bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

氏家幹人著『江戸藩邸物語 戦場から街角へ』を読む

時代の変わり目にうまく対応できないと感じる人は、決して少なくない。情報社会に生きる私たちも例外ではなく、デジタル化の進展は目覚ましく、買い物ひとつとっても新しい手続きへの対応を求められる場面が頻繁にある。外食の場面でも同様で、近年では人手不足の影響もあり、可能な業務は機械に任せる傾向が強まっている。そのため、気軽に昼食を楽しめるような店でさえ、電子的なやり取りが当たり前になりつつある。

厄介なのは、店ごとに電子化の状況が異なることである。初めて訪れる店では操作方法が分からず戸惑うことが多い。後ろに人が並んでいると「迷惑をかけてはいけない」と焦ってしまい、かえって時間がかかってしまうこともある。そうした経験を何度か重ねるうちに、新しい店を開拓しようという意欲が薄れ、つい慣れた店ばかりに足を運ぶようになってしまう。

江戸時代にも、似たような状況があった。戦乱の続いた戦国時代から、平和な江戸時代へと移り変わる中で、武士たちは刀よりも筆を重んじることを求められるようになった。生活様式もそれに応じて変化したが、かつての生き方から離れられない者たちは、社会との摩擦を引き起こすことになった。

時代に適応できず事件を起こした例として、赤穂事件の浅野内匠守長矩が思い起こされる。一方で、むしろ新しい時代を積極的に切り開こうとした人物として、田沼意次を挙げることもできる。しかし、氏家幹人の著書が焦点を当てるのは、こうした著名な人物ではない。彼が丹念に描き出すのは、大名や旗本に仕える家臣や、さらにその下層にあたる「陪臣」と呼ばれる人々である。名もなき彼らの姿は、水戸の支藩であった守山藩(現在の福島県郡山市)の江戸藩邸日記『守山御日記』や、会津藩や旗本の記録をもとに浮かび上がる。

その中でも特に印象的なのが、十四歳の少年が面子を守るために選んだ死である。『守山御日記』には、友人との些細な諍いから門前で切腹したという衝撃的な記録が残されている。少年は友達とセミの抜け殻の取り合いをしていたが、友人がそれを奪って自宅へ逃げ込み、従者が門を閉ざしてしまう。現代の子どもであれば、悔しさを呟いて立ち去るか、せいぜい石を投げる程度の反応で済ませるだろう。しかし、この少年は、恥辱を晴らすために門前で切腹したのである。すべての武士がそうだったわけではないにせよ、面子を潰されたときに「切腹」しか選択肢がないと信じられていた時代だったのだろう。この事件は友人の家にも深刻な影響を及ぼし、知行の没収という処分が下された。

主君の死に際して命を捧げる「殉死」が尊いとされた時代には、忠義を示すために命を賭すことが武士の精神とされた。しかし平和な世に入り、血を見ることを忌避する風潮が強まると、こうした行為は次第に否定されるようになる。1663年、四代将軍家綱の時に殉死は禁止された(それ以前から抑制の方針はあったが、この年に明確に禁じられた)。死に場所を求めていた一部の武士にとっては、それ以降の時代は生きづらく感じられたことだろう。従来の生き方を守ろうとした者たちが刃傷事件を引き起こし、それらは日記などに記録として残された。

氏家幹人が取り上げる「時代に乗り遅れた武士たち」は、五代将軍綱吉から八代将軍吉宗の時代にかけての人々である。武家諸法度は、1615年に二代将軍秀忠によって制定され、1635年には三代将軍家光のもとで参勤交代や諸規制が明文化された。その後も改訂を重ね、1663年には殉死禁止の法令も出される。さらに、浪人や改易家臣への処遇は厳格化され、元禄期以降には「奉公構*1」と呼ばれる仕組みが整えられていった。

江戸時代が安定期に入り、戦乱が遠い過去となる中で、武士の存在意義は大きな転換点を迎えていた。もはや刀を振るって戦場を駆ける役割は失われ、代わって平和な社会を維持・統治する役割が求められるようになった。しかし、戦国以来の気風を引きずる武士たちの意識を変えるのは容易ではない。そうした時代背景の中で、綱吉と吉宗はそれぞれ異なる形で「新しい武士の生き方」を示す政策を打ち出した。

綱吉は「文治政治」を掲げ、武士の粗暴さを抑え、教養と礼儀を重んじる姿を理想とした。「生類憐みの令」はその象徴であり、命を軽んじる風潮を改めるとともに、武士に「力で制する存在」から「徳で導く存在」への転換を迫った。また、朱子学を重んじて学問を奨励し、武士に倫理的自覚を促すことで、幕府の学問方針の基盤を築いた。

