bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

世田谷のボロ市を見学する

昨年の11月ごろより、近くの駅のポスターや電車のつり広告で、世田谷のボロ市の宣伝を多く見るようになった。さらに開催日が近づくと、臨時電車を出しますという広告まで現れた。人気が高いという話は聞いていたが、これまではそれほど行ってみたいとは思っていなかった。

しかし江戸時代の百姓たちに関する本を何冊か読み、その中に江戸の市場の説明があった。それらは主に日本橋を中心とする大店や魚河岸についてであったけれども、この時代は辺鄙であった世田谷でも市が開かれたことに興味を覚えた。ボロ市は12月の15,16日、さらに年が明けて1月の同日に開催される。暮れは他に用事があり機会を逸してしまったので、1月に行こうと予定していた。そうしたら突然、ボランティアの仲間からボロ市に行こうという誘いがあり、一人で行くよりは楽しそうなので、これに便乗した。

行程は、世田谷線の世田谷駅で降りて、ボロ市の会場を巡りながら、途中で代官屋敷・区立郷土博物館を見学し、その後、世田谷城阯公園・豪徳寺松陰神社を訪れ、世田谷線松陰神社前に至る都合2.8㎞であった。

世田谷区のホームページによると、ボロ市のはじまりは安土桃山時代まで遡るとのことである。関東一円を支配していた北条氏政(後北条氏4代目当主)が、天正6年(1578)世田谷新宿に楽市を開いた。毎月の1と6の日の都合6回開催されたので、六歳市と呼ばれた。北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされ、徳川家康が江戸に幕府を開き、世田谷城は廃止されて城下町としての意義を失う。同時に六歳市も自然消滅し、いつのころから暮れの年一回だけ開かれる歳の市(市町と呼ばれた)になった。

明治になって、新暦が使われるようになると正月15日に開かれるようになり、やがて暮と正月の15,16日の両日に開催されるようになった。明治20年代頃には、これまでの農機具や正月用品に代わって古着やボロ布の扱いが主流になり、その実体に合わせてボロ市と呼ばれるようになった。

下図は明治末頃の世田谷である。道沿いに集落がみられるが、殆どは田圃である。左図中央に家が立ち並んでいる街路があるが、これが今回のボロ市の会場であった。

会場に行ってみると、人で埋め尽くされていた。


お店を覗くのも大変なのだが、空いているお店を探して写真を撮った。ガラス細工、

着物、

瓢箪。

ボロ市の通りの中ほどに代官屋敷がある。


徳川家光(3代将軍)は、彦根藩井伊直孝(2代藩主)に世田谷領の一部を江戸屋敷の賄料として与えた。その時、代官になったのは大場市之丞であった。北条氏が関東一円を支配していたころ、この地域を防御するために世田谷城が設けられ、そこの城主は吉良氏、大場氏はその家臣であった。北条氏が秀吉との戦いに敗れ、吉良氏が滅びると、大場氏は帰農した。井伊氏が世田谷に所領地を得たときに、その代官として登用された。以後、大場家は明治維新に至るまで235年間代官を務めた。屋敷は住宅兼役所として使われた。建物は茅葺・寄棟造で、建築面積は230㎡、玄関・役所・役所次の間・代官の居間・切腹の間、名主の詰め所などが設けられた。現存の建物が建築されたのは元文2年(1737)である。


建物の外には白洲跡もある。江戸時代は訴訟が多かったとされているが、ここではどのようなことが裁かれたのか知りたいところである。

代官屋敷敷地内には世田谷区立郷土博物館がある。入り口には庚申塔・石像などが並んでおかれていた。左端に見えるのは臼。その右は三界萬霊塔。三界は一切の衆生の生死輪廻する三種の世界(欲界・色界・無色界)をいい、三界萬霊とはこの迷いの世界におけるすべての霊あるものを指す。その隣は地蔵菩薩立像。さらに隣は狐の石像。主神に従属しその先ぶれとなって働く神霊や小動物のことを「使わしめ」といい、狐は稲荷の使わしめである。右端は、青面金剛(しょうめんこんごう)で、この供養塔の本尊である。病魔・病鬼を払い除くとされ六臂三眼・憤怒相で、三尸(さんし:体中にいるとされる虫)を模した「見ざる・聞かざる・言わざる」の三猿を踏みつけている。

郷土博物館には、旧石器時代から近現代までの世田谷区の歴史が分かるように要領よく展示されていた。世田谷区のホームページには世田谷デジタルミュージアムがあり、いつでも見られるようになっている。そこで郷土博物館の展示の中で、興味を持ったものだけをここでは紹介する。

古墳時代には、世田谷にもいくつかの前方後円墳や円墳がつくられた。その中の一つが野毛大塚古墳で、その複製の円墳と石棺があった。


そして鎧の複製。

さらにはこのころから使われ始めたカマドの模造も展示されていた。

鎌倉時代には江戸氏傍流の木田見氏が御家人であった。

室町時代から戦国時代の領主であった吉良氏の説明もあった。

さらに、江戸時代のボロ市の様子を示した模型もあった。

そしてまた人混みのボロ市へと戻った。名物の代官餅を食べてみようとも思ったが、長い行列ができていることだろうと想像し、次の目的地へと向かった。

出かける前は、ボロ市は大きな広場の中で開かれるのだろうと勝手に思っていたが、そうではなく、道路沿いであることに驚いた。江戸時代は戸板を使ってお店を開いていたことと思われるが、今回もほとんどのお店は戸板の大きさ程度で、当時の雰囲気を醸し出してくれた。ただ道沿いにある家は、店を開いている場合は良いものの、そうでないときは出入りが不便になってかわいそうな気もした。

また5年ごとに代官行列が行われると紹介されていた。江戸時代には市が開かれているとき、治安を維持するために代官が見廻りしたそうである。それを模しての行事とのことだが、これほどの人混みの中で実行するのはさぞかし大変なことだろうとも思った。今回はコロナ開けという事もあり特に混雑していて、買い物を楽しむというわけにはいかなかったが、落ち着いた頃に、代官行列を見がてらもう一度来たいと思っている。

江戸時代の百姓に関連した書物を読む

正月の人気番組の一つに駅伝がある。元旦は実業団のニューイヤー駅伝、2・3日は大学の箱根駅伝である。特に本人や家族に関係者がいるときは、応援に熱が入ることだろう。我が家もその例外ではなく、今年は両方とも好成績をあげたので、和やかに観ることができた。駅伝はタスキをつなぐことが最も大切な使命で、選手たちはその為に、歯を食いしばり、時には倒れそうになりながらも、次の人へつなごうと必死にもがく。多くの人たちは、もちろん勝ち負けもあるが、そこに繰り広げられるチームの連帯感に感動を覚える。この絆は国民性とも思えるときがあるが、いつの頃から芽生えたのであろう。

暮れから正月にかけて、江戸時代の百姓に関連する本を読んだ。大名や武士たちがどのような生活をしていたかについては、テレビドラマなどを通して、不正確かもしれないがかなりの知識がある。しかしこの時代の人口の8割以上を占める百姓についてはどうであろう。年貢が厳しく、百姓一揆がたびたび生じたこと程度の知識しか持ち合わせていない。そこで一念発起して、百姓に関連する本を読んでみることにした。

先ずはタイトルに惹かれて、渡辺尚志著『言いなりにならない江戸の百姓たち』である。最初の章で江戸時代後期の村についての説明があり、それ以降を読み進めていくうえでの適切な導入であった。

平均的な村の村高は400~500石、耕地面積は50町、戸数は50~80戸、人口は400人程度で、村の数は天保5年(1834)には63,562であった。村は百姓の家屋が集まった集落を中核に、その周囲に田畠、その外側に林野からなっていた。農業を主要な産業とするのが大半だったが、漁業や海運業を中核とする村、林業が重要産業である村、商工業を中心とする都市化した村などもあった。

住民の身分は百姓(一部に僧侶・神職)だった。百姓身分には、土地を所持する本百姓とそうでない水呑百姓などの階層区分があった、農村住民でも、農業以外に商工業・運送業年季奉公・日雇いなど多様な生業を兼業とし、兼業農家が一般的であった。村人たちは、入会地、農業用水路の共同管理、村の中の道や橋の維持管理、寺院や寺社の祭礼の挙行、治安維持、消防災害対応など様々な面で協力していた。田植えや稲刈りなどでは結(ゆい)と呼ばれる労働力交換や、「もやい」と呼ばれる共同作業もあった。村の家々は五人組を作り相互に助け合い、年貢納入などの際は連帯責任を負い、相互扶助組織としても重要な役割を果たした。

村は、領主の支配・行政の単位であり、村の運営は村役人(名主・組頭・百姓代)が行った。名主は、世襲制の所もあれば任期制の所もあった。任期制の場合は入札で後任を選ぶこともあった。しかし最終的には領主が任命した。村の運営は名主を中心に行われたが、重要事項は戸主全員の寄り合いで決められた。村運営の必要経費は共同で負担し、運営は自治的に行われ、村自身の取り決め(村掟)も制定された。戦国時代には村の上層農民(在地領主・地侍)の中には大名の家臣になる者も大勢いたが、兵農分離によりこれらの人は城下町に移住させられた。武士は城下町から文書によって村に指示を出し、百姓たちも文書を用いて武士に報告や要求を伝えた。これにより文書行政が発達し、百姓たちはこれに対応するため読み書きを学び、寺子屋が増えていった。

百姓の負担は年貢と小物成であった。年貢は検地帳に登録された田畑・屋敷地に賦課された石高から定まった。小物成は、山野河海の産物や商工業の収益にかけられた。年貢などの負担は村請制であった。領主は毎年村に対して年貢の総額を示し、名主を中心にして各自の負担額を確定し、名主が全体の年貢を取りまとめて上納した。江戸時代の貨幣制度は、金・銀・銅の三貨で、金は計数貨幣、銀は秤量貨幣であった。

この後の章は、下総国葛飾郡幸谷村(現在千葉県松戸市)の酒井家文書を用いての説明である。幸谷村の村高は、17世紀末に388石、18世紀半ばに512石弱で、明治5年(1872)に戸数62戸、人口360人であった。江戸時代初めは村全体が幕府領だったが、寛永3年(1626)にその一部が旗本古田氏の知行地に、17年末までには幕府領が旗本春日氏・曲淵氏の知行地になり、領主が3人の相給村落となった。名主も領主ごとに置かれた。酒井家は領主春日氏の有力百姓で名主や組頭を長く務めた。

最初に紹介されている文書は、宝暦8年(1758)に幸谷村の百姓11人(戸主全員)が春日氏の役人森新兵衛・野本文右衛門にあてて提出した願書で、「年貢が、定免*1ではなく検見*2に代わってしまったので、元に戻して欲しい」という願いであった。この願いはすぐには認められなかったものの、宝暦11年に定免法が復活した。

2番目の文書は、春日氏領の百姓たちが名主(酒井)又一に年貢に関わる帳面類の記載内容を確認したいと願ったところ、帳面類を全て提出してくれ、全てが正しく処理されていることを確認できたことに対する礼状である。百姓たちの行政上の処理能力の高さに驚かされる。3番目の文書は村掟で、耕作に励むことや盗人などへの対応などが記されている。村での自治の様子が分かる。

4番目の文書は、名主となった四郎兵衛が不正を働いていると、組頭の喜左衛門と杢左衛門と百姓代の常右衛門を代表にして春日氏領の土地所持者18人が春日氏に訴えた。これに対して幸谷村の曲淵氏領の名主武左衛門と春日氏領の組頭又一は四郎兵衛を擁護する側に立ち、二人は幸谷村のもう一人の領主である古田氏の家臣根沢市郎兵衛に対して願書を提出した。杢左衛門らが、自分たちの主張に根拠がなかったことを認め訴えを取り下げたことで、この一件は落着した。5番目は水利権を巡る隣村との争いで、訴訟は出したものの話し合いで解決した。

6番目の文書は春日氏の知行所6か所が共同して、借金に苦しんでいる春日氏に対して、財政再建策を具体的な金額をあげて提案したものである。7番目の文書は春日兵庫の御用役矢嶋応輔の公金横領などを指摘して罷免を要求したものである。8番目の文書は、又一が名主をしている余裕がないことで辞任を春日氏に申し出たものである。これは認められなかったようである。9番目の文書は、領主春日氏が自身の借金を百姓に転化しようとした時に、その撤回を願った嘆願書である。結末は不明である。

この後は肥料購入に伴って生じたトラブルが紹介されている。これらの文書から、高い年貢に苦しめられていたとされていたこれまでの見方とは異なり、勇敢にも武士に注文を付けるしたたかな百姓たちの姿が目立つ。

このように自立した百姓たちがどうして生まれたのかを知りたくなり、次に読んだのが佐々木潤之助著『大名と百姓』である。この本は、1960年代に滅茶苦茶に売れたとされる中央公論社の『日本の歴史』の中の一冊である。日本の本はページ数が少ないとこれまで感じていたが、この本はなんと550ページ近くに及ぶ大作で、データを駆使してとても詳細に記述されている。

