bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

暮れの忙しい時期に、AI仕立ての高級なスペアリブ

年末は、なにかと忙しい。子供の頃はこの時期になると、いつもお餅ばかり食べさせられていたと記憶している。新たな年を迎えるための準備に忙しかった母は、食事までは手が回らなかったのだろう。正月に向けて用意した餅を七輪で焼いて、三度三度、食べさせてくれた。正月を迎える楽しさがある一方で、食事のたびに嫌な時期が来たと感じていた。

今日紹介するのは、子供時代に味わった嫌な思い出を、懐かしい回顧にするための料理だ。調理の手間は具材を切るだけ、それにもかかわらず、レストラン並みの美味しい料理をサーブするというもので、題して「AI仕立ての高級なスペアリブ」である。

材料は、豚肉のスペアリブを除けば特殊なものはない。スープを作る手間も省くために、出来合いのソースを購入した。その他の材料は野菜。今回は、にんじん、じゃがいも、玉ねぎを用いた。
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野菜を、食べやすい大きさに切断した。
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スペアリブと野菜を、ソースに30分ほど浸した。ときどき袋を反転し、ソースがまんべんなく行き渡るようにした。
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このあとは電子オーブンレンジで焼くので、オーブン用の角皿に、材料を並べた。焦げそうな玉ねぎはアルミホイルの中に入れた。
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出来上がったところで、アルミホイルは蓋をした。
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電子オーブンレンジの下段に角皿をセットする。
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この電子オーブンレンジは東芝のER-VD7000で、「石窯おまかせ焼き」という便利な機能を有している。何を焼くのかをチェックすると、自動的に、焼き上げてくれる。
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焼き上がりはすばらしい。
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食卓に並べる。今回は、南オーストラリア・バロッサ産の辛口の赤ワイン(カベルネ・ソーヴィニヨン)と、最近人気が出てきているクランベリークリームチーズのパンと、インスタントのスープを添えて食した。
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今回レシピの名前を「AI仕立て」とした。この電子オーブンレンジはAIと言えるまでの技術レベルには達していないが、近い将来、どのような食材であっても、それに合わせて美味しく焼き上げてくれるときが訪れるであろう。そのような時代への期待を込めて、「AI仕立て」とした。味の方も、素晴らしく良かったので、満足している。

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に先立ち、ゆかりの地を散策

今秋は、旅行の日は天候に恵まれることが多く、ついている。鎌倉を訪れた先週の水曜日(24日)も、雲一つない快晴であった。風が強く吹くので冬支度でと天気予報では伝えていたが、海からの風は穏やかで寒さを感じさせることはなかった。鎌倉を良く知る人に案内されて、来年のNHK大河ドラマの「鎌倉殿の13人」の舞台になっていると思われるところを中心に訪れた。
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鎌倉駅東口を起点に段葛を通って鶴岡八幡宮へと向かった。入口と出口では、段葛の幅が違っていることを教わった。入口が広く出口が狭くなっているとのことであった。海の方から見ると、遠近法の影響を受けて、実際よりもずっと長く見えるそうだ。当時の設計者がこのように考えたかどうかはもちろん不明。

段葛入り口。写真を見て気がついたが、狛犬も大きなマスクをしていた。
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しばらくして鶴岡八幡宮に入った。
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小学生の頃には登った記憶もある太鼓橋。右側には源氏池、左側には平家池がある。源氏池には三つの島が、平家池には四つの島がある。「三はお産につながり繁栄を、四は死で滅亡を示す」ともっともらしく言われているそうだ。
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境内の賑わい。平日にもかかわらず、たくさんの人が参拝をしていた。祭日だった前日、小町通は身動きができないほどに混んでいたそうである。
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静御前が舞っていると想像すると、楽しくもなり華やかにもなる舞殿。
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廃仏毀釈(慶応四年(1868)の神仏分離令)により、舞殿の周囲にあった多宝大塔などの仏教関係の建物はすべて失われ、焼却を免れた仏像なども他の寺院に移された。重要文化財になった伝源頼朝坐像、弘法大師坐像、愛染明王坐像、薬師三尊像、元版大蔵経は、現在は、東京国立博物館、青漣寺、五島美術館、秋川新開院、浅草寺にある。また仁王門にあった仁王像は、寿福寺の仏殿に窮屈そうに納まっているとのことであった。

本宮への階段の手前には、11年前の台風で倒れてしまった大きな銀杏の幹が残されていた。三代将軍源実朝を暗殺した公暁が隠れていた場所とされているが、800年前に身を隠せるほどに幹が太かったかどうかは疑わしい。
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大石段を登った先の楼門。晩秋の陽を浴びて朱色に輝きとても綺麗であった。
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大石段を登りきったところから見た舞殿。
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楼門をくぐると本宮でお参りができる。本宮の祭神は応神天皇比売神(ひめがみ)、神功皇后である。鶴岡八幡宮の簡単な歴史は以下の通り。

1063年に源頼義によってひそかに石清水八幡宮を由比郷へ勧請。1180年に頼朝によって現在地に移されたが、1191年に焼失。直ちに再建し、改めて石清水八幡宮の祭神を正式に勧請した。1182年に政子の安産を祈願して若宮大路、段葛を造った。さらに源氏池も。1184年に境内に熱田大明神を勧請(現存せず)。1186年に上宮(本宮)回廊にて静の舞。1189年に頼朝父母の冥福を祈るために五重塔を建立(1191焼失)。同年、三島大明神を勧請する。1217年公暁別当に(公暁は2代将軍頼家の次男、頼家と実朝は兄弟)。1219年に実朝が右大臣拝賀参拝後に公暁により暗殺。1247年に承久の乱で敗れた三上皇を鎮魂の為に今宮(新宮)を創建。1310年の鎌倉大火で、上下宮、神宮寺焼失。1316年に復興。

14世紀には足利将軍家などから荘園の寄進が相次いだ。1434年に鎌倉公方・持氏が、室町幕府足利義教の打倒祈願のため、大勝金剛像を造立し、血書願文を奉納。1590年に秀吉が参拝し、家康に修復を命じた。秀忠が引き継いで1624年に造営完了。

1868年に神仏分離令1873年明治天皇が大臣山で陸軍演習天覧のあと、八幡宮を親拝。翌日鎌倉宮を参拝。
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本宮の右手には、鶴岡八幡宮よりも前から、この地に祀られていた丸山稲荷社(重要文化財)がある。今回は訪れなかったが、そこに至る道に沿っていくつもの鳥居が並んでいた。
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新宮に行く途中には曹洞宗の開祖である道元が、時頼に招かれて約半年間教化したことを顕彰しての碑があった。
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承久の乱で配流となった上皇を祭ってある今宮(新宮)。屋根は、途中からせりあがるように見える一間社流造であった。
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頼朝・実朝を祀っている白旗神社
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国宝館の脇野紅葉は赤く染まっていた。
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鶴岡八幡宮に別れを告げて、次に訪れたのは来迎寺。この日は拝観が許されていたので、堂内の如意輪観音像と地蔵菩薩像をお参りした。これらの仏像は、あとで説明する法華堂に安置されていたが、神仏分離令を機に来迎寺に移された。この寺は時宗(じしゅう)で、永仁元年(1293年)の鎌倉大地震で亡くなった村民を供養するために、一向上人により開かれた。
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また来迎寺の近くにはかつて大平寺があった。この寺は尼五山一位の寺だが、創建ははっきりしない。寺の仏殿は太平寺が廃寺となったあと、円覚寺舎利殿として移築された(舎利殿は神奈川県唯一の国宝)。また弘治元年(1566)に里見義弘が鎌倉を攻めた際に、この寺も攻撃を受け、青岳尼(足利義明の娘)と本尊の聖観音菩薩立像(現在は東慶寺が所有)が奪われたとされている。また一説には、青岳尼と義弘は恋仲で自ら出奔したという説もある。
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このあとは、来年の大河ドラマの主役である北条義時の墓があるとされる法華堂跡に向かう。
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源頼朝を祀っている白幡神社
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白幡神社の右手の階段を上ったところに、頼朝の墓がある。ここを中心とした一帯は法華堂跡と呼ばれている。法華堂碑には、「法華堂はもと頼朝の持仏(守り本尊)を祀ったところで、頼朝の死後、その廟所となった。建保5年(1217)5月の和田義盛の乱のとき、義盛勢が火を幕府に放った際、将軍実朝が難を避けたのはここである。宝治元年(1247)6月5日、三浦泰村の一族がここに籠り、北条の軍を迎え撃ち、刀が折れ、矢が尽きるまで戦い、一族郎党500余人とともに自害をし、庭中を血に染めたところである」という趣旨のことが書かれている。

法華堂の本尊は阿弥陀如来。この堂は江戸時代には鶴岡八幡宮の相承院が管理、明治時代の神仏分離により白幡神社鶴岡八幡宮より移され、法華堂は廃された。ここにあった仏像のうち如意輪観音像は、前に記したように、来迎寺に移された。

今回は頼朝の墓には寄らずに、義時法華堂跡へと向かった。
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吾妻鏡には、源頼朝の法華堂より東の山に新たに当時の権力者である北条義時の法華堂が建てられて葬られたと記録が残っていたが、長いことその場所は不明であった。2005年に鎌倉市教育委員会の発掘調査によりその法華堂跡の遺構が発見された。大河ドラマではこの場所が出てくるはずである。
左隅の方には、三浦泰村一族の墓であるやぐらがあった。
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また石段を登った先には、大江広元毛利季光島津忠久の墓があった。大江広元鎌倉幕府が開かれたときに、京より迎えられた下級貴族(官人)、毛利季光はその子で、長州藩毛利氏の祖である。島津忠久は鎌倉の御家人で、島津荘下司職に、そのあと島津荘の惣地頭に任ぜられ、島津氏の祖とされている。これらの墓は江戸時代に修造されたとされている。
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このあと、藤原道長公を祀っている荏柄天神社、中先代の乱(1335年)のときに足利直義の命によって殺害された護良親王の墓(2年前の台風で石段が崩されて修理中のため途中まで)、平泉中尊寺の大長寿院を模して建立されたとする永福寺(ようふくじ)跡、護良親王を祀っている鎌倉宮を見て、帰途についた。いつもは携帯電話の電源は一日中もつのだが、この日は荏柄天神社で切れてしまい、残念ながら記録を残せなかった。

来年の大河ドラマに合わせてだろうか。本郷和人著『北条氏の時代』、呉座勇一著『頼朝と義時 武家政権の誕生』、坂井孝一著『鎌倉殿と執権北条氏 義時はいかに朝廷を乗り越えたか』、嶋津義忠著『北条義時 「武士の世」を創った男』が相次いで出版された(本の並びは出版日が新しい方から)。これらを読み始めたところで、来春からの視聴への準備になればよいと思っている。

小春日和のなか小田原城を訪れる

小春日和の月曜日(15日)、小田原城に出かけた。ここは、戦国時代には小田原北条氏、徳川時代には大久保氏、稲葉氏、再び大久保氏が城主となった。

室町時代末期に、伊勢宗瑞あるいは北条氏綱がそれまでの城主の大森氏から小田原城を奪ったとされている。戦国時代には小田原城は大きな改築を少なくとも二回施されたようである。一回目は明応地震(1498)のあとで宗瑞あるいは大森氏によってなされ、二回目は上杉氏・武田氏の侵攻に備えて永禄9年(1566)に三代当主の北条氏綱によってなされ、「難攻不落、無敵の城」といわれた。

戦国時代末期になると、天下統一の仕上げを企んだ豊臣秀吉は、隠居北条氏政と五代当主氏直に対して開戦し、小田原城を総攻撃した。秀吉の兵糧攻めにより、3か月の籠城戦のあと小田原城無血開城された。北条氏の領土は徳川家康に与えられ、家康は腹心の大久保氏を小田原城に置いた。江戸時代になるとこの地は小田原藩となった。初代藩主の大久保忠隣(ただちか)は、無断婚姻を理由に改易され、そのとき城は破却された。そのあとの城番時代を経て、稲葉氏が寛永9年(1632)に入封した。しばらく稲葉氏が藩主を勤めたあと、再び大久保氏が貞享3年(1686)に入封して明治維新まで藩主を続けた。

江戸時代には小田原城は何回か大地震にあった。寛永10年(1633)の小田原地震、元禄16年(1703)の相模トラフ巨大地震で大きな被害を受けたが、そのつど再建された。さらに天明2年(1782)の小田原地震で大きく傾いたが、このときも修復された。

明治維新のあと明治3年(1870)に小田原城は解体されたが、昭和35年(1960)に再現された。そのとき参考にしたのは、天守閣木組み模型である。大久保家所蔵のものは焼失しているが、小田原市大久保神社、小田原城天守閣(東大からの寄贈)、東京国立博物館(神奈川県立歴史博物館で展示)所蔵のものが残っていて、神社と東博のものは類似しているが、東大のものはそれらとは異なっている。昭和35年の再現のときは東大と神社の模型が利用され、平成の大改修では東博の模型が参考にされて天守最上階に摩利支天が設けられた。なお神奈川県立博物館の説明によれば、この模型は天明度の修復にあたった川部匠太夫が制作したとなっている。

それでは整備された小田原城を見ていこう。小田原城小田原駅からそれほど遠くない。東海道線を熱海の方に沿うように歩いて5分程度である。城への入り方はいくつかあるが、江戸時代の正規ルートである馬出門を目指した。
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小田原城の近くまで来ると右手に堀が見えてきた。城主の稲葉正勝(春日局の子)が大規模な工事により近世城郭として整備したときに、この二の丸東堀も形作られたとされている。

写真は二の丸東堀。赤い橋は学橋(馬出門はさらに一つ奥の橋を渡る)、左奥の白い四角い建物は二の丸隅櫓。
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二の丸東堀より天守閣を望む。
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馬出門(うまだしもん)。三の丸から二の丸に向かう大手筋上に設けられた重要な門で、控え柱に屋根がついている。
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馬屋曲輪。
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住吉橋。
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銅門(あかがねもん)。二の丸正面にある。名前の由来は、扉の飾り金具に銅を使用していたことからとされている。
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常盤木橋
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常盤木門。
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本丸から小田原城を望む。
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小田原城全景。
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天守閣から小田原市街を望む。
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天守閣から小田原駅、丹沢を望む。
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菊の展示会。小田原城を模している。
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帰りに駅の近くの北条氏政(第4代当主)・氏照(氏政の弟で八王子城主)の墓所を訪れた。 五輪塔前の平たい石の上で二人は自刃したと伝えられていると案内板に書かれていた。
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造りものかと間違えたが、生身の「墓守猫」。微動だにしないのにただ驚嘆した。
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今回は城を中心に見学した。他方で、北条五代の藩主たちは先進的な政治を行ったことでも知られているので、次の機会にはこれに関わる遺跡を訪れたいと思っている。