一方、吉宗は「享保の改革」を通じて、武士に現実的で実務的な姿勢を求めた。財政の逼迫に対応するため、質素倹約を徹底し、勤倹の精神を促した。「足高の制」によって才能ある者を身分を超えて登用し、実力主義的な意識を育てた。また、「目安箱」の設置により庶民の声を政策に反映させ、さらに蘭学の導入を進めることで知識の幅を広げた。

こうして比較すると、綱吉と吉宗は方法こそ異なれど、いずれも「平和の時代に適応した武士の再定義」を行ったといえる。綱吉は「徳と教養」を重視し、武士の内面的な規範を整えようとしたのに対し、吉宗は「倹約と実務能力」を重んじ、社会的な役割を果たす実際の行動を促した。すなわち、綱吉は理念的改革によって武士の心を変えようとし、吉宗は制度的改革によって武士の行動を変えようとしたのである。

両者の取り組みは、戦乱を生き抜いた武士の旧来の意識を転換させ、平和の長期化に耐えうる新しい統治層を形成する過程で、大きな意味を持った。綱吉と吉宗という二人の将軍の政策は、武士に対して「時代に即した生き方」を模索させる連続的な営みであり、江戸社会の安定を支える精神的・制度的基盤を築いたのである。

さて、話を氏家幹人に戻そう。彼は、役人としての習慣を身につけられず、遅刻を繰り返す武士の姿や、火事や犯罪が発生しても外部の者の侵入を防ぐことができた大名・旗本屋敷の「聖域」としての特権が、徐々に失われていく様子を描いている。さらに、僧侶が処刑されようとしている罪人に袈裟をかけることで命を救うといった、かつては通用していた常識が崩れていく事例なども紹介されており、驚くほど多くの逸話が列挙されている。

これらの記録は、制度のほころびや価値観の揺らぎを映し出すものであり、武士たちが新しい時代に適応しきれず、戸惑いながら生きていた姿を浮かび上がらせる。氏家の筆致は、歴史の断片を単なる逸話としてではなく、制度と精神の交差点として提示している点で、非常に示唆に富んでいる。

そして最後に紹介されるのが、武士から役人へと脱皮した模範例としての旗本・天野弥五右衛門長重である。彼は長寿を生きがいとし、日々の心得を記した教訓的備忘録『思忠志集』を残した。そこには、健康管理や心構え、日々の節制に関する具体的な記述が並び、武士の生存戦略としての「長生き」が、自己犠牲的な忠義とは異なる新しい価値観として提示されている。

「七十歳の壁」「八十歳の壁」といった言葉に親しみを覚える現代のシニア世代にとっても、この記録は興味深く、時代を超えて共感できる部分が多い。武士が命を賭して忠義を示す時代から、命を守りながら生き抜くことに価値を見出す時代へと移り変わる中で、天野の姿は「生き延びること」そのものが忠誠のかたちとなりうることを示している。

私も、新しい時代に乗り遅れないようにするために、生成AIを友としてこの文章を作成した。骨格や内容は私自身のものであるが、文章表現の洗練さにおいては、AIの示唆に多くを学び、随所にその助言を生かした。

*1:奉公構(ほうこうかまい、ほうこうかまえ)は、安土桃山時代および江戸時代において、武家が家中の武士(家臣)に対して科した刑罰の一つで、将来の奉公が禁ぜられることである。構(かまえ)とは集団からの追放を意味するが、奉公構は旧主からの赦しがない限りは将来の仕官(雇用)が禁止されるため、通常の追放刑よりも一層重い罰であった(ウィキペディアより)。

吉原散歩──憂世の幻影と浮世の光彩──

今年の大河ドラマでは、吉原を舞台に物語が展開されている。江戸の片隅にありながら、まるで都市の外縁に浮かぶ異界のようなその空間は、華やかさと悲哀が同居する特異な場所だ。画面越しに映る吉原は、贅を尽くした装飾と艶やかな衣装に彩られ、夢のように美しい。しかしその夢は儚く、ふとした瞬間に絶望的な身の上が唐突に現れ、視聴者を現実へと引き戻す。初回放送で寺の庭に全裸で横たわる女郎の姿が映ったとき、私は息を呑み、あまりの衝撃に言葉を失った。時代が違うとはいえ、こんなことが本当にあってよいのか──多くの視聴者が同じ思いを抱いたのではないだろうか。

吉原には「憂世(うきよ)」の気配が濃厚に漂っている。そこは、逃れられない運命と現実の苦しみが凝縮された空間であり、この苛酷な「憂世」が、逆説的にもう一つの世界──「浮世(うきよ)」を生み出した。内面では重圧に押し潰されそうになりながらも、外面では華やかさを装い、贅を尽くした空間に身を置く。その生き方が、「憂世」と鏡像の関係にある「浮世」を育んだのだろう。