さて書かれている内容だが、江戸時代初期(17世紀)における小農を中心とした村の成立過程である。渡辺さんは酒井家の文書を紹介していたが、佐々木さんも同じように、静岡県三島市の高田家に残された文書をベースにしてこの時代を紐解いている。高田家のこの時代の当主は与惣左衛門で、父子以来代々、譜代下人(家内隷属的な農民)を何人か所有していた。その中の一人が七右衛門である。貞享2年(1685)の時点で彼(34)の家族は、弟与左衛門(27)、女房さん(31)、亀蔵(3)、母つる(68)であった。

譜代下人とは、身売りされたり、先祖代々主人に所有される家内奴隷であった人たちである。与惣左衛門の屋敷地は1反歩の大きさがあり、その片隅に長屋風の粗末な建物が並んでいて、37人の下人・下女が寝起きしていた。七右衛門の父も同じ七右衛門という名前である。父は与惣左衛門から3畝の土地を分けてもらい、事実上自分の土地として耕し、4斗ぐらいの収穫を挙げていた(1人が1年に食べる米の量は1石。1反の土地の収穫量は1石)。父は母と共に、与惣左衛門が必要な時はいつでも彼に使役されていた。これは徭役・賦役と呼ばれ、150石に及ぶ与惣左衛門の田畑の耕作などを行った。

父が亡くなって息子の七右衛門に代わった。この頃、与惣左衛門が土地をドンドン増やしているのに、父や母が賦役させられる耕地はそれほど増えていないと母が言った。これは時代の変化を表していた。変化が起きる前は、与惣左衛門は年貢の納入に困った農民から土地を買っていた。買った土地は、永代買いといい、購入者の家が耕したので、下人の賦役が増えた。ところが寛文10年(1670)頃、与惣左衛門は永代買いを改め、土地を質として取るようになった。すなわち債務者にその土地を耕作させ、そこからの収穫で借金を返済させた。これは質地小作関係の始まりである。さらに進んで、質として取った土地を債務者以外の百姓に耕作させるようにした。これは質地別小作関係と呼ばれる。

貞享元年(1684)の人別帳*3を作成したときに、与惣左衛門は七右衛門を含む7人の下人に、来年の人別帳では彼らを地借百姓(屋敷地を借りている百姓)にし、今まで分けて与えている田を彼らの名請地*4にしてやると言った。

百姓の階層についてはさまざまに説明されるが、大きな括りは、地主*5・本百姓*6・水呑百姓*7である。七右衛門は、下人だったので水呑百姓であったが、貞享2年の人別帳で、地借百姓と記載されたことで、本百姓として認められるようになった。この時期、下人から本百姓への移動が全国で確認される。他方、大地主の与惣左衛門は、困窮者から土地を購入するのではなく質地として活用し始めた。また隷属的な下人を地借百姓にすることで、戦国時代からの主従関係を、仲間関係へと変更した。このような傾向は各所に現れ、本百姓の割合が高くなり、勤勉な小農家が増加した。

佐々木さんは、与惣左衛門と七右衛門に生じたこのような現象をデータを駆使して分析した。大地主(佐々木さんは家父長的地主と呼んでいる)と下人が本百姓に収斂していく様を、この時代の学術的傾向をうけて階級闘争と捉えている。その部分の説明については抵抗があるものの、小農家化の分析そのものは面白い。それについては、この書籍を読んで欲しい。

硬い本を読んだのでその次は寝っ転がりながら気楽にということで、戸森麻衣子著『仕事と江戸時代』を読んだ。一言で言うと、貨幣経済が浸透したことにより、江戸時代の終わりごろには各身分とも非正規化・パートタイム化が進んだということである。大学での講義を意識したのであろうか、14章で構成されていて、各章が1講義にあたる。そのうち武士に関係する部分が1/3を占めている。広い意味の百姓については3章、農村の百姓については1章があてられている。ここでは、百姓について考えているので、その章を紹介する。

江戸時代の年貢は前述したように土地所有者に課せられた貢租で、土地を所持するものは、田や畠などの面積や土地条件により算定された年貢を負担した。そして土地情報は検地により確認された。検地は太閤検地後も江戸時代前期においては継続的に行われた。この頃は新田の開発も盛んであったことから、検地帳に把握されていないものも増えていった。17世紀後半、4代将軍家綱(在職1651~80)から5代将軍綱吉(在職1680~09)のころ新田畠を対象に検地が追加実施されたが、この後検地はほとんど行われなかった。

時代の推移とともに農業技術が向上し土地面積当たりの収穫量は増加したにもかかわらず、帳簿上は当初の見積もりのままで、増加が反映されることはなかった。このため年貢は現在の固定資産税に近く、土地を所有している百姓がどれだけの収穫量をあげているのかに関係なく年貢量は決まった。このため領主が求める稲を植えるよりも商品価値の高い作物を植えて、収益の増大を図るようになった。

畑作も同じような傾向をたどり、麦や大豆で納めることとされていたが、収益面で有利な作物が植えられるようになると金銭を替わりとする代金納が認められるようになった。田についても同じである。米を地域市場で換金したり、商品作物を販売して現金を手に入れる環境が整ってきた。租税の金納制度の普及・地域経済の発展・農業経営の多様化が一体となって推進された。なおこの頃の商品作物には、木綿・綿・麻・砂糖黍・甘藷・煙草・藍・紅花などがある。

商品作物は栽培に手間がかかり、収穫時期・時間に制限がある。生産規模が大きくなると家族労働では賄えないようになり、手伝いの人が雇われるようになった。もともと機械化されていない前近代の農業は家族労働の範囲でおさまるものではなく、村の百姓相互の協力によって成り立っていた。しかし農村地域に貨幣が普及しだすと、労働の対価として賃金を払うことが一般化し、村の百姓でなくても構わなくなり、遠方の村からグループでやってきて繁忙期のみの手間取り労働に従事する者もあらわれた。また水呑百姓もある程度の割合でいたので、彼らは手間取りなどの日雇い労働をして、収入の不足を補った。

地主は小作させるよりも商品作物を作付けした方が有利だと見ればそのように積極的にしたし、さらには、商品作物の産地仲買や産地問屋を兼業するものも現れた。このようなものは豪農と呼ばれたが、そのもとで働く日雇い者の需要は増加した。また単身者や女性のみの家庭では、農地を他の百姓に預け、自身は日雇い労働をして稼ぐという選択肢もあった。さらには百姓が農業以外の副業(農間余業)に就くこともあった。例えば旅人が行き来する甲州街道の八王子では、草履草鞋(わらじ)小売渡世・糸繰渡世・紙漉(かみこし)渡世・笊目籠(ざるめかご)渡世などがあった。これらは、原材料を自身の村で調達し商品を作って売る副業である。

ここまでに得た知識をまとめるために、戸石七生さんが2018年に論文誌『共済総合研究』に発表された研究報告「日本における小農の成立過程と近世村落の共済機能ー「自治村落論」における小農像批判ー」を読んだ。戸石さんは、白川部達夫さんの百姓株式論に依拠しながら小農が成立した政治的・社会的背景を次のように説明している。

江戸時代の農業は、土地だけでは成立せず、水利と草山を必要不可欠としていた。入会は緑肥及び耕作用の牛馬の飼料の供給源として重要であり、入会権は水利権とともに土地所持と密接にかかわっていた。そして土地所持は、単なる土地の所有を意味するのではなく、水利権・入会権とセットとなって、村のメンバーシップである「百姓株式」の所持を意味した。村は百姓株式の管理を通じて個別の百姓の農業経営をコントロールした。つまり村は、水利権・入会権だけでなく、土地についても「村の土地は村のもの」という所持権を主張した。その証拠に村の「村借り・郷借り」という行動を見ることができる。村が困窮したときは村の土地を担保に借金したが、返済できないときは好きな土地を取ってよいとするものである。これは個々の所持権よりも村の所持権の方が優先することを意味した。

さらには個別の百姓の農業経営の存続にも責任を負っていた。そうしなければ百姓は村を去り、より厚遇してくれる他の村へ行ってしまうためである。百姓は「土地に緊縛」されていたというイメージがあったが、他村の百姓株式を手に入れることで移動は大いに行われていた。後期には、一家で長期の出稼ぎに出るような百姓も多くいた。挙家離村しようとする百姓を必死に引き止め、残された耕作放棄地の荒廃を必死に食い止めようと、村や村役人は並々ならぬ努力をした。農業経営は労働集約化すればするほど人手を必要とする。近世村落は何としてでも個々の百姓が村で営農できるようにその家の存続を保障する必要があった。このため共済は村の存続にかかわった。

しかし小農レベルの百姓と村の間のこのような関係の構築には時間がかかった。江戸時代において、小農層の発言権の基盤は、検地帳で土地の名請けにされ、年貢担当者として登録されることであった。村が年貢収納に責任を負うという村請制のもとで、国家権力によってその効力が保証された検地帳に年貢担当者として登録されることは、小農にとって村のメンバーであることを国家権力が保証してくれることと同義であった。国家権力の承認のもとに村のメンバーシップを獲得したことは、村の運営に参加するうえで大きな前進で、国家権力の承認が近世村落の小農にとっては、村役人層のような上層農に対するうえでの権原となった。

検地が行われなくなると、村によって管理される百姓株式に正統性を求めるようになる。これは小農の権利強化につながった。そうしなければ人的資源を他の村に奪われてしまう。上層農はそれまで持っていた既得権を放棄し、小農に譲歩して村における彼らの政治的・社会的地位を制度的に強化し、村の運営を安定させるという選択肢しかなかった。名主の選定方式が領主の任命や上層農同士の相互承認から、小農レベルの家を含んだ村人による委任に変化し、「公」としての村が創出された。名主が、国家権力のみならず小農層を含む村人からも「村の代表」として認められたことはとても重要で、村人が名主を「村の代表」として承認し、主体的に支配に組み込まれるメカニズムが初めて生まれた。そして、小農は「検地名請と百姓株式の二重規定性の中に権原を置いていた」としている。

50年前に出版された書籍から最近の研究報告まで江戸時代の百姓に関係する書物をこのように読んできたが、ここでまとめることにしよう。江戸時代の百姓の形成に一番大きなインパクトを与えたのは、これは年貢・諸役を村全体の責任で納めさせるようにした村請制であろう。この制度により土地所有者全員に対して村の維持・運営に対しての責任が共同で課せられるようになった。次に大きなインパクトを与えたのは小農の拡大だろう。江戸時代が始まる頃は、彼らの多くは大地主(有力な土地所持者)に隷属する下人であった。しかし村請制が始まると、大地主たちは自分たちに及ぶ危険を分散させるために、下人たちにそれまで耕していた小規模農地を与え、これを名請地とし、年貢の納入に責任を持たせたことである。地借百姓(屋敷地を借りている)となった彼らは、公的に村のメンバーとして認められたと自覚し、自律的に勤勉に働き、反当りの収穫量を増やした。

これらに加えて大きなインパクトを与えたのは貨幣経済の発展であろう。検地での石高によって現物を治めることで始まった村の経済は、肥料の活用や商品作物の拡大などにより、年貢を貨幣で納め始めるようになった。これによって、米や麦に代わって、高い利益を生み出す商品作物への転換が可能になり、土地所持者たちはこれからより多くの余剰金を得ることが可能になった。また資金力に富む百姓は、困窮したものの土地を買い取るのではなく質として担保でとり、引き続きそこで働かせあるいは他のものに耕作させることで、資金を投資に回せるようになった。これは江戸時代後期の豪農を生み出す要因ともなった。

そして多くの小農の人々を含んだ村の土地所持者の間には、村の維持・管理において運命共同体であるという意識が生まれた。「駅伝の襷のように」、彼らはさらに村を良くしようとする強い絆で結ばれたことであろう。

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*1:過去数ヵ年の収穫量の平均を基礎として向こう3,5,10ヵ年あるいはそれ以上,年の豊凶にかかわらず一定の年貢額を請け負わす方法。

*2:田畑の農作物を見分けたうえ坪刈りをし,稲の豊凶に従い租税を決定する。

*3:現在で言う戸籍原簿や租税台帳で、宗旨人別改帳とも呼ばれる。

*4:名請は年貢負担を請け負うことで、名請地は検地帳に登録された田畑,屋敷地は名請地である。

*5:土地を貸し付けて、それで得た地代を主たる収入として生活。

*6:石高・永高に換算できる田畑・屋敷地を持つ者、高持百姓ともいう。

*7:田畑を所有していないため年貢などの義務はない。

お餅を焦がさずに綺麗に焼く

今年の正月は、能登半島地震羽田空港事故と大きな災害・事故が立て続けに起きた。羽田事故では、日航機と海保機とが衝突、両機とも炎上し、海保機の乗員5人が亡くなられ残念なことになったが、日航機の乗客・乗員には十数人のけが人がでたものの大事にはいたらず幸いであった。大事故にもかかわらず、最悪の事態が避けられ、奇跡的であった。乗員たちの的確な行動は称賛に値するものである。

他方、能登半島地震は、大きな被害をもたらし、輪島の有名な朝市の場所は全焼、輪島市珠洲市・能都町では木造家屋が多数倒壊、津波による被害もあった。今回の地震のメカニズムがNHKニュースで紹介されていた。原因は地下に潜り込んだ流体だそうだ。