小田原北条家ゆかりの地を訪ねる

よく晴れた一昨日(5日)、歴博主催の見学会「早雲寺」に参加し、箱根湯本に行ってきた。ここは小田急線利用なので、ちょっと贅沢をしてロマンスカーを使った。かつては「走る喫茶店」と称せられたが、今年3月に車内販売が終了し、ひところの高級レジャー感は薄れたようである。それでも今回は久しぶりの箱根ということで、旅行気分を味わってみたいと願ってのことであった。

金曜日のお昼時ということもあって、1/3ほど席が埋まっているだけで、車内は静寂とは言えないまでも、子供の声が時々聞こえる程度で快適だった。しかし本を読もうとしたら、横揺れが気になり目も疲れるので、車窓からの景色をぼんやりと見ながら過ごした。そして通勤電車では横揺れを気にせず読めるのにどうしてなのかと考えた。大きく違うのは座席の方向である。左右の揺れに伴って本を持っている手が体と同期しないで動き、目の方がそれに追いつかないのだろうと判断した。このようにふだん経験しない現象にあったとき、その物理的モデルを考えるのも、旅をしているときの思わぬ楽しみである。

今回の目的地は、地蔵信仰の正眼寺(しょうげんじ)と小田原北条家五代を弔う早雲寺であった。この両寺は、箱根湯本に位置している。
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学芸員の方から見学のスタートに先立って箱根湯本の由来を伺った。律令制が設けられた奈良時代東海道(足柄路)は、今日のように箱根湯本経由でなく、今よりはずっと北側の国道246号線・JR御殿場線の南側を通っていた。平安時代初めの延暦19~21年(80~802)の富士山の大噴火で足柄路が閉鎖され、新しい官道として延暦21年に湯本経由の湯坂路が開通したが、足柄路がすぐに復旧したため、湯坂路は平安時代にはあまり使われず、やっと末期になって旅人の通過が多くなった。

鎌倉時代になると湯坂路は、源頼朝を始めとして、将軍や北条氏が二所詣(箱根神社伊豆山神社)の際に利用し、官道としても使われた。そして湯本は芦之湯などとともに、湯治場として誕生し整備された。室町時代には鎌倉公方によって、重要な軍事地点とみなされた。江戸時代になると湯本から須雲川に沿った南側に東海道(箱根旧街道)が開通し、湯本は湯治場としてさらに栄えた。湯坂路は、現在はハイキングコース(地図の中ほどに点線で記されている)として整備されている。

説明のあと観光客との接触を避けるために、人通りの少ない早川沿いを歩いた。戦国時代の武将の小早川氏の祖先は、この辺りの相模国早川荘を所領していたことから、小早川という苗字を名のったと学芸員の方から道々教わった。早川と須雲川が合流する地点で、弥栄橋を渡り、少し勾配が急な弥坂を上った。途中に湯本小学校跡という案内板があった。明治政府による「学制」の発布(明治5年)により設立された学校で、当時は広大な敷地を有していた早雲寺の境内につくられた。

弥坂を上り詰めると箱根旧街道にぶつかった。右に行くと正眼寺、左に行くと早雲寺である。先ずは正眼寺を目指した。この辺りは地蔵信仰の盛んな土地として鎌倉時代から著名で、寺は江戸時代に早雲寺の末寺となった。正眼寺は、中先代の乱の合戦場に「湯本地蔵堂」として表れてくるのが初見である。ちなみに中先代の乱とは、鎌倉北条氏が滅び、建武の新政のときに、北条家の遺児の北条時行鎌倉幕府再興のために挙兵した反乱である。

正眼寺は初見に現れているよりはもっと古く創建された寺のようで、鎌倉時代地蔵菩薩立像を所蔵し、その像内からは鎌倉時代の年紀を記す納入品が多数見つかっている。また境内の石灯篭には、「勝源寺」と刻印され、応永2年(1395)の年紀がある。このため勝源寺から正眼寺になったとされている。

境内には、仇討ちで有名な曽我兄弟を弔うための曽我堂があり、二体の地蔵菩薩立像がある。それぞれ曽我五郎時致(ときむね)と十郎祐成(すけなり)をかたどったとされている。仇討ちの概略は次の通り。兄弟に討たれた工藤祐経(すけつね)は、所領分割相続の争いから叔父の伊藤祐親を恨んでいた。祐経はその郎党とともに祐親を狙って矢を放ったが、一緒にいた祐親の嫡男・河津祐泰に当たり、祐泰は亡くなった。曽我五郎・十郎は祐泰の実子で、母は祐泰の死後に曽我に嫁ぎ、彼ら兄弟の苗字も曽我となった。そして父の仇を返すために、工藤祐経を討った。

正眼寺の起雲閣と大地蔵。
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勝源寺の名前が刻印されている灯篭。
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本堂。逆光を受けてかすんでしまった。
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曽我兄弟を弔うための曽我堂で、地蔵菩薩立像二体がふだんは安置されているが、このときは県立歴史博物館で展示中のために不在。
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中世のものだろうか、古い墓が曽我堂の近くにあった。
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正眼寺に別れを告げて旧東海道を湯本の方に下り、次の早雲寺を目指した。早雲寺は、北条早雲こと伊勢宗瑞の遺言によりその子北条氏綱によって、京都大徳寺から以天宗清(いてんそうせい:大徳寺で宗瑞と同門)を招き創建された。創建年についてはいくつかの説があるようだが、今回は、宗瑞が没した2年後の大永元年(1521)と説明を受けた。早雲寺は臨済宗で、関東に多い建長寺派ではなく、大徳寺派である。

北条早雲には、一介の素浪人から成りあがった下克上の典型であるという通説があったが、現在ではこの説は否定されている。父は伊勢盛定、母は伊勢貞国の娘で、父は8代将軍足利義政の申次衆(天皇や院に奏聞を取り次ぐ役目)であった。生まれたのは備中荏原壮で、宗瑞はここに居住していた。姉は駿河守護今川義忠に嫁した。宗瑞は京都に出て、建仁寺大徳寺で禅を学び、また9代将軍足利義尚の申次衆に任命された。そのあと駿河に下向し、伊豆に討ち入り、小田原城を奪取し、小田原北条氏となった。京の時の縁で、早雲寺は大徳寺派になったと見られている。

戦国時代の終わりには、早雲寺は北条家と運命を共にした。豊臣秀吉は、天正18年(1590)の小田原攻めのとき、早雲寺を本陣とし、そして石垣山に一夜城を造ったあと、早雲寺を焼き払った。小田原北条家ゆかりの玉縄北条氏(相模国)・狭山藩北条氏(河内国)などの助けを借りて、寛永4年(1648)に菊径宗存により再建、慶安元年(1648)に徳川家光より朱印状を得た。

山門。山号の左側に「朝鮮国雪峰」とある。これは江戸時代初めの朝鮮通信使の写字官として来日した金義信の揮毫である。今回説明してくれた方が、この事実を見つけたそうである。
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中門越しに見た早雲寺の全景。それほど大きなお寺ではない。
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客殿(方丈)。中に入って襖絵を拝見させてもらった。狩野雪村による「龍虎図」、立派な絵画であった。
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小田原北条家五代の墓。
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庭園、中ほどの庵は開山堂。
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鐘楼。
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箱根にはたびたび来ているが、いつも湯本は通り過ぎてしまう。温泉宿が立ち並んでいるだけだろうと思っていたが、この地に由来する歴史的な遺産を知ることができて親しみがわいた。機会があれば湯坂路を歩き、昔の旅を追ってみたいと思っている。

岡本裕一朗著『ポスト・ヒューマニズム テクノロジー時代の哲学入門』を読む

コロナウイルスに感染する人の数は、予想をはるかに超えて急激に減少し、多くの人は、この状態が維持されることを願っていることだろう。ところでコロナウイルスが終息したあとに訪れる世界は、起きるまえの継続なのだろうか、それともカタストロフィックに変わってしまうのだろうか。

最新医学によるワクチンの成果を誇りと考え、人間の能力を超えるような人工物の獲得へと邁進するようにも思えるし、そうではなくて人々の協力の賜物であったと認識して平和な協調関係を推進するようにも思える。

どこへ時代が進もうとしているのかを知りたくて、岡本裕一朗さんの『ポスト・ヒューマニズム』を読んだ。本の結論を先に言ってしまうと、「現代哲学は、ヒューマニズム(近代的人間主義)とポスト・ヒューマニズムという異なる方向を目指して、対峙している」とのことである。

歴史を振り返ると、17~18世紀の啓蒙主義によって神を中心とする時代は終わりを迎えた。ニーチェの言葉を借りれば、「神は死んだ」。そして近年は、テクノロジーの進歩によってコンピュータの能力は人間を越えようとしているし、遺伝子工学の発展によって人間の脳の改造も可能になっている。このような状況を捉えて、 ユヴァル・ノア・ハラリは、「ホモ・サピエンスをホモ・デウスへとアップグレードすることになるだろう」と言っている。「人間」から「超人」へと変わる新しい時代の到来である。

「人間」を中心とした哲学を、「超人」のそれに変える必要があるのではというのが、現代哲学が負っている課題である。この本には三つの潮流が描かれている。「思弁的実在論(speculative realism)」と「加速主義(accelerationism)」と「新実在論(new realism)・新実存主義(new existentialism)」である。とても感覚的にとらえるならば、前の二つは人間の能力を超えた超人に支配される時代の(ポスト・ヒューマニズムの)哲学、最後のものは技術革新を受け入れてそれでも主体であり続ける人間を中心とした時代の(ヒューマニズムの)哲学といっていいだろう。神を死に追いやった啓蒙時代の人々が来るべき時代に対しての哲学を模索したように、人間を超えたものが存在するような時代になったときにどのように生きていけばよいのかを問うているのが現代の哲学である。産業革命によって機械が人間の労働を奪ってしまうのではないかという恐怖心にかられたように、AIによってロボットが人間を管理するようになるのではと危惧を覚えている人も多い。
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機械は人間が作り出したものでそこにとどまったが、ロボットは「ロボットがロボットを、しかも改良されたロボットを、作り出す」ように進化するとさえ想定される。人間が全くコントロールできない世界が「実在する」ようになるのではと杞憂されることさえある。ここで実在という用語を使ったが、哲学では「人間の心とは独立した世界がある」を意味する。実在に対立する用語は観念である。観念は「世界は心とは独立ではない」である。岡本さんは「人間がモノを認識するとき、心の中で観念(idea)を抱くのだが、その観念とは別にモノ(reality, world)の存在を肯定するのが「実在論」(realism)、観念とは独立したモノは存在しないとするのが「観念論」(idealism)である」と説明している。

それでは、思弁的実在論から説明を始めよう。実在論は、先ほど説明したように、心とは独立した世界があるということである。ところで、世界を観察するのは人間であるため、心から全く独立してモノを認識できるのかという疑問が湧いてくる。思弁的実在論に立脚する哲学者は、独立して存在するモノを考察できるようにしようという立場に立っている。そしてそれまでの哲学者がこのような見方をしてこなかったと批判する。すなわち、従来の見方は人とモノとが関わり合いながら思索する相関主義であると批判する。

思弁的実在論の一人であるメイヤスーは、相関主義での関わり合いの度合いをスペクトラム化して次のように説明している。両極に素朴実在論と思弁的観念論を置く。素朴実在論は「この世界というものは、自分の見たままに存在している」という非常に単純な見方である。これは人間の観察とモノの存在とは独立で、観察が存在に影響を及ぼすことはないので相関はないという考え方である。思弁的観念論は「思考の外でモノを考えることはできないので、このモノは存在できないと推量する」という非常に極端な見方をし、人間の観察がモノの存在に完璧な形で関わっているので、完全に相関しているという見方である。メイヤスーはこの二つの見方の間に、「弱い相関主義」と「強い相関主義」に立つ哲学者を例示した。強い相関主義が、「単に私たちが思考できないからと言って、モノが存在できないと結論するいかなる理由もない」という立ち位置にあることを利用して、思考できないが存在しているモノを論理学(思弁的)で導き出そうというのが、思弁的観念論の哲学者たちである。アインシュタインに代表される理論物理学者の人々が理論だけから物理法則を導き出す方法と、思弁的実在論の哲学者たちの方法は似ている。
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ブラシエ、ハーマン、グラント、メイヤスーは、思弁的実在論の哲学者とみられているが、その手法はそれぞれ別々である。科学的・数学的な手法をとるのはブラシエとメイヤスーであり、形而上学的な手法をとるのが、ハーマンとグラントである(形而上学について説明を加えると、これは、感覚・経験を超えた世界を真の実在とみなし、その世界の普遍的な原理について理性的な思惟によって認識しようとする哲学である)。

加速主義は、根本的な社会変革を生み出すために現行の資本主義システムを拡大せよという考え方である。古くはカール・マルクスによって、資本主義が有している効率的な生産力を抑制するのではなく加速することによって、次の時代(社会主義共産主義)に進めようという主張がなされた。またドゥルーズ=ガタリは「脱コード化(規制の撤去)」によって資本主義を突き抜けていこうというスタンスをとり、ネグリ=ハートは「脱領土化(グローバリゼーション)」のプロセスを加速することを勧めた。さらにニック・ランドは『暗黒の啓蒙』を発表した。近代が啓蒙の時代と言われたのに対し、近代を越えた次の時代の超近代(ポストモダン)は、啓蒙をひっくり返した時代であるとランドは述べた。近代の思想を支えたのは民主主義であり、これは啓蒙や進歩主義と結びついて語られた。しかし彼は、自由と民主主義とは親和的なものではなく、対立的なものであると見なした。民主主義を否定して自由を推し進めることで、近代の出口すなわち超近代に向かえると考えた。そして超近代は啓蒙ではなく暗黒の啓蒙に、民主主義ではなく自由に、進歩主義ではなく反動主義になるとした。国家は、民主主義で運営されるのではなく、一つの国を所有するビジネスとなるとみた。これは新官房学主義(neocameralism)と呼ばれる。

一方で、ソ連の崩壊により共産主義が敗北をし、フランシス・フクヤマのいう「歴史の終わり(人間同士の社会的対立が終わる)」の時代になったあと、より大きな自由を求め、思想的にはリバタリアニズム(自由至上主義)、経済的にはネオリベラリズム(新自由主義)が台頭した。この流れがランドの暗黒の啓蒙の影響を受けて、トランプ政権での新反動主義(neoreactionary)として姿を現し、米国には新しい対立が生まれた。
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ランドの立ち位置が右翼的な加速主義であるとすると、暴走への歯止めとしてベーシックインカムを取り入れたスルニチェクとウィリアムズの考え方は左翼的な加速主義という立ち位置になる。

