便であって、釈迦は第二の転法輪で真理(誰もがすでに菩薩なのでブッダを目指せる)を説いた。便法を使ったのは、愚かな者を惑わさないためであるとした。

一乗仏での修行方法は、般若経と変わりなく、人間として正しい行いを積み重ねていけばやがてブッダになれるとした。善行の中で大事にしたのは「仏塔供養」、しかしこれは経の前半だけで、後半になると法華経を崇めることとなる。法華経においては般若経よりもさらに経典の存在が絶対的となり、「空」の概念を重視しなくなった。この結果として現世利益にもつながり、経を拝みさえすれば、病気も治るし豊かな生活を送れるようになるとなった。また法難に会うことこそ経の正しさを証明しているとも書かれている。日蓮宗開祖の日蓮が数々の法難に会ったのはそのことによる。嫌がられたり迷惑がられたりすることが、法華経の信者に対する功徳ともなった。そして「経に書かれていることに従っている」という確固とした信念によって、批判や糾弾されることをさほど気にしなくなった。

法華経で一乗仏と並んで重要なのは、「久遠実状(くおんじつじょう)」である。これは釈迦が永遠の過去からブッダとして存在していて、実は死んでおらず、私たちの周りに常に存在しているということを指す。大乗仏教ではブッダを崇めることが最高の善行としていたので、ブッダにいつでも会えるとなると格段にブッダになれるまでのスピードが速まる。江戸時代の学者・富永仲基は、「全ての思想や宗教は前にあったものを超えようとして、それに上乗せして作られた(加上の説)」と言った。法華経での初転法輪の書き換えと釈迦の久遠の存在は、これを表していると言える。

次は少し趣を変えて浄土教である。これは阿弥陀仏がいる極楽浄土へ往生することを解いた教えである。紀元1世紀ごろに成立し、日本に伝わったのは飛鳥時代である。定着するのは法華経と同じように、比叡山延暦寺が開かれた以降で、ルーツは天台浄土教の基本を作った円仁、遊行履歴したと伝えられる空也、『往生要集』を表した源信で、大衆に広めたのは法然親鸞である。平安時代末期になると、律令制度が崩れ、貴族の力が弱まり、乱世の様相を呈し始める。仏教も同じように堕落し、寺同士がその僧兵によって争うようになる。さらには大凶作や飢饉が起こり住みにくい世の中になると、末法思想(この世に救いはない。現世で悟りを開くのが不可能だ)がはやり始める。最澄が著わしたとされる『末法灯明記』には、永承7年(1052)から末法の時代になったとされている。

そのような中で浄土宗では修行など一切必要ない、「南無阿弥陀仏と唱えさえすれば、誰もが極楽に往生し成仏できる」と説いた。自分で努力しなくても、阿弥陀が救いの手を差し伸べてくれるという他力本願の思想が、多くの信者を得るようになる。般若経法華経が経を読めと言ったのに対し、南無阿弥陀仏と唱えさえすればよいということになった。また般若経法華経では過去にブッダに会っているのですでに菩薩であると考えたが、浄土宗ではまだ菩薩になっておらずこれからブッダと出会い菩薩になるとした。すなわち菩薩に会うのを過去ではなく未来とした。

「釈迦の仏教」では、釈迦の入滅後はブッダ不在の時期が続き、56億7千年後に弥勒菩薩が現れて次のブッダに就任するとなっているので、未来に会えるとしても菩薩になるのは簡単ではない。このように時間軸で考えると菩薩になれるのは絶望的だが、浄土宗ではパラレルワールドの概念を新たに創造した。すなわち空間は多世界になっていて、ブッダがいる世界といない世界の二つが存在し、ブッダのいる世界を「仏国土」と呼んだ。死んだ後すぐに仏国土に生まれ変われれば、ブッダと出会い菩薩修行ができるようになるとした。さらに仏国土には修行に適した世界とそうでない世界が存在し(それぞれの仏国土には一人のブッダが存在)、その中で理想的な仏国土は、他の仏国土に自由に行き来できる極楽浄土(ここにいればたくさんのブッダに会いに行くことができ、より速くブッダに成れる)で、ここのブッダ阿弥陀であるとした。

釈迦の仏国土の方が、阿弥陀仏国土よりもよさそうに思われるがそうではない。釈迦は「あなたのようなブッダに成りたいので努力します」と誓いを立てたのに対し、阿弥陀は同じことを言った後、48の願掛けをし、そして「ブッダに成るための修行を終えたあとでも、私の仏国土がどこよりも素晴らしいものになるまでは、私はブッダに成りません」と誓った。阿弥陀は、自分の悟りだけでなく、願掛けで全ての生き物の成仏を願った。浄土教での釈迦は、阿弥陀という偉い方がおられる素晴らしい世界があるということを伝えるという役回りである。

法然は、極楽浄土に行くためには往生したいと願い念仏を唱えることが大切と説いたのに対し、親鸞は願わなくとも阿弥陀の方から手を差しのべてくれるのだから、感謝のために唱えればよいと説いた。これによって念仏を唱える目的が、悟り(涅槃に至ること)から救われること(楽しくてきらびやかな生活で不自由のない生活を永遠に続けること)へと変わった。

今度はさらに趣を変えて華厳経密教である。華厳経を象徴するのが奈良の大仏の廬舎那仏坐像である。華厳経サンスクリット語で「ブッダアヴァタンサカ・スートラ」だが、これは「無数のブッダの壮麗なる集まり」を意味する。日本に宗旨が伝わったのは8世紀半ばで、金鐘寺(こんしゅじ:東大寺の前身)の良弁(ろうべん)が、新羅で学んだとされる審祥(しんじょう)を招いて、『華厳経』の講義をしてもらったのがきっかけとされている。華厳経奈良時代には国家仏教として重視されたものの、その後はパッとしない。しかし日本人のものの見方に大きな影響を与えた経である。華厳経では「死ななくとも、この世界で生きたままブッダに会うことができる」と説いた。それを可能にしたアイデアは「別の世界にいるブッダが移動できないのなら、ブッダが自らの映像を私たちの世界に送ってくれればよい」である。そして「バーチャルはリアルである」とした。

華厳経では宇宙には様々なブッダが存在するが、それらは「毘廬舎那仏(びるしゃなぶつ)」という一人のブッダにすべて収束されるとした。これはインターネットの世界に例えると理解しやすい。インターネットにはネットワークの中心というものがなくネットワーク全体が一つの存在である。これが毘盧遮那仏である。各世界のブッダ毘盧遮那仏というネット本体の先にそれぞれ存在していて、それぞれのブッダからまた別の世界のブッダが放射状につながり、無限のブッダ世界が宇宙に広がっている。一見、個々のブッダ世界は孤立しているように見えるが、全てのブッダ毘盧遮那仏とつながり、毘盧遮那仏は個として存在するばかりではなく、全てのネットワークを覆いつくす巨大な存在でもある。華厳経では、これを「一即多・多即一」という表現を使って表している。これは自己相似性という性質を持つフラクタルの概念に似ている。

華厳経での「ネットワーク本体としての毘盧遮那仏がいて、それがそれぞれの世界へメッセージを送っている」という中央集権的な思想が、奈良時代の朝廷が望んでいた中央集権的国家体制の構造と同じだったためにこの時代に重宝されたが、平安時代鎌倉時代になると人を救うことを目的とした宗教に変化していくので、救いや悟りの方法が示されていない華厳経はその存在価値を失ったと見られている。

密教華厳経に似ている。密教での最重要仏は大日如来サンスクリット語では「マハーヴァイローチャナ」で、これは毘盧遮那仏と同じスペルである。インドで密教が誕生したのは4~5世紀で、ヒンドゥー教の勢力が強まり仏教が衰えていく中で、生き残る方法を考えた大乗仏教が、ヒンドゥー教バラモン教の呪術的な要素を取り入れて誕生させたのが密教とされている。主要経典ができ体系化されたのは7世紀ごろである。密教を最初に日本に持ち帰ったのは最澄(天台密教台密)、そしてキーマンは空海(真言密教東密)である。密教顕教と対比される。顕教は釈迦が秘密にすることなくすべての衆生に向かって説いた教えで、密教大日如来が秘密のものとして修行の進んだ人にだけ教えたものである。

根本経典は『大日経』と『金剛頂経』で、唐の僧侶・恵果がこれらを統合して真言密教のベースを作り、それを受け継いだのが空海真言宗である。初期の頃は現世利益を成就する呪文を唱えたり、呪術的な儀式を行ったりしたが、中期の頃は華厳経毘盧遮那仏と合わさりながら、組織的な仏教教義を確立した。空海は「大日如来は宇宙そのものであるとともに、微塵の一つ一つが大日如来である」と説いている。従って華厳経フラクタルな世界観を引き継いでいるといえる。「曼荼羅」はその例と見てよい。

華厳経には具体的な修行方法は示されていなかったが、密教では、修行のゴールは「即身成仏(生きたまま仏の境地に至る)」で、そのためには「三密加持の行」が基本になると説いている(なお、ミイラは即身仏、ちょっと紛らわしい)。三密とは身密(印を手で結ぶ)・口密(真言を唱える)・意密(宇宙の真理を心に描く)で、これは「今ある私が仏である」ことに気づき実感するための神秘的な特殊儀礼である。既にブッダのいる宇宙の中に私たちが生きているのだから、それに気がつけば誰でもブッダに成れるというのが密教の悟りである。そして悟りの問題を解決したことで、密教は現生利益を第一に考える実利的な仏教へと向かっていった。

少し横道に逸れて、仏教がインドでなぜ衰退したかの話を簡単にする。仏教もヒンドゥー教も輪廻転生についての概念や、悟りを開いて輪廻を止めるという考え方は一緒である。ヒンドゥー教では、宇宙を貫く根本原理として「ブラフマン(梵)」というものがあり、我々個人には個体原理「アートマン(永遠不変の自我)」が存在していて、この二つが一体化したとき悟りに至ると説いている。これとは逆に仏教は、永遠不変の自我ではなく、諸行無常で無我、すなわち自我があるという思いを消滅させる修行へと向かった。しかし「釈迦の仏教」から大乗仏教へと変容することで、ヒンドゥー教にどんどん近づいた。華厳経密教では「この宇宙全体が一つのブッダの世界であり、そこに私たちは生きている」とすることで、ヒンドゥー教の「梵我一如」とほぼ同じになり、インドでは仏教はヒンドゥー教に取り込まれてしまった。

次に紹介する涅槃経はさらにヒンドゥー教に近づいて「もともと私たちの内部にブッダは存在し、私とブッダは常に一体である」という世界観である。「皆さんは誰もが仏であり、生まれながらにして仏性(ぶっしょう)を有している」とお坊さんから言われた経験を持っている人は多いことだろう。ここで仏性は「ブッダとしての本性・性質」を表す。仏性という言葉は大乗仏教になって初めて使われ、初めて説いたのは涅槃経である。

紛らわしいのだが涅槃経には、紀元前の「釈迦の仏教」のものと、4世紀ごろに書かれた大乗仏教のものとがあり、前者は阿含「涅槃経」、後者は大乗「涅槃経」という。阿含涅槃経では「自分で努力して悟りの道を歩め」とするのに対し、大乗涅槃経では「ブッダとは、無限の過去から無限の未来へと変わることなく存続する永遠の存在である」とする。大乗涅槃経では、釈迦が入滅したのは方便で、本当は死んでいないことになっている(如来常住:法華経での久遠実成とほぼ同じで、大乗仏教の教えに共通する考え方)。

大乗涅槃経でもう一つ大事な考え方は、「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」である。全ての生きとし生きるものには仏性があるとするもので、生きとし生きるものには、インドでは植物を含んでいなかったが、中国では植物まで含むようになり、日本では無機物さえも含むようになった。これは日本に古くからあるアミニズムの世界と結びついたともいえる。

大乗涅槃経の「一切衆生悉有仏性」の考え方と関係が深い「禅思想」について紹介する。禅は中国発祥の思想で、道教などをベースとし、「釈迦の仏教」の修行の一つである「禅定(瞑想によって心を集中する修行)」と結びついたのが起源である(開祖は5世紀後半南インドから中国に来た達磨)。鎌倉時代に中国に渡った栄西道元が、臨済宗曹洞宗を開いた。これが禅宗のはじまりである。禅では「私たちの内側には仏性があり、それに気がつくことが悟りへの道である」と捉え、仏性に気がつくための修行方法として座禅修行を重視した。自分の中の仏性に気がつくとは「主観と客観、自己と世界が分かれる以前の存在そのものに立ち戻る」ことである。

臨済宗室町幕府の庇護を受け武士や公家の間に広まり、曹洞宗は地方の豪族や農民を中心に広まっていった。織田信長は仏教を迫害したが、臨済宗は保護され武士たちの心のよりどころとなった。江戸時代になると、中国から黄檗宗(おうばくしゅう:禅宗の一派)が入ってきた。堕落しつつあった日本の禅宗は危機感を覚え、臨済宗からは黄檗宗批判、曹洞宗からは道元への復古運動がおこる。江戸時代の禅宗復興のキーマンは白隠慧鶴(はくいんえかく)で、「衆生本来仏なり」と分かりやすい言葉で、大衆の心をつかむことに成功した。

本の紹介が長くなったので、最後にまとめることにしよう。このテキストを読んでまず驚かされたのが、その多様性である。「釈迦の仏教」の根幹は、我々が生きているところは輪廻の世界で、あらゆる苦しみに満ちている。この苦しみから脱するためには悟りを開くことで、これによって輪廻の世界から解脱し涅槃に至るとされている。これまでに説明してきたように、解脱の方法を時代の要請に合わせてかくもたくさん用意したのかと脱帽である。

解脱するためには、上座部仏教では出家して修行に没頭するとなっているのに対し、大乗仏教では出家しなくても良いとしている。「釈迦の仏教」と上座部仏教が、因果律に基づいて教義が展開されるため論理的であるのに対し、大乗仏教の方は因果律を超えた神秘性が導入され、悟りを開く方法にいくつもの工夫がなされた。

最初に示されている方法は、般若経法華経に見られる時間軸の短縮で、悟りを開くためにはブッダに会わなければならないが、生まれる前に既に会っているので、経を読んだり写したりしてブッダを崇めなさいとする。しかしこの方法では既に前世でブッダに会っていなければならない。末法思想では、釈迦が亡くなったあと次のブッダが現れるまでには絶望的に長い時間がかかるとされた。そこで次に導入されたのが死後にブッダに会うことができるという考え方で、世界はいくつもあり、その中にはブッダが住んでいる世界があり、死後にそこへワープできるとした。とりわけ阿弥陀が住んでいる世界は、浄土と呼ばれ極楽天国である。生きている間に念仏を唱えればよいとする他力本願の浄土教が現れ、悟りから救いへと大きく変容した。

次は三つ目の方法である。四国の遍路さんは外国人にも人気があり、「同行二人(どうぎょうににん)」という白衣を身に着けたカップルを見るとほほえましくなるが、もちろんこれはパートナーと二人でお遍路さんをしているという意味ではなく、弘法大師が一緒についていることを表している。弘法大師空海が広めた密教曼荼羅に象徴されるように、大きく切り取っても小さくてもブッダがいる世界である。数学でのフラクタルに似ていて、ブッダ(大日如来)がどこでも傍にいる世界である。これによりブッダといつでも会えるので、悟りを開くスピードが格段に速められただけでなく、現世利益を第一に考える実利的な宗教となった。これと似ていたのが奈良時代華厳経で、その毘盧遮那仏大日如来は、サンスクリット語では同じスペルである。