これまで起きた地震は、プレート同士がぶつかり合っているところで、強い力が生じることによって生じると説明されてきた。昨年は、関東大震災が起きて100年目で、そのメカニズムが詳しく紹介された。そのときも、フィリピンプレート・太平洋プレート・北アメリカプレートの岩盤が複雑に重なり合って生じたとされていた。

しかし今回は流体によって引き起こされたという。一人の意見だけではないようだ。西村卓也・京都大学防災研究所教授、加藤愛太郎・東大地震研究所教授、石川有三・静岡大客員教授、平松良浩・金沢大教授、後藤忠徳・兵庫県立大教授、中島淳一東京工業大教授など何人もの研究者がそのように説明している。私が知らなかっただけで、専門家の間では常識となっていたようだ(東工大から地殻流体に誘引されている能登半島群発地震の記事が2022年に公開されている)。

西村教授によれば、今回の地震の発生地点では、海側のプレートが陸側のプレートの下に沈み込んでいて、そこでは海側のプレートから入り込んだ海水が豊富に蓄積され、それが上昇して断層帯に入り込んでスリップを生み、巨大な地震が発生したと説明されている。海側のプレートは太平洋側で沈み込んでいるので、入り込んだ海水は太平洋側のもの。それが災害を起こした場所は、列島を横断して、日本海沿岸。随分と離れたところで、地震に関わる因果関係があるのにびっくりした。

ここから話題がとても小さくなって恐縮だが、お正月にお餅を焼くのにてこずっている人は少なくないことだろう。私もその一人で、オーブントースターの中が汚れてしまうのにいつも頭を悩ませていた。でも今年はこれから解放された。暮れにテレビを観ているときに、焦げないお餅の焼き方を紹介していたので、正月はこれに挑戦した。

作業はとても簡単。お餅に醤油を2,3滴たらすだけ。後は普通に焼けばよい。
4つのお餅を用意して、それぞれに醤油を2滴たらす。

オーブントースターに入れる。

プッと膨れるまで、お餅を焼く。1000wで8分であった。焦げていないお餅が出来上がる。

お椀に移す。

お雑煮にする。

原理は打ち水と同じである。この習慣は昔物語になっているかもしれないが、真夏の暑い昼下がり、涼を取るために、庭や道に水を撒いて、直後に訪れる冷たい雰囲気を楽しんだ。これは水が蒸発するときに、周りの熱を奪っていくことを利用したものである。気化熱とも蒸発熱とも呼ばれている物理現象である。

今回のお餅を焼くのも、これと同じ原理で、醤油が気化するときに周りの熱を奪うので、周囲は焦げることから免れる。地震を起こした塩水、美味しい焼餅の醤油、同じ水に絡んだ話だったが、使いようである。

幕末の生糸仕切書を読む

幕末から明治初めにかけては、大地が揺れ動くような大きな変化を、この時代の人たちは感じたのではないだろうか。黒船が来航したのが嘉永6年(1853)、日米和親条約が翌嘉永7年に締結された。そして安政5年(1858)には、米国・英国・フランス・ロシア・オランダの5か国と修好通商条約を結んだ。翌安政6年6月2日(1858年7月1日)には横浜・神戸・長崎など5港が開港された。横浜には、ハード商会、ジャーディン・マセソン商会、スミス・ベーカー商会、クニフラー商会、シーベル&ブレンワルト商会など、手練手管の国際的な貿易商人が押し寄せてきた。

これまで長崎の出島で細々とオランダ相手に商取引をしていたとはいえ、横浜で貿易を始めようとした日本の商人たちは、外国との取引とは無縁に近かった人たちであろう。貨幣や重量の単位は各国で異なっているので、海外との取引には、外国為替や度量衡の変換など、これまでには学んでいなかった全く新しい知識を必要とする。外国の商社に飲み込まれるのではと危惧するところだが、その後の経緯を見ると、一からスタートしたにもかかわらず、彼らに伍して素晴らしい実績を上げたことが分かる。

その証拠ともいえるのが、彼らが残してくれた商取引上の文書である。先日、仕切書を紹介してもらう機会を得たので、それをもとに、幕末の商人がどのように取引をしたのかを見ていきたい。参考にするのは、『横浜市歴史博物館 常設展示案内』の103ページに掲載されている生糸仕切書である。この文書は、慶応3年(1887)10月9日付けで、差出人は亀屋善三郎(1927~99)である。横浜に庭園として有名な三渓園があり、それを造設したのは原富太郎(1968~39)で、善三郎はその祖父である。善三郎は生糸の取引で財を成しただけでなく、埼玉県の生誕地渡瀬と群馬県下仁田に近代的製糸工場を建設した。

取引で問題になるのは、重さの変換である。幕末には尺貫法が使われていて、貫・両(100両=1貫)・匁(10匁=1両)さらには斤(1斤=160匁)が使われていた。ここでの仕切書を理解するうえで必要なのは、斤(きん)と匁(もんめ)だけである。食パンを買うときに、斤を使うので馴染みがあると思う。1斤は600gである(今日のパンの1斤はこの重さにはなっていない)。

英米などではヤード・ポンド法が使われている。重量に関係するのはポンド・オンス(16オンス=1ポンド)である。1ポンドは454gである。日本の120匁が450gであることから、取引では、1ポンドと120匁とは同じとされた。そして120gを1英斤という。区別するために尺貫法での斤を和斤とする。この時、ヤード・ポンド法でのx英斤(=xポンド)は、120/160が0.75なので、和斤ではxを0.75倍したもの(=0.75x)となる。

古文書の解読は面倒だが、ここでの文章は数字が殆どで、数字と数字の間に入っているのは重さの単位である斤、分、リ(厘)なので、これらがどのように書かれているかが分かれば、おおよそのことは分かる。

仕切書の内容を図示すると下図のようになる。なお、仕切書には項目名がないので、ここではその内容に適している名称を付けて理解しやすくした。

ここでの取引はおおよそ次のようになっている。生糸売込商・問屋の亀屋善三郎が、仲買の小倉屋伊助から生糸四箇を仕入れ、それを英国商会のJardine Matheson(1番館)と米国商会のWalsh(2番館)に売却した。

その時の詳細は次の通りである。伊助は善三郎に総量257斤の生糸を渡した。梱包材量などを除くとその正味は253.78斤である。この時の計算は概算で、総量の98.75% を正味としている。善三郎は、その内の215.28斤をJardine Mathesonに、38.5斤をWalshに渡した。その時、手数料としてそれぞれから10.22斤、1.83斤を引いた。手数料に対する係数は、0.475である。手数料は、善三郎がもらったのか、あるいは外国商会がとったのかは不明である。その結果、それぞれに対する取引高は、205.6斤と36.67斤となった。

次の処理はこの取引高から売上金を計算することである。売上金は洋銀で計算されているが、この仕切書から判断すると、尺貫法での斤に対して、銀が何枚になるかが決められていたようである。このため、取引高に対して、尺貫法での斤での重さが求められている。ここでは、これまで示されていた斤での重さに対して0.75倍されているので、ここまでの斤は、ヤード・ポンド法での英斤、即ちポンドであることが分かる(一部に尺貫法での斤と見做しての説明があるが、間違っている)。取引高を尺貫法での和斤に計算し直すと、それぞれ153.8と27.5となる。

和斤に対する洋銀の枚数は商社ごとに異なっていたようで、100和斤に対してJardine Mathesonは875枚、Walshは830枚になっていた。このため、売上金はそれぞれ1345.75枚と228.25枚となる。合計すると1574枚となる。

伊助への支払額は、ここから諸経費30.14枚を引いた額となり、その額は1543.86枚である。なお諸経費は次のように計算されている。歩合・口銭(手数料)が25.18枚、荷造り・看貫(斤量を定めること)が4.53枚、蔵番が15匁、車力が6匁である。蔵番と車力への支払いは日本の通貨なので、これは洋銀へと変換される。10洋銀が485匁と決められているようで、これより0.43枚となり、全てを合わせると先ほどの30.14枚となる。

群馬文書館からは、吉村屋の仕切書が公開されている。吉村屋は、大間々町で金融業を営む吉田屋の出店で、慶応年間に大間々町の本店から独立し、明治初年には横浜で最も大量の生糸を輸出する売込商となった。1873年から1874年にかけては吉田幸兵衛、原善三郎、小野善三郎、三越得右衛門、茂木惣兵衛で横浜の生糸取扱い量の74%を占めていた。

この取引は次のようになっている。売込商・問屋の吉村屋・吉田幸兵衛(代清二郎)が、仲買の中島久左衛門から大間々堤糸二箇を仕入れ、それをオランダ商会のガイセン・ハイメル(8番館)に売却した。

仕入れた総量は126.25斤で、駕籠・風袋4.5斤、紙元結6.39斤が含まれていたので、正味は115.36斤であった。吉村屋とオランダ商会の間での手数料は設定されていないようで、正味がそのまま取引高になり、これを和斤に計算し直すと86.52であった。100和斤に対し洋銀は725枚に設定されていたので、627.27枚となる。諸経費に12.69枚要しているので、支払額は614.58枚であった。なお支払いは、前の例とは異なり、日本の通貨の金(450.22両)と銀(4.02匁)で払われた。

この当時の両替は大変だったと思われる。これを解消するために、明治13年(1880)には外国為替を専門とする横浜正金銀行(後に東京銀行に、そして三菱UFJ銀行へと変遷)が設立された。幕末頃の1両の価値がどの程度であったかは判然としないが、山梨県立図書館のホームページには、そば代金との比較では12~13万円、米価では3~4千円ぐらいと記載されている。これを用いると、吉村屋の取引は、そば代金比較では6000万円、米価では200万円ぐらいとなる。亀屋善三郎の取引は、この2.5倍程度だったので、それぞれ1.5億円と500万円である。換算の仕方によって大きく異なるものの、多額の取引だったことが分かる。

ここからは感想である。仕切書は生糸貿易の実務を詳細に示してくれた。また幕末期の商人たちが、度量衡や通貨での変換など複雑な商取引を、そつなくこなしていることがよく分かった。激動の時代に新しい知識が求められる中、よく泳ぎ切ったと感心させられる。仕切書は、取引の実態を透明性高く説明してくれたが、江戸時代の学びが新しい時代に対応するのに十分な知識と応用力を与えてくれていたことを改めて認識させられた。高度にAI化した時代を迎えている現代は、次の世代にどのような教育を与えてあげたらよいのかと改めて考える次第である。

江戸五色不動のうちの目白・目黒・目青不動を訪ねる

一日空けて、江戸五色不動の残りの三つを訪れた。目白・目黒・目青不動の3寺である。これらの寺は下図に示すように江戸の東側にあり、それぞれ金乘院、瀧泉寺最勝寺教学院(赤マークの所)と呼ばれている。金乘院は真言宗で、瀧泉寺最勝寺教学院は天台宗である。

出発点は副都心線雑司が谷駅。最初に目指すのは目白不動尊が祀られている金乗院である。戦前は文京区関口にあった新長谷寺に祀られていたが、吸収合併により現在地に遷った。地下鉄を降りた後、目白通り目白駅とは反対方向に向かい、左側に宿坂通りが現れるので、その坂道をどんどん降りていく。中世の頃は、この辺に宿坂という関所があったと伝えられている。

坂を下りきるとそこは目白不動の山門である。左側には不動明王の石像がある。右側には観世音と書かれた石碑が立っている。金乗院(こんじょういん)は、開山永順が本尊の観世音菩薩を勧請して、観音堂を開いたのが草創とされていて、天正年間(1573~92)の創建と考えられている。昭和20年の戦災で焼失、昭和46年に再建された。一方、目白不動尊(新長谷寺)は元和4年(1618)に小池坊秀算により中興され関口駒井町にあったが、昭和20年の焼失により金乗院に合併され、本尊の目白不動明王像も遷された。

本堂。

不動堂。堂内には不動明王像が祀られていた。それほど大きくはなく、高さは25cmである。

槍術の達人の丸橋忠弥の墓。彼は由井正雪と共に慶安の変(江戸時代初期に起きた幕府転覆事件)に加担し処刑された。

青柳文藏の墓。彼は天保2年(1831)、仙台に日本で最初の公共図書館とされる青柳文庫を創設した。

寛政12年(1800)造立の鐔塚(つばづか)。

寛文6年(1666)造立の倶利伽羅不動庚申塔不動明王の化身である。

三猿が陽刻されている庚申塔。左は元禄5年(1692)、右は延宝5年(1677)に造立された。

次は目黒不動南北線で中目黒まで出て、そこからバスを利用することにした。バスに乗るために駅前の横断歩道を渡っているとき、バスの停留所が気になっていたため、横を見ながら歩いていたのだろう。突然ドカンとぶつかり衝撃を受ける。女性の方に大丈夫ですかと声をかけられる。彼女も前方を見て歩いていなかったのだろう。もろにぶつかり、頭に衝撃を受けた。女性の方は運動神経の良い人だったようで、私の二の腕をつかみ倒れるのを防いでくれていた。立場が変わったようで面映ゆかったので、思わず「ごめんなさい」と言って離れた。しばらくは強く打った顎が痛かったが、大事には至らなかった。人込みでは、よそ見をしながら歩いてはいけないと改めて言い聞かせて、バスを待った。子供の頃によく遊びに来ていた環六沿いの景色を懐かしんでいるうちに、最寄りのバス停の不動尊参道に着いた。