この街からは江戸後期に「浮世絵」が生まれ、庶民の娯楽として消費されたそれらの絵は、後に創造性に満ちた美術として高く評価されるようになった。苦しみの中から生まれた美が、時代を超えて人々の心を打つのは、皮肉でありながらも、どこか救いのようにも思える。

こうした現象は吉原だけに限らない。少し時代を下ったフランスのモンマルトルにも、似た空気が漂っていた。印象派の画家たちが腕を競い合ったこの地には、娼婦たちがモデルとして集まり、芸術と欲望が交錯する舞台となった。女性も男性も、それぞれの「成り上がり」を夢見て、双六のゴールを目指すように懸命に生きていた。

吉原とモンマルトル──一見遠く離れた二つの街が、実は深いところで響き合っているように感じられる。そんな思いから、ジャポニスムを研究する知人に誘われ、私は吉原を歩いてみることにした。

つくばエキスプレス線の浅草駅を起点に、昭和初期に劇場街として賑わった「六区ブロードウェイ商店街」、レトロな雰囲気漂う「ひさご通り」、かつて田圃地帯だった「千束通り」を経て、「お歯黒どぶ」の跡地である「花園通り」へ。さらに吉原への道筋だった「土手通り」を抜け、最後に吉原の中心、「中之町通り」へと至る。

江戸の地図を広げると、北の外縁にぽつんと浮かぶように描かれた一画が目に留まる。田地に囲まれ、堀に閉ざされたその場所こそが吉原である。江戸後期の地図においても、その孤立した構造は明瞭で、都市の喧騒から切り離された異界のように見える。

国立国会図書館デジタルコレクションから〔江戸切絵図〕 今戸箕輪浅草絵図より

ただし、吉原がこの地に根を下ろしたのは江戸初期ではなく、もともとは日本橋人形町付近に設けられていた。明暦3年(1657年)の大火によって焼失し、幕府の命により浅草北方へ移転され、「元吉原」は過去のものとなり、「新吉原」が誕生する。

新吉原は「お歯黒どぶ」と呼ばれる堀で囲まれ、出入口は「吉原大門」一か所のみ。遊女の逃亡防止と風紀管理のため、制度的にも空間的にも隔絶された構造を持っていた。それでも吉原は、単なる監禁の場ではない。外部から訪れる者にとっては享楽と幻想の舞台であり、内部に生きる者にとっては逃れられない現実の場だった。

吉原は、欲望と制度、夢と苦しみが交錯する象徴的な空間であり、地図に描かれたその孤立した輪郭は、江戸の社会構造と文化的想像力の交差点として、今もなお私たちに多くを語りかけてくる。

六区の残響──近代歓楽の記憶
それでは、今回の行程を最初から振り返ってみよう。六区ブロードウェイ商店街の入口は浅草の中心に位置し、歴史と娯楽が融合した商業地として知られている。かつてこの界隈には、浅草オペラの発祥地「常盤座」や、日本初の常設映画館「電気館」、洋画・邦画の封切館「大勝館」などが軒を連ねていた。エノケン、ロッパ、浅香光代コント55号、ツービートなど、昭和を代表する芸能人たちがこの地から巣立っていった。

しかし、1964年の東京オリンピック以降、テレビの普及や新宿・渋谷など他地域の台頭により、浅草六区の娯楽施設は次第に衰退。昭和46年(1971年)には大勝館が、昭和51年には電気館が閉館し、2012年には六区からすべての映画館が姿を消した。その後、2013年に「浅草六区再生プロジェクト」が始動し、2015年には「まるごとにっぽん」などの商業施設が開業。さらに近年はインバウンド観光客の急増もあり、六区はかつての賑わいを徐々に取り戻しつつある。

写真は、「浅草六区再生プロジェクト」の入口付近を写したもので、左側に見えるロック座は昭和22年(1947年)創立の、日本最古の現存するストリップ劇場である。

また、入口左側には都内唯一の「いろもの寄席」専用劇場である東洋館があり、ここでは漫才、漫談、コント、マジック、曲芸、ものまね、紙切りなど、落語以外の多彩な演芸ジャンルを日替わりで楽しむことができる。

東洋館の前身は、昭和26年(1951年)に開業した「浅草フランス座」である。ストリップの幕間にコントや軽演劇を挟む独自のスタイルで人気を博し、ビートたけし渥美清萩本欽一井上ひさしなど、数々の芸人や文化人がここから羽ばたいていった。劇場名の命名者は永井荷風とされるが、確証は乏しく、伝説的な逸話として語られている。浅草フランス座は、昭和の大衆芸能の縮図ともいえる存在であった。現在の東洋館は、その伝統を受け継ぎながら、若手芸人の登竜門としても機能している。