最後は新実在論である。この主張に立っているのはマルクス・ガブリエルとマウリツィオ・フェラーリスで、この二人以外で新実在論を標榜する人はあまり知られていない。思弁的実在論の哲学者が相関主義をやり玉にあげているのに対し、新実在論の彼らは構築主義を批判している。二者の間に近代哲学の主流を相関主義と見なすべきか構築主義とすべきかを巡って意見の対立がある。構築主義は「およそ事実それ自体など存在しない。むしろ私たちが、私たち自身の重層的な言説ないし科学的な方法を通じて、一切の事実を構築している」という立ち位置にあるとガブリエルは説明している。またフェラーリスは「近代哲学の基軸をなしているのは、メイヤスーによって問いに付されている相関主義ではなく、むしろ構築主義にほかならない」と言っている。彼はさらにティラノサウルスの例を用いて、これまでの哲学を相関主義よりは構築主義であると考えたほうがより正しいと説明したあとで、ティラノサウルスという名称を付けたのは人間だが、そうだからと言って、人間が存在しなかった過去にこの動物が存在しなかったわけではない。従って、ティラノサウルスは人間によって構築されたものではないと、これまでの主流である構築主義を批判している。

実在論を含めて実在論と称せられるものがいくつかあるが、ガブリエルは分かりやすい例を用いてそれらを説明している。例は次の通りである。

アスリートさんがソレントにいて、ヴェズーヴィオ山を見ているちょうどそのときに、わたしたち(この話をしているわたしと、それを読んでいるあなた)はナポリにいて、同じヴェズーヴィオ山を見ているとする。

すると、このシナリオに存在しているのは、ヴェズーヴィオ山、アスリートさんから(ソレントから)見られているヴェズーヴィオ山、わたしたちから(ナポリから)見られているヴェズーヴィオ山ということになる。

このとき、形而上学(古い実在論)では、①ヴェズーヴィオ山だけが存在する。

構築主義では、①アスリートさんにとってのヴェズーヴィオ山、②私にとってのヴェズーヴィオ山、③あなたにとってのヴェズーヴィオ山の三つが存在する。ただし、そうした現象とは別に、ヴェズーヴィオ山があるわけではない。

実在論では、①ヴェズーヴィオ山、②ソレントから見られているヴェズーヴィオ山(アスリートさんの視点)、③ナポリから見られているヴェズーヴィオ山(あなたの視点)、④ナポリから見られているヴェズーヴィオ山(わたしの視点)の少なくとも四つの対象が存在している。

このように新実在論では、あらゆるものを包括する立場をとる。このような立場をとらせているのが「意味(Sinn)」の概念である。ガブリエルは、「わたしたちの住む惑星、わたしの見るさまざまな夢、進化、水洗トイレ、脱毛症、さまざまな希望、素粒子、そして月面に棲む一角獣さえもが存在する」という。この文章を理解するとき、意味の概念が必要となる。先の説明の惑星や夢などのそれぞれは、同じ意味で存在するわけではない。ガブリエルは「2+2=3+1」という例で次のように説明している。「2+2」と「3+1」を現象と呼び、意味は対象が現象する仕方のこととしている。

ガブリエルは、対象であれ事実であれ、必ず「意味」に基づいて理解するとし、意味の場を次のように定義している。意味の場とは、何らかのもの、つまりもろもろの特定の対象が、何らかの特定の仕方で現象してくる領域である。このため、同じ対象でも、意味の場が異なれば異なって現象すると説明している。

図で表す次のようになる。また数学的な表現を用いるならば、現象によって、対象が意味の場に写像されるとなる(もう少し厳密にするとファイバー束)。
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フェラーリスは、もの(対象)を三つに分類できるとしている。
➀主観から独立して、時間と空間の中に存在する自然的なもの
②主観に依存して、時間と空間の中に存在する社会的なもの
③主観から独立して、時間と空間の外に存在する理念的なもの

主観に依存する 主観に依存しない
時空の中 人工的なもの、社会的なもの 自然的なもの
時空の外 理念的なもの

デリダを起源とするテクスト性という概念は、「解釈されたもの以外はなにも存在しない」というポストモダン的な構築主義の典型的な標語になったのに対し、フェラーリスはドキュメント性という概念を対置させた。ドキュメント性は、ものの分類の中の②の社会的なものに対応する。このため、実在論といっても、社会的なものについては、「主観に依存的」と考え、ドキュメント性という概念が弱いテクスト主義あるいは弱い構築主義を前提とするようにした。
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ガブリエルは、『「私」は脳ではない』の中で、自身を「新実存主義」と呼ぶようになるとともに、科学的自然主義やポスト・ヒューマニズムを激しく批判した。新実在論では、多様な意味の場を認めていた。そこでこれを「心」という観点から見てみよう。自然主義は、「心」を自然科学というただ一つの現象、ないしは一つの意味の場で理解しようとしている。これと異なり、ガブリエルが進める新実存主義は「心」を多様な現象、つまり多様な意味の場でとらえることにある。このため、新実存主義とは「心」に関する新実在論といえる。従って、新実在主義は人間の「心」を重視する人間主義と言える。すなわち「新実存主義ヒューマニズムである」となる。

ガブリエルは、自然主義を批判すると同時に道徳的な信念を主張する。それは人間の尊厳という概念である。これからパンデミック後の世界に対しても、新たな社会モデルが必要であると説き、それがグローバルな啓蒙であると言っている。私たちが必要としているのは、共産主義(ドイツ語ではKommunismus)ではなく、共免疫主義(Ko-Immunismus)ー世界で激化している対立・差別・暴力などに対する集団的な精神の免疫ーが必要だと述べている。またネオリベラルな資本主義の矛盾を克服するための方策として、「経済の道徳的な形態、人間的な市場経済は可能である」とも述べている。

以上が岡本さんの本から読み取った内容である。カーツワイルが『シンギュラリティ』のなかで、2045年にはコンピュータが人間を知的能力の面で上回ると予言して以来、全く異次元の世界が出現する可能性がゼロではないとは思っている。コンピュータ将棋がプロ棋士を破るようになってから人間が勝つことはないのかと思っていた矢先、あどけない顔の藤井聡太さんがコンピュータの予想を越えるような手を披露してくれて、AIにも大きな課題が残されていると感じた。共免疫主義は偉大な挑戦のように思えるけれども、人類の知恵を働かせて実現させたいものである。

出羽三山を訪れる

先週の土曜日から日曜日にかけて、山形県出羽三山を訪れた。山岳信仰修験道の地として有名ということ以外はなにも知らない。山形県蔵王に行ったことぐらいしかない。百聞は一見に如かずなので、一度見ておこうと思いツアーに参加した。ほとんどがバスの中で座ったまま、ときどきサービスセンターで軽い足の運動、ごくたまに見学地での散策と、片道500㎞の強行軍だった。出羽三山は、羽黒山(標高414m)・月山(標高1984m)・湯殿山(標高1500m)からなる。それぞれが現在・過去・未来と見立てられ、この三山をめぐることは死と再生をたどる「生まれかわりの旅」と称せられている。

今回は羽黒山五重塔・三神合祭殿と湯殿山湯殿山神社を訪問した。最も高い地点にある月山への有料道路は既に閉じられているとのことであった。この旅行も、初日に湯殿山を訪問する予定になっていたが、当日の午前中に降った雪のために有料道路が閉鎖となり、次の日に状態が良ければということになった。冬が間近まで迫っていることを思い知らされた。
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見学地の閉鎖のため予定を変更し、羽黒山へと向かい、ようやく4時にその麓に到着した。新宿を8時に出発したので、なんとここにたどり着くまで8時間も要していた。こういう時の添乗員の方は大変だろうと思いながら、バスを降りると雨が降っていた。昨日購入したディスポーザブルの雨がっぱを着て五重塔に向かった。ここは出羽三山神社なのに塔があることに違和感を覚えたが、江戸時代までは神仏習合天台宗の寺院があった。神社への入り口には、隋神門がある。神仏分離以前は仁王門と呼ばれていた。ここから神域への入り口である。
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中に入ると石畳が続き、雨でぬれていた。足元のおぼつかない人が、おっかなびっくり歩を進めていた。
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石畳の両側に、小さな神社が立ち並んでいた。
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さらに進むと秡川にかかる赤い欄干の橋が現れた。秡川は仏教の頃は三途の川と見做されていたようだ。
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橋の上からは、小さな滝が見えた。雨が降ったため、水量が豊かで見ごたえがあった。
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樹齢1000年の爺杉。婆杉は残念ながら明治35年に台風で倒木したそうだ。
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国宝の五重塔である。この塔は1372年(室町時代)に再建されたとされている。「素朴」の一言に尽きる。
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ホテルは鶴岡駅のすぐそば、部屋からはホームを見ることができ、たまに電車が通った。色彩が綺麗な特急列車は、一両に2,3人しか乗っていないのに何両もつないでいて、不思議な光景であった。朝の鶴岡駅前は静かだった。
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次の日は、運良く天気予報が外れて、青空ものぞく旅行日和となった。最初に向かったのは、羽黒山頂にある三神合祭殿である。昨日のところから石段を踏みしめて登ることもできるが、今回はバスで近くまでいった。冬期は、湯殿山と月山は雪で閉ざされてしまうためお参りできない。そこで三神合祭殿でお参りすると、三つの山の神社をお参りしたことになるという、便利な神社がここである。萱葺の屋根がとても厚いことに驚いた。厚みが2.1mもあるとのことだった。
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修験者たちが修行をしていた。
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松尾芭蕉も同じ光景を見たのだろうか。
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次は前日訪れるはずであった湯殿山神社。駐車場から本宮までは、シャトルバスで上がった。本宮は撮影禁止。また内の様子は伝えてはいけないということである。本宮の入り口には牛が寝そべっていた。通常の神社と異なり、本宮は建物ではなく岩である。靴下を脱いで裸足になり、神と一体になって拝む必要があるが、詳細はご自身でどうぞ。
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帰りもシャトルバスを利用できるが、秋を満喫するために歩いた。
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コロナウイルスが広まってからこの方、旅行に出ることはなく、今回が本当に久しぶりであった。東北の日本海側の短い秋の最も良い時期に旅することができとても良かった。特に、湯殿山の紅葉は美しく、高い地点は雪も点在していて、この地域が閉ざされることが近いことを肌で感じさせてくれた。山岳信仰修験道については分からずじまいのままで課題として残ったが、久しぶりの旅行を楽しめて良かったと感じている。

家族システムの変遷(IV) 源氏物語より平安時代の家族システムを探る

今年は残暑が厳しいと感じていたら、突然に秋がやってきて、北海道からは雪の便りが伝えられ、季節の急激な変化にビックリしている。同じように、あれほど多くの人に脅威を与えたコロナウイルスも、驚くほどの速さでしぼみ始めている。このまま続いてくれるといいのだがと期待しているのだが、果たしてどうだろう。

長いこと閉会していた歴史が好きな仲間の集まりも、久しぶりに開催された。去年の秋に発表する予定だったが、遅れに遅れてやっと昨日、話をした。題は「源氏物語より平安時代の家族システムを探る」であった。源氏物語は、藤原道長が栄華を極めた摂関期に、紫式部が書いたものだ。15年ぐらい前に日本経済新聞に掲載された渡辺淳一の小説と同じように、ホワイトカラーの人々に代わって当時の貴族たちが、新しい巻の出来上がりを今か今かと待ち望んで読んだことだろう。物語の中に出てくる人物が誰なのかを推察しながら、心を躍らせたりあるいは不安に駆られたりして、密かに楽しんだことだろう。源氏物語に描かれている恋愛はフィクションで、そうとうに大げさに書かれているだろうが、ここで繰り広げられている日常は、実際の生活に近いものと考えられるので、当時の日常を再現するのには打ってつけである。

そこで物語の中からこの時代をあぶりだし、かつて高群逸枝さんが「招婿婚」と言っていた家族システムを検討してみた。その結果、結婚当初は妻方に居住するものの、生活が成り立つようになると自立することが判明した。結婚の時期を強調すると招婿婚だが、人生全体を通して観察すると、エマニュエル・トッドの細分類での「一時的母方同居を伴う核家族」に該当するいうことが分かった。このことを詳しく説明したのが以下の資料である。

伊藤俊一著『荘園』を読む

伊藤俊一さんが書かれた『荘園』は高い評判を得ているようである。日本の中世の骨格をなしたのは荘園であるが、領主と農奴という単純な構造からなる西洋のそれと比較すると、土地が幾重にも権利化されいて実態を捉えにくい。また荘園に対する考え方も、かつて学校で学んだものとは随分と異なるようである。そこで、荘園に対する最新の考え方を知りたくて、また今までに得た知識の整理もしたいと思ったので、この本を精読した。

国が成立すると税をどのように徴取するかが問題となるが、日本が国家の形を整え始めたのは、推古天皇が遣隋使、遣唐使を派遣した頃だろう。中国の律令制度をまねて、大化の改新の頃には班田収授法や国評制などが始まり、大宝律令が制定されたころには国の体系はしっかりとしてきた。班田収授法は人頭税で、民に田を与える見返りに税(租庸調)を納める制度であった。

誰が述べたのかは忘れてしまったが、人間は生きていくために、欲求と欲望を持っているそうだ。欲求は、動物に共通な性質で、生命の維持を図るためのもので、「食べる」ことで満たされる。欲望は、人間だけにある性質で、「もっと多く持ちたい、できれば他人よりも優っていたい」というものである。欲望は満たされることで充足感や幸福感が得られるが、それで満足せず、さらに大きな欲望へと向かう厄介な性質がある。

班田収授性は、欲求は満たしてくれるが、もっと多く土地を持ちたいとか、もっと良い土地を持ちたいなどの欲望は満たしてくれない。そこで、あてがわれた土地を捨てて未開発の土地で自由に収穫をあげて、欲望を満たしたいという、浮浪の民が生まれたと思われる。さらには国家にも税収を増やしたいという欲望があり、このための策を考えたことだろう。

奈良時代聖武天皇朝の墾田永年私財法発布(743年)は、そのような要求に応えるものであったことだろう。これは開墾した土地の永久私有を認めた。これに基づいて、豊かな貴族や大寺院が開墾し始めた。これは初期荘園と呼ばれる。開拓が進むにつれて、班田から多くの民が初期荘園へと逃亡した。このため人頭税による税制の維持が難しくなった。さらには逃亡したものの中には裕福なものもあらわれ、このような人たちは富豪の輩と呼ばれた。