目黒不動瀧泉寺の寺伝によると、創建は平安時代初期の大同3年(808)、開山は慈覚大師(円仁)となっている。本尊の不動明王像は、慈覚大師の作と伝えられている。関東最古の不動霊場で、木原不動尊(熊本県)、成田不動尊(千葉県)と並ぶ日本三大不動のひとつである。

目黒不動の境内はこれまで拝観してきた不動と比較するととても広い。Google Earthで見るとよく分かる。バス停からは不動の裏側に出てくる道が近かったので、そちらを利用したが、説明は正面の方からしよう。

寺の正面の仁王門。

山門から入って右側にある阿弥陀堂

右斜め前方にある観音堂

さらに左横にある地蔵堂

大本堂へ向かう途中の階段にある役(えん)の行者倚像(いぞう)。役の行者は、奈良時代の山岳修行者で、修験道の祖とされている人で、この像は寛政8年(1796)の作である。

先の戦災で焼失、昭和25(1950)年に再建された大本堂。内部には不動尊が祀られている。目白不動尊と同じ程度の大きさだった。

大日如来坐像(不動明王は化身)。製作は天和3年(1683)とされる。蓮華座に結跏趺坐するこの像は、宝髪・頭部・体躯・両腕・膝など十数か所に分けて鋳造された。

境内には様々な種類の石像が祀られている。
不動明王に使える八大童子

晦日には一般へ開放され、除夜の鐘が撞かれる鐘楼堂。

中央は延命地蔵、右は掌善童子、左は掌悪童子

護衛不動尊。赤っぽい石碑には目黒不動明王垂迹縁起が記されてる。

良縁成就を願って訪れる人が多い愛染明王

知恵や知識、記憶の面でご利益があるといわれる虚空蔵菩薩

青木昆陽の墓。昆陽(1698~69)は江戸中期の儒者で、幕臣大岡忠相の知遇を得て書物方となる。8代将軍吉宗の命により蘭学を学び、また救荒作物として甘藷の栽培を推奨したために、甘藷先生と呼ばれた。

さて最後は目青不動最勝寺教学院である。JR線を利用して目黒から渋谷に出て、そこで田園都市線に乗り換えて三軒茶屋に向かう。寺は駅からすぐのところにある。大きな境内を有する目黒不動を見たあとなので、とても狭く感じられる。この寺は、慶長9年(1604)に、玄応和尚の開基により江戸城内紅葉山に建立されたと言われている。明治41年(1908)に青山からこの地に遷された。本尊は阿弥陀如来で恵心僧都の作と伝えられている。

不動堂。扉が少しだけ開けられていたので、不動明王を拝むことができた。やはり大きさはこれまでとそれほど変わりなかった。

本堂。

写真を撮り終わって歩を進めたとき、出っ張っている石に躓いた。前傾になりながら、やっとの思いで速足で前に数歩繰り出し、幸いにも転ばずに済んだ。転倒していたら大けがになったかもしれないと思うと、中目黒でのアクシデントともども、天からまだ見放されていないと安堵した。無事に目○不動巡りができてよかった。きっとご利益があるはずだと思い来年を迎えようと考えている。

江戸五色不動のうちの目黄・目赤不動を訪ねる

東京には江戸五色不動と呼ばれる寺院があることを、ブラタモリの番組を見ている時に知った。目黒不動は、親戚の家がこの近くにあり境内で遊んだりしたが、その他については全く知らなかった。山手線に目白という駅があり、同じ路線にある目黒と何か関係があるのだろうとは思っていたが、不動つながりであるとは思わなかった。まして赤・黄・青の不動があるとは、この番組で初めて知った。

上図は江戸五色不動の所在地を示したものである。これを反時計回りにたどると、目黄不動最勝寺(江戸川区平井)、同じく目黄不動の永久寺(台東区三ノ輪)、目赤不動南谷寺(なんこくじ:文京区本駒込)、目白不動金乗院(豊島区高田)、目黒不動瀧泉寺(りゅうせんじ:目黒区下目黒)、目青不動最勝寺教学院(世田谷区太子堂)となる。

五色は密教の陰陽五行説に由来しているようだ。青・白・赤・黒・黄は、それぞれ東・西・南・北・中央を表すとされている。伝説では、3代将軍徳川家光が大僧正天海の具申をうけて、江戸の鎮護と天下泰平を祈願して、5つの方角の不動尊を選んで割り当てたとされている。しかし図からも分かるように、それぞれの寺院は必ずしもその色が指し示す方位にはない。

史実によれば、目黒・目白・目赤は江戸時代の地誌にも登場するが、天海と結びつける記述はまったくない。明治時代になってから目黄、目青が登場し、後付けで五色不動伝説が作られたと考えられている。

金乗院真言宗だが、他は天台宗で、全ての寺院が密教系である。それもそのはずで、これらの寺で祀られている不動尊(不動明王)は、密教で信仰される明王である。密教での最高位の仏様は大日如来で、その化身の不動明王は怒りを込めた恐ろしい姿(忿怒相)で、衆生を正しい道に導くとされている。

江戸五色不動巡りは2回に分けて行うことにした。1日目は右半分の3寺、2日目は残りとした。初日の行程は下図のとおりである。

錦糸町駅が出発地で、ここから葛西駅前行のバスに乗る。あまり混んではいないだろうと予想していたのだが、バス停に着いたら長い行列になっているのでびっくり。それもほとんどの人がシニアで、手には東京都の老人パスを持っている。私が住んでいるところも東京都だが、西の端で神奈川県に囲まれた地域のため、老人パスは殆ど用をなさない。このため使い方さえ知らないし、もちろん所有もしていない。見れば駅前にはバス停がひしめいていて、都バスがドンドンと流れていくのが見える。シニアにとっては便利なところなのだろうと羨ましく思えた。列の後ろの方だったが、何とか座席にありつけ、バスからの車窓を楽しむことができた。京葉道路に沿ってなので、道幅が広く、道の両側には10階建てぐらいの高さのビルが整然と立ち並んでいる。そうこうするうちに最寄りのバス停の小松川三丁目に着いた。

早速、携帯を取り出して、最初の目的地を確認する。途中、都立小松川高校の脇を通る。校庭には体操着の高校生たちが声をあげずに動き回っていた。高校の反対側には、寺がいくつか続いていて、最後に現れたのが目黄不動最勝寺だった。
正面。左右の朱に塗られた門には仁王像が、そして正面に本堂が見える。

仁王像を拡大。

不動堂。屋根が二重になっている。

横から、目黄不動明王の碑が立っている。

本堂。

千体仏。

天台宗東京教区の公式サイトの情報を抜粋すると、「最勝寺の始まりは、慈覚大師が東国巡錫のみぎり、隅田川畔(現・墨田区向島)にて、釈迦如来像と大日如来像を手ずから刻み、これを本尊として貞観二年庚辰(860)に一宇を草創したことによる。同時に大師は、郷土の守護として「須佐之男命」を勧請して牛島神社に祀り、大日如来本地仏とした。慈覚大師の高弟・良本阿闍梨は、元慶元年(877)に寺構の基礎を築き、最勝寺の開山となり、当寺を「牛宝山」と号した。その後、本所表町(現・墨田区東駒形)に移転した。不動明王像は、天平年間(729~766)に良弁僧都(東大寺初代別当)が東国巡錫の折、隅田川のほとりで不動明王を感得され、自らその御姿をきざまれたものであり、同時に一宇の堂舎を建立された。その後最勝寺の末寺で本所表町にあった東栄寺の本尊として祀られ、徳川氏の入府により将軍家の崇拝するところとなった。明治末に隅田川に駒形橋が架かることによる区画整理があり、現在地に移転し今日に至る」とされている。
隣の大法寺。

さらに隣の善通寺。エキゾチックだ。

次は同じ目黄不動の永久寺である。まずはJR線の平井駅に向かう。この辺りは昭和の風情を残しているところで、商店街も懐かしく感じられる。秋葉原で乗り換えて地下鉄日比谷線三ノ輪駅で降りる。駅から直ぐなのだが、ちょっと気がつかず通り過ぎてしまった。門が閉ざされていたので、外側から写真だけ取る。

脇には説明書きがあった。これを見つけなければ気がつかなかった。

天台宗東京教区の公式サイトの情報を抜粋すると、「永久寺の歴史をひもときますと遠く14世紀南北朝騒乱の頃とされます。ただ当時は真言宗のお寺で名称も唯識院と呼ばれていたようです。江戸時代に入って、出羽の羽黒山の圭海という行者さんによって天台宗の寺となります。さらに寛文年間、幕臣山野嘉右衛門、号して藤原の永久という方が、諸堂を再建し境内地も拡張・整備され、寺院名も永久寺と改められ、中興の祖となられました」とある。

三ノ輪に来たのは初めてである。かねがね都電に乗ってみたいと思っていたので、これを利用して次の目的地に向かうこととした。都電に沿っての商店街も、平井と同じようにいやそれ以上に、懐かしさで溢れている。

三ノ輪橋駅。

都電は街を縫うようにしてゆっくりと進む。先ほどのバスとは異なり、若い人もかなり乗っている。しかも子供連れが多い。途中から混みだしてきたが、老人を見かけるとすぐに若い人が席を譲っていた。私が普段利用している電車では見かけない光景で、やはり懐かしい光景に出会った。そして乗換のために王子駅前で降りた。

南北線に乗り継ぎ、本駒込で降りて、南谷寺に行く。

本堂。

不動堂。

天台宗東京教区の公式サイトの情報を抜粋すると、「創建は元和年間、開基は万行律師と伝えられております。万行律師という方は比叡山南谷の出身で後に南谷寺の寺名もこれに由来しております。万行律師は常に不動明王を信奉し、ある時、比叡山を下り今の三重県赤目山にて修行をかさね1寸2分の不動明王を授かり江戸に赴いたのであります。当初は駒込動坂(堂坂)に庵を結び赤目不動尊として日々民衆を教化致しておりましたところ、この駒込動坂近くには将軍家鷹狩りの場があり当時の目黒・目白にちなみ目赤不動と改称するよう申し渡されたのです」となる。

まだ陽も高かったのでさらに訪問できそうだったが、次は雰囲気が異なる山の手のお寺になるので、ちょうどきりもよいので続きを楽しみに帰路に就いた。

マッチングゲームを抽象的に記述する

かつての職場の同僚から数学の本を出版したいので原稿をレビューをして欲しいと頼まれた。順調に読み進んできたものの、あるところでつまずいた。ものすごく飛躍して説明すると、方向が反対になっている世界をどのように記述するかの問題である。どのように理解したらよいのかを考えて具体的な例を探した。

もう40年以上も前のことで恐縮だが、その頃流行ったバラエティ番組のなかに、「フィーリングカップル5vs5」というコーナーがあった。男女5人ずつがテーブルを挟んで座り、いくつかの質問をしあいながら、相性がよい異性を探り合う。最後に、女性のそれぞれが最も好ましい男性を一人選んでボタンを押す。視聴者は自分の好みとも重ねながら、誰と誰がお似合いかを想像して楽しむというものだ。

女性が男性を選択したとき、女性の方は必ず一人選んでいるが、男性の方は複数の女性から選ばれたり、全く誰からも選ばれなかったりと、人生の不条理を感じさせてくれる。この不条理を数学でどのように表現したらよいのだろう。

上図に示すように、女性\(a1\)は男性\(b4\)を選んだ。同様に\(a2,a3,a4,a5\)はそれぞれ\(b1,b1,b2,b4\)であった。女性の集合と男性の集合をそれぞれ\(A\)と\(B\)であらわし、今回の選んだ行為を\(f\)で表したとする。圏論では\(A\)と\(B\)を対象(objects)、\(f\)を射(morphism)と呼ぶ(集合論では、前者を集合(sets)、後者を関数(function)あるいは写像(map)という)。ここでの選択という行為\(f\)は女性\(A\)が男性\(B\)を選んでいるので、\(A\)をソース対象、\(B\)をターゲット対象と言い、\(f: A \rightarrow B\)と表す。また対象\(A\)を構成しているもの、すなわち\(a1,a2,a3,a4,a5\)を要素という。\(B\)に対しても同じである。

圏論での射(集合論での関数も同じ)には約束事がある。それはソース対象のそれぞれの要素に対して、ターゲット対象のある要素が必ず一つだけ存在しなければならないということである。ここでの選択は、全ての女性が行っているので、\(f\)は射の約束事を満足していると言える。

それでは視点を変えて男性側から見た場合はどうであろうか。\(b2\)は一人の女性\(a4\)から選べれているものの、他の男性はそうはなっていない。\(b1\)と\(b4\)はそれぞれ二人の女性から、\(b3\)と\(b5\)は誰からも選ばれていないので、これらは射の条件を満たしていない。どのようにしたら、男性側から女性側への射を作れるのだろうか。