この通りを抜けると、浅草公園六区の外縁にあたり、かつて「奥山」と呼ばれた地域に入る。

江戸時代から続くこの一帯は、浅草寺の裏手に広がる境内地の外れで、見世物小屋、露店、軽業、見世物芝居などが集まる庶民的な娯楽の場であった。江戸後期にここで活躍していた松井源水は、曲独楽(きょくごま)の名人であり、慶応3年(1867年)のパリ万国博覧会に日本代表として渡欧し、ヨーロッパの観客を魅了したと伝えられている。

明治以降も歓楽街と庶民文化の接点としての性格を引き継ぎ、日本のエッフェル塔とも称された十二階建ての凌雲閣が、明治24年(1891年)に建設された。最上階には望遠鏡付きの展望室も設けられ、東京の新名所として賑わいを見せた。しかし、大正12年(1923年)の関東大震災で上層部が崩壊し、同年9月に爆破解体された。現在では、かつての記憶を伝える記念碑が残るのみである。

次の通りは、ひさご通りである。「ひさご」とは、あまり耳慣れない言葉かもしれないが、瓢箪(ひょうたん)の古語である。通りの名称は、かつて浅草公園内に存在した「ひょうたん池」に由来しており、池の形が瓢箪に似ていたことからその名が付けられた。この池は、明治18年(1885年)に浅草六区の造成に伴って掘られたもので、後に建設された凌雲閣の姿が水面に映る名所として親しまれた。池は昭和26年(1951年)に埋め立てられたが、その記憶を継承するかたちで「ひさご通り」の名が残された。

現在のひさご通りは、昭和レトロの風情を色濃く残している。天ぷら店、履物店、祭り用品店、喫茶店などが軒を連ね、下町情緒が漂う空間となっている。

暑さをしのぐため、ふと足を止めて「江戸たいとう伝統工芸館」に立ち寄る。館内には、江戸簾(すだれ)、東京桐たんす、江戸指物、金属器、ガラス器など、江戸の職人技が息づく工芸品が展示されていた。

道行きの記憶──吉原へ至る陸と水
いよいよ吉原に近づき、千束通りに差しかかる。江戸時代、吉原へ向かうには陸路と水路、二つの経路が存在した。陸路の場合は、千束通りあるいは馬道通りから日本堤(土手通り)を経て吉原大門へ至る。一方、水路では、隅田川から分岐する山谷堀を通り、猪牙舟(ちょきぶね)と呼ばれる小型の高速舟を用いて遊郭へ向かった。

今回は、陸路のうち千束通りを辿る道行きである。「千束」という地名は、江戸時代、この一帯が田圃であり、千束分の稲が収穫できたことに由来する。明治・大正期には田圃が埋め立てられ、昭和初期にはバスも通るようになり、浅草公園六区や吉原への通い道として賑わいを見せた。この通りは、先に述べた浅草十二階(凌雲閣)や芝居小屋、映画館へのアクセス路でもあり、縁日のような華やぎに包まれていたという。

千束通りを途中で折れると、かつて吉原を囲んでいた堀──通称「お歯黒どぶ」──の跡地へと至る。この堀は創設当初、幅約9メートルを誇ったが、明治末にはわずか90センチほどにまで縮小された。現在では完全に埋め立てられ、「花園通り」と呼ばれる道となっている。美しい名を冠したこの通りには風俗店が密集しており、吉原という空間に潜む二面性──表の華やぎと裏の制度的欲望──が、今もなお静かに息づいている。

かつては堀だったため、この場所から吉原に入ることはできなかったが、埋め立てられた現在では、通行が可能となっている。京町通への入口では、右側に立つ建物の側面に蝶なのか花なのか、線画が施されており、どこか妖しげな雰囲気を醸し出している。

次は角町への入口。秘書室や迎賓館といった仰々しい名称が掲げられた建物が並ぶが、やはり、いかがわしさを漂わせる空間である。

やがて「土手通り」にたどり着く。この道は、先に述べたように、かつて「日本堤」と呼ばれた堤防の跡地にあたる。江戸時代、この一帯は隅田川の氾濫原であり、治水対策として堤防が築かれた。元和元年(1620年)頃、待乳山の土を用いて、今戸端から北西にかけて堤が築かれたと伝えられている。

