以前から神奈川の古墳文化に関心を抱いていた私は、横須賀市自然・人文博物館で埴輪が展示されていると知り、足を運んだ。埴輪とは、古墳の周囲に並べられた特別な形をもつ土製品である。その用途については、死者を祀るための聖域を示す標識であったとする説、単なる副葬品的な装飾であったとする説、あるいは被葬者の威信を象徴するものであったとする説など、さまざまな見解があるが、決定的な結論には至っていない。
古墳が築造された時期は、一般に3世紀後半から7世紀末頃までとされる。おおまかに、4世紀を前期、5世紀を中期、6世紀を後期、7世紀を終末期と呼んでいる。埴輪の変遷もこの区分と対応しており、前期には円筒埴輪が現れ、中期には動物や家形などの形象埴輪が登場し、後期になると人物埴輪が多く作られるようになる。
古墳時代の政治的中心は、奈良盆地の纒向遺跡や大阪平野の百舌鳥・古市古墳群に求められることが多い。そのため、神奈川県で古墳が築かれ、埴輪が用いられるようになるまでには一定の時間を要した。神奈川県における埴輪の最盛期は6世紀頃であり、円筒埴輪が多く、形象埴輪が比較的少ない点に地域的な特徴がみられる。
前期の早い段階には、弥生時代の伝統がなお残り、弥生時代の製法で作られた土器が前方後円墳から出土している。たとえば、横浜市の稲荷前遺跡から出土した壺は、焼成前に底部へ孔があけられており、「焼成前底部穿孔壺」と呼ばれる。

前期の後半になると、朝顔形埴輪や円筒埴輪が出土するようになる。写真は伊勢原市の小金塚古墳から出土した朝顔形埴輪で、透孔が三角形である点に特徴がある。なお、この透孔は後の時代には円形へと変化していく。

埴輪の製作技術は、前期には弥生時代と同様に野焼きが中心であったが、中期になると朝鮮半島系技術の影響を受けたとされる「窖窯(あながま)」が用いられるようになる。神奈川県では、川崎市の白井坂埴輪窯跡が唯一の生産遺跡であり、そこで焼かれた埴輪の一例として、写真の円筒埴輪が挙げられる。

しかし、白井坂埴輪窯で生産された埴輪は限られていたとみられ、多くは埼玉県鴻巣市の生出塚(おいでづか)遺跡で焼かれたものが神奈川県へ運ばれてきたと考えられている。同遺跡では、埴輪窯跡40基、工房跡2基、粘土採掘坑跡1基、住宅跡9基、古墳18基が確認されており、広域的な生産・供給拠点であったことがうかがえる。ここから出土した人物埴輪(貴人埴輪)は重要文化財に指定されている。横浜市の北門1号墳から出土した人物埴輪も、生出塚遺跡で造られたものである。

後期になると、円筒・朝顔形埴輪に加え、動物・家形・人物など多様な形象埴輪が登場する。展示室に並ぶそれらを見ていると、単なる副葬品というよりも、古墳という空間そのものを一種の儀礼的な「場」として構成する意図があったことがうかがえた。
厚木市登山1号墳、横浜市上矢部町富士山古墳、横須賀市蓼原古墳から出土した朝顔形埴輪はいずれも均整の取れた造形を持ち、透孔の配置や焼成の状態から高度な技術水準が認められる。



一方、円筒埴輪は装飾性よりも反復性に特徴があり、墳丘を囲う境界標識としての役割を強く意識させる(横須賀市蓼原古墳・厚木市登山1号墳)。


建物や動物などの形象埴輪も、その時代の社会や儀礼を反映しており、興味深い(厚木市登山1号墳・横浜市上矢部町富士山古墳)。


特に印象的であったのは人物埴輪である。島田髷を結った女性像(厚木市登山1号墳)、采女と思われる女性(川崎市末長久保台古墳)、下げ美豆良の男性像(厚木市登山1号墳)、盾持人(横浜市上矢部町富士山古墳)、力士(厚木市登山1号墳)、琴を弾く人物(横須賀市蓼原古墳)など、いずれも特定の役割を象徴的に表現していると考えられる。写実的というよりは類型化された造形であるが、その単純化こそが社会的役割の象徴化を可能にしていたように思われた。






今回の展示を通して、神奈川県の埴輪は畿内文化を単に模倣したものではなく、弥生時代の伝統が残る前期の様相や、畿内より遅れて訪れた繁栄期の特徴などからもわかるように、在地の技術や社会構造を反映しつつ独自に展開していたことが理解できた。円筒埴輪を基調としながらも、時期が下るにつれて多様な形象埴輪が取り入れられ、古墳という空間を象徴的に構成する装置として機能していた点は特に印象深い。古墳は単なる墓ではなく、社会の階層や役割分担を象徴的に確認する「儀礼秩序」を可視化する場であった可能性がある。その中で埴輪は、被葬者の権威や地位を示す「威信財」として、周囲の人々に政治的・社会的メッセージを伝えていたのではないだろうか。
とりわけ後期には小規模古墳が多数築かれ、地域豪族層の存在が浮かび上がる。彼らが埴輪によって装飾された墳墓を築いた背景には、支配秩序を象徴的に示す意図があったとも考えられる。経済史家ダロン・アセモグルが論じるように、権力は制度や技術の発展を通じて社会資源を動員する。その視点から見れば、古墳造営は単なる葬送儀礼ではなく、地域社会の労働力を組織化し、権威を可視化する政治的営為でもあったと考えられる。
神奈川の埴輪をたどることは、古墳時代における周縁地域が、中央文化をいかに受容し、選択し、再編成したのかを考える視座を与えてくれる。それは単なる文化伝播の物語ではなく、地域社会が主体的に歴史を構築していく過程の一断面であったといえよう。