数学では、その部分集合の全てを要素とする集合(冪集合(power set)と呼ばれる)が用意されている。女性の集合\(A\)の部分集合には、全く誰も含まないもの\(\{\}\)が1個、一人だけ含んだもの\(\{a1\},\{a2\},...,\{a5\}\)が5個、二人だけ含むもの\(\{a1,a2\},\{a1,a3\},...,\{a4,a5\}\)が10個、三人だけ含むものが10個、四人だけ含むものが5個、全員からなるもの\(\{a1,a2,a3,a4,a5\}\)が1個ある。冪集合を求めることを\(P\)で表すと、女性\(A\)の冪集合は\(P(A)=\{\{\},\{a1\},\{a2\},...,\{a5\},\{a1,a2\},\{a1,a3\},...,\{a1,a2,a3,a4,a5\}\}\)となる。都合32個の要素を有する。男性\(B\)の冪集合\(P(B)\)も同様に求めることができる。

そこで\(P(B)\)の要素から\(P(A)\)の要素への対応を考えてみよう。上図に示すように\(\{\}\)に対しては\(\{\}\)が対応する。同様に\(\{b1\}\)に対しては\(\{a2,a3\}\)が、\(\{b2\}\)に対しては\(\{a4\}\)が、\(\{b3\}\)に対しては\(\{\}\)がというように全ての要素に対して対応させることができる。これによって男性側から選択されているという行為を、冪集合により表すことができるようになった。この時の射は\(f\)を反対向きに表したもの、すなわち逆射\(f^{-1}\)である。

上図に示すように、集合の圏\(\mathbf{Set}\)に対象\(A,B\)が存在する(圏は構造を有する一つの世界と考えてよい)。\(A\)から\(B\)へはこれまで説明してきたように「選択」という射\(f\)がある。もう一つの集合の圏\(\mathbf{Set}\)には\(P(A)\)と\(P(B)\)のような冪集合が対象として含まれている。前者の圏から後者の圏に対して冪集合を求める\(P\)を考えると、対象\(A\)と\(B\)は、対象\(P(A)\)と\(P(B)\)にそれぞれ写される。また、射\(f:A \rightarrow B\)は\(P(f): P(B) \rightarrow P(A) \)に写される。これは射\(f\)の逆射\(f^{-1}\)で、「被選択」と呼んでもよいものである。式で表すと、\(Pf=f^{-1}\)である。

さらに任意の対象\(C\)があり、射\(g: B \rightarrow C \)のとき、\(P(g \circ f)=P(f) \circ P(g)=f^{-1} \circ g^{-1}\)となることが示せるので、\(P\)は関手としての機能を有している。しかし、射の方向が逆向きとなるので、反変関手とよばれる(同じ方向である場合には共変関手という)。

ここまでの議論ではマッチングゲームを抽象的に表現する時に、女性の選択という行為を射\(f\)で表した。そして男性の被選択という行為は、冪集合を用いて、\(f\)の逆射で表せることを示した。また冪集合への関手\(P\)が反変関手であることも示した。

この議論をさらに発展させると、表現可能関手( 次の自然同型\({\rm Hom}(\_,A) \cong F\) が成り立つときの関手\(F\))から米田の補題( \({\rm Nat}\) を自然変換とした時、\({\rm Nat} ( { \rm Hom }(\_,A), F ) \cong F(A) \) が成り立つ)へと進むことができる。レビューをしている原稿は近いうちに出版されることと思うので、その時を期待している。

追:

折角、冪集合を関手とした例まで示したので、冪集合での表現可能関手(representable functor)まで説明しておこう。このときは、\({\rm Hom}(\_,A) \)と\(P\)とが自然同型になるとき、即ち \({\rm Hom}(\_,A) \cong P\)となる時、そしてその時に限って、\(P\)は表現可能関手であるという。

それでは、\(P\)が表現可能関手であるとしよう。このときは、定義に従って、①任意の\(f^{-1} \in {\rm Hom}(B,A)\)に対してただ一つの\( u \in P(B) \)が存在し、\({\rm Hom}(\_,A) \)から\(P\)への自然変換が可換になることを、②任意の\( u \in P(B) \)に対してただ一つの\(f^{-1} \in {\rm Hom}(B,A)\)が存在し、\(P\)から\({\rm Hom}(\_,A) \)への自然変換が可換になることを示せばよい。

証明する前に少し準備をしておこう。
先のフィーリングカップルの同窓会が1年後に行われてもう一度ゲームをしたとしよう。その時は前回とは少し様相が異なり次のようになったとする。この時の選択を射\(g\)としよう。

その逆射\(g^{-1}\)は、先ほどと同じように求めると、次のようになる。

女性の集まり\(A\)を恒等射で表しそれを\(id_A\)としよう。この時、冪集合\( P(A) \)の要素でこれに対応するのは、もちろん集合\( A=\{a1,a2,a3,a4,a5\} \)である。図示すると次のようになる。

それでは証明を始めよう。①から始める。任意の\(f_1 : A \rightarrow B\)に対して、先に説明したように冪集合を利用すると、\( f_1^{-1} :P(B) \rightarrow P(A) \)が定義できる。ここで、\( f_1^{-1} \)において、先の図で示したようにそのターゲット(値域)を\( A \)だけに限定した射を\(f^{-1}: P(B) \rightarrow A\)としよう。この時、先の例での\(f\)の持つ意味は、女性の人々によって選ばれた男性の集まりとなる。それぞれがだれを選んだかは問われていないので、このような射は\(f_1\)以外にもいくつかあることになる。しかしこれらの射のターゲットを\( A \)に限定した射は全て同じで\(f^{-1}\)となる。これは一般的に言える。従って、任意の\(f^{-1}\)を定めると、そのターゲット\(A\)に写像を与えるソース(定義域)\(u\)は、これまでの議論で、一意に決まることが分かる(先の例では、\(f^{-1}\)に対しては\(u=\{b1,b2,b4\} \)、\(g^{-1}\)に対しては\(u=\{b1,b3\}\) )である)。

任意の\(f^{-1}\)に対してただ一つの\(u\)が存在することが分かったので、後は下図において外側の長方形を可換にするような自然変換\( η_{A}, η_{B} \)が存在することを示せばよい。この時は一番内側に書かれている長方形の図を利用して、右上の\(f^{-1}\)から出発して左側から下に移って、左下の\(A\)に達するることを、同様に下から左側に移って\(A\)に達することを示せばよい。図から分かるように、前者では\(f\)と\(id_{A}\)を利用し、後者では対応する\(u\)から\(f^{-1}\)を利用すればよいので可換となる。これにより、自然変換\( η_{A}, η_{B} \)が存在することを示せた。

②に対しては、下図が可換になることを示せばよい。これに対しても同様に証明できる。

横須賀市自然・人文博物館を訪れる

横須賀と聞いた時、何を思いだすだろう。「横須賀ストーリー」と答えるような仲間たちと、横須賀市にある自然・人文博物館を訪れた。博物館は、京浜急行横須賀中央駅から10分程のところにある。Google Earthで示すと中央左の高台のところである。その崖の下に京浜急行の線路が見える。トンネルを抜けた先は横須賀中央駅である。上部が横浜方面、下部が浦賀方面である。

博物館の隣には平和中央公園があり、博物館よりもさらに高い高台にあるため、とても見晴らしが良い。下の写真で中央に見えるのが無人島の猿島、左奥に霞んで見えるのが房総半島である。

幕末には海防のためにいくつかの台場(浦賀には明神崎台場)が設置されたが、明治政府も西洋技術を応用して砲台群を全国の要地に設置した。この高台にも、東京湾要塞のため明治23年(1890)から24年にかけて米ヶ濱砲台が設置された。写真は砲台の下に造られた弾薬庫。

横須賀市自然・人文博物館は、先に自然館が建てられ(1970年)、その後に人文館が造られた(1983年)。今回は、学芸員の方に人文館の展示を説明して頂いた。人文館の展示は、1階と2階に分かれている。1階は、縄文・弥生・古墳時代を経て中世の三浦一族が栄えた時期まで、2階は江戸時代から現代までの歴史と民族を展示している。

まずは1階から。横須賀市には縄文時代の遺跡が多いが、学芸員の方がその理由を教えてくれた。明治の初めに軍港が設けられ、そのアクセスのために明治22年横須賀駅まで横須賀線が開通した。都内から日帰りで仕事ができる場所になったので、大学の先生たちが弁当を持って、遺跡探しのフィールドワークに来たことによるそうだ。このため、土器型式に横須賀の遺跡名が多く残されているとの事だった。

縄文土器の展示を紹介しよう。田戸台から発見された深鉢型丸甕土器(田戸上層式土器)。

吉井第1貝塚からの深鉢型突底土器(粕畑式土器)。粕畑貝塚名古屋市縄文時代早期の貝塚遺跡なので、この当時、横須賀が東西の交通の結合点であったのかと想像させてくれる。

弥生時代の遺跡は少ないそうだが、上の台遺跡の甕形土器。

古墳時代三浦半島では3基の前方後円墳と、13基の円墳が確認されている。この時代の土器で、蓼原古墳の甕(須恵器)。

同じ古墳から出土し、琴で有名な埴輪で、「椅子に座り琴を弾く男子」と名づけられている。

2階に移動して、横須賀とかかわりの深い人物を3人。
ウィリアム・アダムズ(1564~20)は、日本名が三浦按針で、横須賀・逸見に領地を有していた。

小栗上野介忠順(ただまさ)は、日米修好通商条約批准書交換の遣米使節として渡米し、日本と欧米との工業技術の差を目の当たりにし、近代化への投資として製鉄所の建設を進言した。横須賀製鉄所は、慶応元年(1865)に工事が始まり、近代国家としての発展に大きな役割を果たした。1号ドックは、今でも現役で使われている。

フランス人技術者レオンス・ヴェルニー(1837~08)は、横須賀造兵廠その他の近代施設の建設を指導し、日本の近代化を支援した。

漁業が盛んだった頃の地引網船。船が左半分だけになっている。大きすぎて搬入できなかったため切断されたそうだ。

ぺリー来航の11年前、天保13年(1842)に横須賀市佐島に建てられた漁師の家。

マイワイは縁起のよい絵柄を描いたハンテンで、大漁に網元や船主が漁師たちに配った。漁師はこれを着用して、海の神に大漁御礼の参拝をした。

嘉永6年(1853)にマシュー・ペリー率いる米国の艦船4隻が来航し、浦賀沖に停泊した。このとき、ペリー一行は久里浜への上陸を認められた。その時、僧侶が座るキョクロクという椅子を用意したとされている。その時のものではないが、同型のもの。

横須賀製鉄所の当初の設計図。

横須賀製鉄所のバルブの設計図

製鉄所の護岸に松の丸太杭を岩盤に届くまで打ち込んだ。

横須賀製鉄所に関連する施設を巡るコースが紹介されているので、それを掲載しておこう。我々にはこのコースを散歩する気力・体力は残されていなかったので、駅の近くの海軍カレーのお店で、一番人気と言われているカレーを食べて、この日の思い出にした。

今回の訪問で印象に残ったのは、説明してくれた学芸員が切実な悩みを何度も口にされたことである。それは、人文館が建築してから50年も経っているので、新しい時代の要望・期待に合わせてリニューアルしたい。しかし、市の人口が減り小中学校の統廃合が行われている時に、博物館が新たな予算を要求することがとても難しいという事であった。今年の秋、国立科学博物館が資金不足を訴えて、クラウドファンディングを行ったのは記憶に新しいところだ。この時は成功したけれども、次もうまくいくとは限らない。まして国立ではない一地方の組織が行ったときはどうであろう。文化への資金が枯渇しているなかで、妙案があるのだろうか。なかなかの難問だが、IT技術などを活用して、解決していくしかないだろう。

相模国高座郡家の跡を訪ねる

今年は天候に恵まれなかったと思っている人が多いので、さすがにそれはまずいと天気の神様が思ったのか、このところ秋晴れの日が続いている。そのような中、茅ヶ崎市にある古代遺跡を見学に出かけた。いつもの仲間で、集合は相模線の香川駅であった。相模線に乗ったのは初めてという人も多かったが、この地で生まれ育ったという学芸員に引率されて、古代遺跡のある北西部(下寺尾)、また江戸時代の民家と博物館のある北部(堤)を訪れた。
今日の行程は図の通りで、図の左側の下寺尾官衙遺跡群と右側の江戸時代の古民家2軒・大岡越前守ゆかりの浄見寺・博物館である。

出発地点となったのは、ローカル線の駅らしい香川駅である。

駅前には綺麗な街歩きマップがあった。この町が大好きという地元の人々の思いが感じられて、微笑ましい。この辺りは江戸時代は香川村、そして隣は堤村であったが、両村とも廃藩置県が実施された当初は西大平県と称した。しかし直ぐに神奈川県に編入された。これは江戸時代に、大岡家の領するこの両村が、三河国西大平藩(藩主:大岡氏)の管轄であったことによる。

おしゃべりしながら歩いているうちに、下寺尾官衙遺跡群に着いた。ここは平成27年3月10日に国の史跡に指定された。そのためだろうか、何とも大きな看板がどんと据えられていた。この日は、相模線の電車からよく見えるためと説明された。