この堤が「日本堤」と呼ばれるようになった由来には諸説ある。全国の諸大名が90日間で築いたため「日本堤」と称されたという説や、二本の堤が並んでいたことから「二本堤」と呼ばれ、それが転じて「日本堤」となったという説などがある。堤は「土手八丁」とも呼ばれ、見通しの良い街道として利用された。後に吉原遊郭が南側に移転してからは、「吉原土手」としても知られるようになった。

昭和2年(1927年)には堤が取り壊され、現在は「土手通り」としてその痕跡を地名にとどめている。今日の土手通りは、吉原と山谷(ドヤ街)という異なる性質の空間が隣接する場所である。女の苦界と男の苦界が交差するこの地には、都市の「忌避された場所」が集約される構造が刻まれている。

見返り柳のほとりで──境界と幻想の街へ
有名な「見返り柳」がある。これは、吉原で遊んだ客が名残惜しさに後ろ髪を引かれる思いで振り返った場所に植えられていた柳の木である。現在も柳は残っているが、もちろん江戸時代のものではない。かつては山谷堀の土手に植えられていたが、道路整備や区画変更などを経て、現在の場所に移された。震災や戦災によって焼失したため、現在の柳は数代目にあたる。とはいえ、江戸時代とほぼ同じ位置に植えられており、都市の記憶を継承する象徴的な存在となっている。

見返り柳」で吉原大門の方へと折れ、衣紋坂を抜けて五十間道へと入っていく。広重は、衣紋坂から日本堤へと向かう人々の姿を浮世絵に残している。

歌川広重の「東都名所 新吉原 日本堤衣紋阪晴」

画中の人物たちは、吉原からの帰り客と見られ、籠に揺られたり、談笑しながら日本堤へと歩を進めている。やがて彼らは、「見返り柳」のあたりで、名残惜しげに振り返るのだろうか。

五十間道には、浮世絵をテーマにしたカフェがある。かつて蔦屋重三郎が耕書堂を開いたとされる場所でもある。この日も猛暑が続き、気温は35度を超えていた。曇天のおかげで何とか歩いて来られたが、体力の消耗は激しく、このカフェでひと息つくことにした。

Wikipediaには、1846年に描かれた吉原の地図が掲載されている。右側には「見返り柳」「衣紋坂」「五十間道」が記され、五十間道沿いに並ぶ店の名前も書かれている。ただし、蔦重が活躍した時代から70〜80年後の地図であるため、耕書堂の名はそこには見当たらない。

Wikipedia: Map of Yoshiwara

カフェで十分に休息をとったのち、吉原へと向かう。入口にあたる「吉原大門」には、かつて現実と虚構の世界を隔てる境界として、木造の門が構えられていた。この門は、黒塗りの板葺き屋根を持つ冠木門で、格式ある造りながらも、内部の華やかな楼閣と比べると、やや簡素に映ったと伝えられている。写真は吉原の内側からみた大門である。

大門をくぐると、桜並木が美しいメインストリート「中之道」がまっすぐに伸びており、その両脇には引手茶屋が軒を連ねていた。客はここで一息つき、遊女屋を選ぶ前のひとときを過ごすのが習わしだった。蔦屋重三郎が編纂した『吉原細見』は、そうした選択の一助となったことだろう。

二代目広重は、吉原の鳥瞰図を残している。画面の手前には日本堤が描かれ、衣紋坂、五十間道を経て、黒い屋根の大門へと至る構図となっている。その向こうには、整然と並ぶ桜並木が美しく描かれ、吉原の幻想的なメインストリートが広がっている。

ウィキペディアより、二代目 歌川広重(1860年7月)吉原の地図

大文字屋がかつて存在した吉原公園へと足を運ぶ。園の入口付近には、江戸期の町名を知らせる掲示が設けられていた。

大河ドラマ『べらぼう』では、伊藤淳史が初代および二代目の大文字屋市兵衛を演じており、その姿を通して自然と親しみが湧いてくる。ドラマからも伝わるように、大文字屋は単なる遊女屋ではなかった。むしろ、モンマルトルのサロンのように文化人たちが集い、大衆文化を育んだ創造の場であった。

ここに集った狂歌師たちは「吉原連」と呼ばれるグループを形成し、風刺と機知に富んだ狂歌を詠み交わしていた。二代目の主人は「加保茶元成(かぼちゃのもとなり)」の名で知られる狂歌師であり、吉原連の主宰者としてその活動を牽引した。蔦屋重三郎をはじめ、大文字屋に集った面々には、太田南畝、恋川春町山東京伝などが名を連ね、戯作や浮世絵にも多大な影響を与えた。

