bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

称名寺の黄葉を楽しむ

県立金沢文庫で運慶に関する講演があったので、ついでに称名寺の秋を楽しんだ。昨日(25日)は秋晴れの清々しい日で、ベンチに座っておにぎりを頬張った。近くではこの辺りの主と思われる猫が、邪魔な人が来たと言わんばかりの様子で、秋の温かい日差しをいっぱいに浴びていた。

称名寺は、北条氏の一族である金沢北条氏の菩提寺であった。一族は鎌倉ではなく、海洋交通の要所で風光明媚な六浦(当時はむつらといった)を拠点にしていた。草創の時期は明らかではないが、金沢氏の祖とされる北条実時(さねとき、1224~1276)が、六浦荘金沢の居館内に建てた持仏堂から発したと考えられている。実時の子の顕時(あきとき、1248~1301)の時代に、弥勒堂、護摩堂、三重塔などが建立された。さらにその子の貞顕(さだあき、1278~1333)のときに、伽藍の再造営が行われ、苑池を中心にして金堂、講堂、仁王門など、壮麗な浄土曼荼羅に基づく伽藍が完成した。しかし北条氏が滅亡したあとは維持が困難となり、江戸時代になると創建当時の堂塔の姿は失われた。現在の金堂は1681年、惣門(仁王門)は1771年、新宮は1790年、仁王門は1818年、釈迦堂は1862年に再建された。大正11年に国指定を受け、昭和62年に苑池の保存整備事業が行われた。

それでは、称名寺からの秋の便りを紹介しよう。
県立金沢公園からトンネルを抜けて称名寺境内に入ったところで、黄葉が見事な大きなケヤキ

お昼を一緒にした猫、

阿字ケ池越しに、そして稲荷山を背景に、反橋、平橋、金堂からなる伽藍、

3本のイチョウの大木は見事に色づいていた。

グラデーションが鮮やかなもみじ、

釈迦堂、

近いところから見たイチョウ

こちらはひねくれものの楓。紅葉することはない。謡曲「六浦」にその謂れが語られている。かつてはとても綺麗で歌にも詠まれたので、後進に道を譲り常盤木になったと伝えられている。

珍しい楷(かい)の木は、逆に、負けず劣らず頑張っていた。
この木は中国原産、日本ではあまり見かけないそうだ。孔子の逝去を悼んで墓所近くに様々な木が植樹された。そのひとつが楷の木で、孔子にちなんで学問の木と呼ばれている。

このあと、金沢文庫で、学芸員貫井裕恵さんから「運慶をめぐる史実と言説ー称名寺・鎌倉・東寺を中心に」を聴き、鎌倉時代の知識を深めて、金沢北条家の時代に思いを巡らしながら帰宅した。

家族システムの変遷(V):『中世武士たちの経済活動と基盤構造』について話しました

恒例のこととなったがある歴史のサークルで今年も「家族システム」に関連して発表を行った。退職後に始めた歴史の勉強も早いもので7年目となった。大学生に置き換えると、卒業したあと大学院に進んで修士論文を書く時期だろう。いまさらながらという気もするが、学校教育はとても効率的で必要な情報を過不足なく与えてくれるものだと感心している。それに反して今回の独学は、好き勝手なことができる代わりに、重要な事項がすっぽりと抜けていることが多く、あっちこっちに寄り道をしている感は否めない。

高校時代には、社会科は4科目の中から3科目を選択することになっていて、日本史は選ばなかった。大学受験は世界史と地理。日本史については、中学生と同じレベルの知識しかなく、退職後の勉強は一からのスタートだった。しかし学生時代の勉強と異なり、退職後の勉強は楽しい。特に面白いのは、進歩の度合いを客観的に見られることである。学生時代はともすると仲間との競争の面が強く、相対的にどれだけ理解が進んでいるのかを見がちであった。これに対して今回の日本史の学びは、どれだけの用語を脳に埋め込み、それらの相互の関連をどれだけ理解しているかなど、知識を構成していくシナプスの形成過程を客観的に観察することができ、とても面白い経験をしている。

発表に用いた原稿は下記のものだが、これだけだと硬い話になってしまう。特に聞き手は「うとうと」とすることが得意な高齢の方々が多い。しかし彼らはNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」には興味を持っている。そして小栗旬が演じる義時が、「あんなに優しかったのに、この頃は冷酷になったので、嫌いだ」と思い始めているようだ。そこで覇権を目指さざるを得なくなった人の不条理を織り込みながら話をした。

織り交ぜる材料に使ったのは、政治学ミアシャイマーの『大国政治の悲劇』である。とても簡単に説明すると、「国家間の紛争を抑止するような機関が存在しないアナーキーな世界では、大国は生き残りをかけてその国の体制に関わらず、覇権国を目指す」である。中世は自力救済の時代で、同じようにアナーキーな世界と考えてよい。御家人たちは生き残りをかけて、その人が優しい人かそうでないかに関係なく、覇権者を目指すという味付けをした。

発表は80分と長い時間だった。やはり眠りかける人もいたが、興味を引く話になると目を覚ましてくれた。中には食い入るように聞き入ってくれた方もいた。好評だったと思う。コロナが心配だったので二次会は遠慮したが、たくさんの人から感想を聞けなかったことが残念であった。

秋を楽しむために昭和記念公園を訪問

先週は素晴らしい秋晴れの日が続き、多くの人が紅葉を楽しむために出かけたことだろう。我々も金曜日(11日)にテレビで紹介された国営昭和記念公園に出かけた。国営公園というものを知らなかったので、国土交通省のホームページで調べると「国が管理する都市公園」となっていた。この公園は、米軍の立川飛行場跡の一部を整備したもので、1983年に開園された。

電車を利用して西立川駅で下車。平日だというのにたくさんの人が降り、こんなにも見学者がいるのだと、自分のことも忘れてただビックリ。入場料を払って入り口でマップを入手した。

入ってすぐのところにある水鳥の池。池の周りの樹木が色づいていて、ベンチに座っている人も穏やかな日を楽しんでいるように見えた。


地図を持って今日の目的地である「かたらいのイチョウ並木」に向かった。
イチョウ並木へ通じる橋、

イチョウ並木の入り口付近、

鏡が用意されていたので、イチョウと空を映す。

イチョウ並木の中央付近。秋の陽を浴びてイチョウの黄色が一段と際立つ。


パークトレインに乗って園内を一周。60分かけての園内巡り、子供向けなのだろうが乗っているのは我々も含めて老人ばかり。

日本庭園に入って紅葉を楽しんだ。モミジの赤と空の青のコントラストが素晴らしい。



グラデーションにも見ごたえがあった。

竹を使った芸術もあった。

盆栽も展示されていた。

かりんの見事な実。

庭園の池に映ったモミジ。

子どもの森のイチョウも見事だった。

原種のシクラメン

歩いている途中で銀杏の実を見つけたので、10個ほど袋に入れて持ち帰った。紅葉の美しさを楽しめただけでなく、秋の味覚まで手に入りラッキーな一日だった。この公園は桜もきれいなので、次は春に訪れようと思っている。

町田市郊外に秩父平氏ゆかりの大泉寺を訪ねる

秩父平氏のことを調べていたら、ゆかりの寺が近くにあることが分かった。NHK大河ドラマで、畠山重忠(中川大志)が北条義時(小栗旬)と戦った場面を覚えている人は多いだろう。今回紹介する大泉(だいせん)寺は、ドラマでよく知られるようになった重忠ではなく、その叔父の小山田有重を弔うために建立されたものである。そして秩父平氏が生まれた秩父から遥かに離れた町田市下小山田にある。

19世紀初めの新編武蔵風土記には、次のように記されている。小山田村の東北にこの寺があり、補陀山水月院と号している。曹洞宗で、入間郡越生(おごせ)龍穏寺の末山で、寺領として八石の御朱印を受けている。安貞元年(1227)に起立された。伝わるところによれば、この寺の境内には小山田別当有重が居住し、有重のために開基されたようである。有重の法諡(はふし)は大仙寺天桂椙公で、寺の名前はこれに由来する(仙と泉は同音)。開山の僧は無極と言い、永享二年(1430)に寂した。Wikipediaによれば、無極が室町時代に開山したが、それより以前にはこの地に真言宗高昌寺があり、1227年に有重五男の行重によって創建されたとなっている。

有重は、武蔵国多摩郡・都築郡にまたがる小山田保、武蔵小山田荘を支配して、小山田別当を称し、小山田氏の祖となり、その子孫からは榛谷氏・稲毛氏が分出した。なお保は、平安後期に律令制での郡郷組織の解体編成に伴って成立した国衙領の単位の一つ。保は開発領主による田地開発の申請が国主により認可されたことでたてられ、開発申請者は保司職に補任された(律令制での郡司に近い役割)。従って、有重は、小山田の土地の開発を行い、その領主となって、小山田保をたてたのだろう。

有重の父は秩父重弘、兄は畠山重能である。有重が史料に初めて見えるのは『保元物語』である。保元の乱(保元元年(1156))には三浦義明・小山田有重・畠山重能は参加しなかったが、敗者となった源為朝が、父の為義に対して、この三人らと談合して関東で抵抗しようと提案している場面が描かれている。なお、保元の乱での勝者は、後白河天皇藤原忠通源義朝平清盛源頼政信西などで、敗者は崇徳天皇藤原頼長源為義平忠正などである。

平治の乱(平治元年(1159))では、平家が勝ち、源義朝藤原信頼らが敗れた。『平家物語』『愚管抄』では、重能・有重兄弟は、平家の郎党と記されているので、勝者側であろう。源頼朝が挙兵(治承4年(1180))したときは、重能とともに京都で大番役を務めていて、平家の忠実な家人であった。武蔵にあった秩父一族も、頼朝挙兵のときは平家方であったが、そのあとすぐに頼朝に帰伏した。

吾妻鏡』によれば、一族が源氏方についたことから平家棟梁の平宗盛に拘束されたが、平家の家人の平貞能のとりなしによって、重能・有重・宇都宮有綱は東国へ戻ったとなっている。しかし『平家物語』『源平盛衰記』では少し異なって記されている。

また『吾妻鏡』には、頼朝による一条忠頼(甲斐源氏武田信義嫡男)の謀殺(元暦元年(1184))の場面でも有重は見られる。しかし、これ以降は有重が史料に現れることはない。

それでは大泉寺を見てみよう。
惣門。


立派な構えの仁王門。

本堂。

本堂前の羅漢像。古い写真を見るともっと数が多いのだが、どこへ行ってしまったのだろう。

宝篋印塔。

小山田氏は、畠山重忠の乱(元久2年(1205))のときに没落し、甲斐国都留郡に入部したようである。そのあとの動向は不明だが、南北朝期には『太平記』に小山田高家の逸話がみられる。建武3年(1336年)までに高家新田義貞に従ったとされる。そして湊川合戦のときに義貞の身代わりとして討ち死にした。
小山田城址高家碑。

鐘楼。寺にもITが??

