bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

藤田達生著『戦国日本の軍事革命』を読む

ウクライナへのロシアの侵攻が、多くの人々に戦争の現実を鮮明にさせてくれた。日本の戦国時代も同じように人々は戦争に明け暮れた日々を過ごしていた。そして戦国時代中頃のヨーロッパからの鉄砲伝来は、これまでの政治・経済・社会の体制に大きな変化をもたらしたようだ。藤田達生さんは「軍事革命」と称して、歴史的な画期であったと明言している。

鉄砲伝来前の勝利の条件は「高(敵よりも高い位置にある陣地)・大(体躯に優れた騎馬)・速(機動性に優れた軍勢)」で、木曽馬を入手できる東国が軍事力では有利であった。戦いは、離れた位置から始まり徐々に接近戦となる「弓→槍→刀」の順で展開した。そして兵糧は基本的には持参であった。武士は日ごろから馬術・弓術・槍術・剣術の修練を必要とした。また戦国時代前半になると、足軽以下の雑兵が長槍隊の構成員として加わるようになった。長槍には7mに及ぶものもあった。使いこなせるようにするため、専属で雇い、訓練を重ねる必要があった。

このような古い体制を変えることとなる鉄砲の伝来は、これまでは天文12年(1543)のポルトガル人の種子島漂着によるとされていたが、これは一例にすぎないようだ。それ以前に倭寇がマラッカなどの東南アジアで使用されていた火縄銃を伝えたという新説(宇田川武久)もある。さらに、倭寇の中国人密貿易商人・王直(おうちょく)が天文11年にポルトガル人を種子島に導いたという説(村井章介)もある。これらのことから、倭寇介在の多様な鉄砲の伝来が考えられると著者は指摘している。弓の最大射程距離が380mであるのに対し、鉄砲は500mにも及んだので、陸戦は言うに及ばず海戦では特に有効な新しい武器となった。

鉄砲の国産化は日本刀での鍛造技術を生かして急速に進み、永禄年間(1558~1570)には、国内での普及が本格化し、堺・近江国国友村・紀伊国根来・近江国日野で鉄砲鍛冶集団が成立した。鉄砲には、火薬(焔硝に炭と硫黄を調合)・鉛を必要とするが、これらの調達には武器商人が欠かせなかった。この時代、焔硝と鉛は輸入品で、東アジアの武器商人・南欧商人・イエズス会関係者などの仲介人から手に入れた。天下統一を成し遂げた織田信長は、今井宗久などの堺商人と結託して、彼のもとに集中するルートを形成し、優位な立場を確保した。

また大砲の場合には、軌道計算のための科学的な知識が必要であった。このため経験知に基づいて戦略を練った軍師の役割は低減し、鉄砲の扱いに慣れた傭兵部隊(鉄砲衆)が活躍する舞台となった。その代表として根来衆(後に毛利氏の家臣)や雑賀衆がいる。豊臣秀吉や信長の場合には、直属の鉄砲隊だけでなく、大名以下の部隊を集めて編成したので、これも傭兵に近い。長槍隊は、フォーメーションを守りながら長槍をたたきながら前進する。このため帰属先(大名直属あるいは家臣配下)での日ごろの訓練が大切であった。鉄砲隊の場合も同様で、鉄砲ごとに飛び方に癖があった(ライフルと呼ばれるらせん状の溝が切ってなかった)ので、日ごろの訓練をそれぞれの帰属先で行い、戦争になると混成部隊として組まれた。

戦国時代の戦い方を変えたのは、信長の3千挺の鉄砲隊と武田の騎馬隊が戦った「長篠の戦」とこれまで言われてきた。しかし最近の説では、(廻国する砲術師により鉄砲の扱い方や火薬の調合法が広く浸透していたため)武田勢もそれなりの鉄砲を持参していたが、火薬や玉不足が大敗の要因だったと結論付けられている(平山優)。先に記したように、信長はこれらの材料を入手するための確固としたルートを保持していたのに対して、東国の武士は確保するのが困難だったようだ。これはその後、秀吉に敗れた北条氏についても言える。不足している鉛を補うために、武田氏は悪銭を、北条氏は梵鐘を給出させ、高価だが破壊力で劣る銅玉や鉄玉を鉛玉に代えて製造したが、優位には立てなかった。

著者は、鉄砲の普及を三段階に分けている。➀鉄砲が贈答品であった段階。②鉄砲隊が成立し、戦術に変化がみられる段階。鉄砲の普及は西から東へ(西高東低)、信長の鉄砲保有量は、他の戦国大名と比較して、最初は大差はなかったが、上洛した頃(1568年)より飛躍的に増加した。③大砲銭が本格化し、家康が天下を統一した段階。

それでは段階②での戦術の変化を見ていこう。一つは先に述べた傭兵化。戦国時代前半には、畿内近国の地域社会は惣村で、これは百姓によって形成された自治村落であった。しかし後半になると、惣村は国人領主や豪族たちがリーダーとなり、郡中惣や惣国一揆という地域勢力が台頭し、村落の自治は埋没した。鉄砲が浸透したのもこの時期で、国人領主土豪たちが百姓たちに鉄砲を持たせて足軽化し、諸大名の要請を受けて彼らを傭兵のように扱うようになった。

伊賀や甲賀では、国人領主土豪たちが相互の間での利害対立から、半町から一町の大きさの方形城舘を持つようになった。しかし傭兵として外部に赴くという要請から、利害対立による緊張関係は、逆に、甲賀郡に見られる同名中・同名中連合・郡中惣のような高度な自治システムをもたらした。そして外部での戦争維持が内部での高度な自治による平和の保持という奇妙な現象を引き起こした。これは信長や秀吉に見られるような天下を平定して平和を導くという考え方とは逆行する。このことから信長や秀吉がいかにこの時代の常識と合わない考え方をしていたかが分かる。

鉄砲の伝来によって、前に述べたように長槍から鉄砲へと武器が変わったため、戦い方にも大きな変化がみられる。武田信玄上杉謙信が戦った川中島の戦い(1561年)の「川中島合戦図屏風」には、最前列に長槍を持った一団が横一線に並んでいるが、信長が武田勝頼と戦った長篠の戦い(1575年)の「長篠合戦図屏風」では、信長軍は長槍に代わって鉄砲隊を並べている。

信長は野戦だけではなく、相手方の城を攻めるときも戦い方を変え、付城を設置しての付城戦となった。そして一時的な勝敗を問題にするのではなく、相手の息の根を止める殺戮戦へと変化した。付城銭が本格化するのは、信長と足利義昭との戦い(一向一揆)であり、物量戦・消耗戦となった。この戦いでは番匠・鍛冶・鋳物師・金堀りなどの職人集団を必要とし、足軽の役割は高まった。また海戦においても大砲を搭載できるような巨大で重厚な安宅船が用いられるようになった。

それではシステマティックになった信長の軍事を見ていこう。彼は検地によって軍役の賦課(軍事動員)を可能にし、兵站システムを構築して統一戦争を遂行した。検地は、戦場での陣立・軍法と結びついている。これまでの戦いでは、戦国大名の軍隊は、小戦国大名の連合で、整然としたものではなく、陣立も適当で、民衆への乱暴も目立った。信長は、全国規模で検地をおこない、石高に応じてそれぞれの大名たちの軍役を決定して動員するとともに、軍勢に対しても規律ある行動を求めた。

信長は服属した地域に対して一国単位で仕置きを強制した。仕置きは、抵抗拠点である城の破却(城割)を行い、大名・国人領主の領地高を検地(差出)によって確定し、それに基づいて所替を強要した。これによって、領地と不可分であった中世的な領主権を奪い、大名・国人領主は官僚的な家臣となっていった。これは公家・寺社についても行った。これにより中世の荘園に代表される錯綜する土地の利権は、信長のもとに一元的に所有されることとなり、大名・国人領主は、信長から与えられた領知から、石高に応じて年貢を賦課できる権限を与えられたとともに、同じように石高に応じた軍役を果たす責務を負うことになった。著者はこのような権利を「領知権」と呼んでいる。

信長は、大名・国人領主に対して所替を行うとき、彼らに旧領地の石高を申請(指出)させ、その申請に基づいて石高を決定し、その石高を有する新領地をあてがった。旧領地の方が新領地より石高が高いので、その差分は信長所有の蔵入地にした。蔵入地は、戦争時の食糧庫となり、兵站システムを確立した。これにより戦地での略奪による食糧確保を回避することができるようになった。

戦国時代には、年貢は銭による貫高で示されていた。様々な銭貨が無秩序に流通していたので、使用価値・交換価値としての汎用性・安定性が高い石高へと変わり、これは江戸時代まで続くこととなった。また信長は、米を貨幣代わりに使用することを禁じた。さらには、米を測る枡を京枡に統一した(従来は秀吉が統一したとされていた)。

仕置きが浸透するとともに、領知権を授けられた大名が領民を統治するという体制が浸透していく。これにともない信長は、支配の正統制を示すために自らの神格化を行い、独自の権威の構築、「天」から「天下」の領知権を預かったことを論拠とする「預治思想」で、天皇権威を利用しながらその相対化を図った。預治思想は軍事国家建設を正当化する思想的背景ともなった。