文化庁のホームページに説明があり、次の様に記載されている。

この遺跡群は、小出川を望む標高約13mの相模原台地頂部に位置する相模国(さがみのくに)高座郡家(たかくらぐうけ)(郡衙(ぐんが))と考えられる下寺尾官衙遺跡(西方遺跡)と台地の南裾に位置する下寺尾廃寺跡(はいじあと)(七堂伽藍跡(しちどうがらんあと))からなる。

遺跡の西側では8世紀後半から9世紀前半にかけての船着き場と祭祀場が検出され,寺跡の南東でも祭祀場(さいしじょう)が検出されているなど,高座郡家に関連する施設が,相模原台地を中心とする比較的狭い範囲に集中していることが確認されている。

郡庁(ぐんちょう)は7世紀末から8世紀前半に成立し,四面廂付(しめんびさしつき)の掘立柱建物である正殿(せいでん)と,脇殿(わきでん),後殿(こうでん)から成っていたものが,8世紀中頃に改変され9世紀前半に廃絶する。正倉は,郡庁後殿から約100mの空閑地を挟み,台地の北縁に沿って4棟検出されているが8世紀中頃には廃絶している。

下寺尾廃寺跡は,郡庁南西の台地裾の低地に位置する。掘立柱塀による方形の区画の東側北寄りに金堂,西側の中央付近に講堂と考えられる建物を置く伽藍は7世紀後半の創建と考えられ,8世紀中頃以降に大きく改変され,9世紀後半に廃絶する。

官衙遺跡の全体像が把握できるとともに,その成立から廃絶に至るまでの過程が確認できる希有な遺跡であり,地方官衙の構造や立地を知る上でも重要である。

それではもう少し詳しく見ていこう。茅ヶ崎市のホームページには、史跡「下寺尾官衙遺跡群」の推定図が掲載されている。これからは、上記で説明されていた郡家と廃寺の位置関係、すなわち二つの施設が隣接していたことがよく分かる。

茅ヶ崎市教育委員会から下寺尾官衙遺跡群のパンフレットが出版されており、そこには少し古いのだが(2005年撮影)、郡家と廃寺の関係が、現在の地理との関係の中で、さらに良く分かる。

Google Earthから、現在の3Dマップで見ると、茅ヶ崎北稜高校が図で下に移転していることが分かる。

金堂と思われる場所には説明用の看板があった。

講堂に対しても。

七堂伽藍跡(下寺尾廃寺跡)を示す石碑も立てられていた。

郡家の頃に津となった小出川のあたりは、縄文時代前期には縄文貝塚があり、西方貝塚と呼ばれている。

茅ヶ崎市の「史跡 下寺尾西方遺跡 保存活用計画」に掲載の図には、縄文海進の様子が示されていた。

さらに弥生時代になると、この辺りは関東で最大級と言われる環濠集落も存在し、下寺尾西方遺跡と呼ばれている。

同じく掲載の図には環濠集落の場所が次の様に示されている(黄がV字形環濠、橙が逆台形環濠)。

このように下寺尾には、縄文時代貝塚弥生時代の環濠集落、奈良時代の郡家が存在し、集落として重要な空間であったことが分かる。これらの遺跡調査は現在も継続中で、全容が分かることが期待されている。

次に見学したのは、古民家2軒。旧三橋家住宅と旧和田家住宅で、前者は文政11年(1828)に、後者は安政2年(1855)に建てられた。両家とも茅ヶ崎市重要文化財に指定されている。

三橋家は香川の旧家で、江戸時代には、香川村内の旗本戸田氏の知行地で名主を務めていた。面積は152㎡、4部屋と土間、物置などがあり、当時は大型の建物であった。

和田家は萩園(茅ヶ崎市の西部、香川駅の南西方向)の旧家で、江戸時代は萩園村の村役人をしていた。面積約224㎡で、7部屋と広い土間のある大型の民家である。




両家の見学を挟んで、浄見寺も見学した。堤村を本領とした大岡家の二代当主忠政が、父の追慕のために慶長16年にこの寺を建立した。忠政の法名から寺の名前がつけられた。浄見寺は名奉行を輩出したこともある大岡家代々の菩提寺で、初代忠勝の墓石をはじめとして現在まで、墓碑が整然と並んでいる。

墓所は市指定の史跡となっているが、南町奉行として有名な5代目越前守忠相の墓は石の柵に囲まれている。
初代忠勝の墓所

5代忠相の墓所

本堂。

庭園。

最後は茅ヶ崎市博物館。

新築からまだ1年半。展示方法も斬新で、通常の博物館のように時代を追っていく編年体になっておらず、テーマ別となっている。学芸員の方にアナール学派の影響を受けているのですかと尋ねたが、意識はしていないとのことだった。写真を撮るには時間が短すぎたので、次の機会にと思っている。

帰りは海老名に出て、ビールを飲み、焼きそばを食べて、この日の疲れを癒した。

追:茅ヶ崎市の江戸時代の村落(赤松自治会だよりより)

東南アジア・南アジアに関する良書を読む

近年、東南アジア・南アジアの経済成長は著しく、ニュースでも明るい話題として報じられる機会が多くなってきた。これに刺激を受けて、この地域の歴史的な背景を知りたいと思い、関連する書籍を立て続けに読んでみた。

最初に読んだのは、アンソニー・リード著『世界史の中の東南アジア』である。結論から先に言ってしまうと「秀作」、いやそれ以上である。多くの歴史書が王朝の移り変わりを描いているのに対し、アナール学派の影響を受けているのであろう、気候・宗教・経済・外部などテーマごとに書かれている。訳者のあとがきには「東南アジアは世界にも類をみないほどの多様性を抱えながら、内部を貫く共通性ゆえにひとつの全体として捉えられるという認識を前提として執筆されている」と記されている。ここでの共通性は、①火山噴火や地震が頻発する熱帯の水域に位置すること(環境)、②女性の経済的役割が大きいこと(ジェンダー)、③多くの人びとが国家の影響の外側に生きてきたこと(非国家)、である。一方で、地域ごとに言語・宗教・生業が異なるとという事実を受け入れながら、多様性を維持し乗りこなす智慧を働かせているとも説明されている。華厳経の教えの中にある「一即多・多即一」に近い考え方である。この本を読み終わった時、世界から紛争をなくすための智慧を東南アジアから発信できるのではないだろうかと感じた。


次は、タンミンウー著『ビルマ 危機の本質』(ビルマの国名はミャンマーで、面積は日本の1.8倍、人口は半分弱)。タンミンウーは、国連事務総長であったウ・タントの孫で、米国育ちである。多くの人がミャンマーに希望を抱きながらも、裏切られる度ごとに、絶望感を抱いてしまう。タンミンウーは、ミャンマーの政治家や軍人たちが国を良くしようとそれぞれ努力しているのだが、その時々の対応でしかなく、将来のあるべき姿を示せないことに歯がゆさを感じている。偶像化されたアウンサンスーチーに対しても同様で、将来を見据えた政策を打ち出さないことに失望している。ミャンマーには135民族、6系統の言語が存在する。ミャンマーの中心部にはビルマ族とモン族(18世紀にビルマ族に敗北)、北部高地にはカチン族(中国との境)、東部にはシャン族(ラオスとの境)やカレン族(タイとの境)、そしてバングラデシュに接するアラカンに住む人々がいる(特にアラカンにはアラカン人・ビルマ人・ベンガル人・インド人、仏教徒イスラム教徒が住み民族・言語・宗教の境が曖昧で、難民となったロヒンギャも居住。かつてここにはアラカン王国が存在したが、18世紀にビルマ王朝が征服した)。東南アジアの国々が多様性を克服していく中で、ミャンマーでは内乱が続き、多様性を活かすための智慧が働かない。タンミンウーは精力的に支援しているものの思うようにはいかず、破綻国家になってしまうのではないかと危惧している。本を読んで悲観的になることが多かったが、多様性を克服するための智慧が働くことを願いたい。

この後は東南アジアから離れてインド。先ず取っつきやすいところから、池亀綾著『インド残酷物語 世界一たくましい民』である。著者は建築会社に勤める技術者だった。インドに派遣される機会があり、そのときの印象が余りにも衝撃的であったことから、人類学を学び直し、この分野の専門家となる。この本は人類学に関する専門書ではなく、彼女がフィールドワークをしているときの体験談を綴ったものである。場所はインド南部のカルナータカ州(面積も人口も日本の半分ぐらい)、言語はドラヴィダ語族に属するカンナダ語、州都はIT産業の中心地として知られているベンガルールである。紹介される人々は、いわゆるエリート階層ではなく、市井の人々とインドのカースト制度の中で枠外に置かれている不可触民(ダリト)である。インドの憲法カースト制度は禁止されているが、結婚相手となると同じカーストに属さないと難しい。そのようにとても重苦しく憂鬱な慣習の中で、人々がいかにしなやかに生活しているかを、軽やかなタッチで描写してくれる。

最後は辛島昇著『インド文化入門』。南インド史の研究者として高名な方で、8年前に亡くなられた。この本の紹介で「どの地方、どの民族のカレーを食べてもカレーとしてのカテゴリーに収まっているように、インド文化圏は多様な中にも統一性が保たれている」と書かれている。これは、アンソニー・リードのところで見た「多様性を抱えながらも共通性によって一つの全体として捉えることができる」と同じである。内容は、放送大学の講義で使ったそうで、15講から成り立っている。物語、遺跡、陶磁器、刻文、カレーライス、絵画、映画、新聞といった身近なところにあって興味を引くものを手掛かりに、インド文化を理解してみましょうとするもので、どこから読み始めても大丈夫だが、最初の「ラーマーヤナ」だけはおおよその様子を知るために最初に読んだ方がよい。

個人的には、インドに一度、シンガポールとタイには複数回、ベトナムは二回、マレーシアとカンボジアはそれぞれ一回訪れたが、それももう10年以上も前のことになる。その時は、それぞれの地域の情報をインプットして訪問したのだが、知識としてはまとまりがなかった。今回これらの書物を読むことで、特にアンソニー・リードの著作によって、この地域が持つ多様性について良く理解できた。そして最後に訪れた後の10年間にも、ミャンマーなどを除く多くの国は、さらなる教育の充実とナショナルアイデンティティの確立をして、高い経済成長と高度近代主義を成し遂げ続けた。振り返ると、マレーシアに行ったときに民族(マレー系・華人系・インド系)・宗教(ムスリム・仏教・キリスト教ヒンズー教)の対立をいかに克服したかについて説明を受けたが、そのときはあまり実感が湧かなかった。遅まきながら、これらの本を読んだことで、十分とはいかないまでもかなりの程度まで理解できる知識を得た。そして、高度近代主義が経済面だけでなく政治面でも強く打ち出され、豊かで、自由で、格差の少ない社会が作り出されることを望んでいる。

御殿場プレミアム・アウトレットへ行く

孫が運転の練習がてら御殿場プレミアム・アウトレットで買い物をしたいというので同行した。ここはかつては遊園地、2000年に開業。現在は290店舗を数える国内有数のアウトレット・モールである。Google Earthで周囲の様子を見てみよう。このアウトレットは御殿場市に位置し、御殿場インターチェンジからも近い。下のマップで、下部がアウトレット、富士山の裾野が大きく広がった端に位置している。

足柄サービスエリアからの富士山。

アウトレットの周囲を拡大すると、

ここは三地区に分かれていて、右の方がヒルサイド、左下がイーストゾーン、左上がウエストゾーンである。われわれはイーストゾーンにある駐車場を利用した。駐車場からの富士山。

イーストエリアから。




ヒルサイドへ。


希望の大橋(ヒルサイドからウエストゾーンへ)を渡る。

最後にウエストゾーンで。



お昼は「さわやか」のハンバーグを食べようと目論んだが、これは夢のまた夢。お店に着いたときは、本日の予約は終了。キャンセル待ちに一縷の望みを託せるようだったが、いつになるか分からないので、あきらめて近くのフードホールで鯛ラーメンを食した。孫が買いたいと思っていたバッグは見つからず、お土産用のチョコレートを買うだけで、店を覗きながら目の保養をした。

町田市立国際版画美術館で「楊洲周延 明治を描き尽くした浮世絵師」を鑑賞する

家からそれほど遠くないところに版画美術館がある。ここには、桜の花が綺麗な時期に、花見ついでに立ち寄ったことはある。しかし展示の内容を知って訪れたということはついぞなかった。今回、知人から楊洲周延(ようしゅうちかのぶ)の展示があり、しかも11月22日はシルバーデーで無料だということを教えてもらった。この日は午後から用事があったので、朝一番に少しだけれども時間を作り訪れた。

Wikipediaによれば、この美術館は日本国内では数少ない版画専門の美術館として、町田市内の芹ヶ谷公園内に、昭和62年(1987)開館した。国外からはヨーロッパ中世から現代まで、国内からは奈良時代から現代まで、広く版画作品を蒐集し、その収蔵数は27,000点以上に及ぶと紹介されている。