メインストリートの「中之道」は、近代化したビルが立ち並び、かつての様子を伝えるものはない。わずかに昭和のレトロを感じさせる建物がいくつかあるだけである。


新吉原遊郭の鎮守として創建された吉原神社に立ち寄る。ここに祀られているのは、九郎助稲荷である。大河ドラマ『べらぼう』では、この九郎助稲荷が語り部として登場し、綾瀬はるかがその役を演じている。

最後に訪れたのは、鷲(おおとり)神社である。この神社は、毎年十一月の「酉の日」に催される酉の市の発祥地のひとつとして知られ、縁起物の熊手が並ぶ境内は、商売繁盛を願う人々で賑わいを見せる。かつては吉原の遊女や関係者もこの市に参拝し、芸事や商売の繁栄を祈願したと伝えられている。

その賑わいは、樋口一葉の『たけくらべ』や正岡子規の俳句にも描かれており、鷲神社は文学の中にも息づく象徴的な場所となっている。信仰と都市文化、そして文学的記憶が交差するこの空間は、吉原という特異な都市の縁辺にあって、時代を越えて人々の祈りと記憶が折り重なる場所となっている。

裂け目の都市──江戸の身分と周縁
ここまで触れてこなかったが、現代人にとって理解しにくいもう一つの側面がある。それは、江戸社会における身分制度である。江戸の人々は、身分によって生業が定められていたし、逆に生業によって身分が規定されることもあった。

前述した浅草六区の外れ、奥山に集っていた芸人たちは、乞胸(ごうむね)と呼ばれる人々であった。彼らの身分は非常に複雑で、法的には町人とされながらも、芸を披露する際には非人頭の支配を受けるという二重構造の中に置かれていた。

当時の芸能形態のひとつに門付芸(かどづけげい)がある。これは神事的・祝福的な性格を持ちながらも、施しを受けるという点で物乞いと見なされ、いわゆる非人の領分とされた。非人の頭は車善七であり、非人たちは彼の支配下に置かれていた。このため、乞胸の人々は芸を行う際に限って、非人頭から鑑札(許可)を得る必要があった。

江戸時代の百姓(町人も村人も)は、「宗門人別改帳」に名前が記されていた。これは現代の戸籍簿に近い機能を果たしており、人口管理と宗教統制を兼ねた制度であった。

一方、村や町で年貢が払えず、生活に困窮して逃散し、江戸に流れてきた人々も少なくなかった。こうした人々は帳簿に登録されていないため、「非人」と呼ばれ、制度の外に置かれた存在とされた。

また、古来より血を見ることは「穢れ」として忌避されていた。しかし、処刑場での罪人の処理や、動物の解体などを担う人々は、社会の維持に不可欠な役割を果たしていた。こうした穢れに関わる職業に従事する人々は「穢多(エタ)」と呼ばれた。

穢多の頭は世襲され、代々「矢野弾左衛門」を名乗り、幕府から名字帯刀を許されるなど、制度的には高い格式を持っていた。非人頭もまた、弾左衛門支配下に置かれていた。

江戸の身分制度は、単なる上下関係ではなく、空間的・制度的に分断された世界を生み出していた。浅草六区や吉原の周縁に生きた人々の姿は、その制度の裂け目に立ち現れる存在であり、都市の華やぎの陰に潜むもう一つの江戸を映し出している。

あとがき
例年なら、盆を過ぎれば少しは涼しさが感じられるものだが、今年の夏は格別に異常で、酷暑が続いている。この暑さでは、インバウンドの観光客はもちろん、物好きに見学に訪れる人も我々以外には見当たらず、町はひっそりと静まり返っていた。

時折、ホテルマンのように身なりを整えた風俗店の店員が、店先で働いている姿を見かける程度である。夜になれば賑わいを見せるのかもしれないが、昼間の吉原は、どこにでもある下町の風景にすぎず、かつて絢爛で猥雑な異世界であったことを思い起こさせる場面には出くわさなかった。ただ、風俗店がぽつりぽつりと寂しく佇んでいるだけだった。

今回、この記事の校正は、生成AIのCopilotに依頼した。期待以上の出来栄えで、とても感謝している。いずれは、大まかな筋だけ伝えれば、見事な文章を仕上げてくれるようになるのだろう。そう思うと心強く、楽になるなと感じる一方で、自分自身が書けなくなってしまうのではないか──そんな一抹の不安も、正直なところ抱いている。

武蔵国多摩郡・恩田川沿いのお盆

最近ではほとんど見かけなくなったが、お盆の季節には、先祖を迎えるための風習が各地に存在していた。現在暮らしているこの地域では、どのような風習が残っているのだろうかと思い、農家を営む家を見つけては玄関先をのぞいてみた。しかし、見つけることができたのは、いずれも簡略化されたものばかりであった。