道半ばで倒れた信長の思想は、秀吉に受け継がれる。彼は、天皇制を中心とする古代国家、すなわち国家的土地所有制度と関白中心の政治制度、を再建することをスローガンに、天下統一を目指した。これは中国古代の周王朝の理想的な制度を記した儒教の古典「周来(しゅらい)」を目指したものであった。

そして江戸時代になると、遠見番所の設置などにより海防体制を構築し、諸藩では城付の武器や武具を貸し出す御貸具足制度や、紀州藩での「四民皆兵」に見られるような農兵の活用などを行うことにより「高度な武装国家」が誕生し、「徳川の平和」が維持された。

以上がこの本から得た私の要約である。歴史に興味を持っている人であれば、戦国時代の天下を分けた戦いでのそれぞれの武士たちの功績について詳しいことだろう。しかし、勝敗がなぜ分かれたのかを、個人としての部将という視点に立つのではなく、軍事面から論じるとなると難しさを感じるだろう。そして軍事そのものを正面から論じた本はあまりなかったように感じている。軍事での量的な差あるいは質的な差がどのような結果を生み出すかがこの本を通して明らかになるとともに、そのような差を生み出した経済的・社会的な背景についても論じられている。このため戦国時代に対して新たな知見を獲得することができ、とても有益であった。

神奈川県立歴史博物館特別展「洞窟遺跡を掘る」を見る

歴史学者網野善彦さんが「百姓は農民ではない」と言明し、そしてそのあとの歴史学に大きな影響を及ぼした。神奈川県立歴史博物館では「洞窟遺跡を掘る―海蝕洞窟の考古学―」という特別展示を行っている。この展示は「弥生時代水田稲作」ではないことを改めて認識させてくれる。ここには弥生時代から古墳時代にかけて、海蝕によって形成された三浦半島突端の洞窟の中で住んでいた人々の遺物が展示されている。

これらの遺物は、彼らが「海の人々」であることを印象付けてくれる。夥しい数の魚と海産動物の骨と加工された貝類、そしてはるかに少ない陸産動物の骨、さらには農耕器具の欠如が、動物性食料それも海由来のものを主食としていたことを物語っている。また収穫を祈ったりあるいは予想したのだろうか、多数の卜骨の存在も目立つ。残されていた人骨からは、ミトコンドリアDNAが調べられ、弥生人に見られるタイプであることが判明している。

洞窟遺跡を最初に発見したのは小学校教員であった赤星直忠。1924年7月13日に、太刀川総司郎とともに、三浦半島の東端の横須賀市鳥ヶ崎で発見、東京帝国大学人類学研究室に連絡して、同研究室の小松真一が現地調査、さらに小松がやり残した部分を赤松と太刀川が発掘し、弥生時代後期から古墳時代の遺物を発掘した。

戦後は、住吉神社裏・猿島・間口・向ヶ崎・大浦山・毘沙門・雨崎・海外の洞窟遺跡を調査した。そして間口洞窟遺跡では卜骨を初めて出土した。この遺跡の発掘は神奈川県立博物館に引き継がれ、1970年代初頭に数回の調査が行われた。また最近では2014年より、神奈川県立歴史博物館により白石洞窟遺跡の発掘が進められている。

洞窟遺跡の原点となる鳥ヶ崎洞窟遺跡(弥生後期~古墳後期)の展示物から、最初は土器。右下の土器には、ちょっと気持ちが悪いが人の歯が入っている。子供のころ、歯が抜けると上の歯は床下に下は屋根の上に投げればちゃんとした永久歯が生えてくる、と言われた。これに近い習慣だろうか、それとも偶然に紛れ込んだのだろうか。今となっては知る由もない。

次は大浦山洞窟遺跡(弥生後期~古墳前期)。タマキガイの貝輪がところ狭しと並べられているのにびっくり。他の遺跡でも貝輪がたくさん出土している。これほど大量に存在しているのを見ると、腕輪のような貴重な装飾品として使われたとは思えない。日常の漁撈で用いる道具であったように思えるのだがどうだろう。

赤色顔料も用いられていた。

海藻類をとるための道具として使われたのだろうか、加工されたハマグリやアワビの貝殻、

卜骨も、

弓の先の弦を巻くための部品と思われる弓弭(ゆはず)、

魚を捕るためのいろいろな道具。

さらに毘沙門洞窟遺跡(弥生後期~古墳後期)。土器類、

大浦山洞窟遺跡のところで見たのと類似の道具類一式、

続きだが、変わったところでは鹿角。漁撈だけでなく、狩猟もしていたのだろうか、

鹿の肩甲骨を用いての卜骨、

小鹿の骨を用いたようだ。

そして雨崎洞窟遺跡(弥生後期~古墳後期)。古墳時代後期だろうか直刀が展示されていた。

力が入っているのは間口洞窟遺跡(弥生後期~古墳後期)。アカウミガメの甲羅(腹の骨)を用いた卜骨。古墳時代後期の土層から発見された。

アカウミガメ骨格標本

加工途中の骨角片。全体が残る骨角片は発見されていないので、ある程度加工したものをここに運んだと考えられている。

貝刃。魚のうろこをとるためなどに使われたと見られている。

貝包丁。海藻類を取るための道具だったようだ。

夥しい数の小さな巻貝。

洞窟遺跡と対比するために、陸路や水路を通して交流があったと思われている遺跡も紹介されていた。その中で、池子遺跡の展示を取り上げよう。この遺跡から、弥生時代の河川の跡が見つかり、湿った土壌の中に封じ込められていた木製品や骨格製品が大量に出土した。通常は、これらは腐ってしまうので、貴重なこの時代の遺物である。同時に発見された魚類の骨から相模湾沖合海域まで繰り出して捕獲したことが分かり、分析した桶泉岳二は、表層漁業に特化した集団の存在を指摘した。そして洞窟遺跡は、遠征時の野営場所や避難所として利用したのではという可能性も指摘した。
池子遺跡からの土器類、

道具類


鹿の角。

会場の中ほどに、出光博物館所蔵の弥生時代後期に属す土器(壺:重要文化財)が展示されていた。これは三浦半島対岸の房総半島の明鐘崎(みょうかねさき)洞窟遺跡から出土した。上・中・下段に朱色の輪があり、輪の間には縄文模様もあり、これまでに見た弥生土器の中では際立って端正であった。三浦半島側の洞窟遺跡も似たような文化であったと思われるので、そこに住む人々もこのように綺麗な土器を愛でながら、その日その日の漁に胸躍らせていたのだろうか。水田稲作とは異なる弥生・古墳時代の人々の生活を知ることができ、多様な文化を確認できる良い展示であった。

大田由紀夫著『銭躍る東シナ海』を読む

最近になって中国や朝鮮半島との「関係」の中で、日本の歴史を論じる本が増えてきたようである。日本の歴史が孤立しているわけではないのに、隣接の地域との関連で論じない傾向にあることにずっと疑念を抱いていた。最近の流れはこれを打ち破るもので歓迎している。

大田由紀夫さんの『銭躍る東シナ海』の書籍もこのような一冊で、啓蒙的な本である。15世紀から16世紀にかけての東シナ海に位置する国々の関係、すなわちそれぞれの地域の政治・経済・社会の活動に及ぼしていく相互的な関係について論じている。ここでの相互関係を、彼は「共進化」と特徴づけている。この言葉は他から引用されたもので、元々は塩沢由典さんが『経済学の現在1』の中の「複雑系経済学の現在」で使った用語である。そこでは、共進化とは「進化するものどうしが相互に関係をもって、他の一定の進化がなければ、自己の進化自体が成立しないとき、このような進化関係」と定義されている。

物理学者のカルロ・ロヴェッリさんは、世界を対象物(モノ)ではなく関係(コト)で論じようと提案した。対象物は刻々と変化し一定ではない。変化の元となっている関係でとらえるのが良いというのが彼の考え方であった。大田さんの今回の提案は、ロヴェッリさんの考え方に似ていて面白い。

この本で紹介されている通り米国の社会学者のウォーラステインさんが15世紀以降の資本主義的世界経済を説明するときに、それぞれの地域がそれぞれの機能を果たすシステムとなっているという理論を打ち出した。科学的にとらえようとする興味ある見方ではあるが、それぞれの地域の役割が機械のように固定化されていて窮屈に感じた。これに対して、大田さんの共進化は、ダイナミックに変わっていく様子が、明瞭に記述されていて、素晴らしいと思った。それでは大田さんの本を紐解いていこう。

14世紀に日本・中国・朝鮮とも政権が変わり、それぞれ室町幕府・明朝・李氏朝鮮となった。明朝初めの頃は、前期倭寇が活発に活動していたので、明朝は海賊防止と密貿易の取り締まりのため、初代皇帝の洪武帝は海禁令(1371)を発する。日本との交流は、朝貢の形式をとった勘合貿易(1404)として行われ、3代将軍足利義満(1358-1408)の治世が全盛期であった。海禁=朝貢システムが最も機能したのは3代皇帝永楽帝(1360-1424)のときで、鄭和艦隊を南海に派遣(1405)するなどして朝貢国は60国に及んだ。しかし永楽帝が没すると、モンゴルの脅威に備えての北辺防備に迫られるなか、朝貢貿易に対しては経費削減へと転換を余儀なくされ、15世紀半ばより朝貢貿易の衰退とともに密貿易が盛んになる。