観音堂。武相卯歳観音霊場の一つであり、来年はうさぎ年なので、開帳されて中の観音様がみられるはずである。

境内には山茶花がみごとに咲いていた。

かつては大泉寺の鎮守社だった上根(かさね)神社。

秋晴れの素晴らしい日だったので、このあと1時間ほど近くの都立小山田緑地を散策した。
杉の木立や雑木の林に沿って小高い山の道を歩いていくと、うさぎ谷に差しかかる。ここにはつり橋がかかっている。

初夏には黄色い花が咲くアサザ池。

里山の風景。この辺は谷戸が多いので、かつてはこのような景色があちらこちらで見られたことだろう。

豹模様の蝶を見かけた。ツマグロヒョウモンだろう。アザミの花と戯れながら秋を楽しんでいた。この緑地では、オオムラサキに出会うこともあるそうだ。

最後に、秩父平氏の広がりを見てみよう。

秩父という地点から、武蔵国一円に広がっていく様子を見ることができる。土地を新たに開発して開発領主となって発展したのであろう。小山田氏の繁栄は、大泉寺からわずかに知ることができるのみであるが、この頃の武士たちがどのような場所に好んで進出したのかを肌身で感じることができた。また秋晴れの一日を、都内では貴重ともいえる自然の中で満喫できた。これから紅葉もきれいになるだろうから、そのときにもう一度訪れようと思っている。

畠山重忠の館跡にある嵐山史跡の博物館を訪ねる

東京のはずれというよりも、神奈川県の中央部と喩えた方が適切な場所から、3時間近くかけて、埼玉県中部の嵐山町を訪れた。

ここは鎌倉時代初め頃に活躍した畠山重忠(しげただ)の館があったところである。また木曽義仲が誕生したところでもある。義仲の父源義賢(よしかた)はこの町の大蔵に館を構えていたが、兄の悪源太義平に攻め込まれて敗北を喫した(久寿2年(1155)の大蔵合戦)。このとき義仲は2歳で、義平の家来であった畠山重能(しげよし)、斎藤別当実盛(さねもり)のはからいで、母とともに信濃国木曽に落ち延びた。

畠山氏は秩父平氏の一族で、重能は重忠の父である。源頼朝が挙兵したとき、重能が京で大番役をしていたため、重忠は17歳で一族を率いて平家方として頼朝の討伐に向かった。頼朝は大庭景親(かげちか)に大敗して潰走した(治承4年(1180)の石橋山の戦い)。このとき三浦義明・義澄はこの戦いに間に合わず、引き返した。その途中で、由比ガ浜で重忠に遭遇して合戦となった。ここでは双方は死者を出して兵を引いた。重忠は、河越重頼江戸重長(いずれも秩父平氏)とともに、三浦氏の本拠の衣笠城を攻め、義明を打ち取った。

頼朝は安房国に落ち延びたが、千葉常胤、上総広常らを加えて大軍を組織し武蔵国に入ろうとした。このとき重忠は頼朝に帰服し、御家人となった。そして治承・寿永の乱(源平合戦)、奥州合戦などで活躍した。

武蔵国では比企氏と畠山氏が大勢力を張っていた。2代将軍頼家のとき、比企能員(よしかず)の変(建仁3年(1203))で比企一族は滅びた。3代将軍実朝の時代になったとき、北条時政が権力を握った。畠山一族を滅亡させて武蔵国を我がものとするために、時政は策略を巡らして重忠に鎌倉に参上するように命じた。重忠は鎌倉に向かう途中の武蔵国二俣川で、北条義時が大軍を率いて重忠討伐に向かっていることを知った。重忠はこの地に踏み留まり、少人数にもかかわらず奮戦したが、愛甲季隆に射られて討ち死にした。

嵐山町は以上のような歴史を持ち、これを伝えるために嵐山史跡の博物館が設置されている。「鎌倉殿の13人」で盛り上がっているこの時期、企画展「武蔵武士と源氏」が開催され、近くで講演会もあったので、チャンスととらえての見学であった。

とても可愛らしい嵐山駅

博物館全景

入り口近くで、畠山重忠のロボットが案内

平家に従っていた重忠が、白旗をあげて頼朝に参陣

奥州平泉出土の渥美焼袈裟襷文壺(左上)、常滑焼四耳壺(右上)、柱上高台(右下)、かわらけ(右下)

鎌倉出土の青白磁梅瓶

埼玉県吉見郡金蔵院出土の白磁四耳壺

黒漆太刀 銘 宝寿

畠山重忠奉納鐙

畠山重忠墓(模造)

二十八間二方白星兜鉢

馬場都々古別神社赤糸威鎧残闕

重忠が武蔵御嶽神社に奉納したとされる赤糸威大鎧(模造)

安達藤九郎盛長坐像

木造伝源頼朝像(北条時頼とも)

館外は、重忠の館があったとされる菅谷館跡。但し中世の館跡は発見されておらず、戦国時代のもの。


重忠像

このあと講演会に参加するために、国立女性教育会館へと向かった。国立の施設とあって、さすがに広く立派。

研修所

日本庭園

講演が行われた講堂

講演会のタイトルは「武蔵武士の中世ー鎌倉から室町へ」で、4人の講師の方からそれぞれ1時間ずつ話しを伺った。前々から知りたいと思っていた中世の武士団についての詳しい説明が含まれていて楽しんだ。埼玉県はかつての武蔵国の中心で、秩父平氏や武蔵七党が跋扈していた場所だ。武士団が活躍した地で講師の話を聞くと、臨場感があり、なるほどと納得することが多かった。しかし遠足とも思えるほどの遠さだったため、現地をゆっくり見る時間がなく、この点は残念だった。次に機会があれば、嵐山の街をじっくりと楽しみたいと思っている。

丸橋充拓著『江南の発展』を読む

世界の中での日本のGDP比は、ピークであった1994年には17.9%を占めていた。それに対して中国は2.0%であった。しかしこの構図は今では完全に逆転し、2021年には日本は5.1%、中国は18.1%である。経済・軍事大国として勢いを増す中国から逃げようとしても、物理的に離れることはできない。ロシアがウクライナに侵攻して東と西の対立が鮮明になるにしたがって、政治的には水と油の関係にある二つの国が隣り合って共存する方法があるのだろうかと思いを巡らすことがこの頃は多い。

先日、コロナ後の時代がどのようになるのかが知りたくて、朝日地球会議2022の録画撮りを聴講した。パネリストは、与那覇潤さん(評論家)、市原麻衣子さん(一橋大教授)、吉岡桂子さん(朝日編集委員)、そしてコーディネーターは長野智子さん。何と男性は一人だけ、これまでとは全く異なる光景を体験することになった。パネル討論に先立って、ドイツの哲学者のマルクス・ガブリエルさんと、人口統計学者のエマニュエル・トッドさんのインタビューが紹介された。彼らの話の中で、「ロックダウンは最悪、あれほどの人権侵害はなかった」と言っていたことが印象に残った。個を中心に考える彼らにとって、自由ほど大切なものはないのだろう。個と個とのつながりを大切にする日本人は、迷惑をかけないようにと自己規制する。このためコロナへの対応では、西洋と日本では異なることが多かった。

コロナ禍の中で大きく進展したのはオンラインによるコミュニケーションだ。便利なだけでなく、その弊害にも多くの人は気がついているようで、SNSは好きな人とだけ、興味のあるテーマだけ、素晴らしいと思っているものだけにつながりやすいと指摘されている。嫌いなものは面倒くさいことなので選ばれない、排除されるなどの傾向がみられ、これが社会の分断を招くと危惧されている。

我々が住んでいるコミュニティーは、隣の人を選ぶことはできない。偶然隣り合った人と、好きであろうと嫌いであろうと、付き合わざるを得ない。これはコロナと似ている。世界に蔓延してしまったコロナは、絶滅することはかなわず、ずっと生存し続けていくことだろう。われわれはコロナに偶然に罹患してしまう危険性に常にさらされている。しかしこれから助けてくれるのは、人間が持つ免疫力と、ワクチン。与那覇さんは、好きな人とばかり付き合うようにするのではなく、強制的に嫌いな人とも付き合うような、デジタル社会にしてはと述べていた。このとき、コロナと同じように、嫌いな人と付き合うためには、対応力(免疫力)とリテラシー・知性(ワクチン)が必要であると主張された。

各種の世論調査によれば、中国に対して良い印象を抱いている人は少ない。しかし中国が隣国という地理的関係は変えることができない。与那覇さんの言を借りれば、嫌いな国と付き合うためには、対応力とリテラシー・知性が必要だ。そこで、中国のことをもう少し深く知ってみようと思い、中国社会の原形が造られた時代について論述した丸橋充拓さんの『江南の発展』をもう一度読み直してみた。

丸橋さんは、中国の北と西の地域を「馬の世界」、南と東の地域を「船の世界」と呼んでいる。その二つの世界の真ん中は、「中原」と呼ばれる地域で、古代に古典国制が育まれたところである。馬の世界は遊牧(もっと北に行くと狩猟採集)を、船の世界は農業(水田稲作)、中原は農業(畑作)を生業としている。馬の世界ではシルクロードを介して、船の世界では海洋交通を利用しての貿易が盛んである。政治は中原あるいは馬の世界で権力を握った人々が行うことが多かった。船の世界の人々は、その配下に置かれることが多く、不満が高じた場合には、たびたび、大きな乱を起こした。

中国社会は、縦糸と横糸が織りなしていると考えることができる。縦糸は「国つくりの論理」で、横糸は「人つながりの論理」である。「国づくりの論理」は、一国万民で、一人の皇帝と、たくさんの民の一人一人とが、垂直的・放射状に主従関係で結ばれる。民は平等でそれぞれの間に差はないものとされていた。しかし、一人の皇帝と、膨大な数の民を主従関係で結ぶことは事実上不可能なので、官僚を通して、民は統治された。古代国家では、郷里制のもとに、郷や里を単位にして家々がまとめられ(編戸(へんこ))、それぞれに責任者の長が置かれた。さらにそれらの上部組織として県や郡が置かれ、そこの責任者は、官僚と呼ばれる人々である。中国の官僚制は、古くは貴族が牛耳り貴族制の存続を担保してきた。ところが唐から宋の王朝に移行したとき、いわゆる「唐宋変革」が起き、門閥主義から賢才主義へと移行し、科挙試験に合格すればだれでも官僚(士大夫(したいふ))になれた(大変な受験勉強をしなければならないので、実際は裕福な家の子供に限られた)。なお科挙の制度は、隋の時代に始まったが、唐の時代までは貴族は科挙の試験を受けずに官僚になれた。

人々は皇帝との主従関係だけでは生きていけず、相互に助け合う仲間を必要とした。このため幇(ほう)というつながりが隠れて作られた。幇は助けることを意味する。編戸に属す人々たちは、郷党や宗族を形成した。また税や兵役などから逃れるために、編戸から逃げ出したアウトローは、任侠的に結合した秘密結社を作った。官僚たちも朋党を作った。これらの任意団体は皇帝の圧政に耐えられなくなったとき、乱の主体となる。

「国つくりの論理」と「人つながりの論理」が、中国の歴史を貫く社会構造である。それぞれの王朝はこの構造の一つ一つの事例と見なすことができる。現在の中国社会もこれに通じるところがある。

『江南の発展』には、春秋戦国の時代から宋の時代まで、「国つくりの論理」と「人つながりの論理」を対比して、「船の世界」が描かれている。例えば、唐の国が亡びるころの対比は次のようになっている。

開元の治(国づくりの論理):第6代皇帝玄宗の8世紀前半に、募兵制(民の生活負担軽減)、節度使(異民族対策で辺境に配備)、括戸(逃戸の再把握による租庸調制の取戻し)などの新たな政策を導入し、開元の治と呼ばれる政治の安定期を迎えた。また漕運(自然河川・人工運河・海上交通を使用して米・秣・絹・粟などといった物資を輸送する行為)の制度改革を行い、江南の富を大運河経由で長安に円滑に輸送出来るようにした(これまでは水運の便が悪かったため、副都洛陽にその位置を奪われそうになっていた)。しかし玄宗はその後半は楊貴妃を寵愛するようになり、別の意味で長安の春となった。

安禄山の乱(人つながりの論理):玄宗皇帝の晩年は国が乱れ、安禄山が三地域の節度使を兼ね、大きな軍事力を擁するようになった。また宗室の李林甫、外戚楊貴妃一族、宦官高力士など私的な寵愛勢力も力を持つようになった。そして安禄山が乱をおこし、それは平定されるが、節度使軍閥化(藩鎮)し任地の税制を私物化した。

元和中興(国づくりの論理):藩鎮を抑えるために、戦火が及ばず無傷であった江南経済の再建が講じられた。8世紀の後半に、専売塩の間接税(官用物資を大運河で輸送するコストの捻出)、両税法(資産に応じて課税)などが導入され、江南の生産物を安定的に北送することが可能になった。9世紀初頭には憲帝によって、反抗的な藩鎮を制圧し、節度使の軍事的・財政権を削減して、「元和中興」と呼ばれる治世を迎えた。しかし些細なことから宦官に恨まれ殺害された。

黄巣の乱(人つながりの論理):宦官たちの力が強くなることに対し士大夫たちは対抗しようとするが、牛李党争(牛僧儒派vs李徳裕派)に見られるような派閥間での足の引っ張り合いをおこした。他方、基層構造でも、本籍地から逸脱したアウトローたちは、藩鎮や塩の密売集団に吸収されて膨れ上がっていき、裘甫(きゅうほ)の乱、龐勛(ほうくん)の乱、そして黄巣の乱が生じた。