嵯峨天皇の時代(902年)、藤原時平(菅原道真を失脚させたことで有名)によって、最初の荘園整理令が出される。この整理令によって、人頭税から土地税への移行、国司の権限強化、荘園の免田化が始まった。土地税へ移行したことで、税金の収納単位となった土地は名と呼ばれ、名の税金の支払いを請け負った者は負名と呼ばれた。この時期の荘園は、開墾地に耕作者を招き、土地代を支払ってもらうというもので、人を支配するというものではなかった。このような中で、田堵(たと)と呼ばれる斡旋業的な役割の者が現れた。田堵は、開発領主と契約を結ぶとともに、農具と耕作者を用意して、荘園の開発と耕作を請け負った。

摂関時代になると、国司は受領国司となり、任地国で税金を徴収して朝廷に納税する請負業者的な役割を担なった。税金を越えての収入は自身の懐に入ることとなったため、荘園の開発を進めるとともに、開発当初は税金の免除を行うものの、歳月がたった後ではそれを取りやめたり、荒れ地となった荘園の公領化を進めたりと、開発領主との摩擦が強まった。開発領主は、受領国司からの苛酷な攻撃から逃れるために、中央の貴族に寄進して税を免れた。このような荘園を免田型荘園という。この他にも、便補免田(国司は、貴族・寺院への封物として、官物や臨時雑役の納入をする)や寄人(貴族・寺院に仕える人々)の田を公務によると見なしての免田などで、摂関時代には免田型荘園が増えた。
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また受領国司の下で活動していた在庁官人たちは専門的な知識を身に付け、受領国者が任地に赴かなくても、彼らだけで地方の行政をこなせるようになった。このため、受領国司は都にとどまるようになり、遥任国司と呼ばれるようになった。在庁官人の能力が高まるにつれて、荘園のような私有地ではなく、公有地として墾田の開発が行われるようになった。対象となる税の枠組みによって別名あるいは保と称せられるこのような土地は、郡と同じであるとみなされ、郡を介さず直接、国へ納税した。

後三条天皇は、朝廷からの許可を得ていない荘園の廃止(1069年)を決めた。これは朝廷の許可を得ずに定められた免田型荘園を廃止させたが、他方で荘園立券の基準が明確になったため、続く院政時代での朝廷・摂関家・大寺院による領域型荘園が増える切掛けを作り出した。領域型荘園とは、従来の荘園を核にして、不輸不入(租税免除と国司らの立入禁止)と認められた広大な土地を囲い込んだ領域である。免田型荘園が、私領の田畠とその周りの不輸不入が認められていない開発予定地を、国司などの押領から保護するためであったのに対し、領域型荘園は、朝廷・摂関家・大寺院による、四至で囲まれた領域の支配へと形を変えた。

これまで荘園の誕生は、開発領主が保護を求め、領家となる中小の貴族に寄進し、領家がさらなる保護を求め、本家となる摂関家天皇家に寄進したと、ボトムアップ的に説明されていた。しかし最近の議論は、そうではなく、朝廷・摂関家・大寺院が、所有している小規模の私領を核に、広大な領域を囲い込むことで領域型荘園が誕生したとトップダウン的である。
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鎌倉時代になると、治承・寿永の乱(1180~1185年の源平の戦い)と承久の乱(1221年後鳥羽上皇との争い)に勝利した鎌倉幕府は、膨大な領地を手に入れ、これらの土地の管理者として、幕府の御家人を地頭として送り込んだ。このため、幕府が支配する地では、荘官・郡郷司・保司の職は、地頭職にまとめられた。将軍(幕府)と地頭は、主従関係があるため、同じような関係で維持されている西洋の荘園と似た面を持つようになった。しかし鎌倉幕府は、これまでの荘園の根本的な枠組みを遺し、くさびを打ち込むような感じで、地頭を送り込んだ。このため朝廷・寺社の荘園に対する支配力は、弱まりはしたが失われることはなく、領家・本家の体制は維持された。そして地頭と領家との間で争いが生じることがあったが、下地中分(領域分割)などで解決された。

室町時代になると、鎌倉時代からの基本的な枠組みは残されたが、本家の力が弱まり、領家が実質的に管理するようになる。また、領地でも今日でいう外注が始まり、代官に請け負わせるようになった。代官には、領主の組織内の人間(直務代官)や、僧侶や商人など経営的な専門知識のある人材や、国人・守護・守護代・守護被官などの武家(武官代官)などが任命された。また室町時代の前半は、守護大名は都に居住したため、任地は守護代・国人などが管理した。また、南北朝時代の戦いが続いているときは、守護は荘園から、戦費にかかる費用として、半濟を徴収した。
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室町時代の後半になると不順な天候が続き、作物の収穫もままならず、一揆が各所で発生し、社会が不安定になった。そのような中、畠山家の内紛を発端に応仁の乱が発生し、京都は戦乱の真っ只中となった。この戦乱によって室町幕府の力は弱体化し、乱がおさまると京都で政権を支えていた守護大名たちは、自身の身の安全を保つために国へ戻ってしまった。国元での荘園の横領が始まり、荘園は姿を消した。

以上が荘園の移り変わりの概要である。それでは、矢野荘を例にとりあげ、荘園がどの様に変化したかを具体的に見ることにしよう。矢野荘は、現在の相生市のほぼ全域にあたる。相生市は、忠臣蔵で有名な赤穂市の東側に位置し、古代・中世には播磨国赤穂郡に属していた。相生という市名は、鎌倉時代相模国の海老名氏が矢野荘の地頭に任命され、大嶋城の城主になったので、「相模生まれ」の漢字を用いてつけられた。古代に開発が進んだところは、揖保郡家と赤穂郡家を結んだ古代山陽道が通っているあたりと思われている。
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中世に入って墾田の開発がすすめられたのは久富(ひさとみ)保である。ここは相生駅の南側の地域である。その西側にある若狭野(わかさの)には条里制の遺構が存在しているので、久富保の開発が始まるころには、公領の田がこの地域を潤していたことであろう。他方、久富保の地域は荒れ地で、開発を待っていたものと思われる。下図で、右側の住宅で埋め尽くされている地域が相生駅を中心とした市街地で、このあたりが久富保で、中世が始まるころにはまだ荒れ野であった。左側の小規模な集落の集まりは条里制の遺構がある若狭野で、北側に大きな扇状地があり、古代より水田が開けたものと思われる。
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下図は若狭野にある条里制の遺構で、図の中間を上から下に少し曲がりながら遺っている道が、条里制の遺構である。道の両側に1町(106m×106m)の大きさの田が並んでいる。
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それでは、保としての久富保の設立、そしてこれを核としての領域型の矢野荘の設立の経緯を見ていこう。

1071年に国司三等官大掾(だいじょう)の肩書を持つ在庁官人の秦為辰(ためたつ)が、播磨国久富保の屋敷・畠・桑・荢(からむし)の保有権の確認を留守所に求めた。この訴えは、従者の重藤に預けて耕作させていたが、彼が亡くなると、掾文王というものが権利を主張、桑・荢を持ち去ったことに起因している。

1075年には赤穂郡司も兼任していた為辰が、田地の開発に人夫動員の許可を国衙に求めた。田地と用水を開発、国衙はこれらの保有権を認めた。3年間官物の納入免除。4年後に官物を納めたが、保有権は維持された。

1098年には為辰は、久富保の公文職と重次名の地主職を、息子の為包(ためかね)に譲った。このころ久富保は、白河上皇の院近臣で播磨守でもある藤原顕季に寄進され、子の長実を経て、孫娘で鳥羽上皇妃の藤原得子(後に美福門院)に伝えられた。

1137年には久富保を核にして、田畠163町余り、野地4所が付属する領域型荘園の矢野荘が立券された。荘域は相生市全域に及んだ。入り組んでいた公領・私領、山野が一括して矢野荘に組み込まれた。矢野荘は、美福門院が建立した歓喜光院の所領となり、領家職は藤原長実の一族が相伝した。荘官下司には惟宗貞助、公文には播磨なる人物が任じられた。あとで説明する承久の乱で惟宗貞助の末裔と推察される下司の矢野氏は没落した。秦為辰の末裔を称する寺田氏が公文職を相伝し、重藤名という巨大な名を本拠地にした。このため秦為辰が開発した一部は、寺田氏が引き継いだと見られる。

1160年に美福門院が没し、娘の八条院は矢野荘を例名と別名に分割し、別名を歓喜光院に寄進する。

1221年の承久の乱での鎌倉型の勝利により、下司の矢野氏が没落し、相模国海老名郷の海老名氏が矢野荘例名の地頭職を得た。海老名氏の本家は室町時代永享の乱で滅亡したが、西遷御家人の海老名氏は矢野荘を足場に国人領主へと成長した。

1299年に領家の藤原範親と地頭の海老名氏との間で矢野荘例名の下地中分が行われ、田畠と山野はほぼ等分に分割された(図で浦分とあるのは、13世紀前半頃にこの地域の開発が進み、一つのまとまりができ、浦分と呼ばれるようになった。この地は地頭に割り当てられたが、争いが残った)。

1300年に亀山上皇は矢野荘別名を南禅寺に、1313年には後宇多天皇は矢野荘例名を東寺に寄進し、1317年には浦分も東寺に寄進された。
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1314年に、「都鄙名誉な悪党」と称される、矢野荘例名の公文職の寺田法然が在地領主としての成長を目指して、地頭職の海老名氏と争い、南禅寺領の別名に討ち入るなどしたが、結果は失敗に終わった。

1377年には、一揆逃散が発生した。矢野荘には東寺より直務代官裕尊が派遣されていた。守護権力にすり寄る裕尊に反発して、百姓たちは一味神水して逃散。裕尊は国人たちに取り締まりを依頼。事態を憂慮した東寺が裕尊の代官を解任した。

1380年には明済法眼が代官に任じられたが、やはり一揆逃散。様々な和解策が講じられたが、1396年に弟子を代官とした。

応仁の乱後も矢野荘は生き延び、1546年まで年貢を納め続けた。

中世は権力の分権が起きた時代で、朝廷・寺社・公家などの権門は、荘園を利用しながら、それぞれの政治的・経済的な権力を、それぞれの地に確立していく。伊藤俊一さんの著書には、その姿が分かりやすく描かれており、荘園とその移り変わりに関する知識を整理するのにとても役立った。

高橋哲哉著『デリダ 脱構築と正義』を読む

喉に刺さっていた魚の骨が取れた瞬間はほっとする。同じような気分を味わったのが、お彼岸のお墓参りのために、お供えの花を手に入れた瞬間だった。ジャック・デリダ(Jacques Derrida)の考え方がよくわからず、それを理解するために贈与に関係する参考資料を読んだ。そこには、贈与はあり得ないと書かれていた。贈与とは、見返りを求めずに、他者に贈り物をする行為だ。

贈与と対をなす言葉は交換である。贈ったものに対して他者から何らかの見返りを得る行為である。物を買う行為も交換だし、贈り物をしてそのお返しをする行為も、瞬時ではないが時間的な遅れを伴った交換である。建前上は寄付となっているので贈与だと思いがちだが、ふるさと納税は、納税者が見返りを明確に期待しているぶんだけ質の悪い交換である。もう少し厳密に定義すると、贈与とは、物質的にも精神的にも、お礼という負担を、贈与する側にもされる側にも感じさない行為である。このような条件を満たす贈与は存在しないと参考資料には書かれていたが、果たして正しいのだろうかということが、読んだ時から引っかかっていた。

お供えの花を手に取ったとき、これこそは間違いなく贈与であると感じた。花は私から両親への贈り物である。私は物質的なあるいは精神的なお返しを、両親から期待していない。また亡くなっている両親は、私に対して物質的にも精神的にもお返しなどできようはずもない。見事な贈与だと認識し、喉の骨が取り払われたようなすっきりとした気分になった。これは余談だが、意地の悪い人は、生前の親の恩に対するお返し、すなわち交換だと指摘するだろうが、このことはあまり深入りしないことにしよう。

デリダは、プラトン以降の西洋哲学の中心をなすのは、階層秩序的二項対立であると言っている。二項対立の例を挙げると、善と悪、男と女、内部と外部、本質と見かけ、真理と虚偽などである。さらに、二項のあいだには、優劣関係があって、強者が弱者を制圧しようとする階層秩序が存在すると言っている。

西洋哲学に従えば、先ほど挙げた交換と贈与は、「ものをもらう・代わりをわたす」という行為に対する二項対立である。先ほど説明したように、死者へというとても特殊な例を除けば、贈与というものはない。二項対立という考え方に立てば、贈与はないので、交換が優で、贈与が劣となる。この優劣関係は、かなり暴力的で、贈与を忘却(存在しない)というレベルにまで貶めている。このため、忘却されている贈与を、階層秩序的二項対立という考え方で、説明することは不可能であると、デリダは言う。

贈与という概念を生き返らせるためには、階層秩序的二項対立を中心に据えた西洋的な考え方を、ひっくり返し、構築し直す必要がある。これはデリダの言う脱構築である。これには、二項対立を包み込む仕掛けが必要である。この仕掛けをデリダは、差延という造語で用意した。差延はフランス語ではdifféranceと綴る。もともとのフランス語にはこのような単語はなく、似た単語にdifférenceがある。これは名詞であるが、その動詞はdifférerで、「~を延期する」と「異なる」の二つの意味がある。名詞のdifférenceには、「異なる」だけが残り、「~を延期する」は欠落し、意味は「違い」を表す。そこで、デリダは、発音は同じだが、スペルが異なるdifféranceを造語し、動詞が持っていた二つの意味を復活し、「違い」と「遅れ」の両方の意味を持つ単語とした。日本語では、「差延」と表記される。

理解を深めるために差延の具体例を示そう。人間の細胞は、時間とともに入れ替わる。6カ月も経つと筋肉の細胞の殆どは入れ替わるし、骨の細胞でも、3年もすればどんな年寄りでもほぼ入れ替わっている。それでは6か月前の自分あるいは3年前の自分と、現在の自分は同じなのだろうか。細胞のほとんどは入れ替わっているので、細胞のレベルで見れば別人。考え方だって、この歳月の中でいろいろなことを学んでいるのだから、違っているだろう。それでも同じ人なのだろうか。時間が経過し、すなわち遅れがあって、違っているのにもかかわらず、同じ人と見なして生活している。このように、「違い」と「遅れ」という二つの要素が入っているものを、差延と称している。

二項対立の関係にある二つの概念は、一つの差延で説明できるというのが、デリダの哲学である。冒頭に出現した贈与と交換では次のようになる。交換は物をもらいそして代わりをわたすことだが、「もらうこと」と「わたすこと」の間には遅れと違い、すなわち差延があるというのがデリダの説明である。交換の一つの例である商品の購入では、商品をもらうと同時に、お金をわたす。クレジットカードでの購入では、商品をまずもらい、しばらくたってからすなわちある遅れを持たせて、お金を払う。贈与は、贈り物をもらっても見返りを渡さないということなので、遅れを無限とすれば、交換と同じに説明できる。お彼岸のお供えの花も、遅れを無限にした交換、すなわち贈与である。

