bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

高崎市・かみつけの里博物館を見学する

高崎市には歴史博物館が多い。今回はその一つのかみつけの里博物館の見学である。

博物館の入り口。

展示室に入ると大きなジオラマがある。6世紀初めに榛名山が噴火し、保渡田古墳群とその周辺が受けた影響を描き出してくれる。右上には二子山古墳・八幡塚古墳・薬師塚古墳があり、右下や左上に集落がみられる。

古墳時代の豪族の館のジオラマもある。三ッ寺1遺跡からは、豪族の館跡が発見された。これは古墳時代のものとしては初めてのものであり、これまでに発見されている豪族居館としては、最も整った構造である。榛名山東南麓の井野川流域を拠点とした王は、この館にあって、上毛野を代表する勢力として活動した。この居館の中には、政治の場と祭祀の場が一緒に取り込まれ、王の活動を支える補助部門も付属するなど、構造的に作られている。

発見された遺物。





八幡塚古墳のジオラマ

埴輪。









高崎市下芝五反田遺跡出土の朝鮮三国系の軟質土器。朝鮮半島の技法でつくられた土器を朝鮮三国系土器と称している。その中には、祭祀などで使用される硬質な陶質土器と、日常生活で使われる赤焼きの軟質系土器の二種類がある。ここに展示されている土器は、日本へ渡来した半島の人たちが、生活道具として、土器技術を忘れないうちに作ったもので、渡来第一世代がこの地にいたことを示すものである。


飾履(高崎市下芝谷ツ古墳出土)。5・6世紀ごろの朝鮮半島では、金製・銀製・金銅製の装身具が豪族たちの身分差を示すために使い分けられていた。同じころ、半島の影響を受けた日本でも、金色の装身具・武器・武具・馬具が流行した。中でも装身具は、冠・耳飾り・帯金具・飾履(しょくり)など多彩だった。足元を飾る飾履は19の出土記録があるのみで、全形をとどめるものは5,6例に過ぎない。飾履を入手するルートを有していた豪族は非常に限られていて、極めて貴重な装飾品である。


帰りのバスまで時間があったので、近くの寺・大円寺を参詣した。
山門。

本堂。箕輪城主長野業盛の大きな絵馬が、壁の右上に飾られている。彼は上杉氏側の武将として活躍したが、武田信玄の猛攻によって破れ、自害した。

高崎市指定重要文化財大円寺木彫阿弥陀如来坐像が祀られている御堂。

これで3泊4日のクラス会ならびに古墳巡りの旅は終わりである。長野と群馬の二つの古墳は、これまで見学したいと思っていたが、コロナなどの影響もあり、なかなか実現出来なかった。今回、中学の時のクラス会が久しぶりに開催され、その前後を挟むようにして古墳巡りを加えた。二つの古墳とも、想像を超えて輝いていた。尾根の上に作られた森将軍塚古墳は、曲がった形の前方後円墳で苦労して築造したことがよくわかった。また保渡田古墳群は、復元した古墳と草に覆われた古墳の対比が見事で、古代と現在の姿の両方を知ることができ、有意義であった。次は、新潟で縄文時代の土器を見たいと思っている。

群馬県高崎市の保渡田古墳群を見学する

今回の旅行もいよいよ最終日、前々から行きたいと思っていた保渡田古墳群を訪ねる時が来た。群馬県には古代の遺跡がたくさんある。その中でも古墳は際立って多く、4~7世紀の時代を知るのには格好の場所である。先ず群馬県の古墳がどのように推移したのかを見ておこう。かみつけの里博物館で次のように紹介されていた。


古墳時代のある時までは、関東北西部は毛野(つけの)と呼ばれていた。そのうち、群馬県のあたりは上毛野、栃木県のそれは下毛野と呼ばれるようになった。平安時代に書かれた『先代旧事本記』には、仁徳天皇のとき、毛野国は二つに分けられたと書かれている。最近の研究によれば、5世紀末から6世紀初頭の頃、栃木県小山市周辺に大型前方後円墳が生まれているので、その頃に栃木県域に強い政治勢力が生まれ、これを下毛野と呼び、毛野と呼ばれていた群馬県の地域を上毛野と呼ぶようになったとされている。保渡田古墳群がつくられたのもこのころであり、上・下と呼び分けられたころの上毛野地域の中核は榛名山東南麓にあったようだ。

時代は少し遡り古墳時代前期(4世紀)には、太田市地域・前橋市南部・高崎市西部に、全長100m内外の大型古墳が造られ、東日本では傑出していた。各地域では前方後方墳(東海地方起源)が造られ、続いて前方後円墳(ヤマト起源)が築かれた。土器の研究から、4世紀初めに群馬県固有の弥生土器(樽式土器)が急速になくなり、東海西部の流れをひく土器が新しく定着する。古墳時代の最初は東海地方の影響が強く、この地方から来た人も加わって群馬県域が大幅に開発され、前方後方墳が造られたという説が有力である。やがてヤマトの権力が及び、有力者の墓は前方後円墳に統一された。

古墳時代群馬県各地には大小の豪族たちがおり、特に高崎市南部と太田市に起点を持つ豪族は有力であった。高崎市南部・烏川流域は、5世紀初頭にピークを迎え、全長170mもの浅間山(せんげんやま)古墳が築造された。これは、この時期には、東日本で最大であった。大田市地域の王は5世紀初め浅間山古墳に匹敵する別所茶臼山古墳を残し、5世紀半ばには古墳時代を通じて東日本最大の全長210mの太田天神山古墳を築いた。このとき大田市地域の王は、上毛野を統合する巨大な勢力になったと考えられる。太田天神山古墳と伊勢原市の御富士山古墳では、ヤマトの大王や有力豪族と同じ棺・長持型石棺となっている。また5世紀前半には藤岡市に全長140mの白石稲荷山古墳が築かれた。

5世紀の半ばに巨大化した太田市地域の王は、その後半になると急速に衰え、巨大古墳はみられなくなる。同様に浅間山古墳に勢力を築いた高崎市烏川流域の古墳もかつての勢力はなくなる。これに代わって、西群馬の井野川流域が台頭する。わずか50年足らずの間に、綿貫古墳群や保渡田古墳群をはじめ100m級の前方後円墳が数多く築造され、ヤマトと関係を結んだようで、いち早く馬具や人物埴輪などの先進技術を取り入れた。しかしこのときは傑出した巨大古墳は見られず、上毛野の地域勢力にとって大きな変革があったようである。

榛名山東南麓(井野川・烏川流域)は、5世紀後半の大型前方後円墳が集中する全国でもまれな地域で、この頃の上毛野の中心であった。50年足らずの間に、直径10㎞圏内に8基もの大型前方後円墳が造られた。これはヤマト地域を除けば特異な現象である。この状況は農業生産力の高まりだけでは説明できず、ヤマトとの特殊な政治関係や、農業以外の特殊な経済基盤などが考えられる。これらの前方後円墳には舟形石棺を内蔵しており、相互の緊密な関係が伺われる。

6世紀初め、保渡田古墳群を築いた王が榛名山の火災災害をきっかけに移動すると、前方後円墳の過密集中地域はなくなる。赤城山南麓に勢力を伸ばした大室古墳群がやや傑出するものの、上毛野の主要地域ごとに100m級前方後円墳が点々と造られ、王たちの勢力は比較的均質だったようだ。その中で、藤岡市の七興山古墳だけが全長140mととびぬけた大きさを誇り、6世紀では東日本最大の名古屋市断夫山古墳とほぼ同規模である。この古墳は6世紀の中で確定していないが、ヤマト王権の直轄地「緑野(みどの)屯倉」が設置された場所でもある。