15世紀後半になるとこれらの国々では、同期しているかのように、奢侈的消費に走るとともに、明-東南アジア・明-朝鮮・日本-朝鮮の間での交易が盛んになり、さらに琉球では日本・中国・東アジアの仲介貿易が活況となる。


このような状況を生み出した要因は:➀明朝での土木の変(1449年に明朝正統帝がオイラト指導者のエセンに敗北して捕虜になった事件)の後に生じた体制の変化、②遊牧民族侵入の防御策として、首都を南京から北京に移し、南北間での交流・物流を増加させ、軍事費の増大など、大きな社会変化、③日本での応仁の乱(1467-77)の乱により、京都に滞在させられていた大名が領国に帰り、その拠点に都市が生まれ、領国経済圏が生まれたこと、である。但し、日・明間の直接交流は遣唐使船が10年に一度と限定されたためそれほど高くはなく、日本と中国・東南アジアとの交流は、琉球の中間貿易によって間接的に支えられた。日本・明ともに政権の力が弱くなり分権化が進行するが、かえって国内での交易が活発になり、さらには密貿易・中間貿易も盛んとなって、政情の不安定とは裏腹に奢侈化した。

国内での交易が活発化するに伴って、貨幣(朝鮮ではそれに代わる布)での需要が高まり、良銭だけでは賄いきれなくなる。これを補うために悪銭が大量に流通する。しかし揀銭・撰銭に見られるように、良銭と悪銭の間には流通価値に差を持たせて使用された。

16世紀になると、密貿易に絡んでの暴動・紛争が目立ち、さらにはポルトガル人の東アジア・南中国での交易拡大による事件も多発する。このため明は抽分制(市舶司による密貿易を含む諸外国船に対する税金の徴取)を廃止するなどの海禁政策の厳密化をしたため、東アジアの交易は不振になった。これに伴い、琉球の中間貿易は衰退し、以後復活することはなかった。

沈滞を打ち破ったのは倭銀の登場(1520年代)で、再び密貿易は活発になった。倭銀の登場により、日・明間の密貿易が隆盛となり、明との関係が希薄となっていた日本の地位は劣勢を挽回した。
日本では再び、貨幣の間で流通価値に差を持たせた撰銭が行われるようになる。しかし貨幣に対する需要度合いが地域によって異なり、京都を中心とした地域では高く、流通銭の質低下を招いた。このため安定を求めて、米を貨幣として使用するようになった。

明は再出現した倭寇の鎮圧を進めた。このため倭銀の密貿易は中断された。鎮圧のあと明は倭銀に代わって新大陸銀を使用するようになり、日・明間の貿易は低調を続けた。

このあと、日本では徳川将軍による江戸時代となり、中国では明朝は清朝へと変わり、それぞれ独自の道を歩むこととなり、共進化は長い期間停滞した。

日本の歴史を、世界の歴史との関連で、特に東アジアとの関係で論じることが重要になってきているが、それを妨げているのは、日本語、中国語、韓国語、英語、オランダ語ポルトガル語などの多様な言語で記述されている大量の史料、論文、書籍を解読する能力である。一つの外国語の習得だけでも大変なのに、それがいくつもとなると個人の力では不可能に近い。それを支えるのは国際協力であり、先端技術の利用であろう。幸いなことに、AIによる翻訳はかなりのレベルのところまで達しており、歴史の分野で利用することも可能である。さらには多量の資料をデータベース化することで、データサイエンスの技術を利用できるようになる。最先端の科学技術を利用して、歴史学も「関係」の中で論じてくれるようになると、さらに興味深いものとなり、歴史学に対する関心も深まるとこの本を読んでいて感じた。

東海道五十三次の神奈川宿を訪れる(3)

この日(4月25日)は、前の日に写真を撮りそこなった史跡を巡った。前日とは打って変わって真っ青な空、気温もそれほど高くはなく、散歩を兼ねながら歴史的建造物を見るのにはとても恵まれていた。

出発地点には東横線反町駅を選んだ。この線は桜木町駅を終点としていたが、2004年にみなとみらい線元町・中華街に替わった。これに伴い東白楽からは地下を走るようになり、従来の線路のあとは整備されて東横フラワー緑道となった。反町駅からもこの緑道を利用することができ、神奈川宿の歴史道につながっている。

東横フラワー緑道は、その名の通り、緑豊かな歩道である。

高島山トンネルの中、

トンネルを抜けると、川端康成の雪国では季節だったが、ここでは時代をタイムスリップさせてくれる。令和から江戸へと変わる旧東海道に出会うことができる。横浜市歴史博物館には、神奈川宿を復元した模型がある。今回巡るところは模型の左半分、ちょうど写真に納まった領域である。写真中央部が最初に訪れる金比羅神社付近である。この左側は台町。かつては急坂な道として広重によって描かれたところである。

まずは大綱金刀比羅神社。社伝によると平安末期の創立と伝えられている。眼下の神奈川湊に出入りする船乗りたちの守り神であった。
鳥居付近、

金比羅宮と天狗。「我こそは武州・高尾山の天狗なり。いつもは上総鹿野山に住む仲間の天狗の所へいくのだが、ここでいつも休んで居る。この松はわしの腰掛松。決して伐ってはならぬぞ」という天狗伝説が残っている。

滝と池、

台町の坂を上っていくと田中屋に出会う。文久3年(1863)の創業で、前身の「さくらや」は安藤広重の「東海道五十三次」にも描かれている。坂本龍馬の妻であった「おりょう」は、勝海舟の紹介で、明治7年に田中屋で働き始めた。英語が話せ、月琴を弾けた彼女は、外国人の接待に重宝であった。

横浜市歴史博物館には、さくらやの復元模型がある。ここには高杉晋作やハリスなども訪れた。

旧東海道を登り切ったあたりに神奈川台関門跡を示す碑がある。開港後に外国人が何人も殺傷されたので、各国の領事たちが幕府を激しく非難した。幕府は安政6年(1859)に関所や番所を設けて警備を強化した。神奈川宿の東西にも関所が設けられ、ここは西側の関所である。明治4年(1871)に廃止された。

ここで、旧東海道を離れ、一つ上の道を目指す。しばらく行くと「かえもん公園」が出てくる。前述した新橋・横浜間の鉄道を開通させるための堰堤を建造した高島嘉右衛門についての説明が、この公園の中に設けられていた。それによれば、彼は天保3年(1832)に江戸の材木商の子として生まれた。鉄道の開通に寄与しただけでなく、ガス会社設立、学校の設立、易学の普及などで、開国後の横浜の発展に尽くした。

さらに歩を進めると高島山公園。ここからは眺めがよく、新宿の高層ビルを見ることができた。

高島嘉右衛門を顕彰する望欣台の碑もある。

三宝寺。嘉永4年(1851)に住職になった弁玉は、江戸末期から明治初期にかけて活躍した歌人でもあった。

この寺は昭和50年に開宗800年を記念して高架柱上に本堂を新築した。ここも12年ごとの武南寅歳開帳薬師如来霊場に参加していた。

次は開国後にアメリカ領事館となった本覚寺
山門、

アメリカが領事館としたとき、山門は白いペンキで塗装された。山門にはその跡が未だに残っている。

山門を入ったところに全国塗装業者合同慰霊碑がある。アメリカ領事官が境内に建設されたときの塗装こそが「我が国洋式塗装の先駆け」ということで、業界の先達たちを合祀するために慰霊碑を建立した。

本堂、

鐘楼、

横浜開港の首唱者として、「岩瀬肥後守忠震(ただなり)顕彰之碑」が建てられていた。

東海道線京急本線を跨いでいる青木橋を渡って次の史跡へ向かう。この橋は日本最初の跨線橋である。前述したが新橋・横浜間に鉄道を通すとき、この辺りの丘を切通しにしたため、丘の中腹を通っていた東海道が鉄道で分断された。このため、これを跨ぐ橋が建造された。橋から見た京急本線の神奈川駅。駅舎は、現在は青木橋の東京側にあるが、かつては反対の横浜側にあった。

橋を渡り切り宮前商店街に入ると、開港のときにフランス公使館に充てられた甚行寺が現れる。この寺は、明暦2年(1656)に意圓が堯秀を招いて草創したと伝えられている。
山門、

本堂。

この隣は普門寺。薩摩藩士がイギリス人を殺傷した生麦事件(文久2年(1862))をきっかけにイギリス軍とフランス軍が駐留するようになった。そしてイギリス軍士官の宿舎となったのがこの寺である。ここは前述の洲崎大神の別当寺であった。普門という名前は、洲崎大神の本地仏である観世音菩薩を安置したとき、この菩薩が多くの人々に救いの門を開いているということで名付けられたそうである。