プラトン以降の西洋哲学は、二つの概念を対立させ、一方の概念が他方の概念を暴力的に抑圧するという、階層秩序的二項対立という考え方を中心に据えていた。しかし、デリダは、二つの対立構造の間に優劣はなく、二つの概念を共通の差延で説明できるということを示した。デリダは、このような行為を脱構築(フランス語でdéconstruction)と名付けた。

それでは、この他の脱構築の例をいくつか説明しよう。まずは言語である。これは、二項対立させるとパロール(parole:話し言葉)とエクリチュール(écriture:書き言葉)の二つの概念で表され、どちらが真の表現に近いかという観点から優劣をつけ、パロールの方を優位としてきた。話し言葉は、頭の中に浮かんだことを、間を置かずに口から発するので、話者の意図がそのまま伝わってくるので真実性が高い。これに対して、書き言葉の場合には、文章で示されるので、本当は誰が書いたかわからないので真実性が低いと見なされた。哲学的な言葉では、現前性という言葉で、真実性を表している。しかし、実際のところは、両者の間にこのような真実性で差があるわけではない。書き言葉の方が正しく、話し言葉の方が間違っていることさえある。そこで、対立するパロールエクリチュールを一つの差延で説明してみよう。ここで差延に用いるのは、フェルディナン・ド・ソシュール(Ferdinand de Saussure)の記号論である。

一般に辞書は、単語と意味で構成されている。単語の方は、英語であればアルファベットが並んだもの、日本語であれば漢字あるいは仮名が並んだものである。意味の方は、内容を表した平易な文章である。ソシュールは、言葉は記号の体系であるとし、記号はシンフィアン(signifiant:単語)とシンフィエ(signifié:意味)の対であるとした。そこで、シンフィアンは、話し言葉では音素をならべた一続きの音で、書き言葉では英語やフランス語であれば、アルファベットを並べた単語である。ソシュールの言葉の定義を利用して、話し言葉も書き言葉も、シンフィアンとシンフィエとが、時間の経過の中で意味の変化を伴いながらそして時間的な遅れを伴いながら、すなわち差延によって結びつきながら、変化していくものと再定義することができると、デリダは説明した。言葉でのこの差延は、話し言葉と書き言葉に先立って生まれているものであるとし、デリダは原エクリチュールと名付けた。

最近、『ある画家の数奇な運命』という映画を見た。現代美術界の巨匠のゲルハルト・リヒターの生涯を描き、感動的な場面が溢れている作品だが、その中のたわいもない場面に興味を持った。美術の教授が最近興味を持ったことを説明してくれと学生に尋ねたとき、主人公のクルトが、数字の並びは意味を持たないけれども、それが宝くじの番号と同じであるとき、その数字は特別な意味を持つと言った。教授は感動し、クルドの作品を見せてくれという。映画を見ているときは、なぜこのように感動したのが分からなかった。しかし、デリダを読み、シンフィアンとシンフィエの関係を理解したとき、数字の並びと当選番号とがこれと同じ関係にあることを知った。シンフィアンとシンフィエを言い出したソシェールは、構造主義を切り拓いた人としても知られているので、この場面は隠喩的にクルドの作品が構造主義であることを示し、教授がそれに興味を示したのだと理解した。隠されている意味が、時間はかかったが差延によって、分かってよかったと思った瞬間であった。

それではもう一つ例をあげよう。今度は「法」に関する話題だ。二項対立は自然法/実定法である。これはピュシス(自然本来のもの)/ノモス(人為的なもの)との対立でもある。神が万能であることから、自然法が優で、実定法が劣と見なされる。しかし、両者とも法である限り、悪に対して罰を与えるという正義において同じである。そして、自然法/実定法に対する差延は正義であるとデリダは考えた。男と女の関係も二項対立で、これまで男が優位にあった。この関係を覆すだけでなく、さらには両性が対等になる関係を肯定的に導き出せれば、デリダ脱構築を成し遂げたものとなる。

ここまで高橋哲哉著『デリダ 脱構築と正義』を頼りに、デリダの中心的な哲学である差延についてまとめた。クロード・レヴィ=ストロースは、西洋と未開という二項対立の中で、未開の文化が決して西洋の文化に劣っていないことを示したが、デリダは優劣関係を反転させただけだと厳しく批判した。そして、二項対立を反転させ、差延により対立していた両者を共通の一つの考え方でまとめる脱構築を考え出した。ポスト構造主義の始まりと言われるが、差延という仕組みで新たな構造を作り出しているように見える。形を変えた構造主義と見えるのだが、間違っているだろうか。

2014年秋にスペイン北部、バスク地方ビルバオを訪問した。この町には脱構築の建築として有名な美術館がある。このときは、脱構築がどのようなものであることを知らず、変わった建物や造形物があるとしか認識しなかった。差延により、正しく理解するようになったと思われるので、再度訪れる機会があればじっくりと味わいたいと思っている。写真は、美術館の入り口と、造形物のクモである。
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ユン・チアン著『西太后秘録 近代中国の創始者』を読む

1980年代の後半に公開された映画で、アカデミー賞9部門受賞の「ラストエンペラー」を見た人は多いことと思う。その導入部は、この映画の要約を表したものと思え、人生の浮き沈みの激しさを強烈に描き出している。清朝最後の皇帝溥儀(はくぎ)が、戦犯としてソ連から中国へ送還されてきた場面で始まり、3歳の幼子が皇帝となるために紫禁城で臨終間近の西太后に拝謁する場面で構成されている。カリスマ性にあふれた霊界の主のような、おどろおどろしい西太后が画面に現れる。彼女は、このようにかつては悪女の代表として語られていた。中国は王朝が変わると、新王朝が旧王朝の正史を編纂する。王朝が変わったことの正当性を伝えるため、前王朝最後のころの皇帝や権力者は、必ずと言っていいほど悪者や愚者として描かれる。正史を読む場合には、最後の頃の人物は潤色されている可能性が高いので、注意を必要とする。西太后もその例に漏れないようだ。毛沢東が亡くなったあと、西太后に関する多数の史料が明るみに出て、新しい事実が分かり、これまでとは異なる評価がされるようになってきた。

このたび、本の帯には「残虐非道の女帝」像を根本から覆すと書かれていた、ユン・チアンさんの『西太后秘録』を読んだ。2015年に翻訳本が出版され、2018年に電子化された。ユン・チアンさんは、祖母・母・自身の女性3代を描いた『ワイルド・スワン』、毛沢東を描き出した『マオー誰も知らなかった毛沢東』の著者である。いずれの本も、これが現実とは認めたくないような、極限の世界を描き出し、耐えられないような衝撃を受けながらも、止められずにページをめくったのを覚えている。

今回の西太后も、桁違いのスケールの大きな女性で、すごいと感じた。大きな時代のうねりのなかで、それを乗り越えられるような人材を、時代が求めていたということだろう。清王朝の最後に対しては、アヘン中毒、領土割譲、腐敗した政権というような悪い印象しか、本を読む前には持っていなかった。近代化に向けて、ほとんど一人で立ち向かった西太后は、最近はやりの言葉を使うと「レスペクト」すべき人物だと認識を新たにした。

副読本として、加藤徹さんの『西太后 大清帝国最後の光芒』を用いた。ユン・チアンさんの本に遡ること10年前の2005年に出版された。ユン・チアンさんは改革者としての色彩を強く打ち出し、ドラマを見ているような迫力で西太后を描いている。これに対して、加藤徹さんは、一般者向けの歴史本という立場で、どの様な時代背景の中で西太后が活動したのかを分かりやすく描写し、改革者ではなく保守派として描いている。意見の違いが生じたのは、新たな資料が発見されたためなのか、あるいは、見方の違いによるためなのかは分からない。この点は今後の課題ということにして、ここではユン・チアンさんの本を紹介しよう。

西太后は、1835年に生まれ、1908年に没している。誕生日2週間前に亡くなっているので、享年72である。当時の王朝は満州人が樹立した大清帝国。初期の康熙帝の頃の人口は1億人、150年後の西太后の時代は4億人で、世界人口の1/3を占めていた。GDPも同様で、30%以上を占めていたと言われている。その版図は、今日の中国に、台湾とモンゴル国を加えた巨大な領域であった。

西太后が政権を掌握するまでに起きた主な事件は、1840年アヘン戦争開始、1843年の英国への香港島割譲や五港開港を含む南京条約締結、1857年の第二次アヘン戦争(アロー戦争)開始、1858年のアヘン輸入公認やキリスト教布教承認などを含む天津条約締結、1860年九龍半島南部割譲を認めさせた北京条約締結、同年のロシアへのウスリー河右岸割譲などのアイグン条約締結、1851~64年のキリシタン集団による太平天国の乱である。日本では1853年に黒船来航、1867年に大政奉還があった。日中両国とも欧米列強の脅威に晒され、近代化への圧力が高まっていたときであった。

西太后秘録は、皇帝の側室に選ばれるところから始まる。また、この本では、西太后ではなく、慈禧(じき)太后となっているので、今後は、慈禧を用いる。また、年齢も数え年で記述する。
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1850年に道光帝が崩御し、19歳の咸豊帝が即位した。その2年後、慈禧が16歳のとき、正室や側室を選ぶための、后妃選定が行われた。当時は、満州族蒙古族に属し、身分が一定階級以上の家の娘は、思春期に達すると后妃候補として登録された。3年に一度行われる后妃選定で、候補者の中から皇帝・皇族の正室・側室が選ばれた(この選で漏れた娘は、一般男性との結婚がこの時点から許された)。選定は皇帝自らが行った。正室の皇后は1名、側室には順位がつけられていて、皇貴妃(1名)、貴妃(2名)、妃(4名)、嬪(6名)、貴人、常在、答応の7段階あった。皇貴妃は、皇后がいないときにのみ許されたので、通常、側室の最高ランクは、貴妃である。慈禧は貴人に選ばれた。将来、良きパートナーとなる貞は、嬪に選ばれ、そして4か月後に皇后となった。

1856年4月27日慈禧は男子を出産、その子は載淳(さいじゅん)と名付けられた。慈禧の身分は、貞皇后に次ぐ貴妃となった。皇子を得た慈禧は咸豊帝を説得できるような立場となり、后妃選定を経ずに妹を皇帝の異母弟の醇親王奕譞(えきけん)の妃とした。

清王朝は長子継承ではない。皇帝は詔書によってひそかに後継者を指名する。後継者が記載された詔書は厳重に保管され、皇帝が崩御したときに詔書が取り出されて後継者が発表される。道光帝の跡を継いだ咸豊帝は四番目の皇子であった。西洋嫌いではない六番目の皇子の恭親王は有力な後継者であったが、道光帝とは見方を異にしていたため選からもれた。彼はのちに慈禧の右腕として活躍した。

慈禧が権力を握るようになったのは、咸豊帝が崩御(1961年)してからである。その前年に、咸豊帝は英仏軍の北京侵攻から逃れるために、万里の長城を越えて北東に200㎞、モンゴル大草原の丘陵地帯の避暑山荘に逃げ込んだ。英仏との交渉は恭親王に任せ、送られてくる上奏には対応するものの、咸豊帝は崩御する二日前まで歌舞音曲を楽しんだ。死に臨んで、親王と大臣、合わせて八名を枕元に呼び、唯一人の息子の載淳を皇帝に付け、この八大臣で摂政制を敷くようにと遺言した。

載淳の実母は慈禧だが、嫡母は貞皇后である。このため、貞皇后は新皇帝の母として皇太后となったが、慈禧には何の称号も与えられなかった。慈禧は政権に対して影響力をもつために皇太后となることを切望し、貞皇太后とともに一計を案じた。康熙帝の母親が側室だったにもかかわらず、皇太后の称号が与えられたという前例を利用して、慈禧皇太后となった。また詔書への印章を貞皇太后と慈禧が押印してないと公式ではないことを理由にし、さらには恭親王を味方につけて、八大臣を失脚させた。このうち三名には何とも残酷な凌遅刑を言い渡したが、寛容であると思わせるために、刑を大幅に軽減し、粛順のみが斬首、鄭親王と怡親王には自決を命じた。

太后となった慈禧と貞は、ともに協力して垂簾聴政を行った。恭親王に軍機処を率いさせ、新たに八名の軍機大臣を任命した。彼らは知性と分別を兼ね備えていた。この時期、政権を運営したのは恭親王であったとかつて言われていたが、実際はそうではなく、決定を下したのは慈禧であると作者は主張している。慈禧の下で、中国は西欧との長い平穏な時代へと入った。そしてこの西洋との友好関係は、太平天国の乱の平定に役立った。

反乱軍はキリスト教を自称していたので、最初のころは西洋人は彼らに同情的だったが、そうでないことが分かり、平定のための傭兵の提供を持ちかけた。慈禧は傭兵を断るものの、中国軍を指揮する将校を要請した。これを受けて米国人のフレデリック・タウンゼント・ウォードが、中国人部隊で編成した「常勝軍」を訓練した。1862年にウォードが没すると、英国人のチャールズ・ゴードンに指揮をとらせた。

チャールズ・ゴードンは李鴻章と協力して乱を鎮圧したが、そのとき太平天国の幹部たちの身を守ると約束したにもかかわらず、李鴻章が約束を破って殺害したことに憤慨して、常勝軍の司令官を辞任してしまう。鎮圧後に、清の官軍が虐殺や蛮行を繰り返したのに対し、常勝軍だけが節度を守ったことに感激して、慈禧は最大限の感謝を示しゴードンに報いた。太平天国の乱に当たっては李鴻章の他に曽国藩も登用した。このように漢族を用いたことも特筆すべきことであった。

太平天国の乱の鎮圧は国内の経済を疲弊させたが、門戸開放政策の結果、十年足らずの間で驚異的な回復を見せた。この局面でも人材の登用で素晴らしい実績を残した。貿易の拡大により、効率の良い、腐敗のない税関を持つ必要に迫られていたが、総税務司に任命されたのは、恭親王推薦のアイルランド出身のロバート・ハートであった。彼は1911年に亡くなるまでこの職にあり続けたが、清王朝財政再建に絶大な貢献をしたばかりか、世界との関係改善にも大きな役割を果たした。垂簾聴政の時代の政権が掲げた標語は「中国を強くする」すなわち「自強」であった。ハートは近代化によってそれが達成されることを北京の朝廷に示し続けた。

