川崎で琉球使節の行列、いわゆる「江戸上り(えどのぼり)」が行われると聞き、見学に出かけた。「江戸上り」という言葉は歴史の本などで耳にしたことがあったが、かつて自分が歩き慣れた東海道の街道筋を、異国の装束をまとった使節団が練り歩いていた時代が確かに存在したという事実には、どこか不思議なロマンが漂う。約180年ぶりにその姿が川崎宿によみがえるというのだから、期待に胸を膨らませて現地へ向かった。
江戸上りとは、琉球王国が徳川幕府へ派遣した使節の江戸参府を指す。使節には、将軍の代替わりを祝う慶賀使と、琉球国王の代替わりを報告し謝意を示す謝恩使があり、両者を総称して『江戸上り』と呼ぶ。琉球を出発して江戸まで約半年、往復では約1年にも及ぶ長旅であった。使節団の人数は最大で170人ほどに達したという。楽人なども加わった華やかな一行が街道を通過する際には、きっと多くの見物客でにぎわったことであろう。また、「江戸上り」は「江戸立」ともいわれる。
江戸時代の大規模な行列といえば、まず思い浮かぶのが大名行列である。大勢の家臣を引き連れて練り歩く様は、まことに見ごたえがあったことであろう。さらにそれだけでなく、朝鮮からの朝鮮通信使や、琉球からの使節の行列も街道を通った。異国風の衣装や音楽、踊りなどは当時の人々にとって非常に新鮮であり、見物人の大きな関心を集めたに違いない。
こうした江戸の行列文化は、実は古代以来の儀礼的伝統の上に成立している。古代の行幸儀礼、中世武家の奉公行列、豊臣政権の大名統制は、いずれも権力への服従と序列を可視化する儀礼として継承され、江戸時代に参勤交代として制度化された。琉球使節の行列は、この儀礼的構造を外交領域に拡張したものとして理解できる。
その意味で、琉球使節の行列を正しく位置づけるためには、琉球王国の歴史的背景を簡潔に整理しておく必要がある。
琉球王国の歴史
琉球王国は、15世紀前半に尚巴志(しょうはし)が三山を統一して成立し、東アジア海域の中継貿易国家として繁栄した。王国は明朝から冊封を受け、中国皇帝との朝貢・冊封関係のもとに置かれながら、日本や朝鮮、東南アジアなどとも交易を展開した。
この国際的な位置づけは、1609年の薩摩藩による侵攻によって大きく変化する。薩摩は琉球を支配下に置いた一方、中国との朝貢関係を維持する必要から、琉球王国の対外的な独立国としての体裁を残すという、いわゆる「両属」とも表現される複雑な支配関係を形成した。琉球は薩摩の支配を受けながら、中国との冊封・朝貢関係も維持することになった。
この体制の下で、琉球から江戸幕府へ使節が派遣された。最初の江戸上りは1634年とされているが、このときは上洛していた将軍家光が京都二条城で琉球使節を引見しており、厳密には「江戸上り」の最初に含めることに異論もある。その後、将軍の代替わりに際しては慶賀使が、琉球国王の代替わりに際しては謝恩使が派遣された。江戸上りは1634年を含めると、1850年まで18回に及んでいる。
使節は正使・副使を中心に、掌翰使(しょうかんし)、楽人、儀衛など多くの人々から成る華麗な行列を組んだ。道中では中国風の野外行進曲である路次楽(るじがく)などが奏でられ、前後を薩摩藩の武士が警護したという。使節の姿や音楽は、街道を行き交う人々に強い印象を与えたことであろう。
こうした江戸上りは、薩摩にとっては琉球に対する支配権を示す機会であると同時に、幕府にとっても将軍の権威を示す外交儀礼であった。また琉球にとっては、薩摩の支配を受けながら中国との関係を維持するという複雑な国際環境のなかで、自国の立場を維持するための重要な政治的・外交的な行為でもあった。
川崎宿での江戸上りの不思議
では、なぜ今、ここ川崎の地でこの「江戸上り」が再現されているのだろうか。私自身、最初は「かつての街道筋だったから」という歴史的な再現イベントなのだろうと思っていた。しかし調べてみると、そこには、江戸時代の宿場町としての歴史に加え、近代以降に育まれた川崎と沖縄との深い結びつきという、二つの大きな理由があることを知った。
第一に、川崎が東海道五十三次の2番目の宿場町「川崎宿」であったことである。元和9年(1623)に開設された川崎宿は、江戸と上方を結ぶ東海道の重要な宿場町であった。江戸へ向かう琉球使節にとって、川崎宿は江戸を目前にした最後の宿場であり、実際にここで休憩や宿泊をしていたという。
第二に、近代以降に育まれた川崎と沖縄との深い結びつきである。大正期、京浜工業地帯の形成にともない、川崎の紡績工場や製鉄・化学工場では大量の労働力が求められた。こうした産業構造の変化を背景に、沖縄から多くの若者が職を求めて川崎へ移り住み、定住する人々も増えていった。戦後もこの流れは続き、川崎は本土復帰以前から沖縄出身者の大きなコミュニティを抱える都市となった。
1949年には、川崎在住の沖縄県出身者によって「川崎沖縄芸能研究会」が発足し、エイサーや琉球舞踊などの伝統芸能が地域文化として根付いていった。こうした市民レベルの文化交流が積み重なり、1996年には川崎市と那覇市が友好都市協定を締結するに至った。産業労働史と文化交流の双方を通じて、川崎は沖縄と特別なつながりを育んできた。
2023年には川崎宿が起立400年を迎えた。そして今年2026年は、川崎市と那覇市の友好都市提携30周年という節目の年でもある。こうした歴史的なつながりを背景として、今回、川崎宿を舞台に「江戸上り」の再現行列が行われることになった。
川崎宿江戸上り行列の見学
以上の歴史的背景を踏まえ、ここでは当日に行われた行列の様子を記しておきたい。10月4日に開催された「川崎宿江戸上り行列」は、川崎市と那覇市の友好都市提携30周年、そして首里城正殿復元完成を記念する特別な行事である。約180年ぶりに、かつて琉球使節が歩いた東海道川崎宿に、その姿がよみがえった。
川崎宿は品川宿と神奈川宿に隣り合う宿場で、久根崎・新宿・砂子・小土呂の4町から構成され、宿場の長さは約1.4〜1.5kmに及んでいた。天保14年(1843)の『東海道宿村大概帳』によれば、人口約2,400人・戸数541軒を数え、規模は品川宿・神奈川宿より小さめであった。施設は本陣2軒、旅籠72軒、問屋場1か所、高札場1か所が整備され、六郷の渡しを控えた交通の要衝として機能した。参詣客で賑わう川崎大師道の分岐点を持ち、江戸近郊の宿場として独自の活気を示していたそうである。
今回の「川崎宿江戸上り」は、砂子一丁目交差点から東海道かわさき宿交流館方面までの旧東海道を舞台に、総勢50名を超える色鮮やかな一行が練り歩いた。史実の使節団は通常80人前後、最大で170人ほどであったから、今回の行列は往時の規模をそのまま再現したものではない。しかし、残された錦絵などを手がかりに、衣装や道具、行列の構成を現代によみがえらせようとする試みである。