上記のように、「国づくりの論理」と「人つながりの論理」を織り交ぜての説明が、春秋・戦国から南宋の時代までなされている。紙幅との関係で詰めこまれすぎているため、一行一行の記述が重く、姿勢を正してしっかり読まないと方向を見失うという難儀はあるものの、中国社会の構造とその上に築かれた歴史がよくわかる良書だと感じた。特に海上帝国へと進んだ南宋の時代は、鎌倉時代に大きな影響を及ばしたので、ワクワクした気分で読むことができた。さらには、現在に至っても社会構造の骨格が維持されていることが分かり、なるほどと感じた。

横浜市歴史博物館にプレ連続講座「鎌倉御家人の所領経営」を聴講に行く

横浜市歴史博物館は、この秋から開催する企画展「追憶のサムライ」に先立って、プレ連続講座を行った。先週末(9月17日)はその最後ということで、東大史料編纂所井上聡さんが「鎌倉御家人の所領経営」の話をした。話し上手な方で、またとても興味が湧く内容であった。話に惹かれ、久しぶりに身を乗り出し、一言一句に注意しながら、細かくメモを取った。

たびたびブログでも書いているように、今年は大河ドラマで鎌倉の御家人を扱っていることもあって、あちらこちらで関連のイベントが開かれている。それらのいくつかに参加したこともあって、随分と詳しくなった。しかし「武士」ということもあって、乱を扱ったものが多かった。どの様な事件があったのかについては詳細な知識を得たが、御家人はどのようにして生活が成り立つようにしていたのか、と改めて問われると、地頭として荘園の維持・管理をしたと言えるぐらいであった。まともな説明とは言えないので、もう少し突っ込んで知りたいとかねがね感じていた。今回の講演はまさにぴったりで、期待していた以上の知見を得た。

井上さんは、最初に「武士とは何か?」ということから始められた。我々が、学校教育で教えられた武士は、農村から登場し、荘園制と貴族社会を打ち壊し、新しい封建社会をつくった人々であった。自ら開発した農地を「一所懸命」に守るストイックな存在でもあった。

このブログの別の記事で、野口実さんの『源氏の血流』で紹介したが、近年においては「京武者」という言葉で表現されるように、武士は律令国家の武力組織からの転化と見なされるようにもなった。さらに最近になって、高橋修さんや田中大喜さんたちは、在地領主の領域支配の核に、流通・交通の結節点としての町場があることに注目して、開発領主・在地領主像の再検討をしている。そこには当初の農民から誕生したイメージはない。

これらを受けて、井上さんは次のように定義した。武士とは、開発領主・在地領主のうちで、中央集権や国衙とのつながりを背景に武力を持つことを承認された存在である。彼らは、都市を核とする荘園制の経済的ネットワーク(物流・交通・金融)を活用しながら、自ら都鄙を往復し、地域所領の開発・保存し、維持・経営した。

鎌倉時代の経済的な基盤は荘園制である。律令国家が始まってすぐあとに、墾田永年私財法(天平15年(743))が発布され、荘園発生の基礎ができた。摂関政治全盛時(11世紀)には、開発領主は有力貴族などに荘園を寄進するようになった。さらに院政期(12世紀)になると、上皇家・摂関家・大寺院などは、所有している小規模の私領を核に、広大な領域を囲い込み領域型荘園を誕生させた。

このころの荘園の所有関係を示すと次の図のようになる。本所は、今日の言葉で表すとオーナーで、荘園の実効支配者である。領家は、エージェントで、本所から荘園に関わる権利・利益の一部を付与されている。下司・公文(荘官)は、マネージャーで、現地管理者であり、井上さんの定義によれば、武士となる。

鎌倉時代に入っても荘園制は引き継がれた。鎌倉殿(鎌倉時代の将軍)と主従関係を結んだ武士は、特別に御家人と呼ばれた。鎌倉幕府成立以前には彼らは下司・公文であり、御家人となることで鎌倉殿より地頭職が与えられた。下司・公文は本所・領家から任命され、その身分は不安定であったが、地頭になることで本所・領家からの任命権が及ばなくなった。これにより地位が安定したため、本所・領家に納める年貢の割合を圧縮することが可能になり、実際実行された。

頼朝に地頭の設置が勅許されたのは文治元年(1185)である。地頭を頼朝の裁量で決められるようになったことが、鎌倉幕府にとっては最も重要なことであったと考えられるようになったのだろう。今日の教科書は、この年を以て鎌倉幕府のはじまりとしている(我々の世代はいい国(1192)造ろう鎌倉幕府だった)。このとき御家人には、関東の本領、平家没官領、源義経跡が地頭として与えられた。そのあと鎌倉幕府が対抗勢力を滅亡させるごとに 地頭は拡大した。奥州合戦(文治5年(1189))での勝利により奥州藤原氏跡が加わった。また承久の乱(承久3年(1221))では京方没収地が、新補地頭として与えられた。これにより御家人は、関東の本領のみならず、列島規模で所領を有するようになった。まるでバブルのように拡大した。

どの程度拡大したのかを見てみよう。安保(あぼ)氏は北武蔵の賀美郡を本領とする武士で、武蔵七党の丹党に属し、武蔵の典型的な武士団の一つである。安保氏が残した「安保文書」は、中世の武士の様子を知る上で貴重な史料である。安保光泰譲状(歴応3年(1340))から、鎌倉末期の安保氏の所領の分布を知ることができる。表で上の3国は安保光泰譲状によるものであり、他は表中に出展先が記載されている。井上さんは次のように領地を得たと見立てている。武蔵国は本領、出羽国奥州合戦で、播磨国近江国承久の乱で増えたもの。陸奥国は、鎌倉後期に得たものだろう。

安保直実は、歴応3年(1340)に、父光泰より次の領地を譲りうけた。

井上さんは、『太平記』(東国に居住して三百余箇度の合戦)、『東大寺文書』(播磨国大部荘地頭悪党交名→直実)、『祇園執行日記』(京四条に邸宅)、『余目(あまるべ)安保軍記』(余部安保氏の祖は直実)から、「直実は、武蔵と京都に屋敷をもちながら、播磨・但馬・出羽を股にかけ広域に活動した」と解釈した。そして本領と鎌倉・京都を軸に、所領のある地域を移動しながら支配の維持を図る姿が、鎌倉期以来の所領経営スタイルではないかと話された。

この見方を補強する例がさらに提示された。寺尾重員(為重)が、継母妙漣と異母兄弟重通から訴追された。その時の「尼妙漣等訴追状」(弘安元年(1278))から小規模武士の所領経営を伺い知ることができると説明された。なお寺尾氏は渋谷氏の庶家である。

少し寄り道をして、渋谷氏の家系を簡単に説明しておこう。渋谷氏は、桓武平氏の一流である秩父氏を祖とし、南関東に進出した河崎冠者基家が相模国に展開し、孫の重国が渋谷荘司となって渋谷氏を名乗った。源頼朝挙兵(治承4年(1180))のとき、重国は大庭景親らとともに平家方に与した。しかし佐々木定綱兄弟を庇護したこと、さらにはそのあと頼朝の麾下に入って子の次郎高重とともに戦功をあげたことなどが認められ、二人は御家人となった。そして重国は相模大名の地位を維持した。北条氏が和田氏を滅ぼした和田合戦(建保元年(1213))で、重国は和田義盛方につき戦死したが、太郎光重が渋谷荘を保った。北条氏が三浦氏を滅亡させた宝治合戦(宝治元年(1247))では渋谷氏は戦功をあげ、子の定心らは、千葉氏の旧領薩摩国薩摩郡入来院(いりきいん)、薩摩郡祁答院(けどういん)、薩摩郡東郷別府(とうごうべっぷ)、高城(たき)郡などの地頭となった。


さて本題に戻ろう。訴訟を起こされたのは定心の孫の重員、訴えたのは継母の妙漣とその子の重通であった。

訴えに対して重員は陳情で次のように反論した。(1)私為重(重員)が絶縁され、悪行を働いたというのは継母の嘘、(2)渋谷の屋敷もその他の所領も私のものなのに、継母が留守中に奪った、(3)幕府の召還に応じないと言っているが美作滞在中は何も言ってこなかった、(4)薩摩滞在中に、美作の妻に御教書を渡した、(5)私は強盗・山賊などではない、(6)判決が出るのは早すぎる、(7)妙漣・重通への譲り状が父親直筆というのは怪しい。

重員と妙漣・重通の一連のやり取りは、鎌倉時代の女性の権利が決して低くなかったことを説明するために使われることが多い。しかし井上さんは、そこに現れてくる重員の居所に着目した。鎌倉への召還から逃れるために重員は逃亡していると、妙漣は訴える。重員は、本領である相模渋谷荘から、入来年貢の中継地である備前方上津へ、そして所領である美作河会荘へ、さらに所領である薩摩入来院塔原村へ、最後に所領と思われる奥州へと移動している。重員は逃亡ではなく、いつもの行動と反論している。井上さんは、これから、鎌倉御家人による所領経営は安保直実や寺尾重員のようなスタイルが一般的で、「本領と京・鎌倉を軸に、所領のある地域を移動しながら荘園経営をしていた」と見ている。

飛行機も新幹線もない時代に、飛び廻るのは大変だったことだろう。しかしそれだけで全国に散在する所領を経営できるわけではない。それぞれの所領での生産を順調に進ませるための指揮も必要だし、在地での収穫を京(荘園領主への上納)や、東国・鎌倉(物資・富の移送)へ運ぶための流通も必要だし、幕府から要求される資金の提供に応じる必要もあった。このようにかなり複雑な荘園の経営をどのようにこなしたのだろうか。

安保氏のような小規模御家人がどのように荘園を経営していたかについての史料はこれまで見つかっていないので、井上さんは、延応元年(1239)の鎌倉幕府追加法「山僧・借上などを地頭代とすることを禁じる」に解決の糸口を見出した。山僧は比叡山延暦寺などの僧で経済的活動に長けており、借上は金融業者である。禁止の法律ができたということは、このようなことが横行していたことを示すもので、小規模御家人は、山僧・借上・商人などを地頭代にして経営を委託したと、井上さんは見ている。委託したことで、経営のプロである山僧・借上・商人に侵食されて、御家人たちの所領状況は悪化したと説明してくれた。

また、大規模御家人では、有能な経営のスタッフを抱えていたのではと見ている。千葉氏を取り上げて説明された。その内容に入る前に、ここでも寄り道をして千葉氏について簡単に説明しておこう。

千葉氏は桓武平氏で、平忠常の乱(長元元年(1028))をおこした忠常の子孫。千葉常胤は源頼朝の挙兵に応じ、下総の守護となる。同族の上総介広常が頼朝に討たれたこともあって大きく発展し、下総、上総、陸奥、美濃、伊賀、九州などの所領を得た。獲得した所領は、そのあと常胤の子の6人、胤正(千葉介)・師常・胤盛・胤信・胤通・胤頼がそれぞれ分割して受け継ぎ、それぞれの中心となる所領の地名を名乗った。胤正の孫の秀胤(上総権介)は、妻が三浦泰村の妹であったことなどから、宝治合戦では一族の多くが北条氏方につく中で、三浦氏に与した。秀胤の九州の所領は、先に見たように渋谷氏に渡った。なお胤綱と時胤は、家系図では親子としたが、吾妻鏡では兄弟となっている。

それでは元に戻ろう。有力御家人である千葉氏の場合には、中山法華経寺所蔵『日蓮聖教紙背文書』から所領経営の様子を知ることができる。千葉頼胤が千葉介を担っている頃と思われる文書の中に、家人の一人である西心(さいしん)が、やはり家人の富木常忍に宛てて、「介殿(千葉氏)が上洛のための銭200巻を介馬允(すけのむまのせう)という借上から替銭(支払い約束手形)で調達し、返済に小城郡の年貢を充てたので、借上が現地へ下向して銭の確保に奔走する様子」が書かれている。これに関連して、小城郡の人物とみられる弥藤二入道が返済に応じていること、しかし銭の調達が難しく、京都大宮の千葉氏の屋敷を質に入れ、利銭(借金)を調達することで馬允に返済しようとする様子が書かれている。