教育の近代化も慈禧の大きな成果である。1862年に通訳の養成を目的として、同文館が開設された。中国古典を教えることこそ正しいとする官僚からの激しい抵抗にもめげず、1865年には恭親王の進言により慈禧が同文館を最新技術の整った科学技術の場として設置し、新学長にはハートが押す米国人宣教師のW・A・P・マーティンを任命した。さらには、ハートが里帰りするときに、同文館の学生数名を同行させて、ヨーロッパを旅行させた。

慈禧の子の同治帝が16歳(1873年)で結婚し、皇后を迎えると、慈禧は表舞台から身を引き、帝国の近代化政策は頓挫した。しかし、同治帝の治世は長く続かず、19歳で崩御してしまう。従弟の3歳の光緒帝が即位すると、慈禧は再び垂簾聴政を行った。

光緒帝の帝師となったのは翁同龢(おうどうわ)であった。彼は前帝の同治帝の帝師でもあった。同治帝が勉強嫌いだったのに対し、光緒帝は優秀な生徒であった。しかし当時の習いとして、保守派の翁同龢が習得させたのは、中国古典の儒学であった。近代化が急務のこのときに、古色蒼然とした教育でよかったとは思えないのだが、慈禧は帝王学を変える必要があるとは思わなかったようだ。

その一方で、垂簾聴政が始まると、慈禧は李鴻章と恭親王の助けを借りて近代化政策を勧めた。郭嵩燾(かくすうとう)や洪鈞(こうきん)を外交官として海外に派遣、さらにはまとまった数の官僚を海外に送り、欧米の制度や文化を研修させ、科挙の試験も海外希望者には出題で工夫を凝らした。またキューバとペルーと交渉して、中国人奴隷の貿易を禁止させ、両国での中国人労働者の保護に努めた。西洋式海軍創設にも努力し、装甲艦二隻の購入や、フランスからの戦艦の建造技術導入、イギリスでの軍事訓練など、海軍の充実を図った。

さらに海関総税務司ハートに命じて、貿易拡大のための覚書を作成させ、揚子江沿岸から中央部の重慶に至るまでの主要港を国際貿易港として開港した。台湾・福建省間の電信の開通も命じた。また近代的な炭鉱開発にも着手し、風水に絡んで抵抗の多かった鉄道の敷設にも努力した。この当時、ベトナムは中国の従属国であったが、フランスが侵入し中国との国境線に迫ってきた。優劣が決しない中、慈禧はフランスとの和平に持ち込み、彼女が外国との戦いでも対応能力があることを示した。

光緒帝は、1889年に結婚し隆裕皇后を迎え、親政を始めた。隆裕皇后は慈禧の推薦であったが、光緒帝は気に入らず形だけの結婚であった。寵愛したのは珍妃であった。慈禧は引退し、再建した頤和園へ移り住んだ。従来、何千万両もの頤和園の造営費を海軍予算から流用したために海軍が破たんして日本との戦争に敗れたとされているが、著者はこれを否定している。光緒帝の大婚に要した費用は550万両で、頤和園の再建費用はこれをわずかに上回った程度。300万両は慈禧が宮廷費を節約して捻出、重臣の何人かの献上と、朝廷からの資金援助で賄ったと説明している。

慈禧が引退した後、翁同龢の進言に従って光緒帝は外国からの軍艦購入を止め、国内の自然災害に対応した。沿岸の警備は李鴻章に任せた。彼は手薄であることを理解していたが、自己保身から、光緒帝には喜ぶようなことしか伝えなかった。日本が朝鮮で戦争を起こし、1984年8月1日には日中両国が開戦を宣言、これまでの中国の油断と緩みも災いして、遼東半島に侵入された。このような事態を憂慮した慈禧は、朝廷の意思決定に参加することを許されるように策略を巡らして実現させた。しかし時すでに遅く、敗戦の運命は変えがたく、和平へと突き進んだ。

史書には、和平の責任は慈禧にあるとされていたが、そうではないと著者は主張している。慈禧は戦争の継続を主張したが、光緒帝をはじめとする弱気の男たちに退けられたと説明している。慈禧は再び引退し、日清戦争での敗北は欧米の国々から張子の虎とみられるようになり、中国の権威は失墜して争奪戦が始まり、沿岸部は蚕食された。

建国以来の国難を迎えて、日本で幕末に生じた佐幕・尊王と開国・攘夷の争いと同じような状況が清国内でも発生し、清国の滅亡・中華民国の設立へと政治の季節が巡っていった。その発端となったのは1898年の戊戌(ぼじゅつ)の変法である。この政治改革は、立憲民主制による近代化革命である。従来の説では、康有為・梁啓超が運動を担い、それを受け入れた光緒帝が改革を実行し、これを嫌った西太后袁世凱らの保守派がクーデターにより強制的に中止させたとなっていた。

しかし著者は従来の説明は正しくないと次の様に反駁している。変法の詔書は、光緒帝からアドバイスを求められた慈禧が発案し、それに基づいて翁同龢が作成し、光緒帝の名において発布された。そしてすぐ後に、時代に合わなくなったと判断された翁同龢は、光緒帝によって任を解かれ、慈禧と光緒帝の間に良好な協調関係が生まれ、科挙試験を含む教育改革、留学生制度、近代的な農耕法、西洋式の商業、新しい出版形式、各分野の技術刷新などの政策が打ち出された。

慈禧と光緒帝の間に割り込んできたのが、因習を嫌う狡猾な男、「野狐」こと康有為であった。彼は皇帝あるいは類似の権力をふるいたいと願っていた。数々の変革案を実現させたくてうずうずしていた野狐は、上書を光緒帝に書き続け、皇帝の腹心となった。実質的な行政力を持つ皇帝直属の諮問機関「制度局」の設置を訴え、ここを彼の部下とともに支配しようと目論んだ。光緒帝が制度局の裁可を求めると慈禧は拒否したので、野狐は慈禧の暗殺を企てた。袁世凱に実行を命じるのだが、最後の段階で慈禧に密告して事件は発覚する。

さらに野狐が伊藤博文を制度局の顧問に迎えようとしたり、張蔭垣が機密文書を日本側に流すなど、清国を日本に売り渡すような行為も判明した。慈禧は光緒帝の幽閉、関係者の裁判を中断しての斬首を行った。康有為と協力者の梁啓超は日本に逃れた。慈禧はこの事件に光緒帝が連座していたことが明らかにになることを避けるために、暗殺事件であったことを隠ぺいした。康有為らはこれをいいことにして、慈禧のクーデターであると宣伝した。事件の真相は一世紀近くも葬られていたが、1980年代に、慈禧の殺害を命じられたが翻意した畢永年の証言が日本の公文書の中に発見され、慈禧の暗殺計画は証明された。

1900年には次の試練が訪れた。天津条約・北京条約によってキリスト教の布教が許された。そのあと教会と信者に対する特権的な扱いが目立つようになってくると、外国人を排斥しようとする義和団が1899年に結成された。慈禧は、外国からの要請もあって、当初は義和団を抑えようとした。しかし義和団が外国軍を抑えることもあったため、逆にこれを利用することを考え、義和団を支持して対外宣戦を1900年に布告した。これを受けて日本を含む8か国の連合軍が北京に向けて進軍した。

慈禧は、光緒帝、隆裕皇后、帝位継承者に任ぜられていた溥儁(ふしゅん)、光緒帝の側室瑾妃(きんひ)とともに、北京からの脱出を図った。光緒帝が寵愛するもう一人の側室珍妃(ちんひ)には自害を命じたが、珍妃が命乞いしたために、井戸に投げ込むように宦官に命じた。急いで出立しなければならないためのやむを得ない行為だったが、ここも後日、慈禧の悪逆ぶりの一場面として使われた。一行は辛酸を舐め尽くして西安に逃げ延びた。

1901年には連合国との間で北京議定書を結び、途方もない損害賠償費を払うことになった。このあと、北京に帰還し、慈禧は1902年から死を迎える1908年まで、近代化に努めた。①漢族と満州族の結婚の禁令を撤廃と漢族の纏足の風習の撤廃、②女子の教育義務を定めた「女学堂章程」を発布と女子留学生派遣(宗慶齢・美齢など)、③科挙の廃止と西洋を手本とした教育制度の導入、④法体系の抜本的な見直しと凌遅刑・尋問中の拷問の廃止、⑤商業の振興と商務部の設置、⑥国際銀行の創設と国内通貨の誕生、⑦鉄道網の整備である。このような改革によって、7年間で歳入は2倍となった。

さらに、慈禧が目指したのは、立憲君主制だった。英国の絶対君主制から立憲君主制へ、そして立憲民主制へと移行していく姿を見て、次のステップは立憲君主制であると判断した。1908年には憲法大綱が慈禧の裁可を得て公布、また、国会開設に必要な法規が起草され、やはり慈禧の承認を得て公布、国会開設に向けた9年計画を決定した。

死期が近づいた慈禧は、死亡の順序が逆になることを危惧して光緒帝を毒殺し、妹の孫息子に当たる溥儀を時期皇帝に指名し、その翌日に崩御した。

長くなったがここまでがこの本のあらすじである。慈禧は、清朝を維持しながら、近代化を推し進めようとした。傑出した政治能力をもつ太后であったが、一人の力で、彼女が目指す立憲君主制を成し遂げることは絶望的に困難であった。慈禧は、人材の育成に努めたがかなわず、助けてくれる人材の欠如が、近代化のスピードを遅らせたと言えるだろう。

懐かしい田園風景が残る横浜市北部の寺家ふるさと村を訪問

オンラインでの国際会議の発表も無事すみ、やっと開放された気分になった。秋雨前線の影響を受けて長いこと雨の日が続いていたが、この日(9月7日)の朝は久しぶりに秋晴れとなった。うきうきとした気分となり、本当は旅行に出かけたいところだったが、コロナによる緊急事態宣言が出ているので、ちょっと我慢して近場でと戦略を練った。人込みのないところを優先したため選択肢はそれほど多くはなかったが、懐かしい田園風景が残っている横浜市北部の寺家(じけ)ふるさと村を訪問をしてみようと決めた。ここはウォーキングコースともなっていて、青葉区のホームページには桐蔭横浜大学から鴨志田公園までのコースが紹介されている。ダウンロードした地図を見ていると、「桐蔭学園からわざわざ行く人はいない、近くまでバスで行くのが自然」と横やりが入った。このコースは、桐蔭横浜大学の協力を得て作成されたため、同校からの出発になっているようだ。朝散歩をしたので、それほど歩く必要もないだろうと判断し、田園都市線青葉台駅から鴨志田団地までバスを利用することにし、ふるさと村を重点的に観察することとした。

寺家町(図中白い部分)は、小田急線と田園都市線の中間地点、子供の国の東隣に位置している。東側は川崎市、西側は町田市で、行政区域の地理的なはざまである。
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昭和14年発行の横浜市町名沿革誌によれば、「元、寺家村と称して都筑郡の内なり、天正頃の文書に村名見へたれば古くより開けし地なるペし此村古き領主の名を伝へず、德川氏に至り正保の頃、村高百九十八石の内其一部をさきて旗下筧三郎左衛門正重に賜ひ、他は御料となせり、私領の方は筧喜太郎の代に至り、同族筧半兵衛に分割し二給となり子孫世襲明治維新後は神奈川県の管轄に属せり、明治二十二年町村分合改称を行へる際は、下谷本町の條に同じく中里村を立て其大字寺家となる、昭和十四年四月一日橫浜市に編入港北区に属し旧村名を採りて町名に付せり、村名の起りを伝へず。」と紹介されている。すなわち、安土桃山時代の古文書に寺家とあるので古い地名のようだがその由来は分かっていない、また江戸時代には旗本の筧家が知行していたと説明されている。昭和14年の世帯数は35、人口176人であった。

今昔マップで、明治39年測図と現在の地図を比べると、谷戸に拓かれた水田がほとんど変わっていないことが分かる。この図で、中央部にある谷戸が、左側の山側から、右側の平野部に向かって、水田として切り拓かれたことが分かる。さらに、谷戸の奥の高いところに、溜池が設けられていることも分かる。
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この場所を航空写真と地形図で観察すると、水田が谷戸に深く切り込んでいることがよく分かる。
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谷戸の中央付近で、奥の方を撮影した写真。実りの季節を迎えて、しっかりと実をつけた稲が黄色く変わり始めていた。
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小さな谷戸のどん詰まりのあたりも同じような光景だが、この田の持ち主は遊び心があるようだ。
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谷戸の中頃には水車小屋があった。電力によるモーターが出現するまでは、農作業で必要な動力を得るための重要な装置だった。
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谷戸の上流には溜池がある。このあたりの主だったと思われる小動物に因んだのだろうか、むじな池と名付けられていた。
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谷戸を出て平地部に行くと、傾斜を利用して、全ての田に水が行き渡るようにと、立派な水門があった。
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子どものころイチジクの木が庭にあったが、ほとんど口にすることはなかった。悪い印象しかないイチジクだったが、最近では味が良くなったので好んでお店で購入している。道すがら商品としてのイチジクの栽培状況を観察することができた。何とこれは一本の木。下の方で、二本の枝を左右にわけ、地面に這わせるようにして横に枝を張らせている。収穫しやすいように細工したのだろう。イチジクの木によく登っていたので、弾力があることは知っていたが、ここまで利用できることに感心した。
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ぶらぶらと散策しながら、秋の花を楽しんだ。白い花がきれいな蔓性のセンニチソウ。
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つる草の花かと思ったが、絡まってそのように見えたようで、よく見慣れたサルスベリの花。
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道路わきに咲いていたフジカンゾウ
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ハーブの植え込みではセージの花が真っ盛りだった。
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また谷戸を離れて、コナラの木が多い山の中に少しだけ入ったところに、下三輪玉田谷戸横穴墓群と名付けられた横穴墓があった。大正14年に調査され、家形彫刻を有する横穴墓として著名なそうで、古墳時代後期(6,7世紀)の遺跡だ。こちらのお墓は、横浜市ではなく、町田市の所在である。
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短い時間の散歩だったが、谷戸に拓けた田を見ることができ、色々と参考になった。この地から少し離れたところに、弥生時代の集落跡の大塚遺跡がある。丘の上に集落が形成されていて、炭化した米が出てくるので、米作をしていたことは確かなのだが、どこで耕作していたのかは分かっていない。大塚遺跡は谷戸に囲まれ、さらには早淵川が周辺を流れている。谷戸か川岸のどちらかで水田をしていたと考えられていて、谷戸の可能性が高いらしい。もしそうだとすると、今日見学した谷戸の水田を原始的にしたものではと想像ができ楽しかった。また横穴墓が存在しているので、古墳時代には、豪族に次ぐような有力な農家がこの辺りを仕切っていたことも想像できる。谷戸での水田が、今日まで綿々と続いてきたと考えると、現在の整備された環境は、長い間の叡智の蓄積と言える。これからも、長く維持されることを期待してこの地を去った。