7世紀になると全国的に前方後円墳が造られなくなり、有力な豪族の墓は方墳に変化し、横穴式石室の中を豪華にする。上毛野各地では7世紀になると多くの王たちの墓は円墳に変わる。この中で方墳を代々築いたのは前橋市の総社古墳群のみである。家形石棺を持つ愛宕山古墳、切石室の蛇穴山古墳などの総社古墳群は7世紀上毛野の最有力士族「上毛野氏」宗家と推定されている。

それでは、5世紀のところで簡単に説明した保渡田古墳群を見学に行こう。この古墳群は、榛名山の南麓の保渡田・井出の地に分布しており、二子山古墳・八幡塚古墳・薬師塚古墳の三基の大型前方後円墳が残っている。

新幹線が傍を通っているので交通の便は良さそうに見えるが、公共の交通機関を利用していこうとすると、なかなか不便である。高崎駅前橋駅からバスでということになるが、本数がとても少ない。前橋駅からの方が便数が多いので、といっても一日5便だが、ここからのバスを利用した。行きも帰りもほとんど貸し切り状態であった。

綺麗に整備されている八幡塚古墳は、墳丘長120m、後円部径56m、高さ現存6m、前方部幅53mで、周濠は馬蹄形で二重に取り囲み、さらに外側は幅の狭い外周溝が巡っている。墳丘には葺石が置かれ、円筒埴輪列が墳丘裾部、中島裾部、中堤縁にある。
全景。


内堀。

埴輪。

葺石。

前方部より後円部を望む。

後円部より前方部を望む。

中島。内堀の中に4基あり、それぞれ直径18m、葺石が施され、円筒埴輪列が巡っている。

舟形石棺

二子山遺跡は墳丘長74m、後円部径56m、高さ10m、墳丘部は三段築成で、前方部幅71m、高さ7m、周濠は馬蹄形で二重に造られており、内濠部に後円部を囲むようにくびれ部と斜面側後方部分に中島4基を配置している。墳丘・中島・中底部とも川原石で葺石としている。また円筒埴輪列を巡らしている。
全景。

後円部。

奥の寺のあたりが薬師塚古墳。延光寺の堂宇や墓地のため、かなり削られている。墳丘長は100mを越え、二重に周濠を巡らしていると推定されている。

巨大な前方後円墳というわけではないが、二つの墓はきれいに整備され、古墳の様子がとてもよく理解できた。この後、かみつけの里博物館を見学した。

戸隠神社に行く

今回の旅行の主目的であるクラス会は北志賀高原で行われた。Wikipediaによれば、ここは志賀高原に含まれないようだが、同じようにスキー場としてよく知られている。しかし流石にこのシーズンは閉じているホテルの方が多い。17時にホテルに集合で、温泉に入り、飲食しながら遅くまでお喋りして、クラス会はお開きとなった。翌朝は散歩に出かけたが、人影はなかった。冬は白銀の世界となるゲレンデは、草で覆われ、緑が眩しかった。

皆で朝食をとっている時に、昼飯は戸隠でとなり、途中にある中野市の一本木公園でバラを鑑賞しようということにもなった。高校の先生をしていた黒岩喜久雄さんが、自宅で育てていたバラ(172種179本)を中野市に寄付したことがきっかけで、現在は850種3000本のバラが植樹されている。




戸隠にはたくさんの蕎麦屋がある。いくつかが候補に上がったが、宿坊と蕎麦屋を一緒に経営している店が良さそうだと決まり、そこで山菜天ぷら蕎麦を食した。その後は戸隠神社の中社を見学した。

戸隠神社のホームページには、伝説が紹介されている。それによれば、「はるか神代の昔、戸隠神社高天原に由来する天岩戸開き神話ゆかりの神々を祀っていた。弟のあまりの乱行に天照大神は岩戸に隠れたため、世の中は真っ暗になり、大混乱になった。そこで、困った神々が会議をし、大神を再び外へ連れだすため、歌や踊りの祭りを開いた。その賑わいを不思議に思い、天照大神が少し戸を開けたところで、手力雄命( たちからおのみこと) が岩戸を押し開き、大神を迎えた。その岩戸が下界に落ちて戸隠山になった」とされている。戸隠神社は五社からなり、この神々の物語から、各社は神話の中に現れる神を祀っている。中社は、天八意思兼命(あめのやごころおもいかねのみこと)である。

戸隠神社は、この他にも、地主神として水と豊作の大神の九頭龍大神を祀っている。これは戸隠信仰の始まりとされている。天台密教が伝播した後、神仏習合顕光寺が創建され、戸隠信仰は修験道とも習合した。しかし明治時代の神仏分離令により、神仏一体の戸隠信仰は神道か仏教かの選択を迫られ、戸隠信仰の源流が古代人の山への信仰にあったことから、仏教的なものは一掃され、神社神道として歩むことになり、現在に至っている。

中社。

さらに鏡池に足を伸ばした。早朝の穏やかな時に来ると、戸隠山が水面に移り、幻想的な光景が醸し出されることで有名な池である。ここに到着したのは午後で、風も少しあったので、湖面は小さな波が立ち、山の姿は映されてはいなかった。


この後、長野駅まで送ってもらった。今日の行程は100kmを超えていた。昨日までの徒歩での旅と比較すると、比べられないほどに大きく移動している。徒歩での旅はその土地の風情が感じられて良いものだが、車での旅はなんといっても効率的で、しかも楽である。運転してくれた同級生に感謝している。次は2年後に開催したいと言っていたが、みんな健康でいてくれることを祈って、次の地へと向かった。

松代で真田邸・真田家菩提寺を訪ねる

松代は、江戸時代の情緒を残す落ち着いた佇まいの素晴らしい町だ。松代城が残っていればもっと素敵なのだが、今も進んでいる復元事業に期待しよう。江戸時代には、重なる火災や洪水の惨事に遭遇し、初期の松代城の建物は早くに失われた。中頃には本丸はすでになく、西側にあった花の丸御殿が藩主の政務と生活の場であった。明治時代には廃城となり、土地・建物が順々に払い下げられ、桑畑として開墾され、建物も取り壊された。花の丸御殿も明治初めの放火で焼失し、現在まで残っているのは、三の堀の外に建てられた新御殿(真田邸)などわずかである。この新御殿は、9代藩主・幸教(ゆきのり)が母の隠居所として建てたもので、明治以降は真田家の私邸として使われた。ここは、表座敷・居間・湯殿など江戸時代の大名邸宅の面影をよく残している。また「御殿建築」は、全国にもほとんど残されてないので、貴重な建物である。

それでは真田邸を見ていこう。先ずは表門。

玄関。

床の間の生花。

真田邸には「表」と「奥」の区分があり、その間は杉戸で隔てられている。

「表」の部分から見ていこう。
座敷。

庭園。「水心秋月亭」と名付けられ、心字池を中心に三尊石・滝口を南面に配し、周囲の山々を借景としている。



「奥」の部分。座敷。

湯殿。

近くには真田宝物館があり、真田家ゆかりの古文書、武具、調度品などが飾られていた。

この後、初代藩主夫妻の菩提寺を訪れた。その途中で赤澤家住宅表門を見る。これは国の登録有形文化財になっている。文化庁のデータベースには、「旧武家町の通りに北面して建つ。1間薬医門、切妻造桟瓦葺、左右に袖塀を付け、西に潜戸をたてる。妻飾は男梁上に笈形付大瓶束を立て、破風拝みに鰭付蕪懸魚を付し、要所に絵様実肘木を用いるなど装飾性を高めている。上級武家屋敷の表門の格式を受け継ぐ遺構」と説明されていた。

真田信之の妻・小松姫菩提寺・大英寺に向かう。小松姫は先の記事で触れたように、徳川家の重臣本多忠勝の娘。徳川家康の養女となった後、嫁いだ。ここの本堂は、小松姫の霊屋(たまや)として、寛永元年(1624)に建立された。明治時代になって、真田家からの援助がなくなり、寺の維持が困難になったため、いくつかの堂を取り壊し、霊屋を本堂として残した。
表門へ続くこじんまりとした小道。