お盆が明けた今朝、散歩の途中で、この辺りでは比較的大きな農家と思われる家の前を通ったところ、野菜はすでにしなびていたものの、飾りを見つけることができた。そこには、茄子で作られた牛と、少し高く盛られた砂が設けられていた。

茄子で作られた牛は「精霊牛」と呼ばれ、ご先祖様にゆっくりと帰っていただくために飾られるという。これと対になるのが、キュウリで作られた馬であり、こちらはご先祖様が早く帰ってこられるようにとの願いを込めて供えられることが多いようだが、今回は見かけなかった。

また、この地域特有の風習なのだろうか、砂を盛った舞台のようなものが設けられていた。調べてみると、これは「砂盛り」と呼ばれ、先祖の霊を迎えるための舞台のような役割を果たすという。そこには、おがらの小片が三本立てられていた。おそらく、13日に迎え火を焚いて先祖の霊を迎え入れ、16日に送り火を焚いて送り出したのだろう。

紹介した農家のある一帯は、江戸時代には武蔵国多摩郡成瀬村に属していた。多摩丘陵の南端に位置し、恩田川の沖積地に広がるこの地域は、自然環境が比較的豊かであったと推察される。主な産業は米や野菜の栽培であり、農業が中心であったようだ。

『旧高旧領取調帳』によれば、成瀬村は旗本による相給(あいきゅう)支配のもとに置かれていた。幕末期の領主は、井戸信八(410石)、三田鋳四郎(200石)、久留左京(100石)の三名である。井戸信八の父は井戸弘道とされ、嘉永6年(1853年)には浦賀奉行としてペリー来航に対応したことで知られる歴史上の人物である。他の二名については、詳細は不明である。

成瀬村には、境界紛争をめぐって処刑された義民・原嶋源右衛門の伝承が残されている。その経緯は以下の通りである。成瀬村と隣接する都筑郡長津田村(現在の横浜市)との間で、入会地「葦沼」の新田開発をめぐる境界争いが発生した。原嶋源右衛門は村民と協力し、湿地帯を排水して水田として開発したが、この土地が争点となった。彼は紛争解決のため、成瀬村が一部土地を譲渡し、境界の画定を図った。しかし、幕府(奉行所)はこの対応を「公儀をたぶらかした」として問題視し、源右衛門を見せしめの罪人として処刑するよう命じた。

享保元年(1716年)10月15日、15人の役人によって源右衛門は打ち首となり、一家は断絶という厳罰に処された。村民は処刑後、源右衛門一家の遺体を焼いて葬り、三日間火を焚き続けて供養を行った。享保14年(1729年)には、処刑地に「崖山地蔵」が建立され、台座には東雲寺八世・考山和尚による銘文が刻まれている。原嶋家屋敷跡にも慰霊碑が建てられ、現在もその姿をとどめている(写真は崖山地蔵)。


この事件は、江戸時代の農村社会における土地開発と入会地の利用、境界紛争の複雑さ、そして幕府による統治の限界を浮き彫りにするものである。原嶋源右衛門の処刑は、地域住民による主体的な開発努力が中央権力によって抑圧された事例として、近世村落史の一断面を象徴している。

原嶋ゆかりのこの地域の人々は、今年も変わらず、源右衛門とその家族の霊に祈りを捧げ、遠い歴史に思いを馳せたことだろう。

ヤニス・バルファキス著『テクノ封建制』をよむ

2012年、セルビア出身の経済学者ブランコ・ミラノヴィッチが発表した「エレファント・カーブ(象のカーブ)」は、世界に衝撃を与えた。このグラフは、1988年から2008年までの世界所得分布の変化を示したものであり、新興国の中間層の台頭と先進国の中間層の停滞、そして最富裕層による富の集中を視覚的に描き出している。ミラノヴィッチはこの図を通じて、グローバル化がもたらした格差の構造的変化を警告した。

同時期、フランスの経済学者トマ・ピケティは、2013年に刊行された『21世紀の資本』において、「r > g(資本収益率 > 経済成長率)」という不等式を軸に、資本主義が格差を拡大する構造的なメカニズムを理論的に解明した。

ちなみに、2008年はアメリカのサブプライムローン問題を発端として「世界金融危機」が発生した年でもある。この危機は、金融市場の崩壊を通じて実体経済に深刻な影響を及ぼし、世界の経済構造に大きな転換点をもたらした。

この構造変化をさらに明確に描き出したのが、ギリシャの経済学者ヤニス・バルファキスによる2025年刊行の著書『テクノ封建制』である。同書についてはこれから詳しく説明するが、とりあえず要約すると、資本主義がすでに終焉を迎え、GoogleAppleなどの巨大テック企業が「クラウド領主」として振る舞い、ユーザーを「クラウド農奴」として支配する新たな経済体制が出現したと論じている。バルファキスは、現代の経済が利潤ではなく「クラウド・レント(地代)」によって動かされているとし、これを「テクノ封建制」と名づけた。