最後の方法は中国発祥の禅宗で、「自身の中に仏性がある」とすることで、ブッダとの距離は縮まるどころか無くなってしまった。異なる教義を受容しながら多様性を生み出してきた仏教の柔らかな復元力に感心させられた一方で、誕生国のインドでは廃れ、中興した中国では限定的になったのに対し、日本では墓参り・葬儀などでの日常に組み込まれているこの相違はどこに起因しているのだろうと新たな疑問が湧いた。

日本民家園で「相模人形芝居」を鑑賞する

川崎市の日本民家園で、珍しい催し物があったので出かけた。今回、鑑賞したのは「相模人形芝居」である。これは、近世の上方・江戸で流行した三人遣いの人形芝居が、小田原・厚木を中心とする相模に伝えられ、多くの人の努力によって遺された貴重な芸術文化である。今回、演じてくれた団体は、小田原市小竹地区に本拠を置く下中座である。

下中座のホームページによれば、18世紀の初めごろに小竹の人形が始まり、半ばごろになると三人遣いになり、19世紀半ばの天保の改革での諸芸禁止令を避けて横穴に隠れて人形を遣ったと伝承されている。そして幕末から明治の初めにかけて、名主の小澤八郎右衛門により再興されたとしている。明治中期・後期には名古屋・静岡・大阪の人形遣いが来訪した。さらに明治41年に江戸の人形遣い 西川伊佐子(西川伊左衛門)・語女夫妻が小竹に定住し、小竹をはじめとし、四之宮(平塚市)、林・長谷(厚木市)で人形を指導した。昭和28年には、林・長谷の人形座とともに「相模人形芝居」として神奈川県無形文化財に指定され、この時「下中座」と改称した。そして昭和46年(1971)には三座は、国の無形民俗文化財に選択された。

芝居が行われたのは工藤家住宅だった。江戸時代中期(1760年頃)、現在の岩手県紫波町(しわちょう)、舟久保地区に建てられた農家で、主屋の前に馬屋が突き出している(L字型の民家)。江戸時代の南部藩に多いことから、南部の曲屋(まがりや)として知られている。昭和44年(1969)には、国の重要文化財に指定された。
主屋に作られた舞台。

公演に先立って、人形の扱い方についての説明があり、この部分の撮影は許された。
三人の人形遣いの中で、向かって右側の人が人形の左手を操作している。

同じ人形が見えを切っている。裸の足が手前に見えているが、服を着た人形とそうでない人形を並べてそれらを操る様子を見せてくれた。残念ながら柱が邪魔して一体は見えない。

女の人形の足の運びについて説明してくれた。

同じく手の運び。

二体の人形を遣って、羽根つきを見せてくれた。

公園が終了した後、髪の結い方を見せてくれた。手で持っている棒をはずすと、髪の毛がバッサリと落ちる。

今回の演目は「玉藻前曦袂 道春館の段(たまものまえあさひのたもと みちはるやかたのだん)」であった。話の内容は以下のとおりである。鳥羽(とば)院の薄雲(うすぐも)王子は、不吉とされた日蝕の日に生まれたため帝位に就けず、謀反の心を抱いていた。話は変わるが、九尾の狐を退治した獅子王の剣は右大臣・藤原道春の家で守られていた。王子は謀反成功のシンボルにしようと家臣・鷲塚金藤次(わしづか・きんとうじ)に剣を盗み出させた。

道春には二人の娘がおり、女好きの王子は姉娘・桂姫に執心だった。しかし桂姫には恋人の安倍采女之助(あべの・うねめのすけ)がいたため相手にされない。しびれを切らした王子は金藤次に「桂姫を連れてこい。もし嫌と言ったら桂姫の首を持ち帰るように」と命じた。王子からの上使として鷲塚金藤次がやってくる。「桂姫の身を渡せ、さもなくば首にして持って行く」と無理難題を道春後室の萩の方に突きつける。

萩の方は「姉娘の桂姫は捨て子であった。承知せねば首を打てと言うが、実の子でない姉娘の首を打つことは出来ない。だから代わりに妹・初花姫の首を打って欲しい」という。しかし親の身として、やはり実の子・初花姫も死なせたくなかった萩の方は金藤次に「首を打たれるのが姉の桂姫であるか妹の初花姫であるか、それを双六で決めさせて欲しい」と請う。話は込み入っているのだが、鷲塚金藤次は、桂姫がかつて捨てた自分の子であったことを知ってしまう。桂姫と初花姫とは、それぞれが進んで犠牲になろうとして、双六で負けたほうが切られるという約束をする。双六に負けたのは、萩の方の実の娘の初花姫だった。ところが鷲塚金藤次は、双六に勝った自分の子の桂姫の首をはねる。怒った萩の方は長刀で金藤次の肩先を切る。采女之助がとどめを刺そうとすると、金藤次は桂姫が自分の子であったことを伝え、さらに王子の悪計を白状して自死する。

主君への忠を果たすべきか、恩を受けた家に対して義理を果たすべきか、対立する義務の中で悩む人たちの悲しい物語で、同時代の聴衆は涙を流して感情移入したことだろう。冷めている現代人には「忠孝・義理人情」の典型的な筋書きでしかないが、人形遣いの人々が古典芸能を懸命に維持しようとする姿を見て、また女性の義太夫・女性の三味線の豊かな音を聞いて、時代を超えて楽しむことができた。

松里公孝著『ウクライナ動乱ーソ連崩壊から露ウ戦争まで』を読む

ロシアがウクライナに侵攻してから1年半が経ち、この戦いがいつ終わるのか、どのように収拾されるのかは不透明である。2006年にセルビアベオグラードを訪問したことがある。街のところどころに砲弾の跡があったので驚いて尋ねたところ、90年代末のコソボ紛争でのNATO軍からの爆撃によるものだと教えられた。中学生の頃の社会科では、チトー率いるユーゴスラビアは理想的な多民族国家だと学んでいたのに、彼の亡き後、仲良くしていた民族がなぜ争うようになったのだろうと不思議に感じた。この疑問に一つの解を与えてくれたのが、松里公孝著『ウクライナ動乱』である。

この本は、今日のウクライナの紛争をソ連解体から丁寧に掘り起こしている。現在のロシアやウクライナが誕生する以前には巨大な共産主義国家のソ連があった。その国政は、それ以前のロシア帝国の領土を維持するとともに、民族運動(ロシア帝国内の様々な民族集団が自己決定権や文化的な権利を求めて展開された運動)を新国家に押込めるために、民族領域連邦制を採用した。それは、ソヴィエト政権中央、その下位の連邦構成共和国、さらにその下位の自治単位という三層構造の連邦制(マトリョシュカ連邦制)である。

例えば、1954年にロシアからウクライナに移管されたクリミアは、自治単位ではクリミア自治ソビエト社会主義共和国(クリミアASSR)であった。それが属していた連邦構成共和国には変遷があり、1921年からはロシア・ソビエト社会主義共和国(ロシアSFSR)に属し、1945年にクリミア州に再編され、1954年よりウクライナソビエト社会主義共和国(ウクライナRSR)に移管された。しかし連邦構成共和国の異動に関わらず、ソヴィエト政権中央のソビエト社会主義共和国連邦の一員であり続けた。

連邦構成共和国や自治単位では、構成主体の主人公である基幹民族が定められている。例えば、ウクライナRSRではウクライナ人、タタールASSRではタタール人である。またクリミアASSRではクリミア・タタール人で、ここにはロシア人、ウクライナ人、ギリシャ人なども居住していた。第二次世界大戦中にスターリンによってクリミア・タタール人は、中央アジアに集団移住(1944年)させられたが、ソ連解体後に一部のクリミア・タタール人は戻った。

ソ連時代後期になると、連邦構成共和国では基幹民族の出身者しか共産党第一書記になれない慣行が定着したが、他方で基幹民族は長兄として利他的に統治しなければならないことに損をしていると感じるようにもなってきた。分離的な傾向を強めたバルトやコーカサスの連邦構成共和国において民族主義が指導権を握ると、ソ連中央の言うことは聞かなくなり、マイノリティー自治単位(カラバフ、南オセチア、アバハジアなど)に暴力的な攻撃を仕掛けるようになった。

ゴルバチョフは連邦改革(ペレストロイカグラスノスチすなわち市場原理の導入と言論の自由拡大)によって、相対的に力の弱まった中央と自治単位が連立して、強くなった連邦構成共和国に対する力のバランスを回復しようとした。

ゴルバチョフの連邦改革の一環として行われた「刷新連邦(ソ連EUのような国家連合として存続)」はかなり実現性があったが、ウクライナ国民投票で独立を決めたことで破綻し、その後のベレヴェシ会議で東スラブ三国首脳はソ連の解体・独立国家共同体(CIS)の発足を決めた。しかしCISはただの地域国際組織であって、大統領職などもなかった(エリツィンは大統領になることを目論んで刷新連邦を推進した)。ソ連が崩壊し、ロシア、リトアニアウクライナベラルーシモルドバグルジアアゼルバイジャンなど15ヶ国が誕生した。そしてバルト三国を除いた12か国がCISに参加した。

連邦構成共和国がソ連から独立する方法として、①連立離脱法(1990年4月3日制定:住民投票で離脱できるが、自治単位・行政単位は住民多数の意志でソ連に残留できる)、②国際法上の法理(行政境界線が国境に転化)とがあった。崩壊過程の中で、沿ドニエストルアブハジア、クリミアなどでは、それが属していたモルドヴァグルジア(ジョージア)、ウクライナなどの上位共和国(連邦構成共和国)がソ連からの独立傾向を高めたので、自分たちはソ連に残ることを目指した。しかしソ連解体は結果的に国際法上の法理によって処理され、これらの地域は上位共和国に含まれての誕生となった。このため、その後の分離運動につながる民族問題を抱え込んだままであった。

歴史に「もし」の話はないのだが、でももし連立離脱法が実施されたとすると、カラバフ、南オセチアアブハジアなどの自治単位ではソ連残留派が勝ち、ソ連を離脱した連邦構成共和国はこれら自治単位を含まなかっただろうから、面積は小さくなったものの均質な新国家として誕生し、その後の内戦に悩まされることはなかったことだろう。

ソ連解体後には分離戦争の再燃という形で戦争・紛争が発生した。第一次南オセチア戦争(1991-92)、ドニエストル紛争(1992)、第一次カラバフ戦争(1994)、第二次南オセチア戦争(2008)、アブハジアの小規模戦争(2008)、クリミア併合(2014)、ドンバス戦争開始(2014)、第二次カラバフ戦争(2020)、露ウ戦争(2022)などが発生した。下図はこれらの戦争・紛争の当事国である非承認国である*1

ソ連解体に伴って分離紛争が生じたが、解決法として歴史的には次の5種類が現出した。①連邦化、②Land-for-peace、③パトロン国家による分離政体の承認、④親国家による征服、⑤パトロン国家による親国家の破壊である。

①の連邦化政策とは、分離政体が武装解除・自主解散して親国家に戻ってくる代わりに、親国家が連邦化して出戻りの分離政体にオートノミーのステータスを与えることである。典型的な例は、ミンスク合意で、2014年9月5日にウクライナロシア連邦ドネツク民共和国、ルガンスク人民共和国が調印したドンバス地域における戦闘(ドンバス戦争)の停止について合意し、ウクライナ法「ドネツク州及びルガンスク州の特定地域の自治についての臨時令」の導入により地方分権とした。②のLand-for-peaceは、分離政体が自分の実効支配地の一部を親国家に献上することで独立を認めてもらう取引である。

①と②は外交政策として認められているが、双方が受け入れないことが多い。その場合には紛争当事者はより一方的で軍事的なその他の処方箋に傾きはじめる。③のパトロン国家による保護化は、パトロン国家が分離政体を国家承認することだが、他の国がこれに続かないので、分離政体を自身の保護国にしてしまう。2022年にパトロン国家であるロシアが、ウクライナのドンバス二か国を承認したことがその例にあたる。④の親国家による征服は、一番後腐れのない方法だが、長期化することが一番多い。ゼレンスキー政権が目指しているのがこの例となる。⑤のパトロン国家による親国家の破壊は、分離戦争への最も暴力的・黙示録的な処方箋と言える。ドンバスを救うためになされたロシアのウクライナ侵攻がこれにあたる。

分離紛争の解決は極めて難しいことが分かるが、ソ連崩壊後にウクライナの分離紛争に関わってきた、ロシアとウクライナの大統領の政治的な特徴をあげておこう。

著者の松里さんは、「最近まで同じ国だったのだから、CIS指導者とは話し合えば分かりあえる」という前提に立つ外交を大ユーラシア主義、「かつてソ連に属していたかどうかなんて関係ない。問題はロシアに友好的か敵対的かだ」という考え方を小ユーラシア主義とした。ソ連崩壊後の歴代のロシアの大統領は、メドヴェージェフが一時的になったことがあるが、実体はエリツィンとその後のプーチンである。エリツィンは大ユーラシア主義で、プーチンは小ユーラシア主義であった。その結果として、プーチンの時代になると、「ウクライナとの関係が悪くなっても構わないからクリミアを取ってしまえ」などのような判断がなされるようになる。

ソ連解放後のウクライナの主要な歴代大統領は次のようである。①初代のレオニード・クラフチュク(1991-94)の政策は、市場経済の導入、ウクライナ語の国語化、国際的な独立の確立などを含み、ウクライナの独立の礎を築いた。②第2代のレオニード・クチマ(1994-05)は、ウクライナの独立を確保し、ソビエト連邦の崩壊後に国家を安定させたが、他方で腐敗が広がり、政治的な混乱も増加させた。③ヴィクトル・ユシチェンコ(2005-10)はオレンジ革命の指導者として知られ、西側諸国との連携を強化し、ウクライナ民主化を促進した。④ヴィクトリア・ヤヌコーヴィチ(2010-14)は、親ロシア派の政策を支持してロシアとの関係を強化した。⑤ペトロ・ポロシェンコ(2014-19)はウクライナの西側諸国との連携を強化し、EUへの接近を進めた。⑥ヴォロディミル・ゼレンスキー(2019-)はコメディアン出身で政治の新星として台頭し、反汚職と改革を掲げて選出され、彼の政権は腐敗撲滅と行政改革を進める努力をし、ロシアの侵攻に対して反撃している。

それでは最後に、ウクライナでの分離紛争の核となっているドンバス(ドネツク州とルハンシク州)について、少し見ていこう。1928年からソ連では急激な重工業化と農村集団を柱とした五か年計画がスタートした。その頃、ドンバスがウクライナRSRに移管され、また戦間期(第一次・二次世界大戦の間)には沿ドニエストルウクライナRSRに属していたので、ウクライナは東側(ドンバス)と西側(沿ドニエストル)に工業先進地帯を抱えていた。第二次世界大戦後に沿ドニエストルは新設のモルドヴァ・ソヴェト社会主義共和国に譲られたが、ソ連解体まではウクライナRSRソ連での工業の牽引車であった。しかし解体後は、牽引車の役割は長く続かず、しばらくすると経済は落ち込んだ。2020年の実質GDPは、1990年の62.2%にまで減少していた。