富木常忍の経歴を調べると、父の代に因幡国法美郡富城郷から上総に移住、常忍は識字率が高かったとされている。井上さんは、常忍は官人で、経営能力を有していたのではと見ている。そして経営能力を持ったスタッフ(吏僚)を集めて家産組織を編成し、金融業者による資金調達を媒介として、本領・鎌倉・京都を拠点に散在所領を経営していたとしている。しかしそれにもかかわらず、千葉氏の吏僚は、資金繰りの悪化に何度も直面した。やはり所領経営はなかなか難しかったようである。

13世紀後半以降、所領経営が特に難しい中小の御家人は、御家人の身分を維持しながら、北条氏の被官(得宗被官)として編成された。北条氏は、幕府内で最も多くの所領を列島各地に所有する存在で、(1)経営機関としての得宗公文所、(2)安藤蓮聖に代表されるような流通・物流に精通した被官の存在、(3)通用な交通路・津・港などの掌握によって、列島に物流・交通・金融のネットワークを構築した。人材・資金で劣る中小御家人は、北条家のネットワークを利用して所領経営を行ったと話してくれた。

14世紀中盤以降は、荘園制の最大庇護者であった鎌倉幕府・北条家の滅亡によってネットワークは崩壊、御家人らの所領も拠点所領の周辺に集約され遠隔所領は消滅、安保氏は本領である武蔵とその周辺地域に限定され、各地の安保氏は自立化(列島規模の移動は直実が最後)、また寺尾氏は薩摩入来院とその周辺にのみ集約され譲り状には遠隔所領も記載されるものの形式的なものとなったと、話を結ばれた。

武士を律令制度の武力組織の転化とする見方に対しては、在地領主・開発領主が武士から抜けているようで不満であったが、今回の井上さんの定義は分かりやすかった。また御家人たちが所領経営の上で、物流・交通・金融のネットワークを列島という広域にわたって構築・活用したことのすごさを知った。さらに列島を飛び回りながらネットワークを動かしていく御家人の躍動的な姿を浮かび上がらせてくれた。御家人たちの所領経営に関する理論的な組み立てを伺うことができ、久しぶりにすばらしい話を味わえて、有意義な一日であった。

あつぎ郷土博物館に縄文時代を特徴づける土器を観に行く

あつぎ郷土博物館に行ってきた(9月16日)。ボランティア仲間から特別展が開催されていることを聞き、そのホームページで調べたら終了間近だと分かったので、おっとり刀で出かけた。交通案内を調べたら途中の道路が渋滞していたので、電車・バスを使用した。

厚木駅北口から、あつぎ郷土博物館行きのバスを利用。どうせ空いているだろうと高を括っていたら、そんなことはなく、途中に大学があり通学生でほぼ満員。運良く座れたからよかったものの、そうでなかったら30分近く、若い人達の中に埋もれて立ち続けることになり、見学のための体力は失われていただろう。大学前の停留所に着き、列をなして学生たちが降りたあとには、やはり博物館を訪ねるのだろうと思しき身なりの方と私の二人が、ぽつんと取り残された。

さらに10分近く走った後、終点の博物館に到着した。ここの博物館は3年前に新築され、こじんまりとした綺麗な施設である。

館内には特別と常設の展示室がある。常設展では、1200万年前の化石から現在までの「あつぎ」の風土・考古・歴史・民族・生物について、分かりやすい構成で伝えている。今日の目的は常設展ではなく、特別展「有孔鍔(つば)付土器と人体装飾文の世界」である。縄文時代には、人々は1万年にもわたって定住型の狩猟採集生活をした。定住を始めたことで、採集に必要な道具だけでなく、生活を便利にさらには豊かにするモノを作り出して利用するようになった。その代表的なものが、移動には不便な土器である。縄文の人々は、様々な形態の土器を生み出したが、中期(4500~5500年前)には、口縁に孔が開きそして鍔を有する有孔鍔付土器を生み出し、さらには中央部に人体に似せた装飾を設けることもした。これらの土器は、関東地方や中部地方を中心に見られるが、出土量の多さでは中部高地が目立っている。今回はこれらも含めて展示されていた。

それでは展示を見てみよう。最初は、国重要文化財の有孔鍔付土器。甲府市の一の沢遺跡出土である。口縁の近くに孔があり、その下は鍔のように広がっている。

胴体部を拡大、目、口そしてまた目だろうか?

甲州市安道寺出土の山梨県重文、

胴体部、中央に見えているのは蛇だろうか?

山梨県大木土遺跡出土、

笛吹市釈迦堂遺跡出土、国重文のミニチュア有孔鍔付土器、

何に使われたのだろう?特殊な形をしている諏訪市ダッシュ遺跡出土(諏訪市博物館所蔵)、

渋さが優っている長野県井戸尻遺跡出土、

寒川町岡田遺跡出土、

厚木市林南遺跡第7地点出土(手前)

胴体部、両側に蛇?それとも両手?

有孔鍔付土器が終焉を迎えるころの伊勢原市西富岡・向畑遺跡出土の小把手付壺、

ここからは人体装飾文がより鮮明な土器たちである。
元代表だろうか?厚木市林王子遺跡出土、

胴体部を拡大、神奈川県立歴史博物館にある頭部だけの土偶(?)と表情がよく似ている。

国重文の笛吹市釈迦堂遺跡出土、

胴体部を拡大、横に広げているのは手だろうか?先端は手首のように見える。

平塚市上ノ入B遺跡出土、

胴体部、対称性を強調した抽象化された人間だろうか?構図がとても面白い。

相模原市指定有形文化財の大日野原遺跡出土の人体文付土器、

胴体部を拡大、きれいな幾何学模様だ。魚のようにも感じられる。

調布市指定有形文化財の原山遺跡出土、

胴体部を拡大、怒っているのだろうか?目と口を強調しているのが印象的。

諏訪市ダッシュ遺跡出土(諏訪市博物館所蔵)、

胴体部を拡大、ひょうきん!印象に残る表情である。

有孔鍔付土器はなぜ使われるようになったかについてはいまだに解明されていない。有力な説は太鼓。

もう少し有力な説は酒造。縄文後期になると、注口土器が現れる。これは酒を注ぐためと説明する研究者もいるようだが、果たしてどうなのだろう。

縄文時代中期の土器は、装飾性に優れていて、見る人の目を楽しませてくれる。今回の有孔鍔付土器も、胴体部の装飾から、この時代の人々の精神的な豊かさを伺い知ることができ楽しめた。常設展も厚木の歴史が分かり、優れた展示であった。

1時間おきにしか出ないバスに乗り込んで帰路に就いた。例の大学の前では、学生たちが長い列を作ってバスを待っていて、乗り切れない。朝にもまして詰め込まれ、学生たちは身動きができない。さらに途中の停車所からは、杖を突いた老人たちが、入り口のステップへと乗り込んできた。押し合いへし合いになるほどの混雑で、老人たちが転ばないかと心配になった。はるか昔の高校生のころにしか経験したことのないような光景に出会い、びっくり(もっともその頃は若い人だけで、老人が乘ってくることはなかった)。長い車中だったのだが、その長さを感じることはなく、学生たちの毎日の通学の苦痛とこの路線上に住む人々の不便さに胸が痛んだ。博物館の余韻もすっかり冷めたころ、終点の厚木駅に到着した。博物館で味わった楽しさと、満員のバスに対する不安・不満とが入り混じった、複雑な一日だった。

登呂遺跡を訪ねる

小学校の教科書で紹介されたこともあり、広く知られている登呂遺跡(静岡市)を訪ねた(9月11日日曜日)。ここは2000年前の住居・水田の跡が残る弥生時代の歴史的遺産である。東京を出たときは曇っていたが、三島を過ぎ、富士山が真横に迫ったころには、その山頂付近に雲がかかっているだけで、晴天。素晴らしい一日が期待できた。

車中で携帯を利用して、登呂遺跡の場所を確認する。静岡駅の南側、海側にある。

近くを安倍川が流れ、洪水に悩まされただろうと容易に想像できる。今昔マップで調べると、明治時代後半ごろは、一帯は水田となっている。

安部川の歴史を調べると、江戸時代に新田開発が始まり、それを洪水から守るために、山から海にかけて堤防(霞提)を築いたとなっていた。

博物館のホームページで確認すると、静岡平野は、安倍川と藁科川によって作られた扇状地で、2000年前には、自然堤防のような微高地に多くの集落が存在し、登呂遺跡はその一つとある。遺跡の集落は、弥生時代後期から古墳時代まで、4つの時代に分けることができ、その間に2回の洪水があり、ムラは壊滅的な被害を受けたそうである。復元されているのは1回目の洪水を受ける前の最盛期の集落である。

ついでに登呂遺跡発見の歴史も調べる。第二次世界大戦中の昭和18年(1943)に軍需工場建設の際に発見された。戦後の昭和22年(1947)に総合的な調査が行われ、80,000㎡を超える水田跡、井戸跡、竪穴住居12棟、高床倉庫3棟、農耕・狩猟・漁猟用の木製道具、火起こし道具、占骨などが発見された。平成11年に再発掘が行われ、銅釧、琴、祭殿跡などが新たに発見された。

静岡駅で新幹線を降り、タクシーで登呂遺跡へと向かった。北側エントランスから入り、弥生時代の復元された集落を見学した。手前に高床倉庫、奥に竪穴住居。右手の高床倉庫では、火おこし体験が行われてた。

高床倉庫、

竪穴住居、

内部、


祭殿、

水田、

博物館、

博物館屋上から見た登呂遺跡。

晴れあがった青空のもとゆっくりと集落を散策したあとで、博物館を見学しようとしたとき、ビックリするようなハプニングに見舞われた。入口では、強制的ではないが、体温測定ができるようになっていた。どの程度の体温なのかを知りたくて、帽子を脱いで測定機に顔を近づけたところ、けたたましく鳴り響いた。計測値を見ると、今までに経験したこともないような高い値が示されていた。陽当たりの強い中を歩き回った直後に、高い値が出ることは何回か経験していたが、これほどの値が出たのは初めて。もし本当だとすると、フラフラの状態で、歩くことはできないはず。計測器がおかしいと判断したけれど、周りにいた人たちは怪しいと感じているようで、身の置き場に困った。コロナが始まったころであれば、こちらにどうぞと言って隔離室に案内されそうだが、さすがに皆慣れてきたのだろう。警戒音がやむと、何事もなかったかのように、中断した作業を続けてくれた。

常設展示室には遺跡からの出土品が飾られていた。特に木製道具が優れていた。ネズミ返しもあった。


土器、

これで教科書にも載ったことのある登呂遺跡、大塚遺跡(横浜市)、吉野ケ里遺跡(佐賀県吉野ケ里町)の全てを訪れることができた。大塚遺跡は水田稲作が始まったころの典型的な特徴を有する環濠集落、登呂遺跡は弥生時代の特徴が水田稲作であることを改めて認識させてくれるシンボル的な集落、そして吉野ケ里遺跡は水田稲作が身分的な格差を生み出しクニのはじまりになることを教えてくれる発展的集落であった。これらを肌で感じることができ、小さなハプニングはあったものの、楽しい小旅行であった。

中島隆博著『荘子の哲学』を読む

小学校低学年であった孫と、桜吹雪の舞う小川に沿って家族で散歩していたとき、彼が風に舞う桜花に操られるように、あちらへこちらへ走り回り、やっと捕まえた数枚の花を、惜しげもなく川面に投げこんだ。透明に澄んだ水中では、春を楽しむかのように一匹の鯉が悠々と泳いでいた。まだあどけない孫が突然、花を目で追っている鯉に向かって、「コイさん、コイさん。ぼくのコイを受け取って」と呼び掛けた。周りにいた大人たちは、びっくり。少し間をおいて、ほほえましく感じたのだろう、ニコッと皆が笑った。孫の語りかけを、それぞれが持つ感覚で理解したようであった。

この場面は、ありえないことがいくつも組み込まれているために、超越的・神秘的とも思える異次元の世界を醸し出してくれる。小学生低学年の子が恋を知っているのだろうか。人間が話しかけたことが鯉に通じるのだろうか。投げ込まれた桜花は、孫と鯉とをつなぐ運命の赤い糸になるのだろうか。あれやこれやと、ありえない現実を前にして、普段では考えないような柔軟な発想へと、このときもそしてこのあとも、導いてくれた。