表門。

本堂。

鐘楼。

次に信之の菩提寺である長國寺に向かった。その途中にあった祝(ほうり)神社。松代城下時代は町方の産土(うぶすな)神、総鎮守社として祀られ、今も親しみを込めて「お諏訪さん」と呼ばれている。

いよいよ長國寺。住宅街の方から総門を望む。

総門。

本堂。屋根の傾斜がきつい建物で、上部の六文銭が際立っている。

この寺の創立時の歴史を簡単に記しておこう。信濃の在地領主であった真田幸隆が、天文16年(1547)に、伝為晃運(でんいこううん)禅師を開山第一世に招き、一族の菩提寺として、松尾城内(小県郡真田町・現上田市)に「長谷寺(ちょうこくじ)」を建立し、永禄7年(1564)に城外に移された。江戸幕府が開かれ、幸隆の孫の信之が上田城主となり、さらに元和8年(1622)に松代へ移封された。これにともなって現在の場所に移転し、寺号も長國寺と改められた。
僧堂。

放光殿。

庫裡。

開山堂。3代幸道の霊屋として建立されたものを、明治5年の本堂再建の際に現在地に移され、開山堂にあてられた。方三間の宝形造、桟瓦葺である。

鐘楼。

そして寺の方に案内されて、信之の霊屋を参拝した。黒漆の表門。

重要文化財の宝殿。修復なったばかりということで、落ち着いた雰囲気で、荘厳である。文化遺産オンラインには、「宝殿は正面三間、側面四間入母屋造で千鳥破風や唐破風を付け、随所に彫刻を入れ、内外全面に極彩色や漆塗を施すなど、豪華な意匠で、地方藩主のものとしては比較的大型であり、霊廟建築の一遺構として価値がある。」と説明されている。



隣には、2代信政の霊屋があった。

筆頭家老の矢沢家の表門を通って、旧松代駅に向かい、帰路についた。

城下町松代の歴史散歩を楽しんだ。道はT字路になっているところが多く、さてどちらを歩いているのかと迷いそうだったが、そのようなところには大概道案内があったので、間違えることはなかった。また、適当に歩いていると、旧家に遭遇したりして、歴史を感じさせてくれた。今回は、佐久間象山の関連の施設を見ることができなかったが、機会があれば訪れたい。

松代城・藩校文武学校を訪れる

クラス会は夕方からなので、午前中は空いている。それではということで、城下町の松代を訪ねることにした。この町は現在は長野市の一部になっているが、子供の頃は埴科郡松代町であった。昭和41年に合併して現在に至っている。この町の現在の人口は1.7万人弱である。江戸時代は真田氏が治める松代藩で、現在でもその時の名残りをたくさん残している。

町の中心には松代城がある。もともとは海津城と呼ばれていた。戦国時代、武田信玄信濃侵攻を開始すると、北信を庇護していた上杉謙信と軍事衝突を引き起こし、川中島の戦いへと発展する。その時、千曲川河畔にあった海津城は、この地域の拠点城郭として整備された。『甲陽軍鑑』によれば、武田氏の足軽大将であった山本勘助に命じて築城させたという。この築城は永禄2年(1559)に開始された。

武田が滅亡すると、織田氏家臣の森長可(もりながよし)の居城となる。本能寺の変の後、森長可信濃を放棄し、信濃に侵入した上杉氏の支配となった。しかし上杉景勝会津に転出後は、豊臣秀吉の蔵入地となった。慶長5年(1600)に、森忠正が森長可所縁の土地に入封し、豊臣家の蔵入地は廃され、城の名称も待城と変更された。その後森忠正は転封され、松平忠輝が入封した。忠輝も改易され松平忠昌が入封し、城の名も待城から松城に改名された。さらに忠昌が転封し、酒井忠勝が入封した。しかし彼も転封となって、元和8年(1622)に真田信之が入城した。以後、松城は松代藩の藩庁として、明治維新まで真田氏の居城となった。正徳元年(1711)には幕命により、松代城と城の名が改められた。

真田信之真田昌幸の長男である。関ケ原の戦いでは、父と弟・信繁(幸村)は石田三成らの西軍に属した。しかし信之は、妻小松姫が徳川の重臣本多忠勝の娘であったことから、徳川家康らの東軍に属した。戦後、信之は上田藩主となるが、上田城の破却が命じられ、沼田城を本拠とした。先に述べたとおり、元和8年に信濃松代に加増移封される。そして沼田城も継承した。驚いたことに、信之は93歳まで長生きした。

それでは松代の探索を始める。長野電鉄屋代線の旧松代駅を起点に、真田家ゆかりの場所を訪問しよう。

旧松代駅。電車の線路は取り除かれ、代わりにバスが走っている。

松代城に向かう途中に、松代藩の家老職を務めた小山田家の門が現れた。初代の小山田壱岐守茂誠は武田信玄の武将であり、その妻は真田信之・信綱の姉である。元和8年の移封のときにこの地に移ってきた。

江戸時代末期の松代城の縄張り(長野市のホームページ「松代城の歴史」より)

太鼓門(縄張り図の右下)。門前の橋の付け替え工事が行われていた。

ぐるりと回って、本丸の裏口(搦手)に位置する北不明門。

北の櫓門。

本丸。

海津城跡の碑。

南の櫓門。

東不明門前橋。

次は、藩校の文武学校へ向かう。途中、松代小学校沿いに歩く。右側が小学校の壁。江戸時代に遡ってしまったのかと錯覚しそうになる光景である。

小学校の門。松代小学校は、文武学校を引き継いで開校された由緒ある学校である。

校庭には、松代出身の佐久間象山銅像がある。

旧白井家。建築されたのは弘化3年(1846)で、平成12年に現在地に移築された。白井家は中級武士で、白井初平が高百石、元方御金奉行、御宮奉行などを務めた。




文武学校表門。

構内ジオラマ

文武学校は文武の奨励を目的に、8代藩主真田幸貫の発案で、嘉永8年(1851)に設計に取り掛かり、9代真田幸教の安政2年(1855)に完成した。授業は文学(漢学)・躾方・医学・軍学で、西洋砲術・弓術・槍術・柔術も教授した。
剣術所。


東序。「序」は教室という意味で、東序では軍学儒学・歴史・医学などが教授されていた。

西序。当初は教室として計画されたが、当時の時代を反映して、南槍術所に変更された。

文学所。内部には大広間、台所、役所、藩主控室、文庫蔵など用途の異なるさまざまなエリアがある。右側の建物が文学所。





建物内部の西側は御役所と呼ばれ、学校の管理をしていた。


弓術所。


柔術所。

番所

次は旧樋口家住宅。代表的な藩士の住宅で、藩の目付け役をしていた。江戸時代末期の禄高は230石。






この後は真田家ゆかりの建物を訪ねた。これについては次の記事で紹介する。
ここまで、城跡、文武学校、藩士の住宅などを見学した。街は落ち着いた雰囲気で、江戸時代を彷彿させてくれる仕掛けがよくできていて、散策を楽しむことができた。本来であればたくさんの観光客が訪れてくれることを町は願っているのだろう。しかし訪問者の立場になると、人でごみごみしているのはかなわない。今回は、出会う人も少なく、ゆっくりと楽しんで見学することができ、とても良かった。

長野・善光寺を訪れる

この季節は日が長い。長野に戻り、ホテルにチェックインしてしばらく休んだ後でも、陽が高かったので、善光寺詣りをすることにした。善光寺には子供の頃からたびたび訪れているので、よく知っているはずの寺だが、その由来については知らない。Wikipediaで調べてみると、その創建は不明であった。善光寺縁起に関する一番古い記録の『扶桑略記』(1107年以前成立)によれば、「欽明天皇13年(552)10月13日、百済国から阿弥陀三尊が渡来し、摂津国難波津に着いた。その後37年を経て仏法が一般に行われるようになった。この三尊がわが国最初の仏像であるところから本師如来と呼ばれるようになった。推古天皇10年(602)4月8日、仏の託宣があり、信濃国水内郡にお移しした。この仏像がすなわちいま善光寺の三尊である。ある記に云う。信濃国善光寺阿弥陀仏がすなわちこの像である。推古天皇の御時壬戌4月8日、秦巨勢大夫に命じて信濃の国にお送りした。」となっている。

