3年前、フランスの作家・テリエさんが書いた『異常 アノマリー』が日本でも評判になった。彼はフランスで最高峰の文学賞ともいえるゴンクール賞を、2020年にこの小説で受賞している。多くの書評で紹介されているので、読まれた方も多いことと思う。私も友達に勧められて、楽しく読んだ。読後感は、「デリダの差延(彼の造語でdifféranceと綴る。différerが異なるという意味と遅らせるという意味を持っていたので、差異+遅延を意味する名詞を作りだした。)という言葉を、推理小説のなかで素晴らしく上手に表現している」である。この本は筋を追っていくことに醍醐味があるので、タネを明かしてしまうと読む楽しみが半減してしまう。したがって、触れない方がよい。
しかし、今日の話題を進めるためには、少しだけその筋を説明しなければならない。この本には、殺し屋、小説家、建築家、弁護士など関連のなさそうな11人が登場する。そして、三部構成になっている。第一部では、それぞれの人のこれまでの人生が綴られる。そして、彼らは一つの事件を共有する。同じ飛行機に乗り合わせ、その飛行機は乱気流に巻き込まれてしまう。第二部では、この事件の3か月後の彼らの姿を描き出す。最後の第三部では、3か月後にタイムスリップした人々と、事故直後の彼らとの出会いが語られる。この出会いの部分はスリリングでとても面白い。本の中で楽しんで欲しい
この本が刺激的だったこともあり、しっかりと頭の中に記憶されていたことと思う。といっても、最近では思い出すことはなかった。そのようなとき、妙な夢を見た。数学での虚の世界が、何の脈略もなく、登場した。起きてからなぜだろうとしばらく考えた。先日、この本を勧めてくれた友人が突然入院した。そのことが刺激となって、頭の中を駆け巡ったためだろう。寝ているとき、友人をキーワードにしてこの本が呼び起こされ、そして、同一の人を別々の二人として見る世界、どちらが真でどちらが虚であるかが判然としない二つの不思議な世界で悩んでいるうちに、解決策として虚を扱った数学の世界が現れたのだ。
そこで、ここからは夢に現れてきた世界である。虚数を習うのは高校の2年生ごろなので、それほど高等な数学の分野ではない。でも、ここでは数学の常套的な説明ではなく、できるだけ物語的な説明になろよう試みることにしよう。人が左回りに半径$a$の円を描きながら移動しているとしよう。$t$を移動した長さとすると、直交座標系$(x,y)$では次のように表すことができる。
\begin{eqnarray}
x &=& a \cos t \nonumber \\
y &=& a \sin t \nonumber \\
\end{eqnarray}
また、円の周りを歩いていることから
\begin{eqnarray}
x^2 + y^2 = a^2
\end{eqnarray}
が成り立たないといけない。
上記の式で、$a=1$としても一般性は失われないので、ここからは$a=1$とする。
ところで、ここでの$x$と$y$は何を表しているのだろう。人が円の周りを移動している時、水平方向にプロジェクションしたのが$x$であり、垂直方向に写し出したのが$y$である。両者とも、水平方向、垂直方向に写っているイメージの動きを表していると見てよい。
もちろん、人とイメージの間には、距離がある。先の$x$と$y$ではこれを表していない。そこで、見えていないものを表すことにしよう。見えていない世界を虚数$i$で表すことにする。例えば、人とイメージの間の長さが$h$であったとき、これを$ih$で表すことにする。ここで、$i^2=-1$である。整数や実数は、自分自身をかけ合わせたものは正の数になると教わっている。それに対して虚数は自分自身をかけ合わせると負の数になってしまう。違う世界に属していると感じさせてくれるのが虚数である。
そこでイメージの位置とそこまでの長さをともに表すことにする。それらを、水平方向は$x'$、垂直方向は$y'$とすると、それぞれは次のようになる。
\begin{eqnarray}
x' &=& \cos t + i \sin t \nonumber \\
y' &=& \sin t +i \cos t
\end{eqnarray}
数学の世界では、虚数を用いた数を複素数と呼んでいる。そして、イメージの位置を実部、イメージまでの長さ(虚数の部分)を虚部と呼んでいる。
これらの式から次の関係が成り立つことがわかる。
\begin{eqnarray}
x^2+y^2 &=& \cos^2 t +\sin^2 t\ \nonumber \\
&=& ( \cos t + i \sin t)( \cos t - i \sin t) \nonumber \\
&=& x' (-iy') \nonumber \\
&=& 1
\end{eqnarray}
これは何を表しているのだろうか。$x'$と$y'$とは、プロジェクションした場所が異なっているだけで、実は同じものをそれぞれの方法で表現している。垂直方向にプロジェクションして得られている$y'$を、水平方向のそれに変えるためには、それの虚像を作ればよいので(鏡に写して左右が反対になってしまった鏡像をもとに戻すには、それを別の鏡に写せばよいのと同じ原理)、$iy'$とすればよい。ところが、$i$は$i^2=-1$なので、垂直方向にプロジェクションし直したときは、符号を反対にする必要がある。そこで、
\begin{eqnarray}
{-} i y' = \cos t - i \sin t
\end{eqnarray}
を得る。$x'$と$-iy'$との違いは、虚部の符号が異なるだけである。イメージへの長さを表すときには、正負の符号にこだわらなくてよかったことが分かる。数学では、虚数の符号が入れ替わったものを共役数という。表現上は異なっているが同じものである。
同じように、次のこともいえる。
\begin{eqnarray}
y^2+x^2 &=& \sin^2 t +\cos^2 t\ \nonumber \\
&=& ( \sin t - i \cos t)( \sin t + i \cos t) \nonumber \\
&=& (-ix') y' \nonumber \\
&=& 1
\end{eqnarray}
数学的な話はここまでにして、テラリさんの『異常』に戻ろう。飛行機事故の後、3年後を生きている人を$y'$、事故直後を生きている人を$x'$としよう。同じ人なのだが、$y'$と$x'$として、別の二つの世界を生きている。それでは、二人が出会った瞬間、例えば$y'$が$x'$になるときどのようなことが起きるのだろう。$y'$は$x'$に戻ろうとするので、$-iy'$となる。従って、
\begin{eqnarray}
x' &=& \cos t + i \sin t \nonumber \\
{-} i y' &=& \cos t - i \sin t
\end{eqnarray}
となる。ここで、前述したように虚部の符号が違っていることに気がつく。これを同じとみるのだろうか、あるいは「デリダの差延」と見るのだろうか。私は、後者と見たのだが、皆さんはいかがだろう。
ラカンの精神分析によれば、幼児は鏡に写った姿をみて自身を認識する。しかし、それは鏡に写っている者なので本当の自分ではない。左右も逆なのでその通りである。彼の理論では、自身を他人として認識しているとしている。それでは、鏡に写った姿を別の鏡に写したのは、真実の自分だろうか。確かに左右は逆ではない。元に戻っている。他の人が見ている自分とも同じである。でも、他人としての自分を鏡に写したことで、本当の自分になるのだろうか。そこに写っている自分は、いつも鏡で見ている自分でもない。やはり、他人としての自分ではないだろうか。このため、デリダが言う差延なのではと思った次第である。
最後に、参考までにそれぞれの関係を圏論で示しておく。