かつては学芸員として活躍され、今も歴史遺産を精力的に紹介し、その情熱からは老いを感じさせない方に案内されて、久しぶりに鎌倉の円覚寺を訪れた。この寺院は鎌倉時代後期の弘安5年(1282)、第8代執権・北条時宗によって創建された臨済宗の寺院で、鎌倉五山の第二位に位置する格式高い禅寺である。開山は無学祖元で、元寇の戦没者を弔う目的で建立された。
最近、あちらこちらからアジサイがきれいだという便りがあるので、今回の訪問では、目を楽しませてくれるのではないかと期待していた。しかし、訪れた時はまだ咲き始めの段階で、少し早かったようだ。あと1~2週間も経てば、見頃を迎えることだろう。

通常のコースに従い、総門(入口)を入ってすぐの三門*1で、禅宗様式の特色を色濃く残す建築構造について詳しい説明を受けた。しかし、禅宗そのものに関する説明はほとんどなく、少し残念に感じた。

このあとは、仏殿や大方丈などでも寺院の禅宗様式についての説明を受け、そして、道沿いに点在する塔所(とうしょ)*2ごとに、そこに遺灰が納められた高僧についての解説を聞いた。ちなみに、一番奥には、夢窓疎石の塔頭(たっちゅう)として知られる黄梅院(おうばいいん)がある。落ち着いた美しさで視線を引きつけてくれたのは、大方丈の裏手にある枯山水の庭園であった。


後半は、有名な大きな鐘を見学した。円覚寺には何度も訪れているが、長い階段の先にある鐘まで足を運ぼうと思ったことはほとんどなかった。いつも黄梅院まで散策した後に引き返してしまい、左手に鐘があるという案内を目にするころには、気力も体力も尽きているため、よほどのことがない限り行こうとは思わなかった。しかし今回は案内されながらの訪問だったため、迷うことなく見学することとなった。
階段を上りきると、鎌倉の街並みを一望できた。富士山も見えたが、写真にははっきりと写っていないようだ。

円覚寺の鐘は『洪鐘(おおがね)』と呼ばれる国宝であり、鎌倉時代を代表する梵鐘の一つである。正安3年(1301)、北条貞時の寄進によって鋳造された。その特徴は関東最大級の大きさを誇り、総高259.4cm、口径142cmに達する。洪鐘は60年に一度の『洪鐘祭』で特別に撞かれる伝統があり、前回は2023年に行われた。

洪鐘の近くには、洪鐘弁財天が祀られている。この弁財天は江島神社の弁財天と深い関係を持ち、神仏習合の信仰に基づいている。その由来の一つは、洪鐘の鋳造成功の祈願とされる。1301年、北条貞時は洪鐘の鋳造を試みたが、二度失敗した。そこで江島神社の弁財天に参籠し、夢のお告げを受けた後、鋳造に成功したと伝えられている。
もう一つの由来は「夫婦弁天」とされる。洪鐘の完成を記念し、江島神社から人頭蛇身の弁財天(宇賀神)を円覚寺に勧請した。これにより、江島神社と円覚寺の弁財天は『夫婦弁天』と呼ばれ、60年に一度の洪鐘弁天大祭で再会するとされている。

最後に訪れたのは、塔頭寺院の一つである帰源院。創建は永和4年(1378)頃で、第38世・傑翁是英(けつおうぜえい)の塔所として建立された。また、夏目漱石が明治27年(1894)に約2週間参禅した場所としても知られている。この体験は彼の小説『門』に描かれ、禅の思想と文学の融合を象徴する場となっている。



見学を終えた後、仲間とともに近くの店のガーデンでお茶を楽しんだ。庭にはいろいろな野花がきれいに咲いていた。その中に見慣れない三角形の白い花を見つけた。店主に名前を尋ねたが、分からないという。自然に生えてきたものらしい。

昨日までの肌寒い雨の日とは一変し、この日は夏を思わせるような蒸し暑さだった。解説に集中できる雰囲気ではなく、近くに座れる場所を探しながら何となく聞くという、いささか不真面目な参加者になってしまった。しかし、もう訪れることはないと思っていた洪鐘を見学できたのは、大きな成果だった。次は紅葉が美しい秋に、再び訪れる機会があればと思う。
*1:円覚寺の山門が『三門』と呼ばれるのは、『三解脱門』の略だからである。これは禅宗寺院に見られる門の名称で、仏教の教えに基づく「空」「無相」「無願」という三つの境地を象徴している。この門をくぐることで煩悩を断ち、悟りへの道を歩むことを意味するとされており、単なる建築物ではなく、精神的修行の一環としての役割を持つ。円覚寺の三門は、1783~1785年に第189世住持・誠拙周樗(せいせつしゅうちょ)によって再建され、神奈川県の重要文化財にも指定されている。
*2:「塔所」は、仏教寺院において高僧や祖師の墓塔がある場所を指す。特に 禅宗では、師の徳を慕う弟子たちがその墓の近くに庵を構え、これが「塔頭」として発展した。