善光寺長野駅から2kmの距離にあり、歩いて30分弱である。歩き疲れたと感じた頃、仁王門に辿りついた。流石に立派な門である。大正7年(1918)に再建された。

高村光雲作の仁王門。


山門へと向かう参道

釈迦堂。本尊の銅造釈迦涅槃像は重要文化財

重要文化財の山門。寛延3年(1750)に完成。


大勧進天台宗の本坊。善光寺無宗派の単立仏教寺院である。山号は「定額山」で、山内にある天台宗の「大勧進」と25院、浄土宗の「大本願」と14坊によって維持・運営されている。

国宝の本堂。


重要文化財の経堂。宝暦9(1759)年に完成。内部には元禄7年(1694)に寄贈された鉄眼黄槃版『一切経』全6771巻が納められている。

むじな灯籠。下総国のむじなが、殺傷をしなければ生きていけない自らの罪を恥じ、人の姿に化けて参詣した。むじなは灯籠を寄進したいという願いを持っていたが、宿坊でむじなの姿のまま入浴したところを人に見つかり逃げ去った。むじなの思いを宿坊の住職が知って灯籠を立てた。

日本忠霊殿。戊辰戦争から第二次世界大戦までの戦没者を祀る慰霊塔で三重塔の形になっている。

ぬれ仏。明暦の大火を出したといわれる八百屋お七のためという伝承があるため「八百屋お七のぬれ仏」ともいわれる。

帰りは流石に疲れたので、長野電鉄善光寺下駅よりホテルに戻った。

善光寺はいつ訪れても混んでいたが、この日は夕方だったためか、山道にはそれなりの人数の参拝者がいたが、境内に入るとがら空きで、初めてゆっくりと参拝することができた。また国宝や重要文化財の建物も人に邪魔されることなく、その重厚な姿を写真に収めることもできた。

森将軍塚古墳館で大規模な竪穴式石室を見学する

古墳を見学した後は、出土品を展示している古墳館を見学した。2階の展示室に入室してまず目につくのは、中央部に設けられた大きな竪穴式石室である。古墳での埋葬方法は、竪穴式石室、粘土槨、横穴式石室など複数種類ある。竪穴式石室は、他の埋葬施設と同じように棺を納める場所であるが、その納め方に次のような特徴がある。棺を収納した後、側壁をさらに積み上げ、大きな石などで蓋をして、棺を守るように包み込むように守る施設で、縦方向からの作業に特徴がある。

森将軍塚古墳の竪穴式石室は、長さ7.6m、幅2m、高さ2.3mで日本最大規模、床面の幅が特に広いのが特徴である。この石室は、「墓壙」と呼ばれる二重の石垣で構築された穴の中に築かれる。墓壙は、長さ15.0m、幅9.3m、高さ2.8mである。石室内には先ほど説明したように木棺が納められる。
竪穴式石室を見てみよう。石を並べていくだけの構造物だが、科野のクニの王の遺体を埋葬するために、多くの人の労力と協力を必要とする作業を伴っている。そして置石で内部の空間を維持させる工法も持ち合わせていなければならないことも分かる。


森将軍塚古墳のジオラマ。古墳が築かれた時代の人々は、田の作業に疲れた時、一休みしながら、遠くに目線を置いてこの大きな構造物を山の中腹に眺めたことだろう。

埴輪。左奥から円筒埴輪、壺型埴輪、円筒埴輪。手前は左から家形埴輪片、匏(ふくべ)型土製品。埴輪で墓を囲むことで、死者が住む特別な聖域にしたのだろうか。このころの宗教観については、あまり分かっていないようである。

墓の中に埋葬されていた副葬品。三角縁神獣鏡の一部と模型。ヤマト王権との繋がりを示すもので、それが強い場合には中国製の大型の鏡が、弱い場合には和製の小さな鏡が贈られたようだ。とても貴重なものだったことだろう。

剣。鏡と同様、これも威信材の一つ。

剣と管玉。

矢じりと管玉。

埴輪を棺として利用。この時代は幼児の死亡率が高かった。幼児を葬るときに、二つの埴輪を向かい合わせにして繋げ棺にした。

須恵器大甕。5世紀初め、日本で須恵器が焼かれ始めた頃のもので、形の特徴や材質の分析から大阪府堺市近くで作られ、ここに運ばれてきた。古墳時代の物流を示す貴重な遺物である。鏡や剣だけでなく、日用品も交流品として使われていたことを示す。

古墳から出土した土器。

この時代の土器(灰塚遺跡)。土師器が多い。須恵器はまだ貴重品だったのだろう。

また屋外には古墳時代のムラが復元されていた。人々は竪穴住居で生活していた。

倉庫は、湿気ないように、高床になっている。

住居をもう少し詳しく見ていこう。



見学が終わった後、しなの鉄道で長野へ向かった。列車は一時間に1~2本しか来ない。全ての人がと言っていいくらい、車での生活になっているので、極めて補助的な役割しか担っていない。

昨日、森将軍塚古墳を見学してきたと、ボランティアの仲間に紹介したところ、長野と東京を行き来している人がいて、新幹線からも見えると教えてくれた。大きな構造物をつくったものだと、いまさらながら感心させられた。古墳を作る技術が、農業技術の発展をもたらし、この発展が、さらなる土木工事の発展をもたらしたのだろう。技術史の観点からも、この古墳が教えてくれるものは大きい。

長野県千曲市の森将軍塚古墳を訪れる

多くの人がコロナは収束したと思っているのだろう。そして堰を切ったように集まる機会が増えた。今回もそのひとつ。中学2年まで在籍した学校の仲間から、クラス会を開催するので参加して欲しいと連絡があった。これには高校時代と退職する頃に参加しただけで、同級生たちの顔はほとんど思い出せない。どうしようかなと悩んでいたのだが、前後に楽しい古墳巡りを入れて、参加することにした。

前に入れたのは長野県千曲市にある森将軍塚古墳。少し変わった古墳で、尾根の上にあり、地形の関係で変形の前方後円墳になっている。ここへは、北陸新幹線長野駅に行き、JR信越本線しなの鉄道に乗り換えて屋代高校駅前で下車。さらに歩いて23分。

長野駅で昼食をとろうと予定していたのだが、乗り換え時間があまりなく、降車駅にお店ぐらいあるだろうと東京の感覚で向かったのが大間違い。そこには自販機の他は全くなにもない。駅からは、山の中腹に古墳が見えているが、随分と遠くにあるように感じられる。

当然のこと、駅にはバスやタクシーなどの交通手段は見当たらない。仕方がないので、目的地までの間でコンビニに出会うことを期待してトボトボと歩いた。住宅だけが並んでいる道に沿ってだいぶ歩いたと思った頃、大きな公園が現れ、子供たちが賑やかな声を上げ走り回っている。そこは目指した森将軍塚古墳近くの公園だった。

公園内にある古墳館に入ると、やはり自販機以外はなにもない。昼食はあきらめて、近くにいた学芸員に古墳まではどのくらいかかるのかと聞くと、バスがあるという。歩くと坂道で20分以上かかると言われた。先々のことを考えて、体力を残しておきたかったので、バスで上がることにした。乗り場を教えてもらいそちらに向かった。乗客は私だけ、貸切状態での利用となった。古墳に着いたところで40分後に迎えにきて欲しいと依頼して、バスを降りた。