正門には、企画展の大きな掲示があった。

秋も深まった美術館。

美術館に隣接する芹ヶ谷公園。

10時開館だが、シルバーデーをうまく利用しようとする人たちの出足は早く、館についたころには長い列になっていた。

図録によれば、楊洲周延(1838~12)は次のように紹介されている。彼は幕末から明治末に活躍し、優美な美人画から躍動感のある役者絵、戦争絵、歴史画、時事画題を描き、「明治」という時代を描きつくした浮世絵師である。同時に、高田藩江戸詰藩士橋本直怨(なおひろ)の嫡男忠義(ただよし)として生まれ、幕末期には戊辰戦争に参戦した武士でもあった。若いころには歌川国芳の門で画技を学び、国芳が没すると3代豊国のもとへ移り、彼も没すると豊原国周(くにちか)の門下となった。慶応年間になると「周延」落款の作品も見られ、絵師としての歩みを始めた。しかし戊辰戦争に参加した時期には、絵師としての仕事は中断された。そして浮世絵界に明治8年(1875)頃戻ってきた。

明治10年(1877)、鹿児島・熊本を中心に起こった西南戦争の戦況を伝える戦争錦絵の需要が急増する。周延も激しい戦場の様子を臨場感あふれる表現法で描き出した。

戦争錦絵のあと、自らの可能性を拡げるように美人・役者・時事など多様なテーマに取り組んだ。中でも天皇・皇后・女官などの御所絵はこの時代特有の鮮やかな赤を用いて華やかに描き出した。
緋袴に袿(うちき)を身につけた女性たちに囲まれて、中央のお垂髪(すべらかし)をした女性は皇后のようである。

同時期に描かれた役者絵も、師匠の国周に倣いながらも、背景描写や人物配置でどこか異なる味を出そうと工夫をこらしている。

明治維新から20年、女性たちの生活様式に西洋化の波が訪れ、洋服や西洋風の髪型が現れる。この風景画では、明治天皇が右端に、パッスル・ドレスの女性3人が、雨上がりの後の虹とともに描かれている。

季節は春、洋装と和装の女性が一緒に描かれている。

楽器の合奏と合唱する男女が描かれている。大和田建樹(たけき)の唱歌「岩間の清水」を披露中。

明治22年(1889)に上野で「江戸開府三百年祭」が開かれ、旧幕臣たちを中心に江戸を回顧する風潮が沸き起こった。その当時を描くだけでなく、江戸市井の生活風俗も描いた。

明治20年代中頃より浮世絵界は錦絵の刊行数が減少して衰退期に入る。周延の制作点数もあまり多くないものの、バラエティーに富んだ揃物・新聞挿絵・門人育成などの幅広い活動が行われた。
中国に古くから伝わる24人の親孝行の逸話を描いた揃物。

浅草の新しいランドマークである「凌雲閣」と「鳳凰閣」を山の手の令嬢たちが訪問。

周延の門人である楊堂玉英が描いた江戸名所の江戸橋郵便局。

明治26年(1894)、帝国博物館総長・九鬼隆一から委託され、シカゴ・コロンブス万国博覧会に「江戸婦女」を出品、本作に描かれた多くの女性像は以後周延を象徴する画題となった。
江戸城大奥の様子を描いた揃物。江戸時代には大奥を描くことは許されなかったが、明治20年代後半になると、江戸時代を回顧する風潮とともに、当時を記録した書籍が次々と出版された。

時代かゞみは建武期から明治期までの各時期の女性風俗を描いた揃物で、図は元和の頃。

美人像を描いた揃物。


60歳代になっても、引き続き江戸風俗・美人画・歴史画に取り組んだ。

300点にも及ぶ作品を鑑賞し、楊洲周延にすっかりなりきったところで、仲間たちが待つ藤澤浮世絵館へと向かった。ここでは学芸員の方から説明を受けた後、「なぜか忠臣蔵」と「藤沢のヒーロー小栗判官江戸歌舞伎」とを鑑賞した。浮世絵漬けの1日であった。

浮世絵は、子供の頃はマッチ箱のラベルにも描かれているような身近な存在で、芸術品として感じたことはなかったけれども、今日では美術館に展示されるような存在となったことに、時の移り変わりを改めて認識させられた。

江戸時代初めに建てられた古民家を訪れる

横浜市教育員会が、国の指定重要文化財である、都筑区の関家住宅を公開した。6倍の応募があり、これに当選した人はかなりラッキーとのことだった。関家住宅の最寄り駅は、横浜市営地下鉄ブルーライン仲町台駅である。この辺りは50年前ごろから開発された港北ニュータウンの中にある(ただし地下鉄が開通したのは30年前で、このころからニュータウンとして機能した)。天気が良かったので、港北ニュータウン自慢の公園を縫いながら秋深まった緑道を利用し、さらには関家の周りの寺社を巡って現地に赴いた。

関家住宅の前を通っている道(地図では少し右上から少し左下へとほぼまっすぐの道)は中原街道である。この街道は、徳川家康が江戸入りしたときに利用したとも伝わっている。江戸時代になって東海道が整備された後は、江戸虎ノ門から平塚中原を結ぶ脇街道となった。小杉(川崎市)・下川井(横浜市)・中原(平塚市)に御殿が造られると、将軍の駿府往還や鷹狩に利用された。また3代将軍家光が鷹狩の際、関家書院に逗留したとも伝えられている。

それでは今昔マップで明治39年ごろと現在とを比較して見よう。現在の中原街道は麓に沿って設けられているが、なんと明治の頃は尾根伝いだった。過去の地図を追ってみると戦前までは尾根道が主流だったようである。なお関家住宅は、地図の中ほどにある神社(杉山神社)マークのすぐ下の住宅である。この地図から小さな山を背負っていることが分かる。

それでは、Google Earthを使って関家住宅を覗いてみよう。中原街道のあたりから見ると図のようになる。手前の大きな建物が表門(長屋門)、奥の大きな建物が主屋、左隣の建物が書院、右側の赤い屋根の建物が土蔵である。

広域で見ると次のようになる。中央を真横に走っている道が中原街道で、関家住宅は中央左の緑に囲まれたところである。

有隣堂のホームページに関家住宅の詳しい配置図が載っていた。

表門は19世紀ごろに建設され、茅葺屋根の2階建ての長屋門で、元は平屋だった(明治24年に2階建てに改造)。主屋は17世紀前半の頃(江戸時代初め)に建設され、入母屋造、茅葺、そして部材は丸刃の釿(ちょうな)仕上げである。土間の左側に四つの部屋を有する四ッ間取りで、神奈川県内にある他の古民家と比べると一回り大きく、開口部の少ない閉鎖的な造りで、採光のための格子窓「しし窓」は関東や中部地方の古い民家に見られる特徴である。書院は18世紀前半頃に建設、主屋の南面西端に建てられ、「カミザシキ」「シモザシキ」と呼ばれる座敷を有し、寄棟造である。先に記したように家光が書院を訪れたという話が伝わっているが、家光が活躍したのは17世紀中ごろであり、書院はその様式から18世紀中ごろの建築と見立てられているので、年代に差がある。但し、材木を炭素14年代測定法によれば16世紀ごろなので、建築時期が遡る可能性は皆無ではない。

中原街道側から見た表門は次のようである。

写真はたくさん撮ったので掲載したいのだが、個人利用に限定して欲しいということなので、ここでは文化遺産オンラインの写真を紹介しておこう。
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/193250bunka.nii.ac.jp

関家の歴史を見ていこう。関家がある場所は「勝田(現在は横浜市都筑区勝田町)」である。歴史は古く、鎌倉時代の文書(1209)に村名が現れる。豊臣秀吉の禁制文章(1590)にも「かちた」とあり、豊臣政権の検地帳(1594)には「勝田郷」とある。江戸時代になると、徳川家康の侍医・久志本氏が2代将軍秀忠の病気平癒の功績により、勝田・牛久保の村を与えられ、幕末まで支配した。そして関家は、戦国時代は小田原北条氏の家臣であったという言い伝えがあり、江戸時代の初めごろから勝田村の名主を務め、江戸後期には代官職も兼務した。江戸時代初期の建造物が現存しているのは珍しく、関東地方では最古参と考えられ、建造物だけでなく庭も含めて重要文化財に指定されている。江戸時代初期の建物が今日まで残っているのは、礎石建てであったためと学芸員の方が教えてくれた(掘立柱建物は柱が腐って残らない)。また農家に書院があるのも珍しいとのこと。将軍が中原街道を行き来したため、その接待のためだったのではと説明を受けた。

関家住宅の説明はここまでにしておいて、この日に散歩がてら訪れた寺院を紹介しておこう。

最初は寿福寺。この寺の縁起によれば、清和源氏多田行綱の子智空が開山し、真言宗長福寺と号して創建したと伝えられている。その後衰微したものの空誓(寛永2年(1625)寂)が中興、惇信院殿の御幼名を避けるため享保元年(1716)に壽福寺と改めた。
本堂、

寿福寺の伝記。

次は最乗寺。この寺の縁起によれば、教龍(慶長17年(1612)寂)が開山となり、創建したとされている。
本堂、

山門。

最後は勝田杉山神社。この神社は、延喜式神名帳所載の武蔵国都筑郡杉山社ではないかと考えられている論社の一つである。創建年代等は不詳、旧都筑郡域に多く祀られている杉山社の一つで、応永年間(1394~27)の銘が入った鰐口があったとされている。明治6年(1873)村社になった。
社殿、

改築の碑。関さんの名前も見える。

10年ぐらい前までこの近くに住んでいたが、関家住宅の由来については知らなかった。車でその前を通るたびごとに、立派な門構えがあるので由緒のある家なんだろうと感じてはいたが、今回、横浜市が公開してくれたことで、長年の疑問がやっと解けた。それにしても江戸時代初期の家が現存していることに驚愕した。今住んでいる家が築50年足らずだけれども、修理費が毎年かさむようになってきて、いつまで住み続けられるのだろうと懸念し始めてきたところで、400年もの長きにわたって維持していることの素晴らしさに感激した。

静岡市歴史博物館・駿府城公園を訪ねる

夏にも負けない11月に入っての暑さは、今年の天気は狂っていると思わせてくれるのに十分だ(そしてこの記事を書き終えた今日は、気温は急降下した)。運よく巡り合えた久しぶりの秋らしい日に、老人たちの遠足といっては主催してくれた団体に失礼になるが、静岡市歴史博物館と駿府城公園に行った。そこでおしゃべりと見学をして気持ちよくそして楽しく過ごした。下の写真で中央下部の青いバルーンが静岡市歴史博物館、同じく中央が駿府城公園、中央上部やや左寄りが静岡浅間神社である。

当日は東名高速道路のリニューアル工事にぶつかったため、往きは3時間・帰りは3時間半と長い車中だったが、旅の目的はとても堅実な研修である。往きのバスの中では、戦国時代の駿府城と江戸時代の駿府城について、その時代を専門とする学芸員の方からそれぞれお話を伺った。

戦国時代の駿河城については、①戦国のあるじ今川氏、②駿府今川館から駿府城についてであった。

①では、今川氏の時代を4分割して説明してくれた。

段階1:足利義氏(1189~55)の子孫の今川氏が駿河に定着した時代である。義氏の孫・今川国氏(1243~82)が三河国幡豆(はず)郡今川荘を本拠地とした。鎌倉幕府を倒した足利尊氏に今川頼国(?~1335)が味方し、弟の範国(1295?~84)が駿河遠江国の守護に任命された。そして孫・泰範(1334?~09?)が駿河遠江国全域を支配した。この頃、室町幕府と鎌倉府の仲が悪く、前者が駿河国以西を、後者が伊豆国以東を勢力下にしていた。今川氏は境目の地であり、上手な付き合い方が求めらた。6代将軍の足利義教が富士遊覧したときなどは、今川範政(1364~33)が供応した。

段階2:戦国時代のはじまりで今川範忠(1408~61?)から義忠(1436~76)の時代である。応仁の乱に先立って、関東では享徳の乱(1455~83)が発生した(鎌倉公方足利成氏関東管領上杉憲忠を殺害)。範忠は8代将軍足利義政より鎌倉公方・成氏の追討を命じられた(1455)。しかし成氏は下総国古河に逃亡した。幕府は鎌倉公方の後任として足利政知を送るが、関東には入れず、伊豆にとどまって堀越公方となった(1458)。さらに義忠にも古河公方となった成氏の追討が命じられた(1466)。

段階3:伊勢宗瑞の下向の時代である。今川義忠が応仁・文明の乱で戦死(1476)すると、今川家に内紛が発生した。外戚の伊勢宗瑞が京より下向して収束し、今川氏親(1471/73~26)が家督を継ぐ。宗瑞と氏親は長享の乱(1487~05:両上杉間の争い)に援軍として参加した。その間に堀川公方足利政知が病死(1491)、足利茶々丸が継ぐも伊勢宗瑞に滅ぼされた(さらに宗瑞は1495年に小田原城を奪取し小田原北条氏の祖となる)。