ドネツク州の主要産業は、地元でとれる石炭(ドネツク市周辺の中部)を燃料にして、製鉄・冶金(マウリポリ市周辺の南部)を生産し、それを用いての機械工業(クラマトルスク市周辺の南部)を展開させる垂直的構造であった。この構造はエリートを団結させ、集約的な恩顧政治を生みやすいと言われていた。北部の住民は経済的な関係で、中部・南部は(産業分野では競合関係のため)政治的・文化的共通性によって、親露感情であった。ソ連が崩壊に向かった時、ドンバスのように工業化や、クリミアのように保有地開発の進んだ地域では多民族化が進んでいた(ソ連末期のドンバスの民族構成はウクライナ人が約5割、ロシア人が4割強)。そのような地域では、自らが帰属する新共和国(ドンバスやクリミアに対してはウクライナ)の基幹民族主義の強まりに不安を抱いたため、ウクライナ独立に前後してドンバス分離主義は盛り上がったが、90年代半ばになると沈静化した。これはロシアがチェチェン戦争を始めたことで平和であることの方がよいと考えたことと、ドネツク州がウクライナのエリート州であり続ける方がよいと考えたことによる。ソ連解体後に州の政治に進出したのは「赤い企業長(ソ連共産主義政権下での企業の指導者)」と呼ばれる教育も経歴もあまり好ましくないような人々であった。90年代半ばからは企業の私有化が進むと、「赤い企業長」に代わってエリートたちが進出し、特にソ連時代からのライバルであった地域閥(ドネツクとドニプロペトロウスク)間の闘争が激化し、ドニプロペトロウスク閥が牛耳った。ドネツクのエリートは、基幹民族にもドニプロペトロウスク閥にも支配されることを嫌い、地域党を組織した。2004年の大統領選挙で、ドネツク出身で現職大統領クチマ派のヤヌコヴィチと野党のユシチェンコが争ってヤヌコヴィチが勝利したが、選挙やり直しを訴えたオレンジ革命によって、ヤヌコヴィチと地域党指導者(ヤヌコヴィチを支持)の多くは国外に逃亡した。2006年の最高会議選挙では地域党が第一党となり、ヤヌコヴィチは2006年には首相となり、2010年には大統領となり、それぞれ復権した。

このような状況の中で迎えたのがユーロマイダン革命(2014)である。ウクライナ政府がロシアとの関係を強化し、欧州連合(EU)との連携を見送ることを決定したことで抗議運動がおき、親ロシア派のヤヌコーヴィチは政権を放棄してロシアへ逃亡し、「オレンジ革命」の支持者として知られるポロシェンコが大統領になった。ユーロマイダン革命の成功により、ウクライナは親欧州的な政策を強化したが、その後、クリミア危機(ロシアへのクリミア併合)が発生、ドンバス戦争も勃発した。分離派勢力はドネツクとルガンスクで独立を宣言し、それぞれ人民共和国を名乗り、ロシアとの関係を強化した。この戦争を解決するために、ウクライナとロシアとドネツク民共和国(DPR)とルガンスク人民共和国(LPR)との間で、ミンスク合意(2014,15:親ロシア派武装勢力が占領するウクライナ東部の2地域に幅広い自治権を認める「特別な地位」を与える)がなされたが、長期間履行されることはなかった。2022年になるとロシアのプーチン大統領ドネツク民共和国とルガンスク人民共和国の独立を承認、EUミンスク合意に違反していると批判、そしてロシアによるウクライナの侵攻が始まり、現在まで継続中である。

筆者は、ドネツク民共和国について、一章を割いて説明している。その理由として、①非承認国家研究は、国家の誕生を観察する作業で、物理学でのビッグバンの研究に似ているという。分離政体=非承認国家には別の国家に統合される過渡期的なものと独立維持を志向するものとがある。ドンバスは前者であるが、長期化する場合には独立維持型との差がなくなる。②ロシアの庇護下にあったことの実体と意義を究明する。これはロシアの傀儡であったかどうかを問うのではなく、ロシア大統領府やロシアの様々なアクターとどのような関係を持っているかを事実に基づいて究明することとしている。③非承認国家には、独特の体制循環がある。旧ソ連の承認国家では、大統領中心の恩顧人脈政治が再建されるという特徴を有している。これに対して非承認国家では、①数年間に及ぶ政治の季節と内戦を経験、②政治の季節と経験はヒーローを輩出、③市民は政治に疲れ、ヒーローに任せるようになる、④ヒーローは、戦争英雄であると思いあがり、あっという間に堕落するが市民の抵抗力はしばらく回復しない、⑤縁故資本主義と権威主義が限界を超えると、再動員・再民主化が始まり、①から繰り返される。これに対して、ドネツク人民民主共和国は、ロシアの統制が厳しかったことと無政党民主主義という縛りが強かったために、先にみた非承認国家での循環は弱く働いた。これについて詳しく説明されているが、ここでは割愛する。

現在でもウクライナとロシアの戦いは続き、激しさを増しているが、戦況だけを見るのではなく、なぜこのような事態になったかを知ることは、世界のこれからの状況を探るうえでとても大切なことである。特に、この戦争が終わった後でも、多民族問題は解決されてはいないだろうし、その後にさらなる紛争が生じることさえ考えられる。多くの識者の意見を参照にしながら、露ウ戦争を考えることの重要性をこの本は改めて教えてくれた。

*1:ニッポンドットコムのホームページよりコピー

天橋立を見学するー丹後鉄道・船屋・天橋立

旅行二日目は若狭湾の西側、天橋立とその周辺の観光である。

ホテルでバイキング式の朝食をしっかりとり、まずは京都丹後鉄道を体験する。四所駅から栗田(くんだ)駅まで、8時49分発・9時14分着の1両電車である。

乗車駅の四所駅。改札側から。

ホーム側から。

ホームの様子。団体旅行客のせいで普段とは異なる様子だろう。

単線運転のため、この駅で下り線と上り線が行違った。

大雲川の鉄橋を渡る。

この鉄橋の上を走った。

途中駅の丹後由良。山椒大夫・安寿姫・厨子王ゆかりの地だそうだ。童話『安寿と厨子王』では、「安寿姫・厨子王の姉弟は、宮崎という人買いの手で丹後由良湊の長者である山椒太夫にそれぞれ売り渡された」と伝えられている。

栗田駅に到着。


駅前の住宅街。

次は伊根湾の遊覧船である。運航は反時計回り。

乗船した船。

伊根の舟屋。1993年のNHK連続テレビ小説ええにょぼ』の場面となったところだ。戸田菜穂が主演で女医を演じた。「ええにょぼ」は丹後弁で美人を意味する。ドラマでの女医の実家は伊根。そこは舟屋が並ぶ街だ。舟屋は海岸線に建つ家屋で、一階が船の収納庫、二階が住居となっている。とても珍しい形態の漁村である。この朝ドラを見た時、一度は訪れたいと思っていたので、今回その夢が叶った。


伊根湾。乗船に先立って餌用のカッパえびせんを購入した乗船客は、空に向かって餌を投げた。これを取ろうとカモメがついてくる。


伊根の街を散策。多くの家は道を挟んで家を所持し、海側の舟屋は船の収納庫と作業所、山側を母屋にしているそうだ。


伊根でただ一軒の酒蔵で、杜氏は女性。古代米・赤米を使った赤い日本酒の伊根満開がお勧め。杜氏が卒論で取り組んだテーマが現実になったそうだ。観光客に人気のようで売り切れだった。店先に腰かけている女性は、伊根満開の酒粕アイス最中を食しているのだろう。

さていよいよ、今回の旅行の目的地の天橋立である。見学時間は2時間半とたっぷりだ。

取り敢えず全景を見ようと、ケーブルカーで傘松公園にあがる。

股のぞきをして、「昇龍観(天橋立が昇り龍のように見える)」を楽しんだ。天橋立は、自然に作られた延長3.6kmの砂嘴で、自然に育った8千本の松で並木が造られている。砂嘴は、対馬海流宮津湾に入り砂を運んでくると同時に 、阿蘇海(内海)に流れ出る野田川の土砂とが長い時間をかけて堆積してつくられた。

丹後風土記によると、その昔、天への架け橋といわれた天橋立イザナギイザナミの神が天への上り下りに使った浮き橋で、ある日イザナギノミコトが昼寝をしている間に倒れて天橋立となったと神話では伝えられている。
それではと天橋立へと歩き始めたところ、じりじりと焼き付けるような太陽の光線を真上から浴び、焼けた鉄板のような石畳から凄まじい照り返しを下から受け、天橋立の道標を見たときは、倒れそうなぐらいにフラフラ。

近くに店らしきものがあったので、冷たいものでもと思って近づいたら何と休み。これで気力は完全に萎えてしまい、松並木を見たからいいとして引き返すこととした。籠(この)神社の鳥居の手前で店を見つけ、昼食を取りながらゆっくりと涼んだ。知らずにオーダーした「黒ざる(黒ちくわ天・鶏天・モチ天・舞茸天・ゴボウ天などの付いたざるうどん)」が、酷暑を忘れさせてくれるほどに、素晴らしく美味しかった。黒ちくわは宮津ソウルフードとして愛されているそうで、青魚風味が特徴である。

食事の後は、ゆっくりと籠神社を見学した。正式名称は「丹後一宮元伊勢籠神社」で、次のような言い伝えがある。籠神社の奥の眞名井原に豊受大神(とようけのおおかみ)を祀る匏宮(よさのみや)があった。ある時、天照大神が新しい居住地を探して全国を旅した。一度は倭国に落ち着いたが、豊受大神との縁からこの地に遷り、豊受大神と共に吉佐宮(よさのみや)という宮号で4年間暮らした。その後、天照大神は現在の三重県伊勢市にある伊勢神宮(内宮)に遷り、約450年後、豊受大神天照大神に呼ばれ伊勢神宮(外宮)へ遷った。このため籠神社は伊勢神宮の元という意味で、「元伊勢」と呼ばれるようになった。それでは籠神社をお参りすることにしよう。最初の鳥居を抜けて次の鳥居、さらにはその内である。


狛犬


拝殿、ここは撮影禁止なので残念ながら写真はない。ところで雪舟天橋立*1にも、籠神社は描かれている。図の右側に鳥居が描かれているが、これが籠神社である。

籠神社のあたりは府中と呼ばれる。奈良時代律令制が敷かれたころ、丹後国国府はこの辺りに設置された。また国分寺も近くに建立された。下の図で、波線の右側が籠神社、左側が国分寺跡、中央が国府の推定値。

丹後国は、室町時代は山名氏そしてのちに一色氏が守護となり、戦国時代になると一色氏は戦いに敗れ、細川幽斎(藤孝)とその子の忠興に支配された。江戸時代になると細川氏が九州に移封になり、京極高知が治めた。高知が没した後は宮津藩田辺藩・峰山藩の三藩に分立した。

今回の旅の本来の目的は、雪舟天橋立水墨画をきっかけにして、奈良時代から戦国時代にかけての丹後国の足跡を辿りたいと思っていた。しかし記録を取り始めてから最も暑いと言われた今年の夏は、足で稼がなければならない史跡めぐりには適していなかった。景色を楽しもうということに方針を変更したことで、若狭湾沿いの風光明媚なところがこれでもかというぐらい多く見ることができ、とても良い旅行となった。

追伸:雪舟天橋立に近い地図をGoogle Earthを用いて作成した。雪舟水墨画に描かれているのは、この図の左側半分。雪舟の絵の右隅に描かれている二つの島、冠島・沓島は、作成した地図にはない。実はこの二つの島はさらに遥か右側にある。なぜそうなったのかを考えるのも面白いと思う。

天橋立を見学するー三方五湖と五老ヶ岳へ

8月も末になれば涼しくなるだろうと申し込んでおいた天橋立への旅行は、見事に裏切られすさまじい酷暑の中でとなった。これに雨が降ったら最悪だったのだが、ギラギラと輝く太陽と真っ青な空が迎えてくれた。旅行を申し込んだ時は、雪舟天橋立に関わる裏話を読んだばかりだったので、歴史散策を楽しもうと目論んだ。しかしこの猛烈な暑さでは歩き回ることは熱中症にも直結するので、風光明媚な景色を汗を流さずに享受しようと方針を変更した。旅行の日程を詳細に見ると、福井県から京都府に至る若狭湾の海岸に沿って、景色の良いところを巡るように組まれている。久しぶりに、歴史のことは傍に置いて、景色を楽しもうと心新たにして旅路についた。

今回の旅行の一日目は、新幹線で岐阜羽島駅まで行き、そこからバスで三方五湖・五老ヶ岳公園を見学して、宮津のホテルに宿泊。二日目は、四所駅から栗田(くんだ)駅まで京都丹後鉄道、伊根では伊根湾巡りの遊覧船、天橋立の傘松公園ではリフト・ケーブルカーと、景色だけではなく乗り物も楽しめるようになっていた。

綺麗な景色を記録に残せるようにと、魚眼レンズが使える一眼レフのカメラを携行した。車中では時間を潰すために、関口正司著『J・S・ミル-自由を探求した思想家』を読んだが、新富士駅の近くでは、前から一度富士山を撮ろうと考えていたので写真に専念した。富士山に最も近づいたとき、水墨画の夏珪の構図に似せて、右下に富士山、左上の空間は大きくして、「辺角の景」に挑戦してみた。

富士宮市は製紙工場が盛んなところなので、工場の一角から覗くようにした富士山。会社の宣伝も入り込んでいるのだが、やはり邪魔に感じられる。

浜松付近の農村風景。立派な耕運機を操作して、実りの秋を喜んでいるように見えてほほえましい。

岐阜羽島駅で降り、バスで高速道路に入り、途中の賤ヶ岳SAで昼食をとり、三方五湖へと向かった。賤ヶ岳は、徳川家康柴田勝家が戦ったところである。今年のNHK大河ドラマ「どうする家康」で丁寧に描いてくれることを願ったのだが叶わなかった。サービスエリアの南西3kmの辺りにその場所がある。

三方五湖は、淡水の三方湖、汽水の水月湖・菅(すが)湖・久々子(くぐし)湖、海水の日向(ひるが)湖からなり、地下で繋がっている。しかし水質が異なるために、水の色は各々異なる。また水月湖の湖底から7万年間にわたって蓄積された地層がボーリングされた。これは年縞と呼ばれ、考古学や地質学での年代測定の「世界標準ものさし」に採用されている。

山頂公園へと導くリフト。左側は日本海若狭湾、右側にひっそりと見えるのは日向湖

山頂公園から見た三方五湖。右側は日本海、中央は水月湖、その奥は三方湖水月湖の左奥で繋がっているところは菅湖、左は久々子湖。その手前にある日向湖は山に隠れてみることができない。

水月湖とその奥の菅湖、右奥は三方湖

水月湖三方湖

若狭湾。山頂公園から南西方向、五胡が南東から南の方向だったので、さらに西の方を向いたところ。

反対側に出て北東方向。ロープウェイを登るときに見た岬。

公園にはメヴィウスの輪もあった。「無限に続くメヴィウスの輪のように二人の愛が永遠に続くように」というメッセージがこめられている。

レインボーラインを走っているときの車窓から見た日向湖。この湖だけは前に述べたように海水で、水産業が盛んで「はまち」の養殖が行われている。

次は舞鶴湾を一望に見渡せる五老ヶ岳公園へ向かう。

五老スカイタワーをエスカレーターで登る。

舞鶴湾の全景。

舞鶴国際埠頭。

舞鶴湾入口。

宿泊はホテル&リゾーツ京都宮津。中央に緑の帯のように微かに見える天橋立の向こうに陽が沈み、部屋の窓から静かなサンセットを楽しめた。明日はいよいよ、この天橋立の見学である。

ジェイソン・ヒッケル著『資本主義の次に来る世界』を読む

熱せられた鉄板の上にいるような日が続いている。ニュースによれば、記録を取り始めてから最も暑い夏を迎えているとのこと。人間の活動が気候変動を引き起こしていると考えざるを得ないほどの異常さである。これ以上地球を痛めつけると、取り返しのつかないことになると強い意見を述べる学者もいる。なんとか避けられる方法はないものかと探している時に出会ったのがジェイソン・ヒッケルさんの『資本主義の次に来る世界』である。