モンゴル帝国の歴史を多読、数理的な論文に

コロナウイルスは変異を繰り返し、今では感染力がとても高いデルタ株が猛威を振るっている。さらに変異を繰り返し、ワクチンが効かない変種が現れたら、困ったことに、戦いは振出しに戻ってしまう。雅な生活を送っていた平安貴族たちの前に突然武士が現れ、二度と王朝時代に戻ることができなかった歴史の節目を体験しているようで、恐ろしくさえ思われる。

昨年から今春にかけて、王朝の移り変わりが激しい中国の歴史に興味を抱き、それに関する本を多読した。前にも紹介したが、中国本土や台湾でも翻訳された講談社学術文庫の『中国の歴史』が、昨秋から電子版で出版されたので、毎月の出版日を楽しみに待ちながら、全12巻を講読した。水と油のような二層構造の中国の社会。水は土地にしがみついている農耕民、油は支配者として入ってきた王朝である。王朝は、数百年と長いこと続くこともあるが、数年であっという間に滅びてしまうこともある。農耕民は、生業の性質上、住処を変えることを好まないが、政権の気まぐれによって、遠く離れた場所へと徏民(しみん)させられたりする。

王朝が農耕民でなく、遊牧民であることも多い。モンゴル帝国はその一つである。中国の歴史を読み終わった頃、杉山正明さんの本を片端から読んだ。『大モンゴルの世界』『クビライの挑戦』『モンゴル帝国と長いその後』『疾駆する草原の征服者』など。モンゴル帝国の初代皇帝となるチンギス・カンは、渤海湾からカスピ海に至るユーラシア大陸の草原地帯を支配下におさめる。彼の孫で、5代皇帝のクビライは、南宋を滅ぼした後、元を樹立する。モンゴルの皇帝はこれまでは、遊牧民を支配していたが、中国を支配下にしたことで、農耕民の支配者ともなる。遊牧民の長が農耕民を統治するという、二層構造だ。杉山さんは、二層構造の統治を成功させるために、グローバリゼーションを創造・実現したと説明している。すなわち、農耕民と遊牧民との融和を図り、陸路そして海路を利用しての国内外の交易を活発にしたと考えられている。浅学の身で失礼なのだが、理にかなった考え方だと納得した。

これらの本を読んでいる頃、コロナ以後の世界がどのようになるかについて多くの学者が語り始め、その中にマルクス・ガブリエルがいた。彼は、新実在論で知られ、29歳でボン大学の教授になり、注目を浴びている天才哲学者だ。興味を持ったので、『なぜ世界は存在しないのか』を読んでみた。残念なことにさっぱり理解できない。理解できるようにするためには、新実在論に至るまでの哲学の変遷を知る必要があると考え、実存主義の後の構造主義ポスト構造主義を調べた。そして構造主義を始めたクロード・レヴィ=ストロースと、ポスト構造主義へと転向したミシェル・フーコーが、歴史の中に数理的な考え方を導入していることを知った。

そうこうしているうちに、昨年亡くなられた高名な先生の記念論文を発行することになったので、ぜひ投稿して欲しいと持ち掛けられた。退職しこの分野からは離脱しているのでと断ったのだが、いろいろな理由をつけられて、論文を書かざるを得ない羽目になった。その中身は、今話題に挙げたクビライのグローバル化を、二人の哲学者に倣って数理的に記述することにした。四苦八苦しながらもやっと書き上げ、無事に受理され、今月からオンラインで掲載されている。また学術雑誌としても今秋には発行される。さらに、国際会議での招待論文としての発表も義務付けられていた。この会議は来月ジュネーブで開催されるが、コロナ禍のため、オンラインでの会議となった。通常であれば、秋のスイスを楽しめたはずなのだが、残念である。また、オンライン会議中にトラブルがあった場合に備えて、あらかじめ、発表用のビデオを作らされた。こちらの方は昨日送った。ただ、YouTubeでビデオを見られるようにしたいということであった。自分の声が多くの人に聞かれるのは憚れるので、こちらの方は音声合成でのスピーチとした。

英文の校正にはDeepLやGrammarlyを利用した。DeepLは、日本語から英語への翻訳では、複数の例が提示されるので、表現に困った時は役に立つ。また、英文が意図したように記述されているかを知りたいときは、日本語に翻訳してみるといい。日本語での表現が、思ったようになっていないときは、ダメということになる。Grammarlyは、文法のチェックから表現の不自然さまで教えてくれる。有料版では候補を提示してくれるが、お金のない身ではいろいろと試みることとなる。とくに単調や不統一と指摘されているときは、文全体の構成を変えることとなり一苦労する。

音声合成は、マイクロソフトの音読を利用した。パワーポイントで、ノートの部分に説明文を書き込み、音読でノートを読ませてビデオを作ればよい。これはとても便利で、図を変えたり、説明を加えたりを反復することで、思い通りのビデオを短時間で作ることができる。ただし、音読は日本語対応となっているので、英文の場合には、英語対応に変える必要がある。これをしないと、英語を習ったばかりの日本人発音で音読される。これはこれで面白いが、多くの人に聞いてもらうには恥ずかしい。ネイティブスピーカーでの音読にするためには、音読者を選択するためのプログラムを自作する必要がある。

これまで、AI技術をそれほど高く評価していなかったが、今回はからずも、翻訳と音読でAIに助けてもらい、技術の進歩はすごいと感心している。

白内障の手術によって、若い時の目を取り戻しました

子どもの頃からずっと目が良かったので、まさか白内障の手術を受けるようになるとは、つい2年前まで夢にも思わなかった。視力が落ちていることを思い知らされたのは、自動車運転免許の更新時の視力検査であった。若い時のように全てがきれいに見えることはないだろうが、1.2程度で難なく合格だろうと高を括って視力検査に望んだところ、驚いたことに右目があまりよく見えない。視力検査をしてくれた女性から、今回は合格ですが、一度、眼科で調べてもらった方が良いですよとアドバイスを受けた。

早速近くの眼科医に調べてもらったところ、核白内障ですと言われた。ただ本を読むことに苦労していないようなので、当分手術はしなくてもよいだろうとも言われた。そのとき、奥の方に赤い塊のようなものがあるので、専門医に見てもらったらとアドバイスされた。紹介された方は大学の先生で、この病院にも定期的に診療に来ていたので、予約をお願いした。赤い塊は網膜細動脈瘤で、視野とは関係のないところなので、様子をみましょうということになった。ただこの先生からは、核白内障は進行が速いので早いうちに手術をした方が良いと言われた。お医者さんから異なる見解を聞かされると、患者としてはとても困るのだが、網膜細動脈瘤が決着してから改めて考えようと勝手に決めた。

網膜細動脈瘤は、一度白くなって良い方向に進んだが、1年たったころに再び赤い塊となった。そのときも経過観察でということになり、今年の3月には再び白くなり、6月の観察でも変化はなかった。さらに白内障については進んではいるけれども、視力があるのでまだ様子見でよいということであった。

それでも将来の手術に備えて白内障について調べておこうと思い、インターネットを探っていると、著名なプロフェッショナル・ドクターが近所で開業したというニュースを見つけた。開業してから日も浅いのでそれほど混んでいないだろうと想像し、二度と訪れない好機ともとらえて、次の日の午後訪れた。

予想は的中、院内には数人しかいない。判断は間違っていなかったと気分を良くして、目の検査をしてもらったあと、ドクターの診察を受けた。目を見て、白内障であることを確認したあと、手術には、保険診療自由診療があり、自由診療の方は眼鏡なしで遠くから近くまで見えるようになるという。どちらにしますかと聞かれたので、本を読むときは、眼鏡をかけても不便を感じることはないだろうと判断して、保険診療でとお願いした。

そのあと、ビデオで保険診療での手術の説明を受けた。その最中に、受付のところにあった、保険診療単焦点と、自由診療の多焦点との説明が思い出され、眼鏡なしの生活の方が、高いお金を払っても、生活の質がずっと良いのではと悩み始めた。そして看護師さんに自由診療のビデオも見せてくださいとお願いした。両方の目を自由診療にするとコンパクトカー一台買えそうな値段なのだが、毎日のことなのでと考え直して、自由診療に切り替えたいとお願いした。再度ドクターとの打ち合わせに入り、手術日を決めた。何と5日後、考える暇もないほどにあっという間に決まってしまった。

手術そのものに恐れはないのだが、実は目だけは例外だった。目にメスが刺さるのを想像して気持ちが悪いということもあるが、頭を動かさないでくださいと言われると緊張して頭が瞬間的に小刻みに震えるという習性を、いつの頃からか身に付けてしまった。目の手術では間違いなく顔を動かさないようにと言われるだろうから、そのときに動いてしまったら、メスがほかの場所を切ってしまわないかと心配していた。そこで思い切ってドクターに尋ねてみた。緊張すると頭が動いてしまうが大丈夫ですかと尋ねたところ、「私はプロのドクターです。手術中に頭が動く患者さんはいます。私の手は患者さんの顔に触れているので、顔の動きとともに私の手も動くので、動いても問題ありません。心配しなくても大丈夫です」とのことだった。そしてこのときが、この方は優れた手術医だと信頼した瞬間でもあった。

手術に当たっては目をきれいにしておく必要があるとのことで、3日前から使用する点眼薬を一種類もらい、手術日の昼に来院するように言われた。言われたとおりに点眼薬を投与し、指定の時間に病院に行くと、前回とは打って変わって、待合室は足の踏み場もないほどに混みあっていた。後で分かったことだが、この日の手術を受ける患者さんとその付き添いの人たち、そして手術後の経過観察に来ている患者さんたちで、溢れかえっていたのであった。

手術前の点眼薬を投与し、目の検査をしたあとで、ドクターのところで、レンズの確定が行われた。遠くまですっきり見えるのとぼんやり見えるのとどちらがいいか問われる。この種の質問に答えることは難しい。それぞれのレンズを試すことができないので、確信を持つことができない。若いころは目がよく遠くまでくっきり見えたが、とても目が疲れる経験をしたので、ぼんやりの方をお願いしますと答えた。今でもこの選択が良かったのかは確信が持てない。

手術室は二階にあり、階段を上っていく。付き添いで来てくれた妻に、13階段を上るのだといったところその意味が分からなかったようだ。この日、一緒に手術を受ける仲間は7人、全員、手術着に着替えて、さらに点眼薬の投与を受ける。手術が開始されるまでの時間を利用して、待合室と手術室の間の窓を閉じていたブラインドが開けられ、最新の機械で装備された室内を観察できるようにしてくれた。また、手術しているときは、その付き添いの人は希望すれば見ることができるということで、アシスタントの方が希望者を募ったが、手を挙げる人はいなかった。

次に手術が行われる患者は、待合室から待機室に移り、そこで、点眼薬による局所麻酔と入念に目とその周りの消毒が行われる。前の人の手術が終わりそうなころを見計らって、目を閉じたまま、待機室から手術室へと移動する。私のときは、前の人が予想に反して時間がかかったようで、一度待機室に戻され、再度の入室となってしまった。手術台に座ると、椅子が倒され、仰向けにされ、手術する目のところだけを切り抜いた布を顔全体に被せられる。様々なことを思いめぐらして緊張する。相当に緊張していたのだろう、ドクターにまだほとんど何もしていませんからと言われてしまう。明るい光を見ているようにと言われていたのだが、色々なことを考えているうちに疎かになったのだろう。ぼけ老人と思われたか、アシスタントに患者さんは何歳と聞いている。このようなことも重なり、かなり緊張していたのだろう。レンズが入りにくいので、少し気を楽にしてくださいと言われる。苦労してやっと少しだけ緊張を解くと、この瞬間を狙っていたようで、ドクターがうまく入ったという。そしてすぐに終わりですと言われ、緊張が解け、どっと疲れが出た。ドクターには緊張していましたねと言われ、目のことですからと答えた。さらにきれいに入りましたと言われて安心して手術室をでた。待機室を通って、待合室に戻る。待合室で待機している患者さんが、一斉に私の方を見る。彼らの最大の関心事は、見えるかどうかだ。すぐに、どうですかと質問が飛んでくる。眼帯をしていないので、目を開ければ様子が分かる。瞳孔が開いているので、ぼっとしているが、その影響を除くと、とても明るく明瞭に見えていると思えたので、よく見えますよと伝えてあげると、もう見えるのですかと質問者はびっくりしていた。

受付で、手術後の点眼薬の説明を受け、保護メガネを購入し、それをつけて自宅に戻る。この日は入浴なし。翌日に病院に行く。目の検査を受けて、ドクターの診察を受ける。「素晴らしい、予想以上に素晴らしい」という。残りの目も一週間後に手術してはいかがですかといわれ、同意した。翌々日にも診察を受け、同じように素晴らしいと言われる。視力は1.2に、また、近いところに対する視力は1.0で、検診してくれた助手の方よりもよく見えていて、羨ましいとのことだった。

2回目の手術。この日の手術仲間はなんと13人だった。2回目の手術を受ける人が半分くらい。1回目の人が心配そうな顔つきなのに対して、この人たちは慣れたものという感じで、女性の方はおしゃべりに興じていた。先に手術をした女性は、1回目は緊張していて何もわからなかったが、今回はどのようなことをしているのかが手に取るようにわかったと言っていた。

一度経験すると落ち着いて手術を受けられるようになるはずだと自身に言い聞かせて、手術台に上がった。ドクターは、今度は、光を見てくださいとは言わない。前回の様子を見て諦めたのだろうか、それとも覚えているはずだと思ったからだろうかと思いめぐらしているうちに手術が始まった。メスで目に切り口を入れているようだ。いろいろなことを思いめぐらさないようにして、光をしっかりと見つめて手術に対応する。女性が言っていたような正確さでは判断できなかったが、レンズを砕いているようだとか、それを取り出しているのかとか、人工のレンズを挿入している最中とか、それを拡げようとしているらしいなど、大まかな作業は推察することができた。ドクターからは、「よく頑張りましたね。きれいに入りました」とお褒めの言葉を頂き、ほっとして手術室を出た。

今日で2回目の手術をして4日目。見えにくさを感じていたパソコンの作業も、今までとは全く異なる鮮明で明るい画面が見え、快適に作業をしている。もちろん、遠くの景色はとてもきれいに見える。本の方はまだ少し見づらいが、ドクターから、近いほど見えやすくなるのに時間がかかるようだと言われているので、そのうち落ち着いてくることだろう。

手術によって、若いころの目が戻ってきたようで、とても嬉しく感じている。

追記:今回の手術で使われた多焦点眼内レンズは、ジョンソンアンドジョンソンビジョン社製の焦点深度拡張型レンズと2焦点の回折型レンズの構造を組合わせたテクニス・シナジー