(写真1:今回の行列が行われた旧東海道川崎宿の砂子町。現在の川崎駅からそれほど遠くなく、多摩川にも近い。)
行列が始まる交差点に近づくと、緊張した面持ちで、一行が列を整えていた。

(写真2:出発を待つ行列の一行。参加者は、沖縄の伝統芸能団体、重要無形文化財保持者、川崎在住の沖縄系住民、市民ボランティア、そして衣装・道具を再現した匠たちで構成されている。)
いよいよパレードが始まった。路次楽を奏でる楽人たちの音色が旧東海道に響きわたり、見物人にもその緊張感が伝わってくる。チャルメラの一種である哨吶(ツォナ)が奏でる「ピーラルラー」という甲高く躍動感あふれる音に心が躍り、続いて響く太鼓(タイコー)やシンバルのリズムが、会場のエネルギッシュなお祭り気分を一気に高めていく。最初は異国情緒あふれる音に一瞬身を固めていた見学人たちも、やがてその熱気に溶け込むように晴れやかな表情を取り戻し、思い思いにカメラやスマートフォンを向け始めていた。
砂子一丁目交差点を出立した一行は、初披露となる「江戸立装束」をまとった路次楽を先頭に、旗や儀仗持ち、国書を携えた掌翰使らを従えて進んでいく。

(写真3:路次楽の音色とともに、国書を携えた掌翰使の一行が川崎宿を行進する。)
掌翰使の従者から儀衛正の従者へと、川崎宿本陣宛ての親書が静かに手渡される。儀衛正を演じるのは、重要無形文化財「組踊」保持者の宮城茂雄である。一行が本陣に見立てた東海道かわさき宿交流館前に到着すると、まず琉球語で名乗りが響き、続いて川崎市長ら市関係者へ、大和言葉による感謝と寿ぎの口上が丁重に述べられた。最後に、再び琉球語で辞去の挨拶が告げられ、儀礼は厳かに終わった。

(写真4:儀衛正の登場と口上の奏上。)
江戸時代に街道を流れた琉球の風と、近代以降に川崎で育まれた沖縄文化。その二つの歴史が交錯するからこそ、現代の川崎で再現される『江戸上り』には特別な意味がある。首里城正殿の復元工事は9月末に完了し、11月には完成式が予定されている。復元が成った後には、正使・副使を擁する本来の使節団が、再び川崎宿の街道を行進する日が訪れるかもしれない。その日を期待しつつ、川崎宿を後にした。