例によって公立の図書館から借りようと思ったのだが、予約がすごい数になっていていつ手元に届くか分からない。サンプルや書評を読んで購入しても無駄にならない有益な本に思えたので、電子本を購入した。今回本を読む方法として借用か購入の二通りがあった。購入には紙本か電子本の選択があり、同じように借用にも図書館からか友人からかなどの選びようがあった。あなたはどの方法を選ぶだろうか。そしてその判断基準はどこに置いたらいいのだろうか。ヒッケルさんのお勧めは、間違いなく、図書館から借りるであろう。その理由は環境に対する感謝の思いが深いからとなる。

少し歴史を遡ると、江戸時代には村や集落に入会地と呼ばれるものがあった。入会地は村人であれば誰でも自由に使えた。落葉を肥料に、薪を火力に、山菜を食料にするために、ここから自由に採取することが許されていた。しかも取り過ぎで枯渇しないように、皆で自然を保持し・維持することを前提としていた。図書館は、この入会地に似ていないだろうか。図書館は、本を収納し、皆で共同利用することで、各人の知識の獲得に役立っている。本を共有することで、紙となる木材も少なくすみ環境に与える影響も少なくて済むだろう。

しかしたくさんの人が図書館を利用するようになると、発売される本の冊数は少なくなってしまい、書きたいという作家は激減するかもしれない。作品を書くためのモチベーションがどこにあるのかと問われれば、多くの作家は良い作品を後世に残したいためだと言うだろう。しかし背に腹は代えられないので、満足のゆく原稿料が入ってこないことが分かったら、作家活動に二の足を踏むことだろう。先日あるニュースを読んでいたら、大手新聞社の敏腕な若手記者が中途退社したことが話題になっていた。その記者曰く、ネットワーク時代になって新聞社の役割が低下し、読者数が激減したことを理由に挙げていた。

全ての人が図書館から借りるという戦略をとったとすると、本を書く人がいなくなり、図書館そのものの存在価値がなくなる。他方で従来通り紙本での出版部数を競い合うと、紙の原料である木材を自然から著しく収奪することになり環境破壊へとつながる。二つの戦略での矛盾をどのように解決したらよいのだろう。ヒッケルさんの本からその解を探すことにしよう。

彼は今日の問題を引き起こしている主因は資本主義にあるとしている。多くのページを割いて資本主義について説明されているが、短くまとめると次のようになる。①資本主義は永続的な成長を軸とした史上初の拡張主義的な経済システムで、資本の目的は余剰価値の抽出と蓄積であり、②このため「自然と労働から多く取り、少なく返せ」と言う単純な法則に従って機能し、今日の生態系の危機はこのシステムが必然的にもたらした結果である。

それでは資本主義はどのようにして産まれたのであろうか。①人々が惨めな暮らしをしていた野蛮なシステムの封建時代に対して、14世紀の初め平民が反旗を翻すようになり、無償の労働を拒み、領主や教会の税を拒否し、自ら耕作する土地の直接管理を要求する。②1347年に黒死病(腺ペスト)が流行し、ヨーロッパの人口が1/3に減少し、未曾有の社会的・政治的危機をもたらす。労働力不足・土地余剰により小作農・労働者が交渉力を有するようになり、農奴制がほぼ完全に廃止され、農奴は自由農民に、自分の土地で生計をたて、共有地(コモンズ)を自由に利用できるようになった。③封建制の崩壊によって、自給自足を原則とする平等で協調的な社会が訪れた。1350-1500年までを「ヨーロッパ労働者階級の黄金時代」と呼ぶ。④16世紀になると上流階級が土地の「囲い込み」を行い、平民が土地から締め出される。これにより上流階級は広大な土地を私有化するとともに、安価な労働力を入手できるようになった。並行してグローバルサウスに対する植民地化が起こり、ここでも、土地の囲い込みと安価の労働力を入手できるようになった。その結果、資本主義に必要な富の蓄積が進み、「生産性を高め、生産量を最大にする」という要求に支配されるようになった。

経済活動は長いこと自分にとって有用なものを交換し合うということで成り立っていた。これは経済学では使用価値と呼ぶ。二人の間で相互に必要としているもの\(C_1\)と\(C_2\)を交換するというのは、一方の人に対しては、\(C_1 \rightarrow C_2\)となり、他方の人に対しては、\(C_2 \rightarrow C_1\)となる。これは二人の間の物々交換なので、多人数の間でスムーズに交換できるようにするためには、貨幣を導入することになる。商品を\(C\)、貨幣を\(M\)で表すと、他人が必要としている物\(C_1\)を\(M\)で売って、自分が必要としているもの\(C_2\)を得るということは、\(C_1 \rightarrow M \rightarrow C_2\)となる。お互いに必要なものを、そしてそれぞれにとって必要ではなくなったものを、交換するということを表している。

これに対して資本主義は「囲い込み」を行い、モノを希少化し、その交換性に基づいてモノの価値を決まる。これを交換価値と呼び、物を安く仕入れ、交換価値を高くして、それを高くして売るということが重要である。このため、モノを購入する資本、モノを販売して得た資本などのように資本がどのように変化するのかが重要になる。ところで上の式では資本が現れてこない。そこで資本の異動を表せるようにしよう。いま商品(\(C\))を資金(\(M_1\))で獲得して、それを売って資金(\(M_2\))を得たとすると、\(M_1 \rightarrow C \rightarrow M_2\)と表すことができる。もし、商品(\(C\))が希少化されたとすると、買った値段よりも売った値段の方が高くなるので、\(M_1 < M_2\)となる。資本主義では、購入価格と販売価格の間の差(\(M_2 - M_1\))よりも、比(\(M_2 / M_1\))の方が重要視される。企業であれば売上や収益での前年度比、国であればGDPの成長率などが重要な政策・戦略課題となる。

今、一年の成長率を\(g=M_2 / M_1\)とすると、GDP(国内総生産)が\(2\)倍となるために要する年数\(n\)は、\(n= \log 2 / \log g=\log_g 2\)となる。成長率が、日本が一頃目指していたものと同じ\(2\%\)だったとすると\(35\)年かかる。しかし開発国のように\(8\%\)だったとすると、\(9\)年で倍増する。日本の近代化が始まってから\(150\)年たったが、もし成長率がずっと\(2\%\)であったとするとその間にGDPは\(20\)倍に、\(8\%\)であったとすると何と天文学的なのだが\(10^5\)倍となる。これからも分かるように成長率で競争すると、それがほんの少しの差であったとしても、長い年月ではとても大きな差となって表れる。このため資本主義では少しでも成長率を高くしようと、激しい競争をすることになる。

それでは成長率を高めようとするとどのような戦略がとられるのであろうか。\(M_1\)と\(M_2\)の比が問題になるので、商品(\(C\))を生み出すために必要な資源、すなわち自然(材料)と人(労働)をなるべく安い価格で仕入れ、生産したり加工したりして希少化して、なるべく高い価格で販売しようという戦略がとられる。これが悪い方向に作用した場合には、自然を乱開発し、人を劣悪な環境で究極は奴隷として働かせることになる。自然、例えば鉱物や森林などは有限なので、乱開発で破壊され尽くされると、これまでの環境を維持できなくなり異常気象などを生じさせる。今年の夏の異常な暑さは、これ以上は壊さないで欲しいという地球からの悲鳴のようにも聞こえる。

上記のものは収奪とも言える。これに対してスマートに成長率をあげる方法としては、少ない資源での高い生産、快適な環境での効率的な仕事、画期的な機能の設備導入などのようなイノベーションをあげることができる。イノベーションそれ自体は悪いことではないが、自然に限界がある以上、成長率をあげようとする資本主義ではいつか環境問題を引き起こしてしまう。そこで環境にやさしい経済が提唱されているが、二者での哲学的な違いについても、この本では述べられている。

資本主義社会に生きる人々は、人間は自然とは切り離された優れた存在で、精神と心と主体性を備えているが、自然は不活発で機械的な存在であると見なしてきた。この考え方はプラトンからデカルトに至る歴代の思想家から受け継がれた考え方で、人間には自然を支配し、利用する当然の権利があると説明されていた。しかしそうではない世界に生きた人々は、広義に精霊信仰(アニミズム)と呼ばれるものに依拠し、長い年月、人間は他の生物界との間に根本的な隔たりを感じたことはなく、動植物・自然そして地球そのものと相互依存の関係にあると考え、人間と同様に、感情を持ち、同じ精神によって動くものと考え、場合によっては親類のような親しみさえ感じていた。この考え方に立つのがスピノザで、彼は宇宙は一つの究極の原因(ビッグバン)から生まれたと主張し、神と魂と人間と自然は同じ力により支配されているとした。

ヒッケルさんの提案は、人間と自然は一体とするスピノザの考え方に学び、自然を克服・改良する対象とするのではなく、愛おしみ・大切にしようというものだ。自然から収奪するのではなく、自然から得た分は返すようにしようというものである。言葉を変えれば、資本主義の高成長の経済から、自給自足的な成長のない繁栄へ転換しようというものである。啓蒙思想である「人間本来の理性の自立」は、民主主義と資本主義(自然の征服を賛美する二元論的哲学による帰結)とから成り立っていたが、地球環境の破壊を現実の目にすると、この両者は成り立たないことが分かる。民主主義に基づく人間の理性によって、ポスト資本主義の道を進もうというのがヒッケルさんの主張である。

それでは、ヒッケルさんの意見に従って、冒頭で掲げたメディアの出版の問題はどのように考えたらよいのだろうか。著者に意欲を与えながらしかも自然に優しい出版を達成するためには、紙本から電子本へと変更し、資本主義で問題となっていた「囲い込み」すなわち希少化につながる著作権を今よりは限定し、図書館も電子図書館へとしたらどうだろう。

最後に読後感。今回のヒッケルさんの提案は、自然環境を破壊しない民主主義下での使用価値に基づく経済で、これは人間の理性を全面的に信頼しているように思える。しかしウクライナへのロシアの侵攻、前回のアメリカ大統領選挙に見られる民主主義の脆弱性などを考慮すると、人間の理性にどれだけ頼れるのかと心配になるので、もう少し現実を踏まえる必要があるように思う。そこで北欧などですでに始まっている新しい経済・社会活動に参考になる点があるらしいので、そちらの方を調べてみようと思っている。

ウォルター・アイザックソン『コードブレーカー』を読む

4月に図書館に予約した本が、やっと貸し出してくれた。この本は上下2巻に分かれていて、今回入手できたのは下巻の方である。上巻の方は、順番待ちの人がまだ9人もいるので、月に2人ずつ減るとしても、入手は5か月後である。今年中ならば良い方だろう。人気のある本が上下に分かれているときは、図書館から借りて読もうとすると、なかなかうまくいかない。今回の『コードブレーカー』は、上巻は生命科学の中での遺伝子組み換えに関する原理の説明で、下巻はその応用なので、順序を逆にして、しかもかなり時間をおいて読んでも大丈夫そうである。

この本を知るきっかけとなったのは、図書館のブログで人気のある本のリストを調べている時だった。たくさんのタイトルが並んでいる中で、『コードブレーカー』という聞き慣れない単語に興味を感じた。最先端の生命科学を取り上げたSFぐらいに思って、取り敢えず予約した。予約したのも忘れたぐらい長い月日が経ったあと、図書館の窓口で受け取った時、ジェニファー・ダウドナさん(Jennifer Anne Doudna)を描いた本であることにビックリ。彼女はカリフォルニア大学バークレイ校の教授で、フランス人のエマニュエル・シャルパンティエさん(Emmanuelle Marie Charpentier)とともに、ゲノム編集技術であるクリスパー・キャス9を開発した。遺伝子を編集されたベビーが中国で誕生した事件を覚えている人も多いことと思うが、人の遺伝子をも書き換え可能にする技術をもたらしたのが彼女である。クリスパー・キャス9の論文は2012年に発表され、8年後の2020年に、この二人の女性はノーベル化学賞を受賞した。最近は、ノーベル賞は論文を発表してから相当長い年月が経ってから授与されるのが当たり前になっているが、短期間での受賞はこの技術が比類ないほどに卓越していることを示すものである。

クリスパー・キャス9は、細菌がウイルスを退治するメカニズムに倣ったものである。我々人類はこの3年間コロナウイルスとの戦いに明け暮れたが、もしわれわれが細菌であったならば、何と言うこともなく簡単に撃退できたであろう。そのメカニズムをものすごく簡略化して説明すると次のようになる。ウイルスが細菌の細胞の中に入ってくると、細菌はそれをウイルスと認識できるようになる。認識に用いるのは、ウイルスの遺伝子の一部である。そして細菌は認識すると、ウイルスを無力化するためにウイルスの遺伝子を切断する。ウイルスは、切断された箇所を修復しようとするが、多くの場合誤って修復してしまう。これによって、ウイルスとしての働きがなくなる。これをノックアウトという。また切断個所に別の遺伝子を入れ込むことが可能で、この時は新たな機能を持たせることができる。これはノックインという。

クリスパー・キャス9は、上のような働きをするが、これは3要素から成り立っている。一つはウイルスの遺伝子を切断する酵素(キャス9)、もう一つはウィルスの遺伝子のある部分を記憶しているクリスパーRNA、そして残りの一つは切断できるようにウイルスを運んでくれるトレイサーRNAである。酵素はハサミの役割をするが、ウイルスによって切断できるハサミは異なり、それぞれキャス12,キャス13などと名前が付けられている。酵素を区別しないときは、前半だけを用いて単にクリスパーと言うことにしよう。

クリスパーRNAはウイルスが入ってきたとき認識に使われるので、発見するためのターゲットとしての役割を担っている。そこでクリスパーRNAを、別の個所の遺伝子部分に変えることで、ターゲットを変えることができる。そしてそこを切断するためには、ハサミも変える必要があるかもしれない。これからクリスパーRNA酵素を変えることで、遺伝子の様々な場所を切断できることが分かる。すなわち遺伝子を好きなように編集できる可能性があることが分かる。

細菌の場合にはウイルスを殺すためにクリスパーを用いていたが、これを人間の細胞へ応用することも考えられる。人間の細胞は、体細胞と生殖細胞に分けることができる。体細胞は、手や足、目や耳、筋肉や骨などを構成している細胞である。体細胞にクリスパーを用いることで、癌やアルツハイマーの治療、今回のコロナの検査薬、ワクチン、治療薬への応用などを考えることができる。また、生殖細胞に応用することで、アインシュタインのように頭のよい子供を得たり、アーノルド・シュワルツェネッガーのように腕力に優れた人を得たりということもできるようになるだろう。

体細胞に応用した時はその影響は一代限りであるが、生殖細胞に応用したときはその影響は子孫累々にまで及ぶ。これはなんとも恐ろしいことだが、神様に代わって人間を設計できることを意味する。今までは子供の体質は、親のそれを引き継ぐものの、兄弟同士でも異なるように、誕生の時の偶然に任されていた。しかしクリスパーを用いると、髪の毛は金髪に、目の色は青く、肌の色は白くなどと、レストランでのメニューを見るかのごとく、人為的に選択できるようになる。

このような状況は良いこととは限らず、悪影響を引き起こす可能性がある。例えば、遺伝子操作は高額な医療となるだろうから、裕福な人ほど優れた子孫を残せる確率が高まり、格差はどんどんと広がっていくことになる。また芸術家には躁鬱症が少なからず見られるが、そのような人が少なくなった場合には、優れた芸術作品が生まれなくなる可能性も考えられる。これの延長線上にあるが、男と女、雄と雌が存在するのは、多様性を生み出すためである。しかし遺伝子の人為的な選択の結果、金髪で青い目で白い肌の人だけになった時、人類は環境の変化に対して脆弱になることも考えられる。