先日、中島隆博さんの『中国哲学史』を読んだ。なかなか面白い本だったが未消化に感じたので、別の本も読んでみようと思い、出会ったのが『荘子の哲学』である。

この本の中には上記の話とよく似た例が記載されている。結末を同じにするために、続きを付け加えてみよう。投げこまれた花びらを鯉が口に含んだのを見て、孫が小躍りして喜び、「鯉が僕の恋を受け入れてくれた」と言ったことにしてみよう。鯉が恋するわけはないとか、あるいは鯉の恋を感じ取った孫の感情を他の人が認識できないのだから何とも言えないなど、色々な説明がなされることだろう。

中島さんが言うところの荘子ならば、「一般的な世界では、鯉が人間に恋することはない。しかし、桜吹雪の中、苦労して採取した大事な花びらを、孫が熱い思いをかけて鯉に投じ、鯉が食べたということで、親近感漂う超越的な世界が生み出され、孫と鯉との間で意思疎通が叶った」と説明するだろう。

中島さんは、本人が変わるだけでなく本人を取り巻く世界も同時に変わっていくことの説明の中で、孫の鯉に似たような話をしている。そこでは魚(はや)の楽しみが分かるかについて議論しているが、かなりの紙幅をとって説明している。

孫の話は、単にませた子と考えてしまうと、どこにでも転がっていそうな話である。それではもう少し飛躍することにしよう。子供の頃に聞いたと思われるおとぎ話の「浦島太郎」はどうであろう。いくつかの伝承があるが、御伽文庫の原本では次のようになっている。

丹後の浦島に住んでいた浦島太郎は、漁師をして両親を養っていた。あるとき、亀を釣り上げた。殺すのはかわいそうなので、「恩を忘れるなよ」と言って逃がした。数日後、一人の女性が舟で浜にたどり着き、漂流したので本国に戻して欲しいと太郎に請願する。二人はその舟で竜宮城に着き、女性(乙姫)から夫婦になろうと言い出され、太郎はそこで乙姫と三年間暮らす。太郎は両親が心配だから帰りたいと申し出る。乙姫は、亀は自分の化身であったと告げ、決して開けてはならないと約束させ、玉手箱を渡す。浦島太郎は浜に帰るが、700年も経過していて、彼を知る人は誰もいない。約束を忘れて玉手箱を開けると、浦島太郎はたちまち老人に、そして鶴になる。同時に乙姫も亀になり、二人は不老不死の蓬莱山に向かった。

この話は、浜で普通の生活をしているところから始まる。亀を助けたことで、竜宮城で夢のような生活をする。元の生活に戻りたいと望んだ後、不老不死の鶴になった(戦前の尋常小学国語読本では、約束は守りなさいと言うことで、白髪の老人になったところで終わっている)。

下ごしらえができたので、ここからは荘子の基本的な考え方を説明をする。中島さんは「髑髏問答」を用いて紹介しているが、ここでは上記の浦島太郎を用いる。

荘子の思想は、道学と呼ばれ、「無」という考え方は重要である。この言葉は次の様に使われる(異なった定義のように感じられるが、実は一緒である)。(1)質量がない、すなわち存在しない。(2)二つの間に違いがない。(3)限りがない、すなわち有限ではないということを表す。(2)を数学の用語で表すと同値である。しかし数学の世界でも、どの分野で用いるかによって、その定義は異なる。

ユークリッド幾何学であれば、三角形の合同や相似である。位相幾何学では、粘土細工のように、延ばしたり縮めたりして同じ形になるものが同値である。代数的位相幾何学では、次元を無視して伸縮して同じになるものである。さらに高度に抽象化した圏論での随伴(adjunction)もその一種だろう。このように同値という概念は幅広く使われる。荘子は、数学の世界を越え、もっと超越的に同値、即ち、「斉同」を定義している。

浦島太郎の例を調べてみよう。太郎は、最初は漁師であったが、亀を助けたことにより、竜宮城で乙姫と夢のような生活をする。漁師をしていた時の浦島太郎は、その生活に徹することで満足していたであろう(本当か?という方もあるかと思うが、ここは道学・道教での道に従って太郎は理想的な人生を送っていると考えよう)。また、竜宮城では夢のような生活に徹することで満足していただろう。世界が大きく変わり、生活の仕方も変わっているのに、太郎は変わることなく生活に徹し満足していた。生活に徹し満足していたという点では同じなので、漁師のときも、竜宮城にいたときも、太郎(のあり方)は同じと見なす。同じように、鶴となった太郎も、不老不死を獲得したのだから、鶴に徹し満足していたはずである。従って、蓬莱山でも太郎は同じであった。

上記の説明を図で示してみよう。すなわち漁師から竜宮城へ、さらに蓬莱山へと移っていく彼の人生を、時計まわりに描いたのが下図である。このため、同値には方向性がある。漁師の太郎から見ると、竜宮城の太郎は同じといえる。同様に、竜宮城から蓬莱山を見たとき、太郎は同じである。しかし逆方向についてはそうとは言えない。このように荘子の同値には方向性があり、蓬莱山から見て竜宮城は同じとはならない。フランスの哲学者ジャック・デリダ差延(différance)と比較すると面白いが、たくさんのことを説明する必要があるので、ここでは残念ながらカット。

荘子の斉同は、A(浜での太郎)からB(竜宮城での太郎)へと自然に移行すると考える哲学者が多いが、そうではないと中島さんは主張する。AとBの間には区切りがあると説明する(ここが一番素晴らしいところである)。荘子は、Aが物化してBになると言う。物化を説明するのに、フランス哲学者ジル・ドゥルーズ微分という概念を持ち出す。ここでの微分は、いわゆる数学で一般に使われている概念とは異なり、理念をあらわにするための切断の作用と見なしている。似顔絵師は、顔の輪郭を利用して人物の特徴をとらえた絵を描く。輪郭は顔と背景とを分断する線である。数学では微分は連続域に対して定義するが、ドゥルーズはあえて不連続なところ(微分できないところ)を利用し大切だと言っている。

浦島太郎の話に戻ると、漁師と竜宮城、竜宮城と蓬莱山では、世界が明らかに異なり、それぞれの間に物化がある。別の世界へと飛び込んでいく境界である。この物化が、荘子の考え方の中で一番重要であると、中島さんは言っている。

この本の最後は「ドゥルーズが、蝶になって、窓から身を躍らせた」となっている。ドゥルーズが人から蝶への物化を試みている瞬間だが、自身の考え方を完遂したと見るべきなのだろうか。何とも恐ろしい結末だが、物化を際立たせる素晴らしいエンディングである。

最後にまとめると、斉同は時間が進む中での同値で、物化は異なる世界へ移っていったときの同値である。これを考えてはどうかとこの本は提案している。特に後者は非連続な空間の同値なので、自然科学分野に馴染んできた私には、まさかと思われる考え方だ。この本の冒頭で物理学者の湯川さんの話が紹介され、東洋哲学に馴染んでいたためにノーベル賞につながる新しい理論を築くことができたと述べられていた。飛び離れた考え方に接することで新しい考え方が生まれる。非連続な空間の中での同値という問題について、しばらく考えてみようと思っている。

東京・世田谷の九品仏浄真寺を訪ねる

今年は夏のはじまりも早かったが、秋のはじまりも早いようだ。いつも散歩をしている田圃の畔道に、お彼岸のシンボルともなっている曼殊沙華が早々と咲いていたので、目を疑ってしまった。

ボランティアをしているある会から近くの文化財を紹介して欲しいと依頼されたので、材料を仕入れるために九品仏(くほんぶつ)にある浄真寺を訪ねた(8月30日)。ここは、ちょっとおしゃれな自由が丘に近く、すこし足を延ばすと高級住宅街の田園調布もある。高校生の頃は等々力渓谷のコートでテニスに興じるために頻繁に近くまで来ていたのだが、当時は寺には興味がなく立ち寄ったことはなかった。近くの会社に勤めるようになってからも拝観に訪れた記憶はない。退職後に、懐かしい場所を訪ね歩いているとき、そういえば九品仏に行ったことがないと気がつき、ついでに寄ったことがある。恐らくこれが唯一の結節点だろう。

変わった名前のお寺という以外の知識しかなかったので、ホームページで調べ、由来などの情報を得て出かけた。最寄り駅は大井町線九品仏駅。この駅は二つの道路に挟まれているため、ホームは短く、自由が丘寄りの車両しか扉は開かない。駅舎もこじんまりしていて、都内とは思えない。

戦国時代には世田谷吉良氏系の奥沢城があり、浄真寺の境内には方形の郭跡が残っている。今昔マップで調べると、左側の明治42年の地図には、九品仏駅のあたりに、城前や千駄丸という城にちなんだ名前が見受けられる。現在の浄真寺の周りは住宅街となっているが、明治の終わり頃はまだ一面田圃であった。

新編武蔵風土記稿によれば、豊臣秀吉小田原征伐後に廃城となり、寛文5年(1675)に名主の七兵衛門が寺地として貰い受け、延宝6年(1678)に珂碩(かせき)上人が浄真寺を開山したとなっている。

またデジタル版日本人名大辞典によれば、珂碩上人は次のような人物である。江戸時代初期の元和元年(1618)に江戸に生まれ、大巌寺(下総国)の珂山上人の弟子となった。寛永13年(1636)に江戸霊厳寺に師とともに移り、阿弥陀仏造像の発願をして、30年間毎日3文ずつ貯え、さらには弟子珂憶(かおく)上人の協力を得て、寛文7年(1667)に9躯の阿弥陀仏像と1躯の釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)像を造立した。延宝6年に九品仏浄真寺を開山したのにあわせて、仏像も移設された。阿弥陀仏像9躯は、上品堂(じょうぼんどう)、中品堂(ちゅうぼんどう)、下品堂(げぼんどう)のそれぞれに3躯ずつ、釈迦牟尼仏像は本堂に安置された(珂碩上人が亡くなった後、珂憶上人がこれらの堂を元禄11年(1698)に造営した)。なお、珂碩上人は元禄7年(1694)に77歳で歿した。

それでは、浄真寺を訪問してみよう。改札を左側に出ると、参道の入口につながる。思ったいたよりも人が多いのにびっくり。

しばらくすると総門。

総門をくぐってすぐのところに、建て替えたと思われる焔魔堂(えんまどう)。

中にはそら恐ろしい閻魔大王

右側に懸衣翁、

左側には奪衣婆、

またご丁寧に三途の川も用意されていた。

しばらく行くと開山堂。珂碩上人が42歳のときに自彫した木造珂碩上人坐像があり、毎月7日の開山忌に開扉される。

そして寛政5年(1793)に建立された立派な山門としての仁王門(紫雲楼)、

一対の仁王像


建物の組物と獅子の彫刻、

欄間の彫刻、


風神・雷神も目立たないが仁王像の裏側に安置されていた。


宝永5年(1708)に建立された鐘楼堂。

そして境内に入る。もみじの並木だ。晩秋には紅葉し、素晴らしい景色を醸し出してくれることだろう。

元禄11年(1698)上棟の本堂(龍護殿)は改修中、

正面、

釈迦牟尼仏像、

本堂は法事中だったため、中に入ることができなかった。堂内には珂碩上人倚像がある。奈良時代に盛んであった乾漆造りで、江戸時代にはあまり例がない貴重な像である。

いよいよ、阿弥陀仏像である。3堂とも前述したように元禄11年(1698)の築である。先ずは上品堂、

弥陀定印の印相を結んでいる。

そして中品堂、

印相が説法印に変わった。

最後は下品堂、

来迎印の阿弥陀仏像。真ん中が抜けていて何か変だが、この像は現在改修中で戻ってくるのは2年後。

本堂の周囲には庭園があるが、現在改修中のため、極楽浄土を模した華麗な庭を見ることは叶わなかった。また、木造阿弥陀如来坐像(9躯)、木造釈迦如来坐像、木造珂碩上人坐像は東京都指定の文化財である。

最後に世田谷区の中世・近世の歴史をたどってみよう。室町時代の14世紀後半には、世田谷の領主は吉良氏で、矢倉沢往還(大山街道)の拠点である世田谷城址公園・豪徳寺一帯に館を構えていた。戦国時代の16世紀には、吉良氏が小田原北条家の支配下に入り、矢倉沢往還沿いに世田谷新宿が設けられ、楽市が開かれた。これは現在のぼろ市の起源となっている。世田谷新宿を管理するため、吉良家家臣の大場家が、世田谷新宿に移り住み、代官屋敷となった。江戸時代の17世紀になると、世田谷の村の半数は彦根藩井伊家の領地となった。世田谷領代官となった大場家は、230年間にわたって領内をまとめた。藩主の井伊家は世田谷村の豪徳寺菩提寺とし、大老井伊直弼も葬られている。豪徳寺近くの松陰神社には、吉田松陰墓所が置かれている。また若林村には萩藩毛利家の抱え屋敷があった。