この日の旅はここで終わり、旧東海道の宮前商店街を引き返し、家へ戻るために神奈川駅へと向かった。

二日間にわたり神奈川宿を見学した。江戸時代を通して神奈川宿は、神奈川湊を擁していたため、それなりに活気のある宿場だっただろう。しかし開港後にいくつかの寺が外国領事館に充てられたことで、宿場の様子は一変した。これまで外国人を見たことがなかった宿場の人々が普段の生活の中で出会うことになったのだから、驚愕するような変化であっただろう。恐れも抱いたことだろうが、興味津々でもあっただろう。ヘボン塾などで学び、西洋の学問と英語でのコミュニケーション能力を身に着けた人たちが、このあとの近代化の中でも活躍する。近代化の震源地ともいえる神奈川の宿について、これまでほとんど知らなかったので、この二日間はとても勉強になった。関連する書籍があれば読んでみようと思いながら家路についた。

東海道五十三次の神奈川宿を訪れる(2)

今回紹介するのは神奈川宿の西半分で、しかもその全部ではなく東寄りの部分である。午前中は、雨は降らないだろうと淡い期待を寄せていたが、見事に裏切られた。最後の方は急ぎ足になったこともあり、写真を撮る余裕がなかったので次の日に再挑戦した。今回は、雨に降られる前までに訪れた神奈川宿の遺跡である。すなわちイギリス領事官となった浄瀧寺から始めて、滝の川を通り、神奈川台場を作るためにその一部を削られた御殿山までを紹介する。

下の写真は、神奈川地区センターにある神奈川宿復元模型の左側部分を撮ったものである。今日、我々が見慣れている海岸線は、かつての東海道のずっと南の方にある。江戸時代には、今の横浜駅は海の中にあり、旧東海道はその両側を海岸線と小高い丘で挟まれていた。写真の左奥は、台町の茶屋があったところで、急坂であることが分かる。写真の中央部辺りは、今日では、第一・第二京浜という大きな国道が二つも通り、電車もJRと京浜急行が走る。今も昔も、交通の要所であることに変わりはないが、便利さには雲泥の差がある。

前回説明した通り、日米修好通商条約(1858)締結の後に、神奈川宿には、各国の領事館が置かれた。最初に紹介する浄瀧寺にはイギリス領事官が置かれた。このお寺のホームページには、寺の縁起が記載されている。文応元年(1260)、尼僧妙湖が現在の横浜に庵を構えていたときに、日蓮安房より鎌倉に向かう途中で、妙湖に出会った。妙湖は法華経の教えを日蓮より聞き、たちまちにして弟子となった。そして自身の庵を法華経の道場としたのが、この寺の幕開けとなった。もとは街道近くにあったが、徳川家康入府の際に現在地に移転した。

二つの本陣の真ん中を流れる滝の川。この川の江戸側には神奈川本陣、京都側には青木本陣がかつてあった。今はその名残はない。

神奈川の大井戸。この井戸は、江戸時代には東海道中の名井戸に数えられたそうで、次に紹介する宗興寺は「大井戸寺」と呼ばれていた。この水は、江戸時代初期に神奈川御殿で徳川将軍のお茶としても使われた。また宗興寺に滞在した宣教師のシモンズやヘボンもこの井戸を利用した。

前回の記事で、成仏寺を紹介するときにヘボン博士の活躍を記したが、その博士が施療所を設けたのが宗興寺である。伊豆海島風土記によると、永享12年(1440)に神奈川宿宗興寺の住職が、八丈島に宗福寺を創建したという記述が残されているので、かなり古くからあった寺と考えられている。

ヘボン博士が施設所を開いたことを知らせる石碑。

神奈川宿を描く絵図には一段と高い山として描写される権現山。

権現山の頂上は公園になっている。その南側には表忠碑があり、日清・日露の戦いで亡くなった方の慰霊が顕彰されている。その左側には古戦場であったことが記されている。戦国時代、関東管領上杉一門の家臣であった上田蔵人が、主人を裏切り、伊勢宗瑞(北条早雲)に内通し、砦をここに構えた。管領方は二万の軍勢で包囲し、落としたと言われている。

権現山から、京急・JR線越しに、本覚寺を望む。江戸時代は権現山から本願寺までは一続きの山だったが、明治5年に新橋・横浜間に鉄道を敷設するときに開削された。その土は、海を埋めて鉄道用の堰堤を構築するために使われた。建造したのは高島嘉右衛門である。

国立公文館のデジタルアーカイブには新橋横浜間鉄道之図がある。鉄道が開通した頃の図は次の通りである。短い距離で繋がるように努力したことがよく分かる。

最後は洲崎大神である。源頼朝が、安房安房神社の神をこの地に招いたとされている。

境内にある御嶽荷社。

洲崎大神でぽつぽつと雨が降り出した。残りの遺跡をさっと見たが、写真撮影は翌日に見送った。そこでこの続きは改めて紹介する。

東海道五十三次の神奈川宿を訪れる(1)

日曜日(4月24日)に、東海道53次の宿場の一つである神奈川宿を、この地に30年住んだことがあるという知人に、案内してもらった。

東海道は、律令制度での五畿七道の中に含まれているが、街道として広く利用されるようになったのは、江戸時代になってからである。神奈川宿は、起点の日本橋からは品川・川崎に続く3番目の宿場である。天保14年(1843)の「東海道宿村大概帳」によると、神奈川県内の宿場の規模は次の通りである。

宿名 人口(人) 家数(軒) 旅籠数(軒)
川崎
2,433
541
72
神奈川
5,793
1,341
58
保土ヶ谷
2,928
558
67
戸塚
2,906
613
75
藤沢
4,089
919
45
平塚
2,114
443
54
大磯
3,056
676
66
小田原
5,404
1,542
95
箱根
844
197
36

これから神奈川宿は、県内の他の宿場と比べて、旅籠の数は多くないが、人口が多いことが分かる。これは神奈川湊と呼ばれる大きな港を擁していたことによる。神奈川湊の歴史は古く、鎌倉時代には記録の中に現れ、その頃は鶴岡八幡宮に、室町時代には関東管領上杉氏の領地であった。江戸時代には、湊は神奈川宿とともに幕府の直接支配を受け、神奈川陣屋がこれを担った。

安政5年(1858)に日米修好通商条約が締結され、「神奈川」を開港すると定められた。しかし大老井伊直弼は、街道上での外国人との接触により事件が起き、それが江戸近くでの重大な紛争になりかねないことに配慮して、対岸の横浜村に港湾施設居留地を作り、外国人にはこれを神奈川の一部と称した。

神奈川宿と横浜港の位置関係を、明治期迅速測図(明治13~19年制作)で示す。二つの地域が内海を挟んで対岸にあることが分かる。なおこの地図では両地域が堰堤で結ばれている。これは明治5年(1872)に新橋・横浜間に鉄道を開設するために、高島嘉右衛門が埋め立てて、鉄道を通せるようにした構造物である。横浜駅はそのあと北に移り、当時の横浜駅は現在では桜木町駅と呼ばれている。

領事館を設立するときに、幕府は横浜港のある横浜村にそのための場所を用意したにもかかわらず、諸外国からは、条約に神奈川となっていることを楯にして、神奈川宿に領事館を設置することを要求された。その結果、米国は神奈川宿を見下ろす本覚寺に、オランダは長延寺(廃寺)に、英国は浄瀧寺を領事館に、普門寺を宿舎に、フランスは浦島寺として知られている慶雲寺を領事館に、甚行寺を公使館にした。また成仏寺は、アメリカ人宣教師の宿舎に充てられ、ヘボンは本堂に、ブラウンは庫裏に住んだ。

神奈川地区センターに復元模型があった。その中心部を撮影したのが下の写真。下部の堡塁は、侵攻してきた船舶を撃退するために砲台を設置した場所で、神奈川台場跡と呼ばれている。左側手前の小高い山は権現山で、神奈川台場を増築するための土取場となった。また権現山とその奥の本覚寺は一続きの山になっているが、その間は新橋・横浜間の鉄道を通すために削られ、そこから掘り出された土は、鉄道用の堰堤を海の中に構築するために使われた。中央部で上から下の方に青く塗られているのが滝の川で、その向かって右側(江戸の方)は神奈川本陣、左側は青木本陣である。

神奈川宿は、東海道宿村大概帳によれば日本橋から7里(27.5km)。江戸時代の旅人は1日40km歩いたので、日本橋を出発したあとの最初の宿は保土ヶ谷か戸塚だった。神奈川宿の客引きたちは、何とか泊らせようと躍起になったことであろう。なお神奈川宿の長さはおよそ4kmである。

江戸の方から小田原の方に向かってこの宿場を訪ねようということで、JR東神奈川駅で待ち合わせた。近くにある京浜急行の駅名も現在では東神奈川だが、少し前までは仲木戸であった。江戸時代に将軍の宿泊施設の「神奈川御殿」があり、木の門を設けて警護していた。このためこの一帯は仲木戸と呼ばれていた。京浜急行はこの地名を用いていたが、2020年に改められた。

横浜市神奈川区が「神奈川宿歴史の道」というルートを設定しているので、それに沿って説明していこう。このルートは長延寺跡・土居跡で始まるが、そこには碑しかない。そこで次の、笠のぎ稲荷神社(「のぎ」は禾に皇と書く)から始める。奇妙な名前だが、「笠をかぶった人がこの前を歩くと、笠が脱げ落ちそうになる」ことに由来している。瘡蓋などが取れるご利益があるそうである。社伝によれば、平安時代の天慶年間(938-947)に建立されたとなっている。

境内には横浜市指定有形文化財の「板碑」があり、鎌倉時代末期から南北相時代初期につくられた。高さは172.5cm、幅は上下で差があっておよそ40cmである。

次は良泉寺。宣教房聞海が開基し、慶安元年(1648)に現在地に移転。開港のときに、領事館にされるのを嫌って、屋根をはがし修理中と断ったそうだ。そのあと幕府からお咎めはなかったのだろうか。
山門、

そして本堂。なぜか修理中。参拝して欲しくないのかな?