それでは、どこまで遺伝子操作をしてよいのだろうか。その目的には、病気の治療、能力の強化、病気の予防などがある。そして施す箇所は、体細胞、生殖細胞となる。体細胞での病気の治療と予防は容認できそうである。これに対して生殖細胞での能力の強化はどうであろうか。自分の子供によい教育を施したいとほとんどの親は思うであろう。それと同じで、筋力に勝り、知力に優れる子が得られるように、遺伝子操作をしてなぜ悪いのだと、自由を標榜する人々は主張するかもしれない。

ダウドナさんは、遺伝子操作をした子供を世の中に送り出すことには賛成していないが、生殖細胞を用いて遺伝子操作をする実験を中止(モラトリアム)することには反対で、政府がモラトリアムに出ることを恐れている。人類に突き付けられた新な倫理問題に対して、正しい判断ができるようになるまでしばらく時間が欲しいとしている。ここまでが下巻の前半である。

後半は、今回のコロナウイルスとの戦いを描いており、とても興味が惹かれるとともに、人間的な面も見られる面白い部分だ。クリスパーを巡っては、ダウドナさん率いるバークレーのグループと、フェン・チェンさん(張鋒)のMIT・ハーバードのグループとの間で、激しいバトルが繰り広げられていた。しかしコロナウイルスに対しては、人類の存続をかけての戦いであるという認識に立ち、そこで得られた成果は共有の財産とし、その使用はフリーとし、協力・協調のもとで研究・開発がなされた。その結果、短期間で、ワクチン、検出・治療の薬が開発され、今日の状況を迎えることができた。今回の方法は、ITでのオープンソースソフトウェアと同じように相乗効果が大きかったことから、今後の開発形態として注目されている。

クリスパーに代表される生命科学、そして人工知能に代表されるIT技術は、ユヴァル・ノア・ハラリさんが予言するように、人類をホモ・サピエンスからホモ・デウスへ、すなわち人から神へ、と変えてしまう可能性を秘めている。これまで想像だにしていなかった大変革の入口に立たされているが、科学と医学の倫理がどこにあるのかを熟慮して、慎重な対応が必要があることは言うまでもない。

最後に、とても読みやすい本であった。西村美佐子さんと野方香方子さんの丁寧な翻訳が目立っていた。今後もこのような本が出版されることを期待している。

仲正晶樹著『悪と全体主義』を読む

この本はハンナ・アーレント(Hannah Arendt)さんの代表作『全体主義の起源』とニューヨーカー誌に発表した『エルサレムアイヒマン―悪の陳腐さについての報告』を紹介したもので、著者(紹介者)は仲正晶樹さんである。アーレントは、ドイツ・ケーニヒスベルクの古い家柄の出で、ドイツ系ユダヤ人である。生誕地はリンデン(ハノーファー郊外)。マールブルク大学で学び、マルティン・ハイデッガーに会っている。そしてフライブルク大学でエトムント・フッサールに学び、ハイデルベルク大学で、カール・ヤスパースの指導をうけ、『アウグスティヌスの愛の概念』で博士号を取得した。ナチス政権がユダヤ人の迫害を始めたころ、フランスに亡命(1933年)。1940年にフランスがドイツに降伏すると、アメリカに亡命(1941年)。バークレー、シカゴ、プリンストン、コロンビア各大学の助教授・教授などを歴任。1951年に『全体主義の起源』を著し、1963年に『エルサレムアイヒマン―悪の陳腐さについての報告』を発表。1975年に自宅で死去した。

アーレントは、全体主義*1について、ソ連邦でのボリシェヴィズム運動や中国・毛沢東の「百花斉放」についても説明しているが、この本では主にドイツのナチズムについて言及し、19世紀の西洋社会に広がった「反ユダヤ主義」を中心に説明している。シェイクスピアの『ベニスの商人』にみられるように、異教徒や異質な人間に対する漫然とした憎悪は中世から存在していたが、19世紀に起きた反ユダヤ主義は、それ以前の漫然とした嫌悪とは異なり、国家の構造やイデオロギーと密接に結びついたものであることを示し、条件が整えばどこででも生じるとしている。それでは順を追って説明して行こう。

アーレントは、ナポレオン戦争(1803-15年)が全体主義の起源になったとしている。この戦争は、西洋が絶対君主制から「国民国家」へと移行する時期に起きた。ナポレオン戦争の当初の目的はフランス革命を他国の反革命勢力の干渉から守るためであったが、次第にヨーロッパ制圧の侵略戦争へと性格を変えていった。侵攻された国々では、これをきっかけとして、「国民」の連帯や統一された国民国家(nation state)が必要であるという意識が一気に高まった。例えば、ドイツでは、哲学者フィヒテによって、「ドイツ国民に告ぐ」という講演がなされた。この時生まれた国民国家というイデオロギーは、文化的アイデンティティの共有を含意していた。

国民国家は、統治機構としての国家の境界線と国民(文化的アイデンティティが同じ人々)が居住する地域が、一致しているかどうかによって、その生まれやすさが異なる。両者がかなり一致していたイギリス・フランスは、国民国家に早い時期に移行したのに対し、そうでなかったドイツ・ロシア・東欧は遅れた。例えばドイツ人の居住地は、数十の連邦国家に分かれ、その中でオーストリア(神聖ローマ帝国皇帝のハプスブルグ家)と新興の軍事国家プロイセンが有力国家であったが、いずれも領土内にスラブ系やハンガリー系などの異なった民族を抱えていた。

国民国家は、外部の敵から国を守るために、国の内部では人々の一体感・連帯感を強めようとする。このため国の内部では異質なものを排除する傾向にある。異質な集団では、排除を避けるために、同化しようとするものも現れる。しかし全てが同化を望むわけではなく、一部はその文化を維持しようと努め、異質なものとしてあり続ける。国家が困難な局面を迎えた時、その原因を究明しようとする。国家の中で異質なグループの人々が、国家の中枢にある程度の割合を占めているとき、例えば経済的に大きな力を発揮しているときや、大学などのアカデミックな世界でかなりの数の人たちが活躍しているとき、たとえその人々が同化していたとしても、社会の中枢を握り乗っ取ろうとしているのではないかと疑われ、でっち上げられた陰謀論までもが現れることがある。

この本には次のような例が挙げられている。1880年に発生したフランスのパナマ運河疑獄では、パナマ運河建設を主導した民間会社の社債を、国債であるかのように見せかけて購入させられた。民間会社が破綻したとき、それが大臣や議員に賄賂が渡されたことに起因しているにもかかわらず、会社の財務担当をしたユダヤ人二人の所為であったと報じられると、市民の間で反ユダヤ感情に火がついた。また1894年には、フランス軍ユダヤ系将校ドレフェスがドイツ帝国のためにスパイ活動をしたとでっち上げられる事件が生じ、潔白が示されたにもかかわらず、ユダヤ人であるがために嫌疑がなかなか晴れることはなかった。これらはユダヤ人に対する差別の根深さを示す一例である。さらに1903年にはロシアの新聞に「シオンの賢者たちの議定書」が掲載され、そこには、シオンの賢者と呼ばれるユダヤ人たちが企てた世界征服・世界支配の計画書が書かれていた。もちろん捏造である。

国民国家としての政治統一を遂げた西洋諸国では、資本主義が定着し始め、工業製品の原材料や市場などを求めて、アフリカ・アジア・隣接地域へと進出し始める。この時、文化的アイデンティティが同じである人々の集まりを前提としていた国民国家が足かせとなる。国民国家という考え方を貫くのであれば、すなわち文化的アイデンティティの一致を貫こうとすると、進出先の人々を制圧し、同化するしかない。失敗すればナポレオン戦争の時と同じように、進出先の人々が反抗して自身の国民国家を築くことになる。

複数の政治単位を統治して広域的支配を行うことを帝国という。資本主義の発達によって、西洋諸国はアフリカやアジアの地域を自身の統治体制の中に組み込んで、国民国家から帝国へと脱皮しようとした。帝国の古い例はローマ帝国である。ローマ帝国においては、万人に等しく適応される法に基づいての統治が行われた。そして被支配地の人々でも、一定の基準を満たすという条件はあったものの、(文化的アイデンティティが異なっていたとしても)市民として認められた。

ところが19世紀に西洋諸国が目指した帝国は、国民国家をベースとしたため、文化的アイデンティティが同じであることを要求した。これは古代の帝国の在り方とは矛盾していた。この矛盾を解決するために新たに利用された考え方は、人種、社会進化論、優性思想である。この当時、西洋人が見たアフリカやアジアの人々は、身体的にも文化的にもあまりにも異質であった。また彼らに先だってこの地に住み着いた西洋の人々は、彼らを隷属させ特権的な立場に立っていることが多かった。そこで彼らは人種という概念を導き出し、人種間には進化論的な差があると見做すようになった。そして白人が非白人よりも、植民地がそうなったように、優位な立場に立つのが必然であるとした。

遅れて国民国家となったロシアやドイツでは、海外の地はほとんどが占有されていたために、隣接する地域に進出先を求めた。侵攻の理由に使われたのは、同じ民族(同じ血が流れている人々)の救済である。同じ民族に属す人々が、他の地で迫害されている、あるいは、かつての居住を回復するなどの恣意的な理由で侵攻した。国民国家は同一の文化的アイデンティティを求めたため、自ずとこれを満たす地域には限界があったのに対し、民族が同じであるという定義は曖昧でいくらでも拡張できる。このため含まれる地域に限りがないことになる。特にドイツとロシアに挟まれた地域は、ゲルマン系とスラブ系が入り混じって居住していたために、激しく奪い合う地となった。イギリス・フランスのようにアフリカ・アジアに進出したものを海外帝国主義と呼び、これに対してロシア・ドイツのように隣接地(特に東側)に領域を広げようとしたのを大陸帝国主義という。海外帝国主義での人種の優位性は、大陸帝国主義では民族の優位性へとすり替わった。これにより次の全体主義への入り口が開かれた。

ドイツとロシアの争いは、第一次世界大戦(1914-18年)さらにはロシア革命(1917年)を引き起こす。これにより、それぞれの文化的アイデンティティに含まれない人々は、国を持たない人々、即ち無国籍者として吐き出された。無国籍者は、法で保護されないため、人間としての最低限の人権さえも与えられない立場に置かれた。今日でも難民問題は解決されていない大きな課題であるが、この時初めてそれまでの法や理性では解決できな新たな問題が発生した。

第一次世界大戦後の経済状態は劣悪で、特に多大な賠償を課せられたドイツは困窮の極みにあった。この困難から逃れるために、虚構の世界観が、人種主義・進化論・優性思想を利用して構築された。それは次のようなものである。本来自分たちは優れた国民である。それにも関わらす、他の民族が企てている世界制覇によって犠牲にされている。この民族を倒し、彼らの地位に取って代わることで、本来自分たちに定められている運命を享受できるようになる。このようなもっともらしい物語である。安定した平和なときであれば、そこに潜んでいる虚偽性を冷静に見抜けるのだろうが、経済が破綻したアナーキーな状態では、現実から逃避し、もっともそうな夢を信じ、それを擁護する行動をとりがちである。

ドイツでは、ユダヤ人たちがターゲットにされた。この当時のドイツ政界ではユダヤ人の政治家が大臣になるなどして活躍していた。このことがドイツを乗っ取るたくらみではないかと疑われ、経済・学術の分野でのユダヤ人の進出で裏打ちされ、最後には確信へと変わっていった。そして彼らを排除しようという運動が生じ、政府がこれを巧妙に利用・主導した。基本的人権さえ有しない無国籍者の出現が、ユダヤ人たちからもそれらを奪うことに躊躇させなくなり、最悪の殲滅へと向かう運動「ユダヤ人問題の最終解決」に変質した。

ドイツが敗れた後では、全体主義の首謀者たちは極悪非道の悪人として裁かれた。アウシュビッツ強制収容所への大量輸送に関わったアイヒマンが、逃亡先のアルゼンチンで捕えられ、イスラエルで裁判に掛けられた。アーレントは裁判を傍聴し、アイヒマンについての記事を書いた。そこには、極悪非道と見られていたアイヒマンは普通の人で、ナチスから受ける恐怖心からこのような行為に及んだだけだと書かれていた。この記事はユダヤの人たちからは非難轟々で、彼女は多くの友達を失った。しかし強い恐怖心を感じている時は、人は残忍な行為に及ぶものだという心理実験が、スタンレー・ミルグラムによってなされ、彼女の正しさが証明された。

それでは普通の人たちが、なぜ全体主義へと向かったのであろうか。この本から、その説明の部分を抜き出すと、「アーレントは政治の(理想とする)本質は、物質的な利害関係の調整や妥協形成ではなく、自立した人間同士が言葉を介して向かい合い、一緒に多元的なパースペクティヴ(見方)を獲得することとしている。異なった意見をもつ他者と対話することがなく、常に同じ角度から世界を見ることを強いられている人は、次第に人間らしさを失っていくとも述べている。ナチス全体主義支配下に置かれ、言葉によって人々が結びつく「政治的領域(公的領域)」が崩壊した状態で生き続ける人たちは、プロパガンダの分かりやすい言葉に反応し、他者とのつながりを回復しようとするが、それは動物の群れを同一の方向に引っ張って行こうとする合図の叫び声のようなものだ」である。

アーレントは、全体主義に陥らないようにするためには、各人が多元的なパースペクティヴを獲得することだと言っている。これは、言葉を介して異なる意見を述べ合い、それぞれの考え方を尊重するということになる。今日のように世界が二極化すると、それぞれの立場を理解することは困難になり、お互いに非難し合うことになるが、言葉を通して相互に理解し合うための努力が必要であると、アーレントは言っている。現在の世界情勢を見るとき、アーレントの言葉をもう一度思い出してみることが大切だろう。

*1:ブリタニカ国際大百科事典によれば、個人の利益よりも全体の利益が優先し,全体に尽すことによってのみ個人の利益が増進するという前提に基づいた政治体制で,一つのグループが絶対的な政治権力を全体,あるいは人民の名において独占するものをいう。

「湘南ひらつか七夕まつり」に出かける

平塚で、4年ぶりに制限のない七夕祭りが開催された。この街には、戦前は、海軍の火薬廠があった。このため、第二次世界大戦も終わりに近づいた頃、米軍の攻撃を受けて、焼け野原になった。街の復興を願って、1950年から、七夕祭りが行われるようになった。仙台の七夕祭りも有名で、こちらの方は江戸時代の伊達藩の頃に始まり、7月ではなく8月に飾られている。

それではいざ七夕祭りに参ろう。平塚駅西口で降り、人の流れに乗って、紅谷パールロード左端から祭りに参加した。

目の前に現れた飾りは、歌舞伎十八番。これは7代目市川團十郎(江戸時代)が制定した市川家の歌舞伎十八番物を指しているが、それ以前から歌舞伎全体の中の人気演目を指す言葉として使われていたようだ。十八番の中で演じられる回数が多いのは、「助六」「勧進帳」「暫」である。ここに飾られているのは「暫」のようである。中央左側は、清原武衡が彼の意に従わない人々を斬ろうとしているところに、「しばらく」という声とともに、ヒーロー・鎌倉権五郎景政が、颯爽と花道から登場した所だろう。

次に目についた飾りは、源氏物語。来年のNHK大河ドラマは「光る君へ」。源氏物語の作者・紫式部の雅な宮廷生活でのロマンスが、来年は評判になることだろう。これに因んでの飾りである。