とても簡単なスペインのアーモンド・ケーキを作る

カルフォルニアの知人とZoomミーティングをしているときに、とても簡単に作れるという触れ込みで、スペインのアーモンド・ケーキを紹介された。彼らはワクチン接種が終了してから数か月経っており、日常生活を取り戻している。このケーキも明日ディナーを共にするお客さんに出すということで、ちょうど焼きあがったところを見せてくれた。これまで我慢していた分を取り戻すべく、お客さんを招いたり招かれたりということを繰り返しているようだ。また、いつも参加しているもう一組の夫婦は、長期のキャンピング旅行に出かけるため荷造りの時間が欲しいということで、今回のミーティングは欠席した。ワクチン接種が進んでいる彼らに、いつもながらの自由が戻っており、羨ましく感じた。

さて、紹介するケーキは、タルタ・デ・サンティアゴ(Tarta de Santiago)と呼ばれ、その意味は「聖ヤコブのケーキ」である。ポルトガルの北部に接したスペイン北西端のガリシア州で、中世に生まれた。小麦粉ではなくアーモンドを原料にしている。作り方はいたって簡単で、アーモンドの粉と、鶏卵と、砂糖を混ぜてオーブンで焼くだけである。

材料は6点、
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アーモンドパウダー 200g
ラニュー糖 200g
玉子 3個
シナモン 4g
レモンの皮(すりおろし) 少々
粉糖

写真ではシナモンはアーモンドパウダーの下にもぐって見えない。
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アーモンドパウダー、シナモン、レモンの皮をよく混ぜる。
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ラニュー糖に卵を一つ加えては混ぜていく。
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全ての卵を混ぜた。
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ここに、先ほどの混ぜたアーモンドパウダーを少しずつ加えて、さらに混ぜる。
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全てが混ぜ終わった。
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耐熱皿に平らになるように、混ぜ合わせた材料をしく。
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180度にしたオーブンで30分ほど焼き上げる。楊枝を指して、材料がついてこないようであればOK。
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10分ほど蒸らして取り出す。
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冷めたところで、紙で切り抜いた聖ヤコブの十字架をのせ、粉糖を上からふりかける。
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出来上がり。
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ちょっと甘すぎたので、粉糖はもっとパラパラ程度の少な目でよかったかもしれない。中世の人々が、長い巡礼地を歩いたあとで、修道院で疲れをいやしながら味わったであろう、とてもクラシックな味を楽しむことができた。手間暇なく簡単に作れるので、これからも材料さえあればいつでも楽しめるケーキとなるだろう。

上田信著『伝統中国』を読む

グローバリゼーションによって、色々な国の人と付き合うようになった。文化が異なる人々とはそのつもりで構えるので、異質なことに出会っても気になることはない。しかし顔かたちでは区別ができず、漢字文化なので多くのことを共有していることだろうと思っている中国の人が、予想もしない行動や考え方を示したしたときには、かえって面食らってしまう。これもそのひとつである。中国の大学との交流を始めるために、かつては長安、現在は西安と呼ばれているところの大学を訪問した。案内を兼ねて中国人同僚が同行してくれたが、会議のあとで、同僚が普段は見ることがないほどに憤慨していた。聞いてみると、相手の対応が礼を欠いていたという。中国での大学への進学は、全国統一の大学入学試験の結果によって決まる。この試験制度は、文化大革命で中断されて鄧小平が復帰したあと、復活された。最初の数年間は、それまで機会を与えられなかった若者たちが殺到したために、競争は想像を絶するほどに熾烈だった。同僚は信じられないほどに優秀な成績だったのだろう、開始された2年目に17歳(通常は18歳、このころは希望者が山積していたので20歳以上も普通)で入学を許された。訪問した大学で対応してくれた学部長クラスの教授も、同じ年に合格したようだった。ところが彼の態度が威圧的だったようで、同僚はとても憤慨していた。詳しく聞いてみると、統一試験の結果は、学部長クラスの方が劣っていたので、点数の高かった同僚の方を敬うべきだと言う(同僚はただの教授なので、身分から言うと相手が上)。中国の人たちを観察していて、なにかを基準にして上下関係をつけているとは感じていたが、試験での成績までもがその対象となっていることにビックリ仰天した。彼らは、見つけにくい時でも何とかして基準を見出し、上下関係を決めないといけないのだろう。

このような経験があったので、益尾知佐子さんの『中国の行動原理』を読んでいるときに、あれ?と思うところがあった。全体的には、この本はなかなか優れた本で、分かりにくい中国の行動を、エマニュエル・トッドの家族構造を基本にして解き明かしてくれる。トッドは、中国のそれは権威的で平等な「共同体家族」、言葉を変えると、「家父長制」であると言っている。彼女もそのように説明している。それに基づいて、中国の社会秩序は、①権威が最高指導者に一点集中する、②組織内分業についてはボスが独断で決める、③同レベルの部署同士では上の指示がない限り連絡を取らず、助け合わない、④トップの寿命や時々の考え方によって波が生じる、という特徴があると説明したうえで、中国の歴史を紐解いてくれる。魅力的な説明なのだが、私が体験した「上下関係」と、彼女がよって立っているところの「権威的で平等(父親が絶対的な力を有し、子供たちの間ではそれぞれに差がない)」との接点が見つからず、消化不良を起こした。

その後すぐに、文庫本として今月発売された講談社の「中国の歴史」シリーズの最後の巻『日本にとって中国とは何か』を講読した。この巻は5人の著者により執筆されていて、その中の一人である上田信さんが「中国人の歴史意識」について書いている。冒頭に母親が子をあやす言葉が出てくる。何と、おじいさんやおばあさん、おじさんやおばさんをどのように呼んだらよいかを教えている。父方なのか母方なのか、兄(姉)なのか弟(妹)なのかによって、呼び方が変わる。幼いころから、子守歌を介して教えてもらわないと覚えきれそうもないほど、複雑である。親族での上下関係は、この呼称によって著わされている。小さい時から身に付けておかないと、礼を失することになる。同僚が礼を知らないと憤慨したようなことが起きてしまう。中国の社会はやはり上下関係だということを確信して、もう少し詳しいことが知りたくなり、同じ著者が若いころに書いた『伝統中国』を図書館から借りて読んだ。

上田さんは、三つの民族を例にして、家族構造を分類している。タイ族の親族関係が「何をしてくれたから何を返す」という互恵性に基づいていることから動詞的社会関係とよび、日本では「ホンケ」や「ブンケ」のように名詞を用いて親族の関係を規定していることから名詞的社会関係とし、中国に対しては始祖から数えたときの世代(世輩)の上下(尊卑)や年齢の老若(長幼)に基づく相対的な関係(あなたより尊い、あるいは年を取っている)、すなわち形容詞で親族の関係が規定されることから形容詞的社会関係と呼んでいる。トッドの分類を用いれば、動詞的社会関係は核家族(タイ族はさらに詳細な分類では母系一時的同居核家族)、名詞的社会関係は直系家族(詳細では父方居住直系家族でいとこ婚可)、形容詞的社会関係は共同体家族(詳細分類では父方居住共同体家族)となる。

上田さんが伝統中国を研究するためのフィールドワークの地として利用したのは、諸曁県(しょき、浙江省)である。杭州市から南に50km下ったところで、周囲は山に囲まれた盆地である。彼はこの地点での、景観の変化、親族関係の形成、中国王朝とのかかわりという観点から、伝統中国を読み解く。なお、このような研究の仕方を彼は史的システム論と名付け、生態システム、社会システム、意味システムの三視点からの観察としているが、これについては触れないでおこう。
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景観の変化では、諸曁盆地の風景が歴史の歩みとともにどのように変化してきたかについて説明している。その概略は次のようである。①唐代ごろまでにこの盆地に来た人々は、図の中心にある河川の合流点周辺の低湿地を望む微高地に定住した。当時は、あたりは照葉樹林で覆われていた。②宋代には浙東・徽州などの盆地から移住民が流入し、生産技術を身に付け、照葉樹林を焼き払い、開墾しながら丘陵の脚部や山麓に居住した。③明代になると丘陵は飽和状態になり、それまで人手の及んでいなかった扇状地の内部を開拓し、丘陵の足元にある母村を飛び出し、新たな村落を形成する。また盆地底部にも、排水工事(水路・堤防)を施し、住み着く。④清代には盆地内は開発しつくされているので、新たに移住してきたものは山地の内部に入り込み(棚民と呼ばれた)、トウモロコシやタバコなどを生産し、2~3年耕作しては他の山へと移住した。

諸曁盆地への人の移動は把握できたが、それではこれらの人々は何族なのだろうか。古代にはこの地を含む中国東南部の盆地には、「越」と呼ばれる民族が住んでいたと考えられている。唐代までこのような状況が続き、宋代になると先に見たように新しい住人が移動してくるが、彼らが漢民族である。漢民族は、身体的な特徴によって識別されるのではなく、文化的な特質によって識別される人々で、華北で発達した定住農耕を行い、積極的に商業活動に参加し、余裕があれば漢字を学習して『論語』などの古典の暗記に努める人々をさす。

漢族の社会関係は、先に説明したように、尊い/卑しい・年長な/年少なという形容詞により上下関係が決定される形容詞的社会関係である。それでは彼らはどのように家族・親族を構成しているのだろう。近世日本には、イエという概念があり、その実体は家督・家産であった。イエは分割されることなく長男に相続され、次男以下はそれぞれ独立して新たなイエを形成した。前者はホンケと呼ばれ、後者はブンケと呼ばれ、別々のものと見なされた。このような別れ方を分化と呼ぶ。しかし、漢族では、別れたものは、異質ではなく同質と見なされ、分節と言われる。その仕組みは、①系譜の流れは父からムスコへと引き継がれる、②系譜の継承は、祖父を祭る資格を引き継ぐことで、不動産の保有権がそれに付随する、③ムスコが複数いる場合は、ムスコたちは同等の資格で系譜を継承する、である。益尾さんもトッドさんも、共同体家族では子供たちは平等といっていたが、その根拠は③である。しかし、上田さんは、ここの部分をもう少し上手に説明してくれる。即ち、同類であるということは、平等であることではないと言っている。

日本の「親族(血族)」に当たるものは、漢族では「宗族」である。親族には同じ「血」が流れていると考えられているが、これと同様に、宗族にも同じ「気」が流れていると考えられている。「気」は宇宙を活動させている活力ともいうべきものだが、これは骨を媒介として親から子へと流れていると考えられている。そして骨は父親から肉は母親から引き継ぐと信じられている。ムスコは父親から継承した「気」を子供たちに引き継げるが、ムスメは産んだ子に引き継ぐことはできないとされている。「気」の継承した順序と早さによって、宗族中での上下関係が決まる。大きな枠組みは、始祖から始めて何世代目(世輩)、すなわち尊卑関係によって上下が定まる。世輩が小さいほど、すなわち、始祖に近いほど、上となる。また、同世輩のときは早く生まれたほうが上である。そして名前の付け方にも特徴がある。『ワイルド・スワン』の中で、祖母の名は「玉芳」で、「玉」は一族の同世代に当たる子供たち全員に与えられた字という説明がある。この「玉」が世輩である。男子の場合にはこれに続けて、何番目の子であるかを示す番号が、宗族の中での通しとして付けられる。例えば、32番目の男子であれば、玉三二となる。このようになっていると、宗族での会食があったときに、たとえ初対面であったとしても、どちらが上であるかが容易に認識でき、席決めが容易となる。宗族は族譜を有し、そこには構成員の名前と簡単な略歴が記されている。巨大な宗族であったり、遠隔地の人々を含んでいたりする場合には、その維持・管理は大変だっただろうと容易に想像できる。

宗族を可視化したのが下図である。この図で三角は男、丸は女、塗りつぶされているのは現存者、中抜きは物故者、青枠のものは、「気」を共有していると見なされている人々で、同じ宗族に属する人たちである。枠が橙色の人たちは、この宗族には属さない人たちで、嫁いできた人たちである。
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左側下にある水色の枠の人々は、同一の家屋に住んでいる家族で、両親と男子二人がおり、一人は結婚している。結婚すると宗族の「気」とは別に、もう一つの「気」が流れると考えられ、これは「房」と呼ばれた。漢族では、男子が結婚すると、両親の家屋の傍らに建てられた部屋で生活した。「房」は傍ら(方)の部屋(戸)をイメージしているとのことである。

右側の家族は、男子二人、女子一人で、男子はどちらも結婚しているので、二つの房となっている。この家族で父親がなくなると、耕地や家屋は男子の間で均等配分され、房は独立した家族となる。それを示したのが下図である。そして、新たな家族で、男子が結婚するとまた「房」が作られる。
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宗族は同じ「気」を有するものを結びつける機能を有するが、「房」は別れさせる要素を有している。

宗族の構造が分かったところで、宗族はどのようにしてできるのであろうか。宗族を構成する人々の系図を示したものは、族譜と呼ばれる。日本の家系図に相当する。族譜は、宗族の始まりの人、すなわち始祖から始まり、現在のメンバーまでの「気」で繋がった人たちの関係を示している。上田さんがフィールドワークをした諸曁県での宗族のいくつかが紹介されている。それぞれの宗族の始祖は、この地に移動してきたときの人、あるいはその後継者で特に顕著な業績を上げた人となっている。偉大な人の「気」を受け継いでいるという自負心が自然に湧いてくるように、宗族は人為的に作られているようである。中国で最も大きな宗族は、おそらく、孔子を始祖とするものであろう。私も、孔子の子孫ですという方にお目にかかったことがある。

宗族は固定的ではなく、流動的である。宗族がくっついたり、分離したりということもある。地域の支配をめぐって宗族間で争いが生じるが、その優劣は宗族の大きさによって決まりがちである。そのため、婚姻関係を利用して、二つの宗族をくっつけて一つの宗族にしたという事例もある。このときは、構成メンバーの尊卑長幼の順序に基づいて、名前の付け替えなども行われた。また宗族から分離して新しい別の宗族を形成するということもあった。多分に宗族は人工的な構成物であった。しかしどの宗族も、その内部では族譜、祖先祭祀、族産などをともにした。

宗族は私的な組織であり、それとは別に役所のような公的な組織がある。そして私的な組織と公的な組織での上下関係が逆転することがある。公的な身分では、甥の方が叔父よりは上ということが生じる。このようなことが起きたとき、中国の社会ではどのように解決しているのであろうか。これについては最後の章で記述されている。ここではその説明は省く。中国の家族構造には、宗族内の結合が強く、宗族という組織力で生き抜いていこうとする意識が強く感じられる。王朝が頻繁に入れ替わることに代表されるような不安定な社会で生き抜いていくことの知恵として、自己防衛が働いた結果がこのようになったのではと考えている。