この辺りは古事記では科野(しなの)のクニと呼ばれていた。古墳時代前期(4世紀初めから中葉)のものとして、長野県内の各所で前方後方墳が発見された。その後ヤマト王権とのつながりができたのだろう、前方後円墳が各所で構築された。特に長野市南部から千曲市にかけて、森将軍塚古墳、川柳将軍塚古墳、倉科将軍塚古墳など県内最大級の前方後円墳が集中して築造された。6世紀になると、前方後円墳の中心地は善光寺平から飯田盆地へと移動した。また7世紀になると科野のクニは、令制国信濃国となった。

それでは森将軍塚古墳を見てみよう。この古墳は4世紀末築造、全長が約100メートルである。古墳の前方部から後円部を望む。地形の関係で、前方部と後円部を一直線上に構築できなかったようで、後円部が右側に傾いているのが特徴である。前方部も後円部も円筒埴輪で囲まれ、前方部は祭祀を行うところで、後円部は墓である。

前方部から後円部を望む。祭祀は上にある墓を拝みながら行ったのだろう。

後円部を見る。景色の良いところで、墓の中に眠っている王は、眺望を楽しめたことだろう。

古墳から善光寺平を見る。古代の景色を想像してみる。一部は水田で、他は雑木林だったのだろうか。

古墳館を上から見る。

古墳を側面から見たところ。前方後円墳は、階段のようになっているものが多いが、この古墳にはそのようなものは見かけられない。狭隘な場所のため、余地がなかったのだろう。葺石が綺麗に並んでいる。今日に続く大型土木工事の始まりとも言える。また古墳の周りには幾つもの組合式箱型石棺が発見されている。これは古墳との関係が深かった人々の墓と考えられている。

有明山将軍塚古墳。全長が33mの小規模な前方後円墳で、6世紀代の築造と考えられている。林となっているため、全容を写真に収めることはできない。

森将軍塚古墳の後、尾根に沿って13基ほどの小円墳が築造された。これらは森将軍塚古墳を祖先と仰ぐ人々の墓として築造されたのであろう。

2号墳。上の写真で一番右側にあるもので、小円墳の中では最も大きく最初に築造された。

前方後円墳の周りにあるる組合式箱形石棺の復原展示で、13号石棺である。

この古墳はテレビでも紹介されたことがあり、一度訪問してみたいと思っていたが、今回、願望が叶ってよかった。テレビでは、俳優がかなりの急坂を息を切らせながら登っていく様子が映し出されていたが、今回は古墳までのバスが利用できとても快適であった。変形した前方後円墳は、葺石できれいに整備されていて、古代の出来立ての頃を余りあるほどに想像させてくれた。また古墳からの善光寺平の眺望は素晴らしく、千曲川によって作られた盆地の様子がよく分かった。この後、古墳館に戻って見学した。

横浜開港とともにやってきたハード家の子孫とゆかりの地を訪ねる

カリフォルニアの友人から、知人が日本を訪れるので、案内して欲しいと依頼があった。先日、その彼女からメールがきて、日本の歴史に特別に興味を持っているという。横浜開港直後に、最初に日本を訪れた商人とゆかりがあるとも書かれていた。少し調べてみると、商人の名前はオーガスティン・ハードで、中国で商売をしていたと分かった。1859年に彼の代理人が来日し、ハード商会を開設した。子供のいない彼は、甥の4人を子供のように思い、商売を手伝わさせた。今回訪問される彼女の夫は、甥の子孫とのことである。

早速インターネットでさらに詳しく調べてみると、横浜開港資料館にハード商会のコレクションがあることが分かった。資料館のホームページには、「ハード商会は、19世紀半ばに広東で設立されたアメリカの有力商社で、中国から欧米向けに茶と絹を主力製品として交易し成長を遂げた。日本が開国されると直ちに日本へ進出し、長崎・横浜・神戸に支店・代理店を構えた」となっている。

また平成9年の横浜開港資料館館報58号には、「開港後、横浜に最初に進出した外国商社は、「英一番館」という名前から受ける印象や、当時東アジアで最大の商社であったところから、ジャーディン・マセソン商会だという俗説が存在するが、事実はそうではない。最初に商船を派遣したのはハード商会というアメリカの商社で、船の名をウォンダラー号という。その代理人をドアといい、アメリカの神奈川駐在の初代領事だった。ウォンダラー号は、総領事から公使に昇格したハリスが乗ってきた軍艦ミシシッピー号と一緒に、開港前日の安政6年6月1日(これは旧暦の日付、新暦では1859年6月30日)に入港した。入港手続きは条約発効期日の翌2日に行なっている。ハード商会とは、アメリカのマサチューセッツ州出身の商人、オーガスティン・ハードが1840年に広東に設立した貿易商社で、1856年に香港に本店を移した。当時東アジアで最大のアメリカ系商社をラッセル商会といい、オーガスティン・ハードはその出身である。また「アメ一」として知られる横浜のウォルシュ・ホール商会の設立者トーマス・ウォルシュもそうである。ハード商会は、一時ラッセル商会と並び称せられるほどの有力商社になるが、1870年以降衰退し、明治9年(1876)には横浜から撤退した」と説明されている。

二代目の代理人であるフィールドが着任後、1860年に海岸通り6番(1064坪)と水町通り27番(554坪)に新社屋を建設し、乗り出したことも分かっている。

さらに調べていて分かったことだが、1860年オーガスティン・ハードの甥の家に、女の子エミーが誕生する。この年は、リンカーン大統領が大統領になる前の年、また、南北戦争が始まる前の年である。今回来日された方はエミーの孫と結婚された。そのお嬢さん、すなわちエミーの曽孫になる方が、祖先に興味を持たれ、今回の散策に加わられた。お嬢さんは日本のある付属中高校で英語の先生をしている。また曾祖母と同じ名前でもある。曽祖母の若いころの写真をホームページから得ていたので、これを見せると、お嬢さんにそっくりなのでみんなでビックリした。さらに彼女には食物アレルギーがあるが、これもハード家の血を引くものの宿命だそうだ。

この日のコースは下図の通りである。横浜中華街で食事をとり、ハード家がオフィスを設けたとされる場所を訪ね、横浜開港資料館の資料室でコレクションを閲覧し、時間があれば神奈川県立歴史博物館を訪れる予定であった。

運の悪いことに天気に恵まれず、小雨の中、時々土砂降りに会いながらの散策となった。中華街は、雨にもかかわらず、若い人たちでごった返していた。食事は、アレルギーの対応をしてくれるという王府井酒家でした。写真を撮らなかったので、お店のホームページから。

この店は小籠包がお勧めらしいのだが、小麦粉が含まれているので断念した。醤油も小麦粉を含んでいるということなので、全て塩味に変えてもらい、単品料理を4種類オーダーし、皆でシェアした。味のよい店だったので、次回は小籠包に挑戦しようと思っている。

ハード商会がオフィスを開設した場所は、ホテルニューグランド神奈川県立県民ホールの間の場所である。ニューヨーク公共図書館には、1861年に橋本貞秀が描いた『再改横浜風景』が所蔵されている。これからは開港当時の横浜の建物は、一棟を除いて、全て日本家屋であることが分かる。ハード商会の建物も日本家屋であったと推測される。

慶応2年(1866)には、港崎遊郭の西にあった豚肉料理屋五郎宅から出火、遊郭が燃え上がり、遊女400人以上が焼死、外国人居留地日本人町も焼き尽くされた。その後、遊郭高島町に移り、遊郭跡地は1876年には避難所も兼ねた洋式公園(現在の横浜公園)となり、横浜居留地の日本家屋は西洋風へと改められたいった。