今年の大河ドラマは「どうする家康」。なかなか判断できない家康の精神的な葛藤を描き出したユニークな作品になっているが、その家康が飾りの題材として使われていた。

家康は平塚とは関係が深い。彼は平塚と江戸との間の交通の便をよくするために、中原街道を設けた。平塚側の起点は中原という地名で、かつて小田原城主の大森氏が、この地域を開拓したときに中原(中国の「ちゅうげん」にあやかって)と名づけたといわれている。家康は中原に御殿を設け、鷹狩りの時の宿舎とした。

平塚は、江戸時代には東海道の宿場であった。そのため、富士山を背景とした浮世絵が描かれている。その関連と思われるのが次の飾りである。

紅谷パールロードに別れを告げて、次は、湘南スターモールに入る。飾りの様子がガラリと変わって、吹き流し。


WBCでの優勝に感謝する飾りもある。

そして、最後は七夕らしく、願いを込めての飾りである。

コロナの危険がないとも言えないので、例年と比べるとまだまだ控えめなお祭りだったようだが、長く続けて欲しいと願って、帰路についた。

トーハクで特別展「古代メキシコ」を見学するーアステカ テノチティトランの大神殿

トーハク特別展「古代メキシコ」の最後のセクションは「アステカ テノチティトランの大神殿」である。

百科事典マイペディアによれば、アステカは、「14世紀から1521年のスペイン人による征服まで,現在のメキシコ市を中心に栄えた国家をいう。アステカは首都テノチティトランに住んだその中心的民族で,メシカMexicaとも称した。北方のチチメカ族の一派であり,13世紀にはメキシコ盆地に入り,14世紀半ばに,当時湖上の島であったテノチティトランに定住,15世紀にはメキシコ盆地最大の勢力となって征服活動を始めた。16世紀初頭にはメキシコ湾岸から太平洋岸にまで覇権を確立し,マヤの文明やトルテカ文化を継承,征服地の宗教を組織化した複雑な文化をつくり出した。アステカ本来の守護神はウィツィロポチトリであったが,その王権はトルテカのケツァルコアトルに由来すると称した。ケツァルコアトルの再来を信じたアステカ王モクテスマ2世は1519年に上陸してきたコルテスらをこの神の一行と誤認し,アステカ国家の滅亡を早める結果となった。1521年の征服後,アステカ文化はスペイン人によって否定的にとらえられたが,メキシコの独立の動きとともに国家統合のシンボルとして称賛されるようになった。一方でその担い手であるインディオはいまだに差別と貧困に苦しんでいるのが現状である」と紹介されている。

首都のテノチティトランは、16世紀初頭には人口が20-30万人に達し、壮麗な神殿、宮殿、家屋が立ち並んでいた。Wikipediaには市街の想像図*1がある。

ここの展示は二つのセクションに分かれていて、最初は「大国への道」であった。アステカでは、メシーカ人が政治経済的覇権を握った。それを可能にしたのは、テノチティトランの聖域から発する魔力が、敵に激しい畏怖心を与えたことによる。聖域の中核には、大神殿「テンプロ・マヨール」がそびえたっていた。Wikipediaにはそのミニチュアの写真*2がある。テンプロ・マヨールは、消滅したテオティワカンの建築と絵画の様式を見事に再現していた。これにより、メシーカ人は古典期の偉大な文明と神話上の系譜を結び、威厳ある祖先に守られていると感じた。そして他地域の人々に対しても、世界の継承者としての正統性を印象付けた。

それでは展示を紹介していこう。
メンドーサ文書*3は、征服後の1541年ごろ、ヨーロッパ製の紙に書かれた文章で、作者は先住民、スペイン語での書き込みが加えられている。

マスク。メシーカ人をはじめとするこのころの人々は、それ以前に栄えた都市を訪れ、何世紀にもわたって地下に埋もれていた遺物を掘り起こし、それを魔術的な力を持つものと見なして、自分たちの神殿に埋め直した。これはテオティワカン200-550年のもの。

鷲の戦士像。テノチティトランの大神殿(テンプロ・マヨール)北側の新トルテカ様式の「鷲の家」の入り口に、2体の像が置かれていた。これは戦争のみならず宗教においても重要な役割をはたす「鷲の戦士」で、戦場での勇ましい死の結果、鳥に姿を変えたとされている。アステカ文明1469-86年。

最後のセクションは「神々と儀礼」である。メシーカ人は多神教である。アステカの世界観によれば、神々は天上界の13層と地下界の9層に住み、その力は暦に従って、地上界の生きとし生けるものや惑星や天体の動きを支配した。それは二元論に基づき、相反し補い合う二つの原理や要素、つまり太陽と月、昼と夜、雨季と乾季、男性と女性、鷲とジャガー、水と火、羽と玉などの対峙が、活力を生み出していると信じていた。
トラロク神の壺。農耕社会であるメソアメリカの宗教は、降雨量が重要で、何世紀にもわたって、雨の降る量をコントロールしたいという強迫観念にかられ、祈祷、供物、子供の生贄がことごとくトラクロ(大地を人格化した雨の神)に捧げられた。アステカ文明1440-69年。

エエカトル神像。「風」を意味するエエカトル神は、生と豊穣に関する力を有していた。アステカ文明1325-1521年。

プルケ神パテカトル像。数多く存在するプルケ(リュウゼツランを発酵させてつくる酒)の神の一つパテカルトである。アステカ文明1469-81年。

サワマドール(香炉)。多彩色土器の香炉は、寝具の道具としてメキシコ中央部で広く見られた。アステカ文明1325-1521年。

テポナストリ(木鼓)。古代メキシコの人々が用いた数多くの打楽器の中で、特によく知られているのがテポナストリで、宗教儀礼や戦闘の場で用いられた。アステカ文明1325-1521年。

笛。笛はおおむね土製で、鮮やかな色彩と鳥・花・神々の表象を持つ場合がある。アステカ文明1325-1521年。

テスカトリポカ神の骨壷。後古典期前期(950-1250)にメキシコ湾岸で多く見られたオレンジ色の土器に着想を得て、後古典期後期(1250-1521)に作られた。アステカ文明1469-81年。

ウェウェテオトル神の甲羅型土器。1990年代にメキシコシティーの大聖堂で、地盤沈下による崩壊を防ぐために地下の掘削が行われた。その時、テスココで制作されたと思われる7つの多彩式土器が発見された。これはそのうちの一つで、火の神を表している。アステカ文明1486-1502年。

最後に金製品のペンダント・耳飾りなどが展示されていた。

これで、古代メキシコ展の紹介は終わりである。大規模な神聖都市を生み出したメソアメリカ文明は、スペイン人の侵攻もあり、壊滅的な打撃を受けてしまう。なぜそうなったのかという疑問に対しては、ジャレド・ダイアモンドさんの『銃・病原菌・鉄』が、解くためのヒントを与えてくれる。子供がメキシコに滞在しているので、訪問する機会を作り、ピラミッドや神殿を見学しながら、この文明についてもう少し深く考えたいと考えている。

トーハクで特別展「古代メキシコ」を見学するーマヤ 都市国家の攻防

トーハク特別展の3番目のセクションはマヤ文明である。テオティワカン文明がメキシコ高地で誕生し発展したのに対し、マヤ文明はメキシコ南東部、グアテマラホンジュラス西端部、エルサルバドル西端部である。

マヤ文明の地域は、高地が多い南部地域とマヤ低地に属する中部地域と北部地域に分けられる。南部地域は、高地は温暖で、海岸に近づくに従って急激に暑くなる。この地域は多数の河川が太平洋に注ぎ、土地は肥沃である。ここにはコパン遺跡などがある。中部地域は、高温多湿で、降水量が多い熱帯雨林のジャングル地帯が広がっている。ここではティカル、カラクルムなどの大遺跡が繁栄し、覇権を争った。北部地域は降雨量の少ない乾燥した気候で、石灰岩地盤の広がるこの地域では地上に水が残ることが少なく、川は極めて少ない。このためテノールと呼ばれる泉が唯一の水源である。ウシュマルチチェン・イッツァなどの遺跡が栄えた。

メソアメリカ文明の時代区分は、先の記事で挙げたが、先古典期(BC2000年-250年)、古典期(250年-950年)、後古典期(950年-1521年)、スペイン植民地時代となっている。鈴木慎一郎さんの『古代マヤ文明』では、時代区分ごとの特徴を次のように説明している。

先古典期の前期(BC2000-BC1000年)には、マヤ地区の西隣に位置するメキシコ湾岸やメキシコ南部オアハカ盆地で、複雑な社会構造を有する定住農耕型の共同体が出現した。中期(BC1000-BC400年)には、これら共同体との接触や交流によって、マヤ文明圏にも明白な社会の階層化が起こり、世襲の為政者による国家が誕生し始めた。後期(BC400-BC100年)には、神聖王という概念やマヤ文字による筆記のシステムが生まれようとしていた。そして終末期(BC100-250年)にはペテン地方(グアテマラ北部)でマヤ文明の最盛期を彩ることになる諸王朝が勃興し始めた。

古典期には、古代マヤを代表する大都市(ティカル、コパン、カラクムル、パレンケなど)が最盛期を迎え、古典期マヤ文化(芸術、数学、天文学、建築など)が絢爛豪華に花開いた。しかし終わり頃になると、神聖王の王国が謎の崩壊を迎え、都市が放棄され、古典期マヤ文明の崩壊が起きた。即ち、前期(250-600年)・後期(600-800年)は神聖王による中央集権国家が誕生・成熟し、相争った。末期(800-950年)には、神聖王による統治システムが衰退し、崩壊が起き、貴族による合議政治体制へと変化した。

後古典期には、メキシコ高原にトルテカやアステカという強力な国家が誕生し、マヤ文明圏もその影響を受けた。崩壊後のペテン地方に人口の空白地が生まれる一方、ユカタン半島北部やグアテマラ高地で、メキシコ中央高原の影響を受けた新たなマヤ文明が花開いた。ウシュマルチチェン・イッツァがその代表である。

特別展を紹介する前に、マヤ文明の遺跡をWikipedianの写真で見ることにしよう。

ティカル:グアテマラのペテン低地にあり、4世紀から9世紀にかけて栄えた。写真は大ジャガーの神殿*1

コパン:ホンジュラス西部にあり、695年に即位したワシャック・ラフン・ウバク・カウィールの時代に最盛期を迎えた。写真は神殿26にある神聖文字の階段*2

ラクムル:先古典期後半から古典期にかけて繁栄した中部地域の大都市*3

パレンケ遺跡:メキシコ南東部(中部地域)に位置し、7世紀に最盛期を迎えた。写真は碑文の神殿*4

ウシュマル:メキシコ・ユカタン州(北部地域)にあり、古典期後期から後古典期に栄えた。写真は魔法使いのピラミッド*5

チチェン・イッツァ:メキシコ・ユカタン州(北部地域)にあり、後古典期に栄えた。写真はカスティー*6

マヤ文明の展示は四つに細分されていた。それに従って見ていこう。まず最初のセクションは「世界観と知識」である。マヤ文明は、芸術、数学、天文学、建設などの分野で、輝かしい成果を挙げた。図録から抜粋するとここは次のように紹介されている。

マヤの人々にとって、人生や社会の出来事は、神々の行いや天体、山、洞窟などの自然界の事象と深く結びついていた。そのため、天体の動きを観察し、それに基づいた精緻な暦を作り、都市の広場で行われる集団祭祀のほか、自然景観の中に点在する聖なる場所で儀礼を行うことは世の中の秩序を維持するために必要と考えられた。人々の行いは、神や先祖の事績を再現するものであり、優れた文字体系を使って描かれた碑文には、王の業績などが正確な日付とともに記された。

それでは展示を見ていこう。
夜空を描いた土器。天体の動きは地上の出来事と密接に関わっていると考えたマヤ人は、太陽のほか、月や金星などの夜空の動きを詳細に観察した。上部には夜空の星の動きが描かれている。マヤ文明600-830年。

星の記号の土器。太陽と月に並ぶ重要な星として、金星を崇め、観察した。金星の周期が584日であることも知っていた。マヤ文明700-830年。

金星周期と太陽暦を表す石彫。584日の金星の周期5回分が、365日の太陽暦の8年にあたることを示している。縦棒が5を表し、丸が1を表す。マヤ文明800-1000年。

トニナ石彫159。碑文には「3マニク0ムワーンの日に、トニナの王1の墓に2度目の火を入れる儀式が…」と記述されている。マヤ文明799年頃。

マヤ文明の展示での2番目のテーマは「マヤ世界に生きた人々」である。先の記事で説明したテオティワカンでは、身分により、住む場所も、従事する仕事も、明確に分かれていたのに対して、マヤ文明の人々はマダラ模様である。例えば、農民もある程度石器作りをしていたし、都市中心部に住む上流階級の人々も、政治・外交活動に加えて、祭祀や公共建築の設計などもしていた。これは大規模な農地の造成に適さない熱帯低地の環境に合わせてのものと思われる。

支配者の土偶。王あるいは高位の男性を表している。マヤ文明600-950年。

貴婦人の土偶。謁見のために壮麗な出立をした高位の女性と思われている。マヤ文明600-950年。

戦士の土偶。重装備であることから、儀礼式での戦士の姿と思われている。マヤ文明600-950年。

捕虜かシャーマンの土偶。さまざまな土偶がある中で、社会的役割が明確でないものも多い。これはその一つ。マヤ文明600-950年。

書記とみられる女性の土偶。高位の女性で、右手に絵文書を持っているので、書記を表したものだろう。マヤ文明600-950年。

道化の土偶。ふくよかな顔と膨らんだ腹に特徴があり、儀礼式で道化師的な役割をしているのではと思われている。マヤ文明600-950年。

織物をする女性の土偶。機織りはマヤの女性にとって重要な仕事であった。マヤ文明600-950年。

鹿狩りの皿。大型獣の少ないマヤでは鹿は最も大切な狩猟の対象であった。マヤ文明600-700年。

円筒型土器。カカオ飲料を徐々に垂らすことによって泡立て、そして飲んだ。マヤ文明600-850年。

マヤ文明の3番目のテーマは「都市の交流 交易と戦争」である。マヤでは各地で王朝が林立し、それらの間では交流もあったし、戦争もあった。交流では、美しい彩色土器や食料が供物として送られたりした。また婚姻関係を結ぶことも重要な外交戦略であった。このような交流を通して、天文観測や文字などの知識が共有された。一方、関係が悪化した場合には戦争に及ぶことがあり、好んで高位の人を捕虜にしようとした。捕虜になった人は、人身供犠にされた。また負けた国は属国となり、そこでの経済や建設活動は停滞した。古典期の低地南部では、ティカルの王朝とジバンチェとカラクルムを拠点とする王朝が、二大強国でライバル関係にあった。

円筒型土器。カカオの飲料用に使われた。土器に描かれている絵は外交儀礼のようで、右側の、体を黒く塗り、動物の頭飾りをつけている方が外交使節、左側の、鳥の羽を飾った方が迎える側であろう。マヤ文明600-850年。

猿の神とカカオの土器蓋。マヤの人々はカカオの飲料を好んだ。カカオはマヤ低地でも取れるが、高温多湿な太平洋沿岸で良品のものが得られるので、ここから各地に輸出された。マヤ文明600-950年。

トニナ石彫153。マヤやアステカでは戦争で捕虜を捕らえることは重要であった。捕虜にされると、服や装飾品を剥がされた上で、ピアスの穴に紙を通された。マヤ文明708-721年。