次へ向かう途中の第一京浜国道はつつじがきれいに咲いていた。

そして能満時。このお寺は、武南寅歳開帳薬師如来霊場に参加していた。先週まで回っていた武相のそれと同じ趣旨の催事である。この寺は鎌倉時代の創立とされ、内海新四郎という漁師が、海中から虚空菩薩像を拾い上げ、祀ったと伝えられている。
山門、

本堂、

山門の四天王。順番に、国を支える神「持国天」、恵みを増大させる神「増長天」、特殊な力の目を持つ神「広目天」、あまねく聞く神「多聞天」。



次の場所への途中で、神奈川小学校の傍らに神奈川宿の紹介があった。

東光寺。この寺の本尊は太田道灌の守護仏。道潅の小机城攻略後に、小田原北条氏家臣平尾内膳がこの仏を賜り、東光寺を草創したとされている。また道灌は内膳に与えるに際し「海山をへだつ東のお国より、放つ光はここも変わらじ」と歌を詠んだことがお寺の名称の由来になっているそうである。ここも武南寅歳開帳薬師如来霊場に参加していた。

熊野神社。結婚式の最中(写真は省略)。

米軍によって10年間も埋められていたものを修繕して元の場所に祀られた満身創痍の狛犬

樹齢400年のイチョウの木。何度かの火災に遭ったが再生して今につながっている。

神仏分離されるまでは、熊野神社と一緒だった金蔵院。勝覚により寛治元年(1087)に創建されたと伝えられている。
山門、

本堂、

境内の弘法大師像、

高札場跡、

成仏寺は、永仁年間(1293-1299)に心地覚心が開基。寛永7年(1630)に家光上洛の際に神奈川御殿が境内に造営されたため、代替地として現在の場所に移転。日米修好通商条約締結後にアメリカ人宣教師の宿舎となったが、その中の一人が前述したヘボンである。ヘボンは医療伝道宣教師で、ここで医療活動に従事すると共に、聖書の日本語訳に携わった。また和英辞典『和英語林集成』を編纂し、ヘボン式ローマ字を広めた。そして明治学院を創設した(ヘボン夫妻はこれに先立ちヘボン塾を始めたが、その教師であった女性の宣教師ギターは、フェリス女学院を設立した)。さらに生麦事件(1862年)では、負傷者の治療にあたった。

慶雲寺は、室町時代の文安4年(1447)に定蓮社音誉聖観によって開創。慶応年間の大火で観音寿寺が類焼し、浦島伝説にかかわる記念物がもたらされ、それ以来「浦島寺」とも呼ばれている。

浦島観世音堂。太郎が竜宮城へ行ったおり乙姫からもらったとされる浦島観世音像が、左側の亀化(きけ)龍女神像と右側の浦島明神像とともに、祀られていた。

ここまででちょうど神奈川宿の中ほどの滝の川の東側の見学を終了した。続きは次号で、お楽しみください。

武相寅歳薬師如来霊場(8):東光寺・安全寺・野津田薬師堂を訪ねる

遂に最終日。残された三つの寺を巡るだけとなった。すっきりしない日が続いたが、今日は午後には晴れて気温が高くなるというので、その前に出かけることにした。訪問するお寺はいずれも町田市の中央東側で、電車の駅からは遠く、バス利用の不便なところである。これまで散策も兼ねて、最寄り駅から徒歩でお参りをしていた。しかし今回は、最終目的地の寺院がある薬師池公園の周りを散策することにして、お寺巡りは自家用車を利用した。参考までに徒歩でのコースは、永山駅から町田駅までとなる。およそ3時間、鎌倉街道に沿ってである。

最初に訪れたのは東光寺。町田市史によれば草創はとても古い。平安時代の斉衡・元慶(854-884)に、上総・下野などで蝦夷俘囚の反乱が起きたとき、朝廷は入唐八家で有名な円仁を東方宣撫した。円仁は東国各地に東光寺を建てたが、この寺もその中の一つとされている。そのあと江戸時代前期の寛文4年(1664)に含室傳秀が開山、さらに明治維新後に廃寺となっていたこの寺を中村秀雄和尚が復興した。

本堂には、小ぶりで金色の新しい薬師如来が、左右に日光・月光菩薩を伴って、一つの厨子の中に祀られていた。

境内の小高いところには、千手観音が安置されていた。

山門、

次は安全寺。町田市史にはこの寺の縁起は次のように記されている。開山は伊俊、室町時代の嘉吉2年(1442)寂した。また寺の過去帳には、正長・永享のころ(1430年前後)、孤岩が開山と記されている(同一人物の可能性もあるようだ)。

薬師堂には、同じ厨子の中に、くすんだ金色の薬師如来(高さ1尺5寸)、日光・月光菩薩が一緒に祀られていた。受付の人の話では、江戸時代のものらしい。この周りには同時期と思われる十二支も安置されていた。

本堂、

境内にはいくつかの石仏があった。六地蔵

最近造られるようになったのだろうか、全ての老人の最大の悩みを解決してくれる「ぼけ封じ観音」、

掃除小僧

鐘楼、

武相寅歳薬師如来霊場巡りもいよいよ最後。野津田薬師堂で受付の案内の女性に、「ここが25寺目で最後です」と告げたところとても喜んでくれ、「私もここの薬師様が一番いいと思っている。最後に選んでくれてありがとう」といわれた。そして「ぜひ結願(けちがん)をしてください」とも言われた。

野津田薬師堂は通称で、正式には福音寺薬師堂という。町田市の観光ガイドによると、明治16年(1883)に再建された。この堂の薬師如来天平年間(1270年前後)に行基により彫られたと、現存する寺の巻物には記されているそうである。古来より、眼病に御利益があるとのことであった。

この寺の釈迦如来は、町田市にある木の仏像では最も古い仏像であることが認定され、町田市の文化財に指定されている。釈迦堂の中には、屋敷のような構えの構造物があり、その内部の中央に薬師如来、右側に日光菩薩、左側に月光菩薩がそれぞれの厨子に安置されていた。薬師如来は木造で、厨子一杯に納められており、のぞき込まないと全体が見えない。今回これまでに参拝した新しい薬師如来と比較すると素朴な感じで、長いこと信仰を支えてきたのだと思うと、感慨深いものがあった。

野津田薬師堂の周辺には薬師池がある。

周囲は公園になっていて、あとひと月もすると、菖蒲がきれいに咲くことだろう。小さな谷戸を利用して棚田となっている菖蒲の畑に水を引き込んでいた。

最後に結願証をもらうために受付に寄った。住職も副住職も出かけているということで、郵送してもらうことにした。

これで、8日間かけての霊場巡り、そして25寺院のそれぞれの薬師如来の参拝を完結した。今年はさぞかしご利益に恵まれ、健康な日々を送れるだろうと期待して、帰路についた。

武相寅歳薬師如来霊場(7):福泉寺・祥雲寺を訪ねる

今日は横浜線のさらに北側の長津田駅から町田駅までの間にある二つの寺をめぐった。

最初に訪問する寺院は福泉寺。長津田駅からそれほど遠くないところにある。駅周辺には、この地域では大規模といえる大林寺がある。

そして板碑(写真右)は横浜市内では最大の高さで180cmを誇る。

国道246号線に沿って歩いていると、福泉寺の石碑が目に入ってきた。

本堂には小ぶりな金色の薬師如来、その左右には日光・月光が祀られていた。

ホームページに紹介されている縁起によれば、福泉寺は明応元年(1492)に尊祐により開山された。そして江戸時代、長津田の領主岡野房恒により、村の鎮守である王子権現の別当寺にされた。しかし檀家を持たない祈禱寺であったため、明治20年ごろには衰退した。明治時代後年になると山崎戒心が近隣信者の協力を得て小さな建物を建てて復興した。昭和45年には現在の本堂が再建されたそうである。