ちなみにホテルニューグランドは1927年に開業した。設計は渡辺仁。下の写真はウィキペディアから。ハード商会が建てられた場所は、この右側になる。

この日は、ワールドトライアスロンシリーズが行われており、雨の中を選手たちは一生懸命に走っていた。

寄り道をしたわけではないのだが、道々にあったいろいろなものを見たためか、横浜市開港資料館に着いたのは3時近く。あらかじめ資料館の方に連絡をしておいたので、参考になりそうな文献やコレクションのリストを用意してくれていた。ハード家ゆかりの二人は、資料を閲覧したりそのコピーをとったりして、短い時間の中で、たくさんの情報を得たようであった。こちらはこの春に撮影した横浜市開港資料館である。

今回の散策はここで切上げた。あいにくの雨で手がふさがってしまい、写真を撮れる状況になかった。ハード家ゆかりの二人の写真が残らず、残念なことをしたが、ルーツ探しをした二人には満足な一日となったようである。我々も思いがけない出会いによって、日本と米国の懸け橋となった家族と親しく話をすることができ、素晴らしい一日であった。

下の写真は、英語版のウィキペディアからで、1860年当時のオーガスティン・ハードの香港の邸宅。日本での写真も残されていると良かったのだが、活動している期間が短すぎたようだ。

追伸:横浜開港の頃の状況を簡単にまとめておこう。英国は三角貿易でインドから中国へは阿片、中国から欧米へは絹・茶、英国からインドへは綿製品を輸出していた。米国の商社も同じような状況にあったのだろう。アヘン戦争(1840-42)で中国との貿易が縮小しそうになる中で、次の新天地の日本を目指し、日米友好通商条約(署名1858年、発効1859年)を締結した後に、欧米の商社が横浜などに事務所を開設し、絹・茶、陶器などを扱った。ハード家もその一翼を担った。ちなみに曽祖母のエミーはパリで誕生し、波乱万丈の人生を送られたようで、お孫さんが800ページにも及ぶ本で紹介している。

江ノ電沿線巡り

4月の中頃に歴史を楽しんでいる仲間と、江ノ電沿線巡りをした。外国人の姿は多く見かけたが、まだ連休前ということもあり、日本人の観光客はそれほどではなかった。最近は、江ノ電は大変人気のある路線で、地元の人たちの利用もままならないほど、観光客で混んでいるようである。いい時期に行って良かったと感じている。

この散策は、藤沢駅で集まり、極楽寺まで行って、江の島の方に戻ってくるルートである。訪れた主な場所は、社会的弱者の救済で知られる忍性ゆかりの極楽寺新田義貞の幕府討伐で有名な稲村ケ崎、鎌倉入りを許されない義経が頼朝への書状を書いたとされる満福寺、日蓮上人法難の地に建てられた龍口寺などである。

それでは沿線巡りに出発してみよう。極楽寺駅で降りて、左手の坂を上り詰めるとT字路になる。右側に行くと成就院を過ぎ、極楽寺切通しに至る。有料の湘南道路が開通する昭和30年ごろより前は、江の島方面から鎌倉に行くためには、極楽寺切通しを通るしか道はなかった。ここは元弘3年(1333)に新田義貞が鎌倉攻めを行った時の激戦地である。T字路左側に行くと極楽寺である。ここでまず目につくのは、江ノ電極楽寺のトンネルである。これは全長が200m、日露戦争が終了し、恐慌が始まった明治40年(1907)に竣工した。

T字路を左に曲がった後、極楽寺には向かわずにまっすぐ進んで、熊野新宮に向かう。ここは極楽寺の鎮守で、文永6年(1269)に忍性が信仰していた熊野本宮から勧請した。

境内には千服茶臼があり、これは忍性が悲田院癩病所を設けたときに使われたとされている。

戻って、極楽寺の山門(文久3年(1863)に建立)。

極楽寺は、創建が正元元年(1259)で、奈良・西大寺叡尊が中興の祖、空海が高祖で、開山は良観房忍性である。忍性は、福祉と土木事業で貧民・庶民の救済にあたったことで有名である。開基は、北条重時で、彼は鎌倉幕府二代執権・義時の三男で、三代執権泰時の弟である。六波羅探題を17年間務め、その後鎌倉に戻り、五代執権時頼を連署として補佐した。極楽寺は、かつては広大な土地を有し、講堂・塔・七堂伽藍・四十九院を持つ鎌倉有数の大寺院であった。忍性は、域内に、施薬院悲田院(身寄りのない老人・孤児)・福田院(貧困者)・癩病院・馬病屋などの施設を設け、貧民の救済慈善を行った。また、極楽寺切通しの開削をはじめとして多くの道路の改修、橋の造営を行い、和賀江嶋の管理も任され、財源とした。
客殿。

次は、稲村ケ崎後醍醐天皇天皇親政に燃え、鎌倉幕府を倒すために、大社寺や畿内の小武士団を主力に挙兵したが一旦敗北する。しかし護良親王楠木正成らの執拗な軍事行動で幕府軍は分裂。関東の豪族足利尊氏新田義貞らが幕府に背き、元弘元年(1333)の夏に、六波羅探題足利尊氏に、鎌倉は新田義貞に攻められる。新田荘から出陣した義貞は、鎌倉街道を通り、途中、分倍河原の戦いなどを経て、鎌倉へと進軍し、3隊に分割し、化粧坂極楽寺坂、巨福呂坂のそれぞれの切通しから総攻撃をするが、いずれも失敗した。その2日後に義貞は極楽寺方面の援軍として、稲村ヶ崎へと駆け付け、翌未明に、潮が引いたときを利用して、稲村ケ崎を突破し鎌倉へと侵入し、幕府軍を壊滅した。その稲村ヶ崎

新田義貞が、稲村ヶ崎の岩頭に立って黄金の太刀を捧げて海神に祈ると、みるみると潮が引いて兵が鎌倉に入ったと「太平記」は伝えている。その碑がこれ。

逗子開成中学の生徒が、明治43年(1910)に海難事故で亡くなったことを悼んでの碑。

北里柴三郎が、師のベルト・ゴッホの来日を記念して建てた碑。二人は鎌倉の霊山山を訪れている。

次は義経ゆかりの満福寺。

義経に因んだ鎌倉彫の襖絵がたくさん飾られている。静御前の舞。

腰越状」を書く義経

雪の中、都を逃れる常盤に抱かれた牛若丸。

弁慶とともに雪の中を平泉の藤原氏のもとに向かう義経

本堂。

腰越状」を書く時に墨を摺る水を汲んだといわれる硯の池。

次は常立寺。この寺があるところは、鎌倉時代には「誰姿森(たがすのもり)」と呼ばれ、龍ノ口刑場で処刑された人たちを埋葬する墓域であった。真言宗の回向山利生寺という廃寺があったそうだが、武蔵の碑文谷吉証院法華時の僧・日豪が天文元年(1532)に鈴木隼人という人の寄進を受けて常立寺を建てた。
その本堂。

「元使塚」は建治元年(1275)に斬首となった、蒙古からの使者、杜世忠以下5人の供養塔で、白鵬をはじめとしてモンゴル出身の力士が折に触れて参詣している。

山門。

鐘楼。

7代将軍・徳川家継法名・有章院殿と刻まれた増上寺の石灯篭がある。

最後は龍口寺。ここは日蓮上人が法難にあった地に建てられ、威風堂々とした伽藍の本山である。建立は、延元2年(1337)で、高弟六僧に次ぐ日法上人が一堂を建立した。龍口法難のときに座らされた「首の座の敷石」と「自作の日蓮像」を安置したのが始まりと言われている。慶長6年(1601)に、日蓮宗の信心篤い加藤清正が、池上本門寺12世日尊上人に祖師堂(敷皮堂)の建立を願い出て、御堂が完成した。明治19年(1886)までは住職が不在で、近隣の八ヶ寺が輪番で守務を行っていた。
刑場跡。文永8年(1271)は、前年からの干ばつで大飢饉だった。日蓮禅宗・浄土宗・真言宗真言律宗鎌倉幕府を激しく非難した。鎌倉の混乱を危惧した幕府は、日蓮をとらえて佐渡への流刑を命じるが、実は途中で首をはねるつもりであった。龍ノ口の刑場まで連れてこられた日蓮は、石の上に座らされて太刀で首をはねられようとした時、江の島方面から光の玉が飛んできて、太刀は三つに折れ、他の武士たちも弾き飛ばされて、刑を執行できなくなった。一晩留め置かれたのち、佐渡へ流され、文永11年(1274)に赦免された。