トニナ石彫171。球技は娯楽であるとともに宗教的な儀礼でもあった。マヤ文明727年頃。


マヤ文明の4番目のテーマは「パカル王と赤の女王 パレンケの黄金時代」である。パレンケは、古典期のマヤ文明の都市としては中規模であるが、洗練された彫刻と建築、碑文の多さで知られている。その最盛期はパカル王の治世(615-683年)である。ジバンチェの侵攻によってパレンケは荒廃していたが、12歳で王位につき80歳で亡くなったパカル王が復興し、王宮を最も壮麗な建造物の一つとした。パカル王の遺体は碑文の神殿の内部に置かれ、美しい彫刻で飾られた石棺に納められた。碑文の神殿の隣からは、「赤の女王」と呼ばれる墓が見つかり、石棺の中からはヒスイなどの装飾品に囲まれ、赤の辰砂(しんしゃ)に覆われた女性の骨が見つかった。パカルの妃の可能性もあると現在も研究中である。

96文字の石板。783年にパフラムの即位20周年を記念して彫られた。654年にパカル王によって「白璧の宮殿」と呼ばれる建物が王宮の中心に建てられ、その王座で歴代の王が即位したことが述べられている。マヤ文明783年頃。

パカル王とみられる男性頭像。上流階級の典型的な身なりで、額の部分をへこませることで頭部を高くした頭蓋変形が見られる。マヤ文明620-683年。

マヤの儀式では、コーパルという木の樹脂から作った香が盛んに焚かれた。そのために石や土器で作られた香炉台が、神殿や住居の内部や周りに置かれた。マヤ文明680-800年。
香炉台、

香炉台、

香炉台。

赤の女王のマスク・頭飾り・胸飾り。今回の展示品の中でも圧巻。赤の女王のマスクは、孔雀石の小片で作られ、瞳には黒曜石、白目には白色のヒスイ輝石岩が使われている。マヤ文明7世紀後半。

マヤ文明の最後のテーマは「チチェン・イツァ マヤ北部の国際都市」である。9世紀にマヤ低地南部では、多くの都市が衰えた。それに替わったのが、低地北部である。900年頃には、ウシュマルなどの他の都市を圧倒して、チチェン・イツァが当時のマヤ最大の都市となる。それ以前のマヤ社会からの人口的・文化的な継続性が、チチェン・イツァに強く見受けられることから、メキシコ中央部を含むメソアメリカとの交流を深め、各地の文化要素を取り入れたと考えられている。

チャックモール像。メキシコ中央部のトゥーラからも多く見つかっており、交流があったと考えられている。何に使われたのかはよくわかっていないが、腹の上に皿のようなものを持っていることから、神への捧げ物を置いたというのが一般的な説である。マヤ文明900-1100年。

チチェン・イツァのアトランティス像。王座の下に複数置かれ、両手で王座と王を支えている人を表している。マヤ文明900-1100年。

トゥーラのアトランティス像。トゥーラのものも、チチェン・イツァのものとよく似ている。トルテカ文明900-1100年。

マヤ文明土偶は、縄文時代土偶ではなく、古墳時代の埴輪に近いように思えるが、これらのものを見ているのは楽しいものである。その時代に近づいた気がして、親近感を抱くことができる。しかし、人身供犠は、前の記事で説明したが、利他的な行為として生じたものと説明されているが、なかなか納得し難い考え方である。時代を超えて問える装置があると面白いのだが、将来の生成AIはそれを可能にしてくれるだろうか。期待したいところである。

*1:CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=314175

*2:Peter Andersen (talk) - 投稿者自身による著作物, CC 表示 2.5, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=754277による

*3:By User:PhilippN, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3000471

*4:Jan Harenburg - 投稿者自身による著作物, CC 表示 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=11380232による

*5:HJPD - 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=6401793による

*6:By Daniel Schwen - Own work, CC BY-SA 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=7647000

トーハクで特別展「古代メキシコ」を見学するーテオティワカン 神の都

今回のトーハクの特別展は、四つに区切られていて、2番目はテオティワカンである。ここは、メキシコの首都メキシコシティの北東50km、メキシコ中央高原の一角にあり、海抜2300mの盆地の中央にある遺跡である。紀元前100年から550年までの古代文明が栄えた計画都市で、その規模は約25km²、2000ほどの住宅用アパートメント群が立ち並び、10万人ほどの人が住んでいた。

テオティワカンはピラミッドがあることで有名である。下の写真(Google Earthで作成)で右隅中央にあるのが「月のピラミッド」、中央右寄りにあるのが「太陽のピラミッド」、左隅中央にあるのが「羽毛の蛇ピラミッド」である。これらのピラミッドを結んでいるまっすぐな道が「死者の大通り」である。月のピラミッドは北の方にあり、死者の大通りは北北東の方向に造られている。

Wikipedia*1からの写真で、月のピラミッドから見た太陽のピラミッドと死者の大通りである。

同じくWikipedia*2からの写真で、月のピラミッド。

特別展でもいくつかの写真を撮ったので、それらを見ることにしよう。

「太陽のピラミッド」は、200年頃に日没の方向に造られた。初期には底面約216m四方、高さ64mだった。後に正面に前庭部が付加され、400年ごろには両側面と裏側にそれぞれ7m程増築された。このピラミッドから発見された遺物は次の通りである。

死のディスク石彫。太陽のピラミッド正面の「太陽の広場」から出土した。テオティワカン文明300-550年。

マスク。太陽のピラミッド内の中心付近の岩盤上で発見された。儀礼用セットの一つとしてピラミッド建造時に奉納された。テオティワカン文明150-250年。

頭飾りとペンダントをつけた小立像。これも岩盤上で発見された。儀礼品セットの中心付近で倒れた状態であった。テオティワカン文明150-250年。

小立像。上記の小立像と同じ場所で発見された。

「月のピラミッド」は、死者の通りの上にあり、その頂点はピラミッドの背後にある山の頂上と重なるように設計された。ピラミッドの前面には対称的に設置された小・中型の神殿ピラミッドが月の広場を囲み、死者の大通りへとつながっている。1998−2004年の内部のトンネル発掘で、100年頃からほぼ50年間の間隔で、古いピラミッドが新しいそれで覆われたことがわかった。その増設時に捧げられた生贄の埋葬墓からは、総数37人の異なった身分の犠牲者が豪華な埋葬品、戦士の象徴品、100以上の動物生贄とともに発見された。

モザイク立像。月のピラミッドの埋葬墓6の中心部で出土。蛇紋石とヒスイ輝石岩の小片が貼り付けられた胴体部と、貝殻と黄鉄鉱の小ピースで形作られた口と耳を持つモザイク石像である。テオティワカン文明200-250年。

都市中心区の南端には、一辺約400mの大儀式場「城塞」が横たわり、都市住人10万人が全て収容できる中心神殿の「羽毛の蛇ピラミッド」がある。ここのピラミッドの壁面は権力を象徴する「羽毛の蛇神石彫」と、時の始まりを表す「シパクトリ神」をかたどった石彫で覆われていた。
羽毛の蛇神石彫。テオティワカン文明200-250年。

シパクトリ神の頭飾り石彫。テオティワカン文明200-250年。

以下は羽毛の蛇ピラミッドの古代トンネルの最奥部から出土した。
立像。テオティワカン文明200-250年。

立像。テオティワカン文明200-250年。

トランペット。テオティワカン文明150-250年。

嵐の神の土器。農業にとって重要な雨の神である「嵐の神」の姿をした水差し容器である。テオティワカン文明150-250年。

椀。テオティワカン文明200-250年。

テオティワカン文明の最後のコーナーは、「都市の広がりと多様性」である。古代のテオティワカンでは、約10万人の人々が密集した都市空間に住んでいた。この都市は計画的に造られ、200年頃には三つの大きなピラミッド、大規模な儀礼広場、宮殿タイプの施設など都市の中心部がまず建てられ、その後に周辺部で多くの住宅群が建てられた。2000ほどのアパートメント式住居は、窓のない石造建設で、多くの部屋は壁画で飾られていた。また都市の境界地区には壁画のない質素な住居群があり、前者に住む人々との間に社会階層での差が伺える。それでは、遺物を見て行こう。

香炉。くびれた胴部を持つ本体と装飾で覆われた蓋からなる。住居での発見例が多く、親族・コミュニティーリーダー・先祖・神を崇拝するための儀式用具と思われている。テオティワカン文明350-550年。

鳥型土器。稀な動物型土器。出土した場所はメキシコ湾との交易を行う貝商人の基地だった可能性がある。テオティワカン文明250-550年。

人形骨壺。テオティワカン内のオアハカ移民地区で出土している(オアハカは、メキシコシティの約300km南東にある。テオティワカンに先立つ遺跡がある)。テオティワカン文明450-550年。

三足土器。壁画の豊富な住宅内の埋葬体から副葬品として出土した。古代国家の最大の関心ごとである生贄儀式の様子が描かれている。テオティワカン文明450-550年。

テオティワカンは、やはり現地に行き、大きなピラミッドを眺望し、死者の大通りを歩いて、この時代に思いを馳せるのが良さそうである。

*1:Jackhynes - uploaded on 25. Jul. 2006 to english wikipedia by author, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1052963による

*2:Diego Delso, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=30702032による

トーハクで特別展「古代メキシコ」を見学するー古代メキシコへのいざない

トーハクで特別展「古代メキシコ」が始まった。いつも特別展は最後のころになってやっと出かけていたので、混んでいる終了間近を好んでいるのではと冷やかされていた。今回はゆっくりと観たいと考え、あまり混雑しないと噂されている開始直後にした。選んだのは、開幕した次の週の初めであった。予想が見事に当たり、ゆうゆうと見学することができた。またこの特別展は全作品が写真撮影OKだったので、その利点も充分に活用できた。

しかし予備知識なしに出かけたために、展示物の意義があまり分からず、日本の古代の遺物とは随分と違うという程度の理解にとどまった。展示会から戻り、記憶に残っているうちにと思って、青山和夫さんの『マヤ文明』と鈴木慎太郎さんの『古代マヤ文明』を速読した。青山さんは、石器を研究されている方で、彼のウェビナー「マヤ文明の起源とメキシコバスコ州アグアダ・フェニックス遺跡の最新の考古学調査」(2020年6月19日開催)によれば、21万3548点もの石器を既に研究されたそうである。一方鈴木さんは、考古人骨研究を専門とされる方で、最近の科学技術を利用して新しいアプローチで挑んでいる。

我々は古代には四大文明があったと学んだが、現在ではこれから紹介するメソアメリカ文明とさらに南米のアンデス文明を加えて、六大文明とすることもあるようだ。メソアメリカ文明はメキシコ・中央アメリカ北西部で繁栄した。この文明の特徴は何と言っても石器文化で農業社会を継続したことだろう。ユーラシア大陸では、大きな川に沿ってイネや麦の栽培が始まり、さらには鉄や家畜も使うようになって、農業革命と言われるような大変革をもたらした。しかしメソアメリカではこれらの利器を手にすることはなかったので、石器による定住生活がずっと営まれた。主食としたのはトウモロコシ、そしてカボチャやジャガイモが加わる。今日我々が口にするトウモロコシの原産地は、この地域である。しかし最初から今日見るような立派なものだったわけではなく、小ぶりの粒も少ない穀物だった。長い時間をかけて、選択的に少しずつ大きなものを得て、今日の優れた作物になった。そしてメソアメリカの農業は、菜園のような小規模・集約栽培と焼畑農業を組み合わせたり、一方だけ、特に焼畑農業だけが行われた。そして焼畑農業に依存した場合には、環境破壊を起こし、長い期間にわたる定住を困難にした。

農業に関連してのもう一つの特徴は、牛や馬などの労力を軽減するための家畜がおらず、すべてが人手で行われたことであった。さらには鉄器を利用することもなかったので、農作業に伴う労力は大変なものだった。さらに物流も人手で行われたので、遠方への、特に大きな物や重量のある物の運搬は難しかった(車輪の原理は知られていたが、大型の家畜が存在しなかったので、荷車は発達しなかった)。このため遠隔地との交流は脆弱であった。

覇権国の地理的な大きさは情報が伝わるスピードに比例すると言われている。騎馬や狼煙などで高速な情報伝達能力を手に入れたモンゴル帝国ユーラシア大陸をほぼ覆うほどの支配地域を有したが、古代メソポタミアでは情報伝達に時間がかかったため、覇権国と呼ばれるような王朝は生まれず、限られた領域を支配する国々がネットワークで結ばれる分散型の世界が生まれた。今日のインターネットがそうであるように、分散型のシステムはレジリエントである。即ち、回復力、抵抗力、耐久力、再起力に優れている。

メソアメリカ文明の時期については異なった意見があるものの、紀元前10世紀にはすでに始まり、スペイン人が侵入してきた16世紀までの、少なくとも3500年は続いた。農業定住が始まったのが紀元前20世紀で、スペイン人が侵攻した後でも変容しながらも現在まで継続しているという見方もあるので、もっと長いと見ることも可能である。このような長い期間にわたって、文明が継続したのは、先ほど説明したネットワークによる分散型社会であったことによる。

メソアメリカ文明が繁栄した地域の地理学的特性は多様である。東側と西側は海に面し、その中央部は高地である。住みやすい場所に人々が定住し、人口が増加し、国が誕生する。そこでは活発な経済活動が行われ国が栄える。一方で木々の伐採や焼畑などで環境破壊が生じ、豊かであった土地は荒涼とした場所へと変化し、住人は移動を余儀なくされる。また国々で競い合うことによって戦争も生じ、戦いに敗れた国は廃墟となることもある。さらには、噴火・風水害などの自然災害によって国が打撃を受けることもある。ネットワーク型の社会では、いくつかのノード(国)が失われたとしても、ネットワークがなくなってしまうことはない。他のノードは生き残り、さらには新たなノードが生まれ、姿を変えてネットワークは生き延びる。メソアメリカ文明の歴史も同じで、一つの国が繁栄をし続けることはない。どの国にも栄枯盛衰があり、一つの国が滅びると、別の所で新たな国が栄えるということで文明をリレーして来た。

メソアメリカ文明は、ピラミッド・神殿・絵文字・数字・暦・作物(とうもろこし・唐辛子・かぼちゃ)などを、時代を通して共有しながら、次のように推移した。今回の特別展の図録によれば、紀元前1500年頃にメキシコ湾岸にオルメカ文明が誕生して紀元前400年頃まで続き、ここでの文明がそれ以降に引き継がれた。紀元前100年にはメキシコシティ北東に巨大都市文明であるテオティワカン文明が生まれ、550年ごろまで続いた。同じメキシコ高原では、トゥーラ文明が800年から1150年まで、アステカ文明が1325年から、スペインに併合されるという歴史を辿りながらも現在まで息づいている。一方、マヤ地方では、マヤ文明が紀元前1200年に誕生し、同じようにスペインに併合されたが、やはり今日まで繋がっている。しかしマヤ文明は一地域にとどまったわけではなく、初期の段階はマヤ低地南部で栄え、その後衰退して北部へと中心が移った。即ち、紀元前1200年から紀元前700年まではアグアダ・フェニックスで、200年から800年まではパレンケで、500年から900年までトニナで栄えた。これらはいづれもマヤ低地南部である。その後北部のチチェン・イツァで700年から1100年まで栄えた。

今回はメキシコ展なので、ユカタン半島の南側のグアテマラホンジュラス、エル・サルバドルにある遺跡については紹介されていない。例えばグアテマラには世界遺産になっているティカルがあり、紀元前800年から10世紀ごろまで、2000年も続いた遺跡である。