境内には、様々な石像が安置されていた。弘法大師立像、

ぼけ封じの楽壽観音、

掃除小僧、

また縁起にあった王子神社の鳥居、

本殿、

次の寺に向かう途中、つくし野駅近くで旧大山街道(現在国道246号線)を見つけた。

江戸時代の庶民は、この道を通って、「大山詣り」を楽しんだことだろう。

1985年の「金曜日の妻たちへⅢ恋におちて」、1990年の「ダブル・キッチン」、2016年の「僕のヤバイ妻」で、TVドラマのロケ地となったつくし野の駅前、

そうこうしているうちに目的地の祥雲寺に到着した。

祥雲寺も、この寺院のホームページで縁起を紹介している。大永6年(1526)に、寥堂秀郭を開山とし、小田原北条家の武運長久を祈願されて建立された。当時、北条家より寅の判の朱印地寄付があり、徳川時代になっても、家光をはじめとする将軍から9通の朱印地として寄付された。伽藍は享保年間の災禍や関東大震災の被害を被りながら復興。昭和51年に本堂・客殿、平成3年より寺院所有地の整備が始まり、平成14年には瑞祥閣が落慶したとなっている。

本堂には小ぶりで金色の薬師如来が祀られていた。住職のお話では、この薬師如来は昭和60年に原町田の宗保院より祥雲寺に安置されたとのことであった。

山門、

観音堂

池、

境内には様々な石仏があった。
十二支の守り本尊

小僧さんの十二支像

六地蔵

いねむり小僧、

帰路途中、町田市中央図書館の前に、モダンな彫刻が設置されていた。石仏ばかり見てきたので、とても新鮮に感じられるとともに、現実の世界に呼び戻された。


武相寅歳薬師如来霊場(6):寶袋寺・観護寺・舊城寺・弘聖寺を訪ねる

今日は昨日の続きで、横浜線十日市場駅から中山駅の間にある四つの寺を訪れた。久しぶりに晴れ、気温も20℃を越え、汗ばむ中での霊場巡りとなった。

寶袋寺のホームページによれば、この寺は慶長年間(1596-1615)に顕堂長察により開山された。建立地から、古い巾着(きんちゃく)が掘り出されたのでこの寺号がついたようだ。本尊の聖観世音菩薩は運慶作と伝えられている。門から入って右手に、寺の碑、掃除小僧の石像、そしてその背後に十六羅漢が安置されている。

本堂、

薬師如来と、脇像の日光と月光の菩薩が祀られている薬師堂、そして右側には鐘楼も、

次の観護寺へと向かう。横浜の郊外で、田園風景が広がっている。

オオデマリも見ごろ、

そして恩田川。この先で谷本川と合流し、鶴見川となる。

のどかな風景の中に、赤いのぼり旗をなびかせた観護寺があらわれた。

観護寺は、後述する印融法印(1435-1519)により開山された。本堂には、小さな厨子の扉が開けられ、薬師如来が祀られていた。左右には日光・月光の菩薩が安置されていた。

鐘楼、

印融法院(1435-1519)の墓。彼は中世の学僧で、現在の横浜市緑区三保の生まれである。高野山で研鑽を積み、無量光院の院主となった。晩年になって関東の真言宗の衰退を嘆き、長享2年(1488)頃に関東に戻った。そして三会寺や金沢光徳寺などに住して、真言宗の復興に勤めた。

邸内には愛嬌のある犬の像もあった。

次の寺へと向かう。このようなのどかな地帯を、随分と長い8両編成の横浜線が走っていく。

イチリンソウがきれいに咲いていた。

景色を楽しんでいるうちに舊(旧)城寺に就いた。山門、

ホームページで舊城寺の歴史が紹介されているが、内容がすばらしいので、概略を紹介しよう。舊城寺という名前から推察できるように、ここはかつての城跡である。伝承によると、室町時代に関東上杉氏の一人の憲清が「榎下城」という小さな山城を築いた。関東上杉氏が衰退したあと、「久保城」などと名前を変えながら、小田原北条氏のときも、小机城の出城として役割を果たした。豊臣秀吉の小田原攻めのときまで、何度も廃城を繰り返しながら使われていたそうである。江戸時代になって、久保村の長の佐藤氏の住居となる。しかし佐藤小左衛門のときに男子が生まれず、財産を全て娘に譲って、死後ここに寺を建てるように遺言したそうである。慶長年間(1596-1614)に城跡に寺院が開かれ、「舊城寺」と名付けられた。
本堂、

薬師堂。ここの薬師如来は他のそれとは異なり、黒ずんでいた。年代物と感じたので、住職に聞いたところ、室町時代の作と答えられた。

境内には大木が多い。銀杏、

そしてカヤ、

最後は、弘聖寺。昨日断念したところだ。携帯の地図を頼りに、家並に囲まれた細い道を歩いていく。途中から急な坂となり、山のてっぺんに寺があるのだろうと勝手に解釈して登っていく。頂についても寺らしきものは見えない。若い女性がやはり寺を探しているようで、頂のあたりを行ったり来たりしている。携帯が指示しているところには柵がある。柵の先をよく見ると道らしきものがあるが、通行禁止と書いてある。近道なのだろうが、行けそうもない。携帯が示している先の山の麓に寺があるだろうとあたりをつけ、ぐるりと下の道を回ることにした。山感に頼っての行程だ。しかしあてにしている霊場巡りの赤いのぼり旗が一向に見えてこない。不安になりかけたが、ここしかないという道に入ってみると寺らしきものが見えた。しかし赤いのぼり旗はない。とてもいやな気持がしたが、決心してその寺を目指した。なんとこの寺は赤いのぼり旗を立てていなかった。霊場であることを示す一本の柱だけが建っていた。
弘聖寺は、新編武蔵風土記稿によれば、寛永2年(1631)に没した笠原彌次兵衛の開基とされている。とても立派な本堂、

小ぶりだがしっかりした薬師如来が祀られていた薬師堂。

帰りに安らぎを与えてくれた藤の花。

今日の最後の寺院探しは大変だった。携帯のマップは、交通手段を「徒歩」にすると、生活道路(歩行者用の抜け道)となっている近道を教えてくれる。大きな通りでないため、どこら辺を歩いているかの方向感覚が失われ、不安を感じながらの行程となる。今回は人が入れないような山道へと誘われ、往生した。くねくねとした生活道路ではなく、大きな道に誘ってくれないかと、携帯に不満をたらたらといいながら歩き回り、本当に疲れた。

武相寅歳薬師如来霊場(5):林光寺・東観寺・寶塔院・萬藏寺を訪ねる

今日は、最高気温が20℃に達しないので、寺院巡りに向いているが、どんよりしているのが気になる。案の定、途中から雨が降り出し、5寺巡ろうと思っていたが、他のアクシデントも重なって、最後にと予定していた寺は、次の機会となった。訪れるところは、横浜線鴨居駅周辺と中山駅までとした。

最初に訪れたのは、林光寺。寺院の入り口には、奇妙なことに、二つの寺の名前が記されている。

砦のような楼門が現れた。

山門の手前には池、

そして石仏、

山門をくぐってすぐのところに薬師堂があり、薬壺を持った立派な薬師如来が祀られていた。あとで調べて分かったのだが、ここは西光寺で、かつて鶴見川沿いにあったが、一度移転したあと、明治11年に、林光寺の境内に移ってきたとのことであった。このため入り口にはこの寺の名も記されていたのだと納得した。

林光寺の山門、

そして本堂。林光寺のホームページによれば、室町時代後期の宝徳元年(1449)に僧・義慶が開祖、戦国時代末の慶長年間(1596-15)に僧・誓順が再興、文政元年(1818)と明治27年(1894)の災禍で堂塔焼失、昭和49年より平成7年まで長い期間をかけて復興された。鴨居山の中腹1万坪の境内に本堂・薬師堂・楼門・客殿・庫裡などで大伽藍を構成している。今回の霊場巡りでは、これまでで一番大きな規模の寺であった。

境内には藤の花も、

墓所からみた薬師堂と鴨居の街、

次は東観寺へ行く。山門、

東観寺の創建年代は不詳だが、天平年間に行基がこの地に観音菩薩を安置して草創したと言われている。平安時代に快圓が堂宇を修造、そのあと廃寺となっていたが、戦国時代に小机城主笠原越前守信爲が開基となる。そして江戸時代の初めに法印義印(慶安5年(1652)寂)が再興したとされている。本堂、

池、

観音堂では、右側に木造の薬師如来が祀られていた。中央は聖観音像だが、公開されるのは10年後とのこと。左には勢至菩薩像が並んでいた。

次は寶塔院。創建年代は不詳、正徳年間(1711-15)に堂宇を建立した祐圓を中興とする。

観音堂。金色の薬師如来が祀られていた。

本堂、

最後は萬藏寺。創建年代は不詳。文禄元年から住職を務めた法蔵法印が中興したとされている。仁王門、

金色の光背を有する木造の薬師如来が祀られている薬師堂、

本堂、

観音菩薩

もう一つお寺を回ろうとしたが、間違って住宅街に入り込んでしまい道が分かりにくくなってきたことと、雨が降り出したことが重なり、残念ながらここで中断した。

今回参拝したお寺のほとんどは、荘厳で見ごたえがあった。この辺りは鎌倉時代から交通の要所だったので、その名残があるのだろうと推察した。

武相寅歳薬師如来霊場(4):福昌寺・薬師堂・萬福寺を訪ねる

午後は用事があるので、朝の散歩代わりに三寺を巡った(4月17日)。長津田駅を出発してこどもの国線に沿って恩田駅まで行き、折り返して田奈駅へと向かった。

福昌寺へ向かうあかね台は、八重桜が満開。

途中には藤の花も咲いていた。

新編武蔵風土記稿によれば、福昌寺を開山したのは國抽太山で、江戸時代初期の慶安4年(1651)に寂した。本堂からガラス越しに、金色の薬師如来と日光・月光菩薩を参詣した。

寺内には、水子地蔵と、

稲荷神社があった。

次は、恩田駅近くの薬師堂に向かう。
キンカンがたわわに実っている木を数か所で発見した。キンカンの時期は過ぎたと思っていたのだが、これは遅い種類なのだろうか?