段階4:戦国大名今川家4代の氏親・氏輝(1513~36)・義元(1519~60)・氏真(1538~15)の時代である。印判状の発給、分国法「今川かな目録」制定、領国検地の実施、商人・職人の掌握、伝馬制の整備、今川文化など先進的な施策を行った。しかし桶狭間の戦いで敗戦(1560)、武田信玄徳川家康駿河国に侵攻(1568)し、氏真が小田原を頼って北条氏政の息子・国王丸(氏直)を養子にして駿河国を譲り、今川氏は滅亡(1569)した。

②の内容は2分割された。

段階1は今川館。この時代は城郭はなく、下図のように駿河全体が防壁で、周囲を城や砦で守っている。

段階2は、徳川家康(1543~16)の駿府城の築城。家康は武田家滅亡(1582)に伴い駿河遠江三河を支配し、本能寺の変(1582)後に、さらに甲斐・信濃をも支配した。拠点を浜松から駿府に移した。築城を開始(1585)し、天正駿府城が完成(1588)した。

江戸時代の駿府城については、次のように説明があった。

家康は、征夷大将軍になり江戸幕府を開設(1603)した。2年後に秀忠に将軍職を譲り、駿府に隠居(1606)し、大御所政治を始める。天下普請(全国の諸大名を動員)で駿府城の築城に着手(1607)し、輪郭式平城が完成した。しかし直ぐに焼失(1607)、再建工事を開始して慶長期駿府城が完成(1610)した。天守台は石垣上端(うわば)で55m×48m(城郭史上最大級)、天守曲輪は7階の天守が中央に、天守台の外周を隅櫓・多聞櫓などが囲む特殊な構造であった。なお天守閣は家康の死後20年後に焼失(1635)し、以後再建されることはなかった。

城下町の整備も進められ、彦坂光正らを奉行に任命して町割りが行われ、武家地、寺社地、町人地の区分が整備された。城下には紺屋・鍛冶・研屋・大工・鋳物師・菓子・畳・呉服・肴屋・酒屋など、職人・商人が移り住んだ。また貨幣の鋳造、金座・銀座などの金融の中心地ともなり大変賑わった。当時の人口は10万とも12万とも記されている。

駿府は1609年に家康の10男頼宜に与えられたが、1633年に頼宣は紀伊和歌山藩に転封され、これ以降は明治維新まで幕府の直轄地で、駿府城代が置かれた。

このように十分すぎるほどの予備知識を叩き込まれたあと、静岡市歴史博物館に到着した。

学芸課長さんから歴史博物館について説明を受けた後、見学となった。館のモットーは、静岡市役所で大切にされてきた徳川家16代家達(いえさと)の書になる「彰往考来」であるとのことだった。これは「過去をあきらかにして未来を考える」を意味するそうである。


静岡市歴史博物館は4階建てで、1階は徳川家康・今川氏以前の歴史の紹介と市内の歴史的名所の紹介、2階は首都駿河と世界(家康が住む駿府は首都の一つ)、3階は家康の威光と駿府(家康没後、近世の駿府東海道)という内容で展示されていた。2階と3階は撮影禁止だったので、博物館の新しい展示方法をビジュアルに示せないのが残念である。それでは各階の説明を簡単にしよう。

1階には戦国時代末期の道と石垣の遺構が展示されていた。これは天正時代(1573~92)に造られたもので、幅2.7m、長さ30mの道で、脇は野面(のづら)積みの石垣である。石垣の後ろ側には裏留の川原石がある。道沿いは武家屋敷になっていたようである。

2階の展示物の目玉は、二領の鎧(復元模造)だろう。一つは、紅糸縅腹巻(くれないいとおどしはらまき)で、家康が14歳の時に初めて鎧をつける儀式で使ったもので、今川義元より贈られた。他の一つは、伊予札黒糸縅胴丸具足(いよざねくろいとおどしどうまるぐそく)で、関ヶ原の戦いで勝利を治め、天下統一を果たしたときの甲冑である。同じフロアーには、家康の肖像画や関連する古文書もあった。さらに今川氏の関連で、桶狭間今川義元決戦図もあった。

3階には、東海道図屏風があり江戸から京都までの東海道の様子が書かれていて、馴染みの宿場を探しながら見ていると結構楽しかった。さらには駿府城下町絵図や昭和30年代の静岡市街地の模型などもあり、地図が好きな人にとっては面白いフロアーである。この階からは、外の展望を楽しむことができ、これから向かう巽櫓(たつみやぐら)の風景が素晴らしかった。

一通り静岡市歴史博物館を見学した後、駿府城公園へと向かった。

東御門橋、

東御門、

公園内部、

本丸堀、

家康公像。

公園でお昼を食べた後、駿府城公園の学芸員の方から、巽櫓の内部と天守台発掘調査の現場を紹介していただいた。

巽櫓では、駿府城の模型を見た後、今川氏、戦国武将家康、そして大御所家康の時代の遺跡から発掘された遺物を紹介していただいた。そして、①今川氏時代:出土した磁器のかけらがとても貴重なものであったことから、今川氏が特別な地位にあったこと、②豊臣秀吉の武将として家康が駿府城を建設したとき:秀吉の威光を示すために金箔瓦を用いたこと、③家康が天下を取った大御所時代:秀吉時代の建造物を悉く壊し、新しく造り直したこと(この時期にも金箔瓦が出土しているが、豊臣時代のものが凸部であったのに対し、徳川時代のものは凹部に飾られている。後者の方が技術的に難しい)、などが判明したことを教えて頂いた。

最後はいよいよ天守台の発掘調査現場である。下図は、静岡市駿府城跡・駿府城天守台発掘調査の中の天守台マップ&東御門刻印マップ(天守台側)から抜き取った図である。

この現場からは、天正期(戦国時代)と慶長期(江戸時代)の天守台が発掘されている。それでは慶長期の石垣から見ていこう。
最初は上図で1と書かれているところから、

4のところから、

途中に刻印の推してある石があった。

6のあたりから


7のあたりから

3のあたりから、真正面に富士山が見えたのだが、写真では確認できない。天守閣からの眺めもさぞかしよいことだっただろう。なお天守台の高さは19mで、右奥に見えるポールの先端の高さだった。

2のあたりから。手前が慶長、後方が天正の頃の石組み。何となく違いが分かる。

9のあたりから、天正期の石組み。

同じく慶長期、

10のあたりから天正期。

天正期に使われた石は自然石で、そのままそれらを積んだ野面(のづら)積みである。これに対して慶長期には石を加工している。これにはいくつかの方法があり、石を割って加工して積む打込接(うちこみはぎ)、四角に形を整えた石を隙間なくぴったりとくっつけて積み上げる切込接(きりこみはぎ)、石垣の角に長方形の石の長い辺と短い辺を組み合わせて積み上げる算木(さんぎ)積みがある。天正期の天守台は天正13年(1585)に築城開始され、慶長期のものは慶長12年(1607)に大改修(壊して建替)された。その間20年ほどの差しかない。その間に工法での変化が生じたのは、秀吉が朝鮮出兵を行い、朝鮮に城(朝鮮では倭城と呼ばれた)を築いたとき技術が進歩したためと学芸員の方から教えてもらった。

戦国時代は文献での資料があるので、考古学からの資料はその裏付けに過ぎないだろうと考えていたが、そうではなくて考古学からも新しい発見があることを学芸員の方から教えてもらい、歴史研究は相互に依存しあっていることがよくわかった研修であった。

家康も駿府城天守閣から富士山を愛でたことだろう。我々が帰路に見た富士山も、太陽がその背面に隠れるところで影法師のように幻想的であった。午後のかなりの時間を石ばかり見ていたこともあって、ピラミッドかと見間違ってしまいそうであった。

かつて三菱村と言われた東京・丸の内を訪ねる

中学時代の仲間と丸の内を散策した。仲間の何人かは現役時代にこの場所で勤務の経験がある。しかしその他の人にとっては仕事に行くだけの場所であったため、ビジネス街程度の認識しかない。そこで詳しい人から説明を受けながら、一度ゆっくりと散策してみようということになり、連れ立って出かけた。

グーグルアースの3D地図からは、現在の町の様子がよく分かる。丸の内は、JRの東京駅と有楽町駅の間の線路と、皇居の内堀とに囲まれたところである。仲間たちが働いていた頃の建物の多くは取り壊され、皇居に遠慮して少し高層の建物が整然と立ち並んでいる。

それでは江戸時代はどうだったのだろう。御江戸大名小路絵図*1に描かれている。絵図で左下の堀で囲まれたところが丸の内、その右側は大手町である。丸の内の地区には、因幡島根藩松平(池田)相模守32.5万石、安房徳島藩松平(蜂須賀)阿波守25.79万石、土佐高知藩松平(山内)土佐守24.2万石、備後福山藩阿部伊勢守11万石、肥後熊本藩細川越中守54万石、備前岡山藩松平内蔵頭31.52万石などの大きな藩の上屋敷となっている。江戸時代には、この辺りは大名屋敷をなしていたことが分かる。

「大江戸今昔めぐり」で、当時と現在の地図を示すと次のようになる。皇居の地域はほとんど変わりがない。しかし丸の内の地域はそうではなく、江戸時代は堀で囲まれていたことがよく分かる。

上の地図を見ていると、丸の内の地区はかつては海だったのではと思えてこないだろうか。中央区観光協会特派員ブログ*2によれば、丸の内のあたりは日比谷入江になっている。そして東京駅の東側、日本橋・京橋・銀座・新橋のあたりは、標高3~4.5mの湿地だったようだ。ウィキペディアによれば「(1590年に)徳川家康駿府から江戸に居を移すが当時の江戸城は老朽化した粗末な城であったという。家康は江戸城本城の拡張は一定程度に留める代わりに城下町の建設を進め、神田山を削り、日比谷入江を盛んに埋め立てて町を広げ、家臣と町民の家屋敷を配置した。突貫工事であったために、埋め立て当初は地面が固まっておらず、乾燥して風が吹くと、もの凄い埃が舞い上がるという有様だったと言われる」。

大名屋敷として使われた丸の内が大きく変わったのは明治になってからである。廃藩置県版籍奉還により大名・武士たちは国元に戻り、丸の内は政府の管轄地となり、陸軍の兵営街となった。明治20年頃に兵営地が麻布に移転、明治21年(1888)に東京市区改正条例が公布、丸の内は市街地へと変化した。徴兵令の改正で国民皆兵制となり、陸軍は兵営建設に莫大な予算を必要とし、その資金捻出のため丸の内の売却を計画して、明治23年(1890)に岩崎弥之助に払い下げられた。

明治27年(1894)、弥之助から三菱合資会社に所有権が移転され、その年に日本初の貸しビル「三菱1号館」を建設した。明治時代に13号館までレンガ造で建設した。
2号館:1895年(明治28年)のちに明治生命に譲渡
3号館:1896年(明治29年日本郵船会社が入居
4号館:1904年(明治37年古河鉱業が入居
5号館:1905年(明治38年)セール フレーザー商会が入居
6号館・7号館:1904年(明治37年)賃貸住宅兼用事務所
8~11号館:1907年(明治40年)賃貸住宅兼用事務所
12号館:1910年(明治43年)東洋汽船など6社が入居
13号館:1911年(明治44年南満州鉄道など3社が入居

「今昔マップ」で、明治42年ごろを見てみよう。11号館まで出来上がっていたけれども、地図の上ではまだまだ空き地が多いように見受けられる。

そして21世紀のはじまりとともに、丸の内も新たな世紀に入り再開発*3が始まった。青数字は終了、ピンクは建設中・予定である。2027年には地上390mの高層ビルが東京駅前に竣功する予定である。

それでは散策しているときに撮った写真をいくつか掲載しよう。1号館は三菱美術館になっていてただいま改修中。少しだけレンガ壁が覗いている。

大名小路は街路樹が並ぶ、綺麗な通りになっている。

高級なお店が軒を連ねている。

第2号館の隣に昭和9年(1934)に竣工した明治生命館、古い部分が残され、その上に高層の建物が立っている。

東京会館瀟洒なホテルである。ずうずうしくも中に入り、ソファーに座って休みを取った。

帝国劇場。この日はミュージカル『チャーリーとチョコレート工場』の最終日で、たくさんの人が並んで開演を待っていた。

東京ミッドタウン日比谷。我々が学生の頃はこの辺は映画館街だった。

6階にはテラスがあり、日比谷公園を見渡すことができる。

日比谷公園の心字池。「心」という字に似せて池が造られている。

有楽町駅近くの配電盤。ここに南町奉行所があった。

お昼を東京ミッドタウン日比谷の地下でとった。食べたのはチキンのステーキ。午後の予定は反故にして、お昼の閉店まで話に興じ、楽しい一日を過ごした。若い頃には、この町を我が物顔で闊歩していたのに、まるでお上りさんであるかのように街に魅入られてしまい、不思議な世界に迷い込んだ気分を紹介しあった。

最後に散策したコースをあげておこう。

*1:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』御江戸大名小路絵図,尾張屋清七,嘉永2~文久2(1849~1862)刊. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1286656

*2:https://tokuhain.chuo-kanko.or.jp/detail.php?id=2553

*3:大手町・丸の内・有楽町地区まちづくり協議会https://www.tokyo-omy-council.jp/area/redevelopment-map/