仁王門(昭和48年(1973)竣工)と仁王像(浅草の宝蔵寺の金剛力士などを制作した村岡久作氏の作)



山門。元治元年(1864)に、大阪の豪商・鹿嶋屋が寄進した。

山門の彫刻。江戸彫師の流れをくむ彫師による中国故事の透かし彫り。

大本堂。天保3年(1832)竣工、欅造り銅板引きで、県内の代表的な木造建築物である。

五重塔明治43年(1910)竣工、欅造り銅板引きの禅様式の簡素な造りで、県内唯一の本式木造五重塔である。

猛威を振るったコロナもやっと収束し、久しぶりの集団での散策で、それぞれの知識を披露しあいながら、江ノ電沿線の旅を楽しむことができた。このような機会が増えればよいと思うのだが、観光客がこれ以上増えた折には収拾がつかなくなるのではと、余計な心配もしなくてはならない。どちらにしてもなかなか上手くはいかないようである。

スティッキオで魚介類のマリネと豚肉巻きに挑戦した

野菜に恵まれた季節なので、JAに立ち寄って珍しい食材をあさっていたら、針葉樹のように細い葉が目立つスティッキオに興味を惹かれた。ハーブの一種で、イタリア野菜のように見える。

ネットで調べると、トヨタ種苗が鱗茎があまり大きくならないように、フェンネルを品質改良したそうだ。鱗茎に価値がありそうなので、レシピを調べて、魚介類のマリネと豚肉巻きを作った。
マリネのために、近くのスーパーで刺身を購入。

スティッキオ1本を2mm間隔で斜め方向に細切りにし、たまねぎ1/4個を同じく2mm間隔で繊維を切るようにスライスした。

マリネの液は、酢大匙4杯、オリーブオイル大匙4杯、砂糖小匙1杯、塩小匙1/4杯、黒胡椒適量で作った。

容器に、魚介類の上に野菜、さらにもう一回繰り返して魚介類の上に野菜を積んだ。

上からマリネ液をかけ、容器に蓋をして、冷蔵庫で数時間寝かせた。

豚肉巻きは、鱗茎の束から一本一本外して、適当な長さに切断。

薄切りの豚肉に、小麦粉をまぶし、鱗茎に巻いた。

ニンニクひとかけを細かく切って、オリーブオイルで軽く焦がした。

その後、茎に巻いた肉を入れて焼いた。

それぞれお皿に盛って、アルゼンチン産のマルベック種のワインで、食した。

スティッキオは、臭みも無く、魚貝類と調和し、さらにはワインともよく合って、楽しむことが出来た。

端午の節句に大凧まつりを見学する

相模原市で、「相模の大凧まつり」が4年ぶりに開催されていると聞いたので、見学に行った。この祭りは天保年間に始まり、大凧をあげるようになったのは明治の中頃、天保から数えると200年も続いているそうだ。当初は個人的に子供の誕生を祝って揚げられていたのが、次第に地域的なつながりを持つようになり、豊作祈願や若者の意思や希望の表示、さらには国家的な思いを題字に込めて揚げられるようになったそうである。相模川新磯地区の川べりの4会場で催されている。私は、JR相模線の相武台下駅から最も近い新戸会場へと向かった。

会場には10時半ごろに着いたが凧は一つも揚がっていなかった。風を待っていたのだろうか、会場の周囲を一当たり見学して、どこか座る場所を確保しようと考えた頃、最初の凧を揚げるというアナウンスがあった。しかし揚げる人が足りないのだろうか、お手伝いしてくださいという放送が何回か流れた後、やっと凧が揚がり始めたらすぐに失速し、地表に戻されてしまった。

3度目の挑戦で、やっと天高く(?)舞い上がった。中ぐらいの大きさの凧で、題字は今日の世情を反映して「平和」。

しかし、残念ながら長いこととどまることができず、選手交代となった。

次は小ぶりの凧で、こちらの方は難なく揚がり、いつまでも天空にとどまっていた。
写真では小さすぎてよくわからないが、凧が揚がり切ると、凧を引っ張っているひもに沿って、鯉のぼりも上がっていった。端午の節句にちなんだひとコマ。

隣の広場では、「勝風」と書かれた大ぶりの凧(縦・横14.5m,950kg)が舞っていた。この題字は、今年度の公募によって決められたもので、「災いに勝ち抜く頼もしい風が吹くことを祈念する」という意味が込められているそうである。

目の前に大凧があり、これが揚がるのを見届けたかった。

風しだいのようでいつその時が来るのか不透明なので、後はテレビのニュースで楽しむこととし、この場を離れた。保存会の人々は、伝統の行事を継承していくことに生きがいを感じ、凧が上がった時の快感を忘れられないことだろう。4年ぶりとなった祭りを、神様も祝福したのか、昨日・今日と晴天に恵まれ、観客にとっても思い出に残る良い祭りであった。

ウクライナのボルシチに共同で挑戦

久しぶりに夕飯を作った。と言っても共同作業。このところずっと、朝を作るのは私、昼と夜は妻と固定し、日常生活もそれに合わせて組み立てられている。数日前、散歩をしている時、朝の食材を得るために、通り道にあるJAに立ち寄った。珍しそうな野菜を探していると、「渦巻きビーツ」が目に入った。長く立派な茎の先に、赤い塊がついている。ビーツはボルシチに使われるが、近くの八百屋さんでは見かけることのない食材である。ビーツだけでもおやっと思ったが、さらにサラダとなっていたので、試してみようという気になった。

次の日の朝、茎の部分をベーコンと一緒に炒めて食した。そして塊はそのうちサラダにしようと思っていたら、妻は端からボルシチにと思ったのであろう。携帯でレシピを調べて、情報を伝えてくれる。サラダに使うつもりだと言う機会を逸し、ボルシチにいつの間にかなってしまった。そして少し離れた大型のスーパーで必要な材料を仕入れ、トライした。今回利用したのは、以下の食材。

野菜は、ビーツの他に、玉ねぎ、にんじん、キャベツ、じゃがいも。ビーツが2個であとは1個ずつ。キャベツは適当にである。さらにトマト水煮缶。
肉は、牛肉の塊を300g。
油として、オリーブオイルとバター。
香辛料として、塩、胡椒、マギーブイヨン3個、ニンニク。
飾りとして、サワークリーム、パセリ(本格的にはディル)。

ビーツをざく切りにしてビックリ。中まで真っ赤だろうと予想していたが、赤と白の輪が交互に繰り返されている。ボルシチ特有の真っ赤なスープにならないのではと、この段階で心配になった。

ビーツを柔らかくする必要がある。本格的に料理するときは、お鍋に水とビーツを入れて、時間をかけて茹でるのだが、ここはサボって、電子レンジを使って、串が楽に通るくらいまでの柔らかさにした。今回はビーツの重さが160gで、600Wで、3分10秒を要した。

玉ねぎ、にんじん、じゃがいも、キャベツを手頃な大きさに切った。

肉も同じように、

肉の表面に焦げ目をつけるために、お鍋にオリーブ油とバターを入れ、肉を入れて、表面を焦がした。


野菜も入れて炒め、水700cc、マギーブイヨン3個、ニンニクを加えて煮た。


煮立ったところでカットトマト(1/2缶)を加えてさらに30分ほど煮込み、塩と胡椒で味を整えた。

ワインは、懐かしい南オーストラリア・マクラーレンヴェイルのカベルネ・ソーヴィニヨンを選んだ。と言っても選択できるほどたくさんの瓶数はないのだが。

お皿にボルシチを盛りつけ、サワークリームとパセリをつけた。恐れていたスープの色も、トマトのおかげもあって赤色になり、ボルシチらしくなって感激。

出来上がったボルシチは、サワークリームの酸味が効き、ビーツの泥臭い独特な味と奇妙にマッチングしていてクセになりそうなほど美味しかった。またワインはとてもハードだったが、マクラーレンヴェイルのテイストで料理とよくあっていた。