世田谷の地はあまり馴染みがないが、これを機会に豪徳寺松陰神社を訪ねて、世田谷の歴史をたどってみたいと考えている。

野口実著『源氏の血脈』を読む

今年はNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』のお陰だろう、鎌倉時代に関係するメディアの露出が目立っている。それに引き付けられて、いつの間にか鎌倉時代に関する本をたくさん読んでしまった。仲間と談笑しているときに、気が付けばいっぱしの鎌倉ツウであるかのように説明している自分にハッとさせられる。

鎌倉殿の13人は、もちろん武士たちの物語。生き残りのためにライバルを蹴落としていく。蹴落とすといっても、崖から突き落とすのではなく、陰謀・策略を巡らして、惨殺するという恐ろしい事件の連続である。このようなことを日常としている武士たちの起源は、関東での平将門の乱(935~940)と、瀬戸内海での藤原純友の乱(939~941)であろう。この二つの戦いは歴史書には承平天慶の乱と記されている。一族同士での領地争いが私闘になり、さらに激化して朝廷から謀反と見なされるに至った。将門の乱を平定した平貞盛藤原秀郷従四位下従五位上に叙せられた。また純友の乱は追補使小野好古・次官源経基によって鎮圧され、経基は武蔵・信濃筑前・但馬・伊予の国司に任ぜられた。

平貞盛源経基の子孫からは、伊勢平氏河内源氏が誕生し、彼らは軍事貴族や京武者(院・摂関家に従属し、官職に関係なく軍事的に動員される武士)として活躍した。また平貞盛の叔父たちの子孫は、秩父平氏常陸平氏房総平氏・相模平氏と呼ばれる東国武士団になった。

東国武士団の地となった関東に、源氏が足場を築いたのは摂関政治全盛のころ。房総平氏常陸平氏との間での競合に切っ掛けがありそうだ。両者の間で私闘が高じたようで、朝廷から謀反と見なされ、平忠常(房総平氏)の乱(1028~31)となった。この乱を平定するために、平直方が追討使に任じられる。彼は、将門を打ち負かした貞盛を曾祖父とし、摂関家(道長・頼道)の家人で、軍事貴族(京武者)であった。しかし直方は失敗した。そこで河内源氏の流れをくみ、同じく摂関家の家人で軍事貴族(京武者)の源頼信が討伐を命じられた。かつて頼信が常陸介のとき、謀反を起こしている忠常はその部下であったようで、恩義があったのだろうか速やかに降伏した。

直方は、名誉挽回を期すために、頼信の息子の頼義を婿に迎え、さらには鎌倉の地を譲り渡した。そして三人の孫の八幡太郎義家・賀茂次郎義綱・新羅三郎義光の活躍によって、直方は面目を施した。

さらに世代を重ねて、平直方の子孫の一人は北条家の養子となり北条時政・政子へ、源頼信の子孫は義朝・頼朝へと繋がっていく。軍記や説話類では、東国武士団は前九年の役の頼義・後三年の役の義家らの源氏の大将との間で情宜的な主従関係を結んだとなっている(例えば義家と三浦平太郎為次・鎌倉景政)。しかし、これは源頼朝による捏造によってそのように仕向けられた結果だと川合康さんは『源平合戦の虚像を剥ぐ』で説明している。その理由に、平泉藤原家を滅亡させた奥州合戦での頼朝の進軍日程が、前九年合戦での頼義とのそれと合致させられていることなどをあげている。

前置きが長くなったが、野口実さんの『源氏の血脈 武家棟梁への道』は、源頼朝によって政治的に作為されたイデオロギーに基づく歴史観の視点からではなく、近年の研究に基づいて武士について考えなおそうとしている。近年の研究によれば、武士は生産・流通に依拠する都市的な存在であり、鎌倉幕府も平家政権と同様に国家・王権を守護するための軍事部門として成立したとしている。野口さんは、平家と同様に、鎌倉幕府も東国経営と在京活動を分業しようとしたのではないかとみている。

そこでこれを検証するために、鎌倉幕府が成立する前から考えてみようというのが、この本の主旨である。具体的には、保元の乱(1156年)で上皇摂関家側(藤原忠実・頼長)について敗北した為義、同戦で天皇側(後白河)について勝利したが平治の乱(1160年)で藤原信頼に与して敗北した義朝、鎌倉幕府を開いた頼朝、奥州藤原氏とともに滅亡させられた義経について述べられている。

ここでは源頼朝の一族ではなく、傍系の一族をみていこう。以下の図は、平直方の娘の婿となった源頼義からの家系図である。先に述べたように、頼義には、八幡太郎義家・賀茂次郎義綱・新羅三郎義光らの子がいた。そして義光からは佐竹・武田氏が、義家からは為義・義朝・頼朝一族だけでなく足利・新田氏も誕生する。

義家は、前九年の役後三年の役での奥州征伐で活躍した部将である。佐竹・武田氏の祖となる義光は、兄義家を助けるために後三年の役に参陣する。兄同様に朝廷からの許しが得られないなか、清原武衡・家衡を討つために陸奥国に東下して勝利した。しかし帰還命令に応ぜず、左衛門尉を解官(1087年)された。やがて京に帰った義光は、刑部丞・常陸介・甲斐守・刑部少輔の任を担い、従五位下に叙せられた。また後三年の役のち、常陸国の有力豪族である常陸平氏(吉田一族)から妻をむかえ、常陸平氏を自らの勢力とした。そして義光は常陸大掾平重幹(しげもと)と組み、常陸に遅れて進出してきた義家の子の源義国と争い、合戦となって両者ともに勅勘を蒙った。

義光の子の義業(よしなり)は、平重幹の子の清幹の婿となった。さらには上洛してきた平泉の藤原清衡の前妻を妻に迎えた。彼女は清衡との間に惟常(これつね)を儲けた。惟常は、清衡の後継者争いで基衡(清衡の子)に敗れたが、義業は惟常派の勢力を継承したと野口さんは見ている。義業と清幹の娘の間には昌義が誕生し、久慈郡佐竹郷を本拠とする佐竹氏の祖となった。昌義と藤原清衡の娘の間には隆義が、常陸平氏時幹(ときもと)の娘との間には義宗が生まれた。

義光のもう一人の子の義清は武田の祖となる。彼の母は常陸平氏吉田清幹の娘とされている(甲斐守知実となっている文献もある)。いずれにしても、平清幹は娘を、義光とその子の二代にわたって嫁がせたこととなり、在地親族の争いの中で家格をあげ、常陸平氏の中での家督と在庁官職の獲得競争で優位に立ったことであろう。

義清は、那珂川水運の拠点である那賀(吉田)郡武田郷を本拠とした。彼は、吉田氏や鹿島社大禰宜家と対立するようになり、その子の清光は乱行を働いたとして、義清とともに甲斐に移郷された。この地で在地武士の市川氏の支援を得て甲斐源氏の祖となった。五味文彦さんによれば、市川氏は甲斐国衙厩別当で、義清を婿に迎えた可能性が高く、また義光が仕えた六条顕季の子の長実が甲斐国知行国主であったことも何らかの影響があったのではとみられている。

足利・新田氏の祖となる義国の母方は、摂関家の家司(藤原有綱)で、上野国知行国主(日野家)の傍流である。このため義国が上野国新田郡に進出できたのは、母方一族の支援があったためと思われている。義国の子で足利氏の祖となる義康の母方は下野守の源有房、新田の祖となる義重の母方は上野守の藤原敦基であった。知行国府・受領にとっても軍事貴族河内源氏が両国に進出してくるのは、願ったり叶ったりであっただろう。

義国は、父義家が築いた北坂東を継承する役割を担っていたようで、先に見たように叔父義光・平重幹と合戦している。義光の郎党鹿島三郎(吉田清幹の子)が、義家の後継者とされていた義忠を殺害するという事件も起こる。これらは義家流と義光流の対立から生じたと筆者は見なしている。

義国は、義光の子の義業と同様に、京武者として活動、兵部丞・加賀丞・加賀介に任じられ、従五位下に叙せられた。義国の長男である義重は長く東国にあり、在京していた父に代わって所領の経営をした。義国の在京活動は35年に及んだが、しばしば東国に下向していたようである。下野国足利郡の所領を安楽寿院に寄進して、足利庄を立てた。

しかしこのような在地経営の積極化は、在来勢力との軋轢を生みだしたようで、義国の郎党と見なされていた秀郷流足利家綱との間で、伊勢神宮領簗田御厨の領主権をめぐる対立が生じた。これは先に見た武田義清常陸平氏吉田氏との関係に似た事件である。

義国の子の義康も後鳥羽上皇に仕える京武者として活躍、大膳亮・検非違使右衛門尉・蔵人に任ぜられ、従五位下に叙せられた。平清盛源義朝に次ぐ地位を得たが、死去により武家の棟梁になる夢はあえなく挫折した。

ここまでの話をまとめてみよう。源頼信を祖とする河内源氏は、軍事貴族・京武者として活躍した。その頃の東国では、開発領主から成長した武士団(秩父党、武蔵七党)が、家督や在庁官職(この二つは一体化していた)をめぐって、内部抗争を繰り返した。これを鎮静化するために、貴種である京武者の調停を必要とした(権力よりも権威をかざしての仲裁)。これに応えるように、河内源氏の一族は、京との交易に便利な拠点(京武者は多くの家人を抱えているため、その食料を調達するのに都合のよい場所)にしながら、留住(京と関東に拠点を以て居住)した。この状況を佐竹・武田氏と足利・新田氏を例に、本に即して詳しく説明した。この傾向は、義朝・為義・頼朝・義経河内源氏本流でも確認することができるが、詳しくは本を参照して欲しい。

先週の土曜日、講演会で東大史料編纂所の遠藤珠紀さんから「北条政子危篤と公家社会」の話を伺った。藤原定家の日記『明月記』の断簡が最近発見され、そこには北条政子が亡くなる直前の4日間の記載が残されていた。この内容をどの様に解釈したかについて話を伺うことができた。遠藤さんによれば、朝廷側にとっても政子の病状は重大な関心事で、北条側の六波羅探題関東申次西園寺公経、その家人の中原行兼などから正確な情報を得ようとしていることが伺えるとのことであった。そして朝廷と鎌倉の関係は、これまで考えられていたよりも、ずっと密であるというのが結論で、野口実さんの主張と重なるものであった。このことは、「朝廷と鎌倉の密な関係」が、最近の研究の一つの流れであると認識させてくれた。

秋になると、近辺の歴史博物館で武士をテーマに特別展が開催されるので、京武者と東国武士団についてさらに新しい情報が得られるのではないかと期待している。

横須賀美術館で「運慶 鎌倉幕府と三浦一族」を鑑賞する

運慶は、源頼朝から多大な庇護を受けたが、彼の作品はなぜか鎌倉にはない。鎌倉の近くでは、伊豆の願成就院と横須賀の浄楽寺にある。願成就院は北条氏の氏寺、浄楽寺は和田義盛夫妻の発願によるものである。和田氏は三浦一族であるものの、この寺は三浦氏の氏寺ではない。現在残されている運慶作の仏像は偏在しているように見える。どうしてだろう。この疑問を解くために、この二つの寺院のつながりを求めて横須賀美術館を訪れた。

この美術館では、特別展「運慶 鎌倉幕府と三浦一族」が開催されている。コロナがまだそれほどでもなかった頃に、特別展中に開催される講座に申し込んだところ、運よく当選した(この講座は人気があり倍率は2倍だったそうである)。しかし家からは遠く、マイカーでは帰りに居眠り運転の危険があり、電車利用では混雑に巻き込まれそうで、直前まで躊躇していた。それでも運慶の作品を観るチャンスはそれほど訪れないだろうと考えて、思い切って出かけた。