メソアメリカ文明での特徴的な建造物は、ピラミッドと神殿である。上の写真からもわかるようにいくつかの遺跡では四角錐のピラミッドとその上部に建つ神殿のような建物を観察できる。これらの建造物は石造りである。この地域の人々は、世界が天上界・大地・地下界で構成されると考えていた。そして地下界は九層から成り立っていた。ピラミッドの中には9層のものが見受けられ、死んだ後の世界を象徴していたのだろう。そしてピラミッドの建設目的も、最近では王墓という見方が強くなっている。また王は神格化され、超自然的な権威が正当化されていた。

数字は20進法。これは手と足の指の数に相当するものと考えられ、0も存在した。かつて中国や日本で使用された干支による暦は60年で一巡したが、マヤ暦も52年で循環する暦を用いる(太陽暦の365日と宗教暦の260日を絡ませて作られている。20進法で群論を適応すればよいのだが、議論がとても数学的になるのでここでは省略。興味のある方は20進法と肝に銘じて考えるとよい。割り算は存在しないのでひたすら剰余に固執すること)。また文字も存在し、音と意味を表す絵文字を用いていた。最近はこの解読が進み、メソアメリカの歴史がわかるようになって来ている。

人身供犠もメソアメリカ文明の特徴の一つ。かつてこれは生贄と強調され、とても野蛮な習慣と看做された。しかし今日では、人身供犠は、人間の特性である利他行動とみなされるようになっている。先住民の神話では、太陽、月、トウモロコシ、そして人間も、神々の犠牲により生まれ動いているとされる。さらに自然界の動植物も、他者の存続のための犠牲により、保持されているとする。そこで、神々の犠牲に報いるために、我々人間も犠牲(生贄)で応じるべきであるという倫理観となった。

ゴムのボールを用いた球技をメソポタミアの人々は楽しんだが、これは宗教的儀式や外交使節を迎えての儀式としても行われた。宗教儀式の時は、負けたチームのキャプテンは、生贄にされた。生贄にされることが最高の栄誉だとすると、勝ったチームのキャプテンが生贄にされるのが正しいように思えるが、そうでは無いようだ。利他的と謳っているようだが、最後の最後で、利己的なのが面白い。

それではトーハクの会場に入ってみよう。最初の会場は「古代メキシコへのいざない」で、メソメキシコ文明の全般的な紹介である。
トップはオルメカ様式の石像。オルメカでは初期の頃(先古典期前期:紀元前1400-紀元前1000年)は巨石人頭像が多く見受けられたが、先古典期中期(紀元前1000年-紀元前400年)になると石彫に加えて翡翠などの緑色岩の像が見られるようになる。なおメソアメリカ文明の時代区分は、先古典期(紀元前2000年-250年)、古典期(250年-950年)、後古典期(950年-1521年)、スペイン植民地時代に分けられる。

ジャガーの土器。アメリカ大陸で食物連鎖の頂点に立つジャガーは王や戦士の権威の象徴として崇められ、多くの神がジャガーの姿で表されるとともに、生贄としても捧げられた。マヤ文明600-950年。

フクロウの土器。フクロウは地下世界の使者と考えられてきた。マヤ文明250-600年。

クモザルの容器。マヤ神話における猿は、人間を創造する前に作られた失敗作と考えられ、森にとどまるものとされた。中央ベラクルス950-1521年。

メタテ(石皿)とマノ(石棒)。トウモロコシの実を挽く台とすりつぶす棒。テオティワカン文明250-550年。

チコメコアトル神火鉢。芳香樹脂を燃やすための火鉢と思われる土器。トウモロコシの女神(チコメコアトル)を表現した。アステカ文明1325-1521年

球技をする人の土偶。マヤの王侯貴族は厚い防護をつけ、大きなゴムのボールを、主に腰を使って打つ競技を行っていた。マヤ文明600-950年。

シペ・トテック神の頭像。トラカシペワリストリと呼ばれる太陽暦の祭りの際に、捕虜が生贄にされるヨビコと呼ばれる建物に、この神は祀られた。シペ・トテックは皮を剥がれた我らが主で、生贄となった人間の皮を身にまとった男性である。アステカ文明1325-1521年。

テクパトル(儀礼用ナイフ)。アステカ文明1502-20年。

マスク。マスクではなく香炉台に装飾として貼られていたようである。テオティワカン文明350-550年。

装飾ドクロ。供物として埋葬されたもので、死者の世界の主であるミクトラテクトリを表したものと考えられていて、マスクとするために、両目の窪みに、貝殻と黄鉄鉱が嵌められている。アステカ文明1469-81年。

貴人の土偶。マヤ人は織物、染料、革細工、羽細工などの技術に優れていた。副葬品も当時の姿を偲ばせてくれる。マヤ文明600-950年。

この後は個別の遺跡の紹介に移るので、全般的な説明はここで終了である。ところ変われば、文明が変わることを改めて認識させられた。日本の縄文時代は、紀元前13,000年から紀元前1000年ごろまでで、狩猟採取の定住生活を送り、石を用いて道具を製作した。弥生時代は、早い地域では紀元前1000年ごろに始まり、300年ごろまで続いた。水田稲作の定住生活である。紀元前3世紀ごろには、北九州に中国東北系の鋳造鉄器が持ち込まれている。古墳時代に入って、大きな古墳を有する豪族が各地で出現し、豪族間の競争を経て、律令制度による中央集権国家へと移行する。一方で鉄を利用できなかったメソアメリカでは、中央集権国家となることはなく、都市国家のネットワークによる分散型のレジリエンスに富む社会が作られた。地勢的な条件が文明を形成する上でどれだけ大きな影響を及ぼすかを改めて認識させてくれるよい特別展であった。

雪舟にみる室町時代の生き方

毎年恒例になっている研究会での年一回の発表をした。今回は、島尾新さんの『画僧 雪舟の素顔 天橋立に隠された謎』をベースにというよりも、この本に頼り切って、発表を行った。このため、島尾さんの著書の紹介ともいえるのだが、それでも室町時代の特徴を織り込ませながら紹介した。この時代は何と言っても、「集権から分権へ」の移行だろう。足利尊氏・直義兄弟で始まる足利幕府は、3代将軍義満の時に朝廷をも凌駕する勢力を有するようになった。しかしそれもつかの間、6代将軍義教は籤引きで選択され、最後は謀殺されるほどに権力は低下し、8代将軍義政の時は、応仁の乱が発生し、東と西に分かれて戦うだけでなく、守護大名の領国内でも戦いが起きるような状況となった。乱の終了後は、守護大名は京からそれぞれの領地に移住し、分権の時代となる。このような分権の時代においては、誰が味方で誰が敵なのかが明瞭にならず、また味方であったとしても明日には寝返るかもしれず、その逆も起こりえるので、安穏とした生活を送ることはできない。自分の力だけが頼りである。このような時代背景の中で、水墨画に長けていた雪舟が、その能力を最大限に生かして生き抜いていく様を、島尾さんの本を頼りにしながら発表した。

発表は大成功で、多くの方からとても面白く興味深い話でしたと褒められた。いつもは二次会には参加しないのだが、褒めていただいたお礼にということで、一緒させていただいた。駅前の居酒屋なのだが、人手不足が深刻なのだろう。メニューの代わりにQRコードが渡された。携帯でコードを読み込むと、メニューが出てくる。そこから酒やつまみを注文するという仕掛けになっている。我々以外は、全てが若い人達で、何の不便も感じていないようだ。我々のグループと言えば、携帯の扱いになれた人は誰だろうと探り合いながら、運悪く皆の目線が注がれた人が、不器用な手つきで携帯を操作し始めた。QRコードのことを知らなかったのだろう、その写真を撮ってずっと待っている。みんなで笑って選手交代した次の人は、メニューが出てくるところまでは進んだのだが、字が小さすぎて読むことができない。この後もいろいろな事件が続いたものの、なんとかオーダーまでこぎつけた。すると今度は、店員さんが不足していて、なかなか運ばれてこず、口に入るまでかなりの時間を費やした。スムーズに事を運んでいる若者たちを横目で見ながら、時代から取り残されつつある世代であることを嫌というほど知らされた。

発表したときの原稿は、以下の通りである。

室町時代中期の水墨画僧・祥啓の作品に触れる

神奈川県立歴史博物館で特別展『あこがれの祥啓』を開催している。祥啓という画僧を今でこそ知る人は少なくなったが、江戸時代には贋作も出るほどの人気があった。祥啓が活躍した時代は、室町時代の中期で、雪舟と同世代かあるいは少し下がる世代である。しかし生没年不詳で自画像もないので、不明な点が多い。

史料上彼が初めて現れるのは、同朋衆の芸阿弥が別れに際して贈った『観瀑図』に記載の賛である。そこには、京都で3年間学んで鎌倉に帰る祥啓に、はなむけとして贈ったとなっている。この絵が書かれたのが1480年なので、1478年に祥啓は京都に上ったことが分かる。

芸阿弥「観瀑図」(根津美術館所蔵、重要文化財)

水墨画は、筆・墨・水というきわめて単純な道具を用いているにもかかわらず、その描き方の技術は奥が深い。一番、分かりやすい描画法は、書道の楷書、行書、草書に倣って、明瞭にくっきりと描く楷体、少しだけ崩して描く行体、抽象画のように大幅に崩して描く草体である。専門的な用語を用いると、楷体は鈎勒(こうろく)法、行体・草体を没骨(もっこつ)法という。さらには、草体を描画法の違いによって、破墨(はぼく)法と潑墨(はつぼく)法とに分けられる。あるいは、著名な画家の描き方を名前で表して、夏珪(かけい)様・馬遠(ばえん)様・孫君澤(そんくんたく)様(いずれも楷体)、牧谿(もっけい)様・梁楷(りょうかい)様(いずれも行体)、玉澗(ぎょっかん)様(草体)などと呼ぶ。

京都に上るまでは、祥啓は仲安真康に学んだとされる。仲安真康も分からないことが多い画僧である。同じように生没年は不詳であるが、最近、常陸国の生まれらしいということが分かった。仲安真康は行体で、牧谿様を得意としていた。このため、祥啓も彼から学んでいた頃は牧谿様で描いたのではないかと推察される。

牧谿筆「漁村夕照図」(国宝 根津美術館蔵)

ところが、現存している彼の水墨画は、明瞭・細密な楷体・夏珪様である。これは彼が京都に在住しているときに、芸阿弥から宋の宮廷画家が描いた水墨画、あるいはその正確なコピーを得て学び、その描き方を習得したのではないかと考えられている。

室町幕府は明との貿易に熱心で、とりわけ中国の文化を流入することには力を注ぎ、3代将軍義満のときは金閣寺に代表される北山文化、8代将軍義政のときは銀閣寺で知られている東山文化が栄えた。幕府の芸術部門のディレクターは同朋衆が務め、水墨画をはじめとする中国からの貴重な品々は東山御物とされ、同朋衆によって管理された。『観瀑図』を贈った芸阿弥も同朋衆だったので、彼を通して祥啓は東山御物に接することができたとみられている。

ところで、祥啓が入洛したのは応仁の乱が終了した翌年である。応仁の乱は10年間続いたが、勃発時に、室町幕府菩提寺であり、禅宗の総本山でもある相国寺が焼け落ちた。このため東山御物を見られる環境にあったのかについては疑問が残るが、実物ではないにしろ正確な模写に触れる機会があったのではないかと考えられる。

祥啓が京都に向かった時、関東では享徳の乱がおきており、鎌倉公方足利氏と関東管領上杉家との間で、断続的に戦っていた。このような混乱の中にあって、祥啓はなぜ京に上ったのだろう。

祥啓は、事務方の職である書記というポジションにあり、啓書記とも呼ばれていた。高い僧位を得られる地位にはない。このため僧としての栄達は望めないので、水墨画に目覚め、それを窮めようとしたのであろうか。はたまた、管領・上杉方あるいは公方・足利方のインテリジェンスとして、京の情報を得るために入洛したのだろうか。残念ながら入洛の動機を知るための手がかりは今のところない。しかしともかく、彼は京都で勉強し、芸阿弥からも認められる画僧に成長した。

鎌倉に戻ってからの彼は、明瞭な境界線を特徴とする楷体・夏珪様で山水画を、院体画のように細密に鈎勒法で花鳥図・人物図を描いた。

それではいくつかの作品を見ていこう。根津美術館所蔵の「山水図」は、特別展にも展示されていた作品で、ボストン美術館所蔵の「山水画」と並んで、祥啓の代表的な作品である。夏珪の様式に倣い、骨気ある筆致で、岩組・樹木・諸景物が整然と配されている。

祥啓「山水図」( 重要文化財 根津美術館蔵)

次の作品はクリーブランド美術館所蔵で、瀟湘八景の中の一場面「遠浦帰帆」を、同じように夏珪の様式に倣い、描いている。特別展では、これとは異なるが、白鶴美術館所蔵の「瀟湘八景図」が展示されていた。

Kenkō Shōkei "View of Xiao Xiang" (Cleveland Museum of Art)

次の作品もクリーブランド美術館所蔵の「小川の上にとまるカワセミ」である。特別展で展示されていた神奈川県立歴史博物館所蔵の「花鳥図」は、もっと細密に描かれていて、宋時代の院体画を正確に模写したと推定させられた。

Kenkō Shōkei "Kingfisher perched above a Stream" (Cleveland-Museum-of-Art)

祥啓は、関東の画僧たちに大きな影響を与えた。祥啓は弟子をとらなかったようだが、多くの画僧が彼にあこがれた。その中で代表的な画僧は興悦である。興悦は、祥啓様に倣って輪郭が明瞭な鈎勒法の作品を残す一方で、独自性を表し、没骨法での画も描いた。特別展にも出展されていた、次の東京国立博物館所蔵の「山水図」は、筆数を減らしてわざと粗っぽく描いている。中国の高名な画僧・玉澗の様式にならったものだろう。なおこの山水画には、戦国大名北条早雲の子である幻庵宗哲(長綱)が賛を書いている。このことは、室町時代に関東を支えた鎌倉公方(のちの古河公方)の足利氏、関東管領の上杉氏が衰えたとき、代わりにパトロンになったのは小田原北条氏であることを伺わせる。

興悦「山水図」( 東京国立博物館)

次の作品は、メトロポリタン美術館所蔵の啓孫の「四季山水図」である。啓孫の作品は、後の世になると、「啓書記筆」と説明されることが多く、祥啓の作品であるかのようにみなされた。それほどに似ていたのであろう。この作品ももちろん祥啓様である。

Keison "Landscapes of the Four Seasons" (Metropolitan Museum of Art)

雪舟とほぼ同時代を生きた祥啓の作品を見てきた。祥啓は、没骨法牧谿様の作品を得意とする仲安真康に学び、そのあと京都で芸阿弥から東山御物(あるいはそのコピー)を閲覧する機会をえて、山水画については鈎勒法の夏珪様を、花鳥図・人物図については細密な院体画を学んだ。雅な京の雰囲気を醸し出す彼の作品は、鄙びて粗野に見える関東の水墨画に、大きな影響を及ぼした。戦国時代になると、祥啓様ともいえる画法が確立し、興悦・啓孫など多くの後継者が生まれた。江戸時代になると、狩野派からのバックアップもあり、祥啓はあこがれの的となった。しかし明治に入って、文明開化・廃仏毀釈など近代化の波に抗しきれず、次第に忘れられていった。今回の特別展は、もう一度祥啓に焦点を当ててみようということだろう。特別展で展示された作品は、図録『あこがれの祥啓 啓書記の幻影と実像』に丁寧にまとめられている。手元において時々眺めるのに適した資料である。