四国・中国旅行ー縮景園

旅行を始めて6日目、最終日である。この日はバークレイ時代の友人との再会。前々から広島に行くので会おうと通知したのだが、返事がなくて諦めていた。ところが旅行を始めた数日後に、突然、電話があって、是非ということになり、旅行を一日延ばしての再会となった。彼とは、新婚旅行先のハワイで再会したときと、つくば万博中に彼の研究所を訪れたとき以来で、本当に久しぶりだ。世界の一線で活躍していた彼が、すっかりお爺さんになっていたのにはビックリしたが、同じように私の方もそう見えたことだろう。毎日、New York Times, Scientific American, そして物理の学会誌を読んで過ごしているとのこと、彼が話題にしたのも最先端の物理学の動向で、精神的な若さはかつてと変わりがなかった。奥さんと一緒に、広島駅近くの縮景園を散策しながら話に興じた。もっとも彼の方がほとんど話していたが。

縮景園は、広島藩主浅野長晟(あさのながあきら)によって、元和6年から別邸の庭園として築かれた。作庭者は茶人として知られる家老の上田宗箇だが、現在の庭園の原型は、京都庭師の清水七郎右衛門による後の大改修によって形成された。

公園の案内図。

案内図に中央に池があるが、右上にあずま家があり、そこからの池の風景。



案内図の池の左上あたりからの風景。

お昼には、駅前近くの店で、釜揚げシラスをご馳走になり、夕方の新幹線に乗るまでの間ずっと話し続け、何十年ぶりともなる再会を懐かしんだ。

四国・中国旅行―宮島

旅行5日目は宮島訪問である。案内してくれたのは、かつての職場の同僚で、私が退職した後に広島で新たな職場を獲得し、この地に移られた方。現在は日本国籍を得られているが、元は中国の人。文化大革命後の厳しい大学入学試験に勝ち抜き、英国に留学して博士の学位を取得し、日本で職を得たとても優秀な学者である。その彼に宮島を紹介してもらうのも少し変だったが、しばらくしてその役割が逆転し、日本の中世という時代を話してあげることとなった。それでは宮島を紹介していこう。

安芸・宮島は厳島とも呼ばれ、平清盛により海上に大きな社殿が造営されたことで有名である。陸奥・松島、丹後・天橋立ともに日本三景の一つで、ユネスコ世界遺産にも登録されている。

厳島が文献に現れるのは、『日本後記』の弘仁2年(811)7月7日条で、「安芸国佐伯郡伊都伎嶋神社」と記されている。また『延喜式』(927年成立)に佐伯郡速谷(はやたに)神社、安芸郡多家(たけ)神社とともに、名神大社(日本の律令制下において、名神祭の対象となる神々を祀る神社)に列せられている。天慶3年(940)の藤原純友の乱(同じ時期に平将門の乱が発生、律令制度が衰退し、武士の起こりを象徴する乱)では追捕祈祷が行われた。

平安時代末期の久安2年(1146)から保元元年(1156)まで、平清盛は安芸守となり、神主・佐伯景弘との結びつきを強めた。最初の参詣は永暦元年(1160)で、治承4年(1180)までに記録に残っているだけでも10回参詣した。長寛2年(1164)に法華経を書写して奉納、山県郡志道原荘を寄進した。仁安3年(1168)に佐伯景弘は本宮・外宮を造営、現在みられるような回廊で結ばれた海上社殿が完成した。後白河法皇・建春門院の参詣(1174)、平氏一族の千僧供養・舞楽(1177)など、一気に都の文化が開花した。弘法大師が開基したと伝承される弥山(みせん)には、平宗盛によって「弥山水精寺」銘のある梵鐘が寄進され、神仏習合も進んだ。

寿永3年(1185)の壇ノ浦の合戦後、佐伯景弘は源頼朝から長門国での宝剣探索の命を受け、厳島社では奥州藤原泰衡追討が祈祷されるなど、平氏滅亡後もその隆盛は変わることはなかった。承久3年(1221)の承久の乱の後、鎌倉幕府は各地に地頭を配置した。草創以来の神主佐伯氏に代わって、関東御家人周防前司藤原親実(ちかざね)を厳島神主とした。後に彼は安芸国守護となった。

元寇に際しては、異国降伏の祈祷が行われた(1293年)。一遍や二条尼の参詣、各地からの華厳経などの写経の奉納、足利尊氏や大内義弘の造営料寄進、博多商人からは釣灯篭、堺商人からは絵馬「三十六歌仙之図」が奉納された。

平安末期には、島内には巫女のみが居住、祭祀に使える社家や供僧は対岸の外宮に居住していた。参詣人や商人たちが多数集まるようになると島内に住むようになり、山麓には神社が立ち並び、その周辺に民家が並ぶ町が形成されるようになった。参詣者でにぎわいを見せる交易・商業都市、瀬戸内海海上交通の要所としての港湾都市の性格が加わり、俗化が進んだ。戦国時代には、大内義興毛利元就、さらには豊臣秀吉から庇護を受けた。江戸時代になると厳島詣が広まり、参詣者でにぎわった。

それでは厳島神社を見学しよう。
まずは境内図、左上に海上の大鳥居、中央部に厳島神社の本社、左下に大巌寺、中央右上に五重塔と豊国神社がある。

神社に近づくと、有名な海上に浮かぶ厳島神社大鳥居が目に入る。本社から108間はなれている。創建は明らかではない。記録に残る最古のものは仁安3年(1168)で、平清盛の造営。現在の形式になったのは、天文16年(1547)大内義孝らによる再建のときとされている。現在の鳥居は、明治8年(1875)建立。国の重要文化財

境内に入ると荘厳な厳島神社本社が見える。仁治2年(1241)再建の社殿が基本で、平清盛の厚い庇護を受けて整えられた平安末期の構成を踏襲している。国宝。


右楽房。写真の左側で観察されるように、観光客の多くが、この先の突端で、写真を撮っていた。左楽房とともに、平清盛によって寄進。国宝

能舞台。慶長10年(1605)に福島正則により造営、1680年に浅野綱長により現在の姿に再建、1991年の台風で倒壊、1994年に再建された。国重要文化財

天神社。弘治2年(1556)に毛利隆元が寄進造営。重要文化財

和様と唐様とが融合した優美な厳島神社五重塔室町時代の応永14年(1407)の創建と言われている。重要文化財

厳島神社末社豊国神社本殿。豊臣秀吉が毎月一度千部経の転読供養をするために天正15年(1587)発願,安国寺恵瓊を造営奉行として同17年(1589)ほぼ完成した。


大巌寺は真言宗、開基は不明で、鎌倉時代建仁年間(1201~1203)に了海により再興されたと伝えられている。山門。

護摩堂。

本堂。

宮島ロープウェイ獅子岩展望台より瀬戸内海の眺望


同じく弥山を望む

宮島で「あなごめし」を頂いた後、広島市郊外の彼の家へと向かった。連れて行かれた場所は、いわゆる家々が離れて建てられている散村で、その中に赤い色のフィンランド製のログハウスが異彩を放っていた。そしてそれが彼の家であった。午後は家の中でおしゃべりしたり、村を散策したりと、楽しい時間を過ごした後、近くのイタリア・レストランで夕飯を食べた。地元の人とも仲良く付き合われているとのことで、彼の生きていく力の強さを改めて感じた。そして旧交を温められ、とてもよい一日を過ごした。