恩田川駅近くにある小さな造りの薬師堂。お堂の中まで入り、薬師如来と日光・月光菩薩をお参りした。金色で、これまでに見た像の中では一番大きかった。

新編武蔵風土記稿によれば、戦国時代初めの永正3年(1506)に寂した印興が開山したそうである。かつては医王院という寺であったが、いつの頃からか住職がいなくなり、現在は近くの徳恩寺が管理している。
寺内には石仏があった。

薬師堂から道を挟んでの公園で一休み。ハナミズキがきれいに咲いていた。

子どもの夢を運ぶ電車が田奈駅をはなれた。

別の場所からのこどもの国線

次は田奈駅近くの萬福寺へと向かった。途中の田名第一公園でも八重桜がきれいに咲いていた。


新編武蔵風土記稿には、室町時代初期の応安8年(1375)に寂した快秀により開山されたとなっている。本堂。中に入ることはできず、奥の方にやっと認識できるほどの大きさの金色の薬師如来が祀られていた。

寺内には鐘楼、

弘法大師像、

堅牢地神

六地蔵の石仏、

そして、慈母観世音菩薩像。

この日は、霊場巡り半分、春の花を楽しむことが半分となってしまった。前の日の中原街道沿いの寺院と比較すると規模が小さい。恐らく主要な街道から離れていたことが影響しているのだろう。しかし近年こどもの国線周囲での開発が進み、恩田駅周りには、きれいな住宅街も広がっているので、これからは田園的な街が開けていくことを期待して散策を終えた。

武相寅歳薬師如来霊場(3):大蔵寺・無量寺・東漸寺を訪ねる

昨日(16日)は横浜線に沿って南に下り、三つの寺を参拝した。前日までの冬を思わせるような肌寒い雨の日が続いたあとの、少しだけ良い方に向かっていた午後に出かけた。現在の中原街道(県道45線)、かつて鎌倉往還を下って(江戸に向かって)の寺巡りである。
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最初に訪れたのは、中山駅近くの大蔵寺で、鎌倉期(1200年頃)に開創された。この辺りは、鶴見川と恩田川を望む景勝の地で、軍事的にも要衝の地であった。開山は不明、開基は鎌倉浪人の兵衛尉相原左近(源頼朝の家臣で、中山村の相原家一族の祖)である。400年後の大火で堂塔・伽藍を焼失、今日では土中から当時の屋根瓦破片や敷石が発見されるのみである。焼失の10年後に120m程度離れた現在の地に再興された。

大蔵寺の参道。住宅が参道を埋め尽くしていた。奥の方にわずかに寺らしき建物が見える。
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本堂(1970年に落慶)。中央に守本尊の薬師如来(木造)が飾られていた。
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境内はとても賑やか。中国天童山の典座和尚と若き日の道元(曹洞宗の開祖)の像、
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大慈悲観世音菩薩像(和田光太郎作)、
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可愛らしい掃除小僧、
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次は、朝光寺の住職さんが薦めてくれた佐江戸の地にある無量寺。開山の時期は明らかではないが、鎌倉時代中期には無量寿福寺(尼寺)という寺が存在していたことが資料から知られている。裏手の台地には佐江戸城の跡があり、北条氏小机衆の猿渡氏により築城されたと伝えられている。

寺の入り口近くは、八重の桜が満開だった。
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本堂、
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最近建てられた堂に、とてもモダンな薬師如来が祀られていた。
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最後は、ここから近い場所にある東漸寺。奈良時代天平13年(741)に、行基(東大寺の仏像建立)がこの地に草庵を結び、文殊菩薩を造顕奉安したことが開基とされている。現在の本堂は昭和40年代に建立された木造建築、この中に入りとても近いところで薬師如来を拝観した。小ぶりだが、金色に輝く像で、左右に日光・月光の菩薩も祀られており、荘厳であった。
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文殊堂には、文殊菩薩が祀られている。
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帰りは鶴見川に沿って鴨居駅に向かった。何とボートで川を下っている人がいた。
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川縁にはサクラソウもきれいに咲いていた。
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現在はららぽーと横浜になっているが、若いころに勤めていた会社の工場がここにあり、ここへ出張するときは中原街道を利用した。当時のこの街道には、のどかな田園風景が広がり、北側に小高い丘、南側に田んぼや畑があり、小さな集落が街道に沿って散在していた。出張のたびごとに、江戸時代にタイムスリップしたかのようなこの風景を楽しんでいたが、今は寺の周りに残すだけとなって寂しい気がした。当時は横浜線も単線運転で、複線化が始まったのは昭和42年(1967)、その完了は昭和63年(1988)である。今日の横浜線周辺のにぎわいは、かつてのイメージからは隔世の感があり、時の移ろいを感じさせてくれた一日であった。

武相寅歳薬師如来霊場(2):朝光寺・宗泉寺・瑞雲寺を訪ねる

ついこの間まで寒い日が続いていたのに、途端に暑い日がやってきた。一昨日に続いて昨日(4月12日)も夏を思わせるような陽気だった。四季に富んだ日本はどこに行ったのだろう。長い夏と冬、そしてわずかな春と秋になってしまったようだ。この日もまた、前の日に続けて、武相寅年薬師如来霊場巡りをした。巡礼さんの気分である。

今日巡るのは田園都市線市が尾駅から、横浜地下鉄グリーンライン川和町駅まで、途中に朝光寺、宗泉寺、瑞雲寺を経ての北から南への移動で、距離は4.9kmである。

最初は朝光寺。市が尾駅から降りてそれほど遠くない。裏手からの侵入になったが、横に駐車場があるので、ここから入る人も多いのだろう。道が綺麗に整備されている。

正面に入って本堂で薬師如来を拝ませてもらう。

お坊さんに聞いたところでは、明治32年の火事で焼けてしまい、そのあと住職の方が木造の薬師如来を造られ、それが祀られているとのことであった。
山門は、

新編武蔵風土記稿によると、開基は市が尾村の名主新五右衛門の祖先の上原勘解由左衛門で、彼は天文17年(1548)に亡くなっている。戦国時代の北条氏が関東一帯を支配している頃に建てられたようである。

次は鶴見川に沿って、宗泉寺へと向かう。この辺りは横浜と雖も農業地帯で、古くからの景色とモダンな高速道路が、アンバランスで面白い。

ところどころに梨畑もある。白い花が見事に咲いていた 。

宗泉寺は、ちょっとした小高い丘の上にある。

階段に沿ってたくさんの旗が立てられていた。

山腹には、竹林の中に山吹が咲いていた。

本堂は、

小ぶりな薬師如来さんが祀られていた。新編武蔵風土記稿によれば、開山顯堂は寛永9年(1632)に没しているので、江戸幕府が始まったころの開山だろう。


次は今日最後の瑞雲寺。宗泉寺であった老齢の女性が、行く道が分からないというので、一緒に向かった。横浜線沿いに住んでいて、1日5寺のペースで、霊場を巡っているとのこと。ただ町田の奥にある霊場は行けそうにないと言っていた。しっかりした足取りの方で、急ぎ足で次の寺へ向かった。

瑞雲寺は、川和町駅の近くにある。駅が近いせいだろうか、このお寺は参拝客が多い。見慣れた赤いのぼり旗で、きれいに並んでいてその奥に山門がある。

そして本堂、中に薬師如来が祀られていた。朝光寺のそれに似ていた。


庭園には綺麗なしだれ桜が、


鐘楼と聖観音像も。

新編武蔵風土記稿によれば、開山梅林霊竹は円覚寺第7世の住職で、応安7年(1374)に没しているので、室町幕府が始まったころの開山のようだ。

ところで、最初に巡った朝光寺は、横浜の古代に関心がある人にとっては貴重な場所だ。弥生時代の環濠集落の遺跡、後期弥生土器の標識遺跡ともなっている朝光寺原式土器、古墳時代の朝光寺原古墳群、奈良時代官衙に関連する遺跡が、朝光寺の東側から見つかった。そのころは1960年代の高度成長期の真っただ中で開発が急がれたために、貴重な遺跡は東名高速道路や住宅に変わってしまった。

横浜市歴史博物館には、遺跡発掘により発見された遺物が展示されている。そのうちのいくつかを紹介する。いずれも古墳時代のもので、甲(かぶと)と冑(よろい)、

馬具、

武器類、

鍬の先。

また朝光寺原遺跡の近くの長者原遺跡からは官衙跡が見つかり、横浜市歴史博物館には復元模型がある。中央奥が官衙の正殿、左側の列をなしている建物群は、租の稲などを貯蔵するための正倉である。