美術館は、観音崎灯台の近くにあり、前方に展開する海を広大な空間とし、建物の前面は緑豊かな芝生にして、巨大なキャンパスを作り出している。建物は自然との調和を考えて高さが抑えられ、後方の丘に溶け込むように造られている。これ自体が一つの美術作品となっていて、目を楽しませてくれる。


展示物は撮影禁止なので、ここからは文字だけとなる。講座で話をしてくれたのは、金沢文庫主任学芸員の瀬谷貴之さん。今回の展示は、横須賀美術館神奈川県立金沢文庫との共催で、金沢文庫でもこの秋に巡回展示の一環として特別展が予定されている。瀬谷さんの説明は歯切れがよくとても分かりやすかった。

彼の話をまとめると次のようになる。

NHK大河ドラマでは、坂東彌十郎さんが演じている北条時政は、とぼけていてなかなか面白く、人気もうなぎ上りである。近年、北条家の家系が詳しくわかるようになり、それによれば、北条氏は従来言われていたような田舎の武士団ではなく、名門の伊勢平氏の流れで、時政の祖父が北条氏の養子となり伊豆に住むようになった。このため時政は京および興福寺に親類・知人を有していた。一方運慶の父の康慶は、瑞林寺(静岡県富士市)の地蔵菩薩坐像を造立(治承元年(1177))しており、のちに鎌倉幕府の要人となる人達と繋がっていた。これらから北条と運慶一族には共通の接点があったと推測される。時政が願成就院を建立するときに、運慶が招かれて阿弥陀如来座像などを造立(文治2年(1186))した。

これより数年前に源頼朝は鎌倉に入り、鶴岡八幡宮寺を現在の地に遷し(治承4年(1180))、父義朝の供養のために勝長寿院を建立(元暦元年(1184))し、本尊を成朝(運慶とともに定朝の流れをくむが、成朝は嫡流)に造立させ、さらに奥州合戦をはじめとする怨霊・英霊を鎮めるために永福寺(ようふくじ)を発願(文仁5年(1189))し、本堂を完成(建久3年(1192))させた。永福寺は、奥州平泉の中尊寺大長寿院・毛越寺金堂円隆寺・無量光院などをモデルにして建てられ、宇治の平等院毛越寺に匹敵するような大寺院であったが、残念なことに応永12年(1405)に焼失し、運慶作の仏像も一緒に失われたようである(跡からは仏像の破片らしきものが出土)。歴史研究者の醍醐味は、失われたものを蘇らせることである。永福寺建立後に造られた仏像、特に模刻と思われる仏像を調べることで、失われた仏像を知ることができるというのが、今回の講座の主題である。

大河ドラマでは、横田英司さんが和田義盛を教養のない鬚もじゃな田舎侍として演じている。しかし初代の侍所別当(軍事・警察を担った組織の長官)に任じられていることを考えれば、武勇に優れ、人望もあり、教養もあったのだろうと推察される。また慈円の『愚管抄』によれば、三浦の長者となっているので、三浦一族の長者であったと考えられる。ライバルであった北条時政が願成就院を建立したことに対抗して、和田義盛もそうしたいと思ったのであろう。頼朝に願い出て、西に富士山が眺望できる横須賀の芦名に浄楽寺を建立した(日が没するとき、富士山と太陽とが重なり西方極楽浄土を醸し出す)。この寺には、阿弥陀三尊像とともに不動明王毘沙門天立像が伝来した。像の銘文には、和田義盛とその妻(武蔵七党小野氏の出)が発願(文治5年(1189))して、運慶が小仏師10人とともに制作したと記載されていた。これらの像は、運慶彫刻の新風を充分に含みながらも図像的に保守的な一面を保っていることから、勝長寿院に源流があると見られている。さらには模刻関係にあるという説もある。

源頼朝は恩義に厚い人だったようで、彼の挙兵に対して一命を捧げた三浦義明への供養として、供養堂を発願(建久5年(1194))した。満願寺はこれまで三浦義明の子である佐原義連の開基とされてきた。しかし満願寺から出土した瓦・大型礎石建物・観音菩薩腕釧さらには仏像高などが永福寺のものと類似していることが近年判明した。一方『吾妻鏡』には、鎌倉での永福寺造営が一段落しつつあった建久5年9月に源頼朝の意向で、衣笠合戦で落命した三浦義明の供養のために一堂を建立したとある。この一堂が満願寺ではないかと瀬谷さんは今回見立てている。そして髪際高185cmの観音菩薩像・地蔵菩薩像(これらは重要文化財、現存していないが中尊の阿弥陀如来像も含めて)は、永福寺のそれらと同じであったと推定され、運慶一門による作と見なしている。さらには佐原義連では永福寺と同じ大きさの像を作ることは許されず、この規模の像をつくれるのは頼朝以外にはないともみている。そして満願寺佐原義連の開基とされるのは、宝治合戦(宝治元年(1247年))で三浦氏が滅んだあと、佐原盛時(義連の孫)が再興したことに起因しているとしている。

ところでこれに関して一つの疑問がわく。衣笠城の近くにある満昌寺に三浦義明像がある。満願寺ではなくなぜ満昌寺なのだろうか。さらに、満昌寺は義明の菩提寺として頼朝が建立したとこれまで言われてきた。瀬谷さんの説明によれば、三浦義明が没してから間もなくのころ、亡くなった地(衣笠城)に近いこの場所に廟所が設けられ、この像も義明の神格化に伴い、鎌倉時代以降にこの廟所に安置されたとしている。現在は、義明像は満昌寺境内の御霊明神社に主神として祀られている。

横須賀の曹源寺には、永福寺の模刻と思われるものがある。この寺は、おそらくは郡寺に起源をもち、三浦氏ゆかりの寺院の一つと考えられている。ここには、十二神将像が伝来し、本尊の薬師如来坐像室町時代のものである。昭和57年からの修理のときに、十二神将像の戌神(実は酉神)から正安2年(1300)の修理銘が発見された。そこには建久の頃の仏(原文は仮名で書かれていた)であると記されていた。十二神将像の中で、巳神はひときわ大きい。特別な造像意図があると考えられ、巳時に生れて宗元寺(曹源寺)で安産祈願が行われた源実朝と関係があるとする説がある。さらに十二神将像は、北条政子を願主として、実朝の安産を祈願して建立された永福寺薬師堂の安置像と模刻の関係にあるのではとの指摘もされている。永福寺薬師堂安置の十二神将像は運慶一門の制作の可能性が高く、さらには北条義時の大倉薬師堂安置の十二神将像(建保6年(1218))にも影響を与えていると言われている。大倉薬師堂は現在の覚園寺である。2週間前に訪れた寺でもあり、思いがけず関連のある十二神将像に巡り合うことができ、親しみさえ感じた

運慶は、永福寺造営のあと、頼朝から手厚い支援を受けて、奈良と京都で東大寺大仏殿所蔵の造像(建久7年(1196)~)と東寺復興の造像(建久8年(1197)~)を行った。

今回の講座は、これまでの通説を破って源頼朝が発願した三浦義明の供養堂は満昌寺ではなく萬願寺であることを立証するもので、パズルを解くようなワクワク感がありとても面白かった。講座に先立って鑑賞した展示は、話の中に出てきた仏像をはじめとして、運慶と三浦氏の関連を時系列で追えるようになっていて楽しめた。残念ながら説明に出てきた寺院は訪れたことがない。今年の夏は特に暑いので、涼しくなったらと思っている。百聞は一見にしかずである。現地に行くことで、三浦一族の繁栄と没落が肌身で感じられることを期待している。身近に三浦一族の末裔(義澄の次男山口有綱の子孫)もいるので、興味は尽きない。

重要文化財・国宝にまつわる知識を深めるために覚園寺と金沢文庫へ

鎌倉のお寺でどこが一番好きかと尋ねると、詳しい人ほど覚園寺をあげる。コロナが始まる前は、寺僧の説明による拝観ツアーを楽しむ訪問者に評判だったお寺である。大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で中心となっている北条義時ゆかりの寺として、今年は賑わうことであろう。

北条義時晩年の頃に、三代将軍実朝が暗殺されるという事件が起きる(建保7年(1219))。実朝とともに源仲章が殺害されるが、これは義時と思い、間違って討ったのだろうと伝えられている(愚管抄)。この殺害を『吾妻鏡』では一つの物語として記述している(神に守られている義時を演出するためのおそらくは粉飾だろう)。

吾妻鏡によれば、義時はこの事件の半年前、来年の参詣には参加しないようにと、十二神将の戌神将(じゅつしんしょう)から、夢の中で告げられた。義時はお告げを信じて、大倉薬師堂を建立し、運慶作の薬師如来像を安置した。翌年の1月27日に、実朝の右大臣昇任を祝って、鶴岡八幡宮拝賀が行われた。八幡宮の楼門に入ったとき、義時は具合が悪くなり、御剣役を仲章に譲って退去した。このとき夢に出た白い犬が将軍のそばにいるのをみている。しかもそのときは大倉薬師堂には戌神がいなかったと伝えられている。戌神が見事に義時を守ったということだろう。そのあと大倉薬師堂は、9代執権貞時(時宗後継)が元寇を退けることを祈って、寺に改められ、心慧上人を関山とし覚園寺となった。

このような逸話をもつ覚園寺は、実朝殺害の場面が放送されるであろうこの秋から冬にかけて訪れる人は格段に増えるだろう。そこであまり知られていない今のうちにと思って、梅雨の戻りと思える先日(7月12日)、思い切って出かけた。また、神奈川県立金沢文庫では「兼好法師徒然草」の展示があると聞いていたので、三浦半島の付け根を横断して北条家ゆかりの二か所を巡ろうと少し欲張ったみた。

出発地は鎌倉駅。東口の改札を抜けると、待っていたかのように鎌倉宮行のバスが目の前に入ってきた。短い列の後ろについてバスに乗り込む。発車までしばらく時間があったので、鎌倉宮から覚園寺までの道を確認する。このお寺を以前に訪れた記憶はない。この近くは何度か訪れているが、覚園寺口からの天園ハイキングコースの方が、特に若いころは、心身とも惹かれた。

バスは若宮大路を通り、鶴岡八幡宮の前で右に折れ、金沢街道に入る。いつもは八幡宮の前は人であふれかえっているのだが、少し早めのこともあり、それほどの人込みではない。幸いに渋滞することもなくバスは快走した。「分かれ道」というところで、金沢街道から離れ、鎌倉宮へとまっすぐに進む。道が細いために、対向車があると、少し広くなった場所で待機し、相手の車をやり過ごす。10分も経過しただろうか、終点の鎌倉宮に到着した。

覚園寺へは、停留所の左側の道をまっすぐに進んでいけばよい。古くから残っている鎌倉の道には側溝がある。ここも例外ではなく、水がいかに貴重であったかを思い出させてくれる。川端康成の邸宅もかつてはこの道沿いにあり、文豪たちが好んでここに集まったことだろう。道は狭くて車一台がやっと通れるぐらいである。運悪く車に出会ったときは、側溝にかかる橋を近くに見つけ、すばやくそこに待避し、やり過ごすことになる。

しばらく行くと山門が見えてきた。谷の奥深くにある山寺に到着したと感じた。

山門の近くにある九重石塔。

受付で拝観料500円を支払う。ここから先は祈りの場なので撮影は禁止。パンフレットに記されている地図を参考に、受付で境内の廻り方を教わる。一番最初に訪れたのは、地蔵堂。ここには「黒地蔵」と通称される木造の地蔵菩薩立像(国重文)が安置されている。8月9日の夜半過ぎから10日の正午まで黒地蔵尊縁日が開催されるそうなので、浴衣姿で夕涼みがてら、多くの人が訪れることだろう。鎌倉の風物詩の一つになっているようだ。

地蔵堂の横には、お地蔵様の分身を千体近くまつっている千体堂がある。さらにその近くに十三仏やぐらがある。洞窟と思えるぐらい大きなやぐらである。

次は内海家。1706年に鎌倉の手広につくられた農家で、1891年に解体されて、ここの境内に移築された。桁行9間半、梁行5間の規模で、代々名主などの村の要職を務めた家柄の民家である。神奈川県立歴史博物館にその模型がある。また同博物館には、手広村の検地帳や年貢皆済目録なども展示されているので、同村の江戸時代の様子を知ることもできる。