朝光寺の近くには、貴重な遺跡があったにもかかわらず、開発が急がれたせいで保存されなかったのは残念なことである。特に、都筑郡官衙遺跡は、奈良時代の地方官庁を知るうえで貴重な遺跡であったので、禍根を残したと思う。

武相寅歳薬師如来霊場(1):福壽院・常楽寺・観音寺を訪ねる

寅歳薬師霊場という風習は、この時期、全国どこでも行われるのだろうか。グーグルでググってみると、武相二十五、都筑橘樹十二、武南十二、相模二十一、稲毛七、足立十二、中武蔵七十二、伊予十二、四国四十九、京都十二などと次から次へと現れる。いろいろな地域で行われているようだが、その起源や規模は分からない。なぜ寅歳にという疑問も生じてくるが、これへの適切な回答も得られない。地域に根付いた習慣だろう程度のことしかわからなかった。

取り敢えずいくつかの寺を訪れて、その習慣を体験してみることとした。選択したのは、武相寅歳薬師如来霊場武蔵国相模国とにまたがる地域の25寺が参加している。いくつの寺を回れるかわからないが、初日(4月11日)は田園都市線の西側終点近くにある福壽院、常楽寺、観音寺を巡った。コースは、田園都市線つくし野駅からつきみ野駅までの間を歩く道筋で、距離にして6.2Kmである。

最初に訪れたのは福壽院。「旧小机領子歳観音第24番霊場」と「武相寅歳薬師如来第22番霊場」という石碑がある。ウシ歳の薬師如来とは別に、ネズミ歳にも旧小机領の33寺とともに、観音を開扉して、近隣の人たちの参拝を仰いでいる。そして薬師とともに観音も重要な信仰の対象であることが分かる。

福壽院に上る階段付近、

石段を登りきると、

写真では本堂は閉じているが、お寺の方が開けて下さり、木造の薬師如来を拝ませていただいた。町田市史によると、開基は山下市右衛門で寛文11年(1689)に寺領主高木伊勢守守久より検地の際に除地を得て、小寺を創立したとなっているので、江戸時代中期に建てられたのだろう。昭和33年に台風で倒壊し、そのあと再建されたそうである。

ここを後にして次の寺へと向かう。途中、むじな坂を歩いた。今でもムジナが住んでいるのだろうか。

2番目の常楽寺に到着。お寺とは思えない建物。正面奥に薬師如来が鎮座している。左側のテントが少しだけ見えるところに町内会からの応援の人々が控えている。古くからの地縁社会がこの辺りではまだ続いているのだろう。参拝客も近所の方が多いようで、応援の人々と親しそうに話をしていた(後で分かったことですが、このお寺は町内会が維持管理していて、薬師如来が祀られていたのも、町内会館とのことでした)。

ここの薬師如来は黄金、福壽院よりも少しだけ大きい。開山・起立などは不明。この辺りの江戸時代の村名は町屋(現在は町谷)で、古代東海道駅路の店屋(まちや)があったところと推定されている。常楽寺の本堂、先ほど見た福壽院の本堂とよく似ているのにびっくり。

次の場所に向かって、武蔵国相模国とを分ける境川沿いに歩く。前述の寺は武蔵国に属し、これから訪ねる観音寺は相模国にある。境川の川べりには、菜の花とそれに隠れるように紫大根の花が咲き誇っていた。

また反対側の庭にはシャクナゲがきれいに咲いていた。

携帯のマップ案内に従っていたら、観音寺の裏手に導かれた。正門に回るのも億劫なので、そのまま進んだ。

この寺は、「武相卯年観世音札所第1番霊場」で「武相寅歳薬師如来第21番霊場」でもある。寺のホームページに観世音札所のホームページがあり、八王子・日野・多摩・町田・相模・横浜・大和にある48寺がウサギ歳の春に、秘仏の観音を開扉しているとのことであった。寺内には平成元年に落成した観世音菩薩が立てられていた。

正門から本堂に向かう参道に沿って、寅年薬師如来霊場を知らせる旗がなびいていた。またそばには供養塔も立てられていた。

この反対側には、立派な石碑に縁起が彫られ、そこには中興開山の頼満和尚が慶長13年(1608)に入寂したこと、昔は金亀坊と呼ばれたらしいが開山・開基は不明であること、市重要文化財厨子が天文13年(1544)につくられたこと、本尊の11面観世音菩薩が造られたとき(宝暦年間(1753~63))の経緯などが記されていた。

寺内には太子堂も、

そして順序が逆になったが、最後は山門、

このあと八王子街道つきみ野駅へと向かう。寺を出てすぐのところに道標があり、この場所は元弘3年(1333)に新田義貞が進撃した鎌倉街道であると記されていた。現在は、八王子街道大山街道が交差するところに位置していて、鎌倉時代には鎌倉街道上道として、江戸時代には大山へ向かう矢倉沢往還として、この辺りは栄えていたのであろう。

道標のそれぞれの面に行先の案内がある。この右横の面に新田義貞のことが書いてある。写真を撮ったが、人が鮮明に映り込んでいるので残念ながら使えないので、想像してもらうしかない。

この日は、4月にもかかわらず岩手県では30℃を越えた。東京や横浜でも25℃を超え、地球温暖化が着実に進んでいることを肌で感じさせてくれた。地域で霊場を定めて、春先になるとこれらの霊場を巡り始めたのは、旅行が盛んになった江戸時代のことだろう。この時代は小氷河期とも呼ばれ、今とは違って寒かったため、暖かさが戻ってくる春先は、人々にとって今よりもずっと特別な意味があったようだ。桜が満開を迎えるこの時期を待ち焦がれ、何日間かかけて霊場巡りを楽しんだと思われる。

満開の桜を観にあちらこちらへ

コロナウイルスのために、ここ2年間は外出を控えていた人は多かったことだろう。その反動で、今年は特にきれいに感じられるのだろう。桜の花を愛でるために、多くの人が繰り出しているようである。私もその一人である。日々の散歩の中で、膨らみ始めたつぼみに期待を寄せ、2分咲きや3分咲きになったころには春の訪れを感じ、7分咲きの頃には家族や友達に報告してウキウキし、満開になったころには躍り上がって喜びそうになり、散りだした頃の花吹雪には、さすがにそれを追う若さはなかったけれども、桜の花の移ろいを楽しんだ。

町田市から横浜市へと流れ込む恩田川沿いの桜。2㎞にわたって400本の桜が植えられ、町田市の観光スポットとなっている。しかし残念なことに、老木となったために大きな枝が切られ、かつての醍醐味は失われたが、恩田川に落ち込むような淡いピンク色の流れは依然として美しい(3月30日)。
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遠出して佐倉を訪れた(4月3日)。本来の目的は国立歴史民俗博物館の展示「中世武士団」を見学すること、ついでに佐倉城址公園の桜を鑑賞することであった。冬のような肌寒い日で、小雨も降っていた。しかし幸いなことに歴博の展示はさすがに立派で、千葉氏、益田氏、三浦和田氏を中心に、鎌倉時代から室町時代の武士団について、古文書を中心にとても丁寧な説明があり、得ることが多かった。熱心に展示を見過ぎたこともあり、広大な公園の全ての桜を鑑賞するという体力は残されていなかった。そこで本命だろうと思われる城址公園の本丸跡の桜だけを鑑賞した。桜祭りの主催者は張り切っているのだが、寒さも手伝って人はまばら。桜の木は歴博の分まで入れると1000本を超えるそうで、本丸跡には、色々な種類の桜が植えこまれている。このため同時に咲くことはないようだ。日にちをかけて、それぞれの美しさを鑑賞するのがよさそうである。
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東京の桜も散り始めた昨日(10日)は、静岡県小山町にある富士霊園を訪れた。花が好きだった両親が、おそらく桜がきれいなころに見学に行ったのであろう。花に囲まれた場所であの世の生活をしたいということで墓地を購入し、現在はこの土の中に眠っている。遠いところなので年々墓参が億劫になっていたのだが、孫が春休みを利用して自動車免許を取り、練習をしたいということなので、彼の運転で3年ぶりに訪れた。

この霊園は富士山のふもとにあるので、開花が東京より1~2週間遅れる。満開になるころを見定めて練習日を決めておいたところ、とても運のよいことに大正解となった。
霊園内の桜中央通りの中ほどから振り返っての桜並木、
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桜中央通りを抜けたあとの桜並木、
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さらに階段を登り慰霊堂よりの桜中央通りの桜、
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若葉マークの付いた車窓よりの桜並木。運転手の緊張感が伝わってくる。彼は桜どころではなかったと話していた。
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自宅近くの桜並木もかつては素晴らしいソメイヨシノの並木道で、遠くからも訪れる人々が多かった。しかし近年老木となり、倒木の危険もあったので、数年前からジンダイアケボノの若木が植えられた。今年はやっと見るに堪える程度に成長し、我々を喜ばせてくれた。あと数年も経てば、桜の花のトンネルを作ってくれるだろうと、楽しみにしている。
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