最後は薬師堂。お坊さんに頼んで説明をして頂いた。ユーモラスなお坊さんで、最初はなんとクイズ。薬師堂の横にある槙の大木を指して、樹齢何年でしょうという問いであった。鎌倉時代が始まってから数えて800年ぐらいたつので、そのくらいですかと答えると、正解だった。

そして薬師堂について説明してくれた。禅宋様建築で、茅葺、寄棟造、方五間の仏堂。真ん中の一間が広いのが特徴。中央三間は花頭枠付きの引き戸で、中央が一回り大きい。柱の下端はそろばん玉のように見える礎盤で保持され、柱上と柱と柱の間にも組物を置いた詰組となっている。この堂の前身は文和3年(1354)に足利尊氏によって建立され、江戸時代の文禄2年(1689)に古材を再活用して改築されている。

堂の中に入る。入ったところでお詣り。本造薬師三尊坐像の説明を受ける。三尊とも国の重要文化財。寄木造、玉眼、法衣直下の宋風様式。薬師如来は右手を上げ左手を下げる施無畏与願印が一般的だが、ここの薬師はお腹の前で両手を組む法界定印で、手の上に薬壺をのせている。像の高さは約180cm。薬師如来の脇には、日光菩薩月光菩薩。それぞれ脚を崩して安座している。像の高さは約150cm。薬師如来は、頭部は鎌倉時代、体部は南北朝から室町時代の作と推定されている。日光菩薩は、応永29年(1422)仏師朝裕の作であることが判明している。月光菩薩も、同時期・同人の作と考えられている。

堂の両側面には、木造十二神将立像がある。これも国の重要文化財十二神将薬師如来および薬師経を信仰するものを守護する仏尊である。それぞれの神将にはバサラなどのようにサンスクリット語で名前がついている。しかし馴染みにくかったので、同数の12を有する干支を用いて呼ぶようになったとのことであった。例えば、バサラは、戌神将と呼ばれる。覚園寺十二神将の頭には、干支の動物がのっている。仏師朝裕によって1年に一体ずつ、12年かけて作られた。

薬師三尊坐像の右側の隅の方に、川端康成が愛した鞘阿弥陀仏がある。これは明治初期の廃仏毀釈によって廃寺となった近隣の理智光寺の本尊からの客仏で、鎌倉時代から室町時代にかけて作られたとされている。この像の中に、もう一つの阿弥陀が胎内に納められていたので、鞘のようだということで、鞘阿弥陀仏と名付けられた。

反対側の左奥隅には、触れると病が治る木造賓頭盧尊者像(びんずるそんじゃぞう)、寺院の建物を守る木造伽藍神倚像がある。これまでの仏と容貌が異なるので、お坊さんに聞いたところ、儒教の影響を受けているとのことであった。

お坊さんから一通り説明してもらったあと、もう一度丁寧に拝観して、受付の外に出た。ここは撮影が許される。

愛染堂は、元々は大楽寺のお堂で、廃仏毀釈によって、覚園寺に移築された。中には愛染明王が安置されている。

また、隣の三蔵には、北条のミツウロコの暖簾があった。

山門に向かっての風景。

重要文化財の像に満足したので、覚園寺を後にして次の目的地へ向かうために、金沢街道の「分かれ道」に戻る。ここは、鎌倉駅金沢八景駅を結ぶバスが通っている。鎌倉北東端の集落である十二所(じゅうにそ)を抜け、川端康成が眠る鎌倉霊園を通り、朝比奈の急坂を対向車を気にしながらバスはくねくねと曲がりながら下ってゆく。近くには、かつて鎌倉と六浦の間の交通路として重要であった朝夷奈の切通しがある。坂道を下り終わり、横浜横須賀道路の朝比奈インターチェンジを過ぎてしばらく行くと、そこは横浜市金沢区六浦である。鎌倉時代には、金沢北条家が栄華を誇った地である。六浦は、かつては「むつら」と呼ばれ、名所の一つに数えられるほど風光明媚なところであった。しかし、江戸時代からの干拓によって内海の大部分は失われ、現在では住宅が広がっている。下図は横浜市歴史博物館鎌倉時代の六浦のジオラマ

金沢文庫は、鎌倉時代中頃に、金沢北条家が集積した文書を収納するために、邸宅内に建てられた文庫である。吾妻鏡は蒙古襲来の前までの歴史書で、それ以降を記述した貴重な史料は、金沢文庫に納められているたくさんの古文書である。その中から、卜部兼好に関する記録が見つかり、今まで伝えられていた吉田兼好の履歴は捏造されていたことが判明した。神奈川県立金沢文庫では「兼好法師徒然草」の展示を行っていて、兼好法師の本当の履歴が分かる史料を開示している。それを確認するために、鎌倉からバスを乗り継いで、お昼を我慢して、やっとたどり着いた。

兼好法師は、これまでの説明では、鎌倉時代の後期に、京都・吉田神社神職の卜部家に生ま れ、六位蔵人・左兵衛佐となって朝廷に仕え、そのあと出家して「徒然草」 を表したとなっていた。しかし小川剛生さんの『兼好法師』によれば、それは捏造で、若いころの兼好は金沢北条氏に被官して過ごしていたことが、金沢文庫に収納されている国宝「称名寺聖教・金沢文庫文書」から分かるということであった。これまでの謎を紐解いた古文書の殆どが紙背文書で、読みにくいものも沢山ある中で、よくぞ読み解いたと感心させられた。また、かくも長きにわたって、吉田兼好として説明されてきたものは、意味があったのだろうかと強く感じた。論理学の世界では、「偽」の上に造られた話は、「真」ということになっているが、500年にも及んだ騙し、騙された歴史は何だったんだろうと、深く悩まされることとなった。

訪れる人が少ない鎌倉の名刹を巡る

梅雨の時期、雨を心配しながら、2回に分けて鎌倉巡りをした。1回目は鶴岡八幡宮を中心に、鎌倉幕府が設けられた三か所(大倉幕府・宇都宮辻子幕府・若宮大路幕府)と、鎌倉殿の13人に出てくる有力武士の邸跡を訪ねた。2回目は北鎌倉駅を出発点にして、小雨の中を大勢の観光客にもまれながら明月院の紫陽花を楽しんだあと、亀ヶ谷坂切通しを抜けて、訪れる人が少ない寺院を散策した。

今回のブログでは、あまり馴染みのない寺院について紹介しよう。歩いたコースとは異なるが、これらの寺院を訪れるとすると、下記のような経路になる。

最初に紹介する寺院は、妙法寺本願寺である。この2寺は小町大路(たくさんの観光客が行きかう小町通りではなく、若宮大路を挟んで反対側)に沿ってある。鎌倉時代には、段葛で知られる若宮大路は高貴な身分の人のみが通れる道で閑散としていたのに対し、小町大路は武士や町人など多くの人が行きかい、幕府があった大倉御所から港となった和賀江島へと通じる道であった。本願寺のあたりは、山側の武士の館と海側の町人町(大町と呼ばれた)との境で、ここには夷堂(えびすどう)があり、商売繁盛の神である恵比寿神が祭られていた。また小町大路には、この2寺も含まれるが、日蓮宗の寺院が多い。多くの人が行きかう場所で、布教活動をしたのであろう。

妙本寺は、比企谷(ひきがやつ)にある。開山は日蓮上人、開基は比企能員(よしかず)の末子の能本(よしもと)である。NHK大河ドラマ「鎌倉の13人」では、佐藤次郎さんが、ちょっとつかみどころのない男にして、能員を演じている。能員は源頼朝の乳母であった比企尼の猶子で、2代将軍となる源頼家の乳母夫である。また娘の若狭局は、頼家の側室となり嫡子の一幡を産む。一幡がもし将軍になると、能員は外祖父となり、幕府を牛耳るような権力を持つことが予想された。これを恐れた北条時政とは対立する関係になり、比企の乱が起きて比企一族は滅亡した。しかし能本のみが生き延び、のちに比企一族の鎮魂をこめてこの地に妙本寺を建立した。

比企の乱は『吾妻鏡』によれば次のような経過をたどった。建仁3年(1203)に頼家は危篤状態に陥ったので、時政は頼家遺領分与を決定した。これに不満を持った能員は、頼家に時政の謀反を訴え、時政追討を命じさせた。これを襖の陰で立ち聞きした政子が、時政に告げた。これを知った時政は、仏事の相談があるとして、自宅の名越邸へ能員を呼び出した。密議が漏れていることを知らない能員は、武装せずに平服のままで時政の屋敷に向かった。門に入ったところで殺された。比企一族は屋敷にこもって防戦したが、大軍に追い詰められ、一幡を囲んで自害した。

妙本寺祖師堂、

祖師堂の構造物、

二天門、

境内に咲いていた珍しい八重のドクダミ

次は本覚寺(ほんがくじ)。ここには先に述べた通り夷堂があった。頼朝が、幕府の裏鬼門にあたる方向の鎮守として、天台宗の堂を建てた。佐渡に流されていた日蓮が戻ってきたときに、ここに滞在し説法の拠点とした。そのあと一乗房日出(にっしゅつ)が日蓮ゆかりの夷堂を天台宗から日蓮宗に改め、本覚寺を創建した。

本覚寺本堂、

武家門様式の裏門。

比企谷を後にして、鎌倉五山寿福寺に向かう。開基は北条政子、開山は栄西栄西臨済宗の開祖として有名であるとともに、廃れていた喫茶の習慣を再び伝えたことでも知られている。
寿福寺仏殿、

綺麗な石畳。桂敷きと呼ばれる技法で、外側は一直線になっているが、内部は不規則に石が並べられ、それが醸し出すパターンが奥ゆかしい美を感じさせてくれる。

中門から見る庭園。

次は扇ガ谷(おおぎがやつ)にある浄光明寺。ここには国の重要文化財に指定されている阿弥陀三尊像がある。訪問した日はこれらを拝観できず残念であった。阿弥陀如来の脇待坐像である勢至菩薩は、神奈川県立歴史博物館に複製があり、写実的な姿を楽しむことができる。
光明寺本堂。
      
違和感を覚えたのが境内にあった楊貴妃観音であった。(観音)菩薩は、釈迦になることを約束されて、衆生を救うために修行を重ねている人だが、傾国の美女である楊貴妃がこれにあたるのだろうかと疑問に思った。同行者が道教からの影響と説明してくれ、納得した。

最後は扇ガ谷の北、風光明媚な渓間(たにあい)にたたずむ臨済宗海蔵寺である。真言宗の寺跡であった渓に、鎌倉幕府6代将軍宗尊親王の命により、七堂伽藍が再建されたが、鎌倉幕府の滅亡のときに消滅した。室町時代鎌倉公方足利氏満の命により上杉氏定が再建した。開山は心昭空外である。

寺の傍には、鎌倉十井の一つである底脱(そこぬけ)の井がある。安達泰盛の娘・千代能が、水を汲みに来たときに、水桶の底がすっぽり抜けたので、「千代能がいただく桶の底脱けて、水たまらねば月もやどらず」と歌ったことから、この名がついたと言われている。鎌倉は海岸が近いために、水は塩分を含んでいることが多く、良い飲み水を得ることが困難であった。良質の水が出る井戸は貴重で、優れた10ヶ所の井戸は鎌倉十井と呼ばれた。

海蔵寺本殿、

仏殿。内部に薬師三尊が納められている。

鎌倉は狭隘で、墓地にさける平地はなかったので、崖を掘ってやぐらを作った。

鳥居もやぐらの中に納まっていた。

庭園が素晴らしかった。




花もきれいだった。珍しいイワタバコ、

菖蒲、

紫陽花。

また16個の井戸を持つ十六井戸もあった。

コロナもだいぶ落ち着いてきたことと、今年の大河ドラマの舞台が鎌倉であることもあって、小町通り鶴岡八幡宮、長谷の大仏を初めてして人気のあるところは、人でいっぱいである。古都鎌倉の風情を楽しもうとする人にとっては、何とも残念なことだろう。しかしこのようなときは、あまり知られていないが、鎌倉らしいところを訪ねるのが良いと思う。今回紹介したところはそのようなところで、人気のスポットから少し外れているために、鎌倉を良く知っている人しか訪れないとっておきの場所だ。特に最後に紹介した海蔵寺は、鎌倉の寺院の中では室町時代と比較的新しいが、鎌倉時代の寺院(例えば円覚寺舎利殿)と比較することで、様式の変化を楽しめることだろう。