バルファキスという名を知る人は多いだろう。ギリシャEU加盟は1981年、ユーロ導入は2001年)は、2009年以降の財政危機に直面し、EU・ECB(欧州中央銀行)・IMF(いわゆる「トロイカ」)から緊縮財政を条件とした救済融資を求められた。2015年に財務大臣に就任したヤニス・バルファキスは、この緊縮政策に徹底的に抵抗した。

彼は、債務再編を求めて交渉を主導し、国民の尊厳を守るために国民投票の実施を提案。結果、国民は緊縮案に「NO」を突きつけた。しかしその後、ギリシャ政府がEUの条件を受け入れる方針に転じたため、バルファキスは信念を貫いて財務大臣を辞任した。その姿勢には、反骨精神と民主主義への深い信頼が感じられ、強い感銘を受けた。

ところで、バルファキスが財務大臣に就任した際、彼がどのような行動を取るのかに世界の注目が集まり、海外メディアは彼の著作や講演、過去の発言をこぞって取り上げた。中でも、彼自身が「リバタリアンマルクス主義者」と名乗っていることに、多くのメディアが戸惑いを見せた。

この一見矛盾する思想的立場は、実は彼の父親から受け継いだものである。バルファキスの思考の根底には、「あらゆる事象には二面性がある」という父の教えがある。

たとえば、私たちが日常的に享受している光についても、古代ギリシャ以来、二つの相反する見方が存在していた。ひとつは、音と同様に光は波動であるという説。もうひとつは、光は粒子(粒)であるという説である。これらの議論は20世紀初頭まで続いたが、1905年にアルベルト・アインシュタインが発表した光量子仮説によって転機が訪れる。彼は、光が「光子という粒子の流れであると同時に、波動でもある」と提唱し、物理学における波動・粒子の二重性という概念を確立した。

この光の二面性に触れたことは、バルファキスの父親にとって大きな啓示となった。彼はそれ以来、自然界や社会のあらゆる構造には、根源的な二面性が宿っていると考えるようになった。

バルファキス自身もこの考え方を継承し、もしそうであるならば、鋼鉄も、蒸気機関も、ネットワークにつながったコンピュータもまた、解放の手段であると同時に、支配の道具にもなり得る。そして、それらがどちらの顔を見せるかは、集団としての私たちの選択にかかっている。彼は、政治の役割とはまさにこの選択を導くことにあると考えた。その結果、彼の視点は一般的な左派とは一線を画すものとなった。

マルクスや他の経済学者の著作に触れる以前から、バルファキスは賃労働の二面性を母親の言葉から直感的に理解していた。母は「労働時間には賃金が支払われるが、熱意には報酬がない」と嘆き、やがてその熱意が報われる職場へと転職した。バルファキスはこの経験をもとに、前者を「商品労働」、後者を「経験労働」と呼んだ。これは、マルクスが区別した「労働力」と「労働」という概念に通じるものである。

アインシュタイン一般相対性理論では、重力は空間のゆがみ(時空の曲がり)によって生じるとされ、質量やエネルギーの存在が周囲の時空を変形させる。これに対し、当時の経済学者たちは貨幣を単なる商品の一種として理解していたが、アインシュタインの影響を受けたとされるジョン・メイナード・ケインズは、こうした見方を批判し、「彼らは非ユークリッド幾何学の世界におけるユークリッド幾何学者のようなものだ」と述べた。

ケインズは、伝統的経済学が説く貨幣観が人類に損害を与えると考えていた。アインシュタインが「時間は空間の外にある」という幻想を打ち砕いたように、ケインズもまた「貨幣はモノである」という固定観念を打破しようとしたのである。

彼の助言は本質的であり、貨幣は確かに「モノ」であるが、それ以上に、人間同士の関係性を映し出す鏡であり、人間とテクノロジーの関係を可視化する装置でもある。つまり、貨幣とは物質を別の姿に変える手段であり、方法であると、バルファキスは説明している。

本書の使命は、資本主義が封建主義的構造へと回帰しているという視点を読者に提示することにある。バルファキスは、初期資本主義の誕生から発展、そして崩壊に至る過程を、ギリシャ神話の寓話を交えながら、辛辣でありながらも洒脱な筆致で描いている。紙幅の制約上、彼の芸術的な語り口をそのまま再現することは困難であるため、この記事では図表を多用しながら、その論理的構造の骨格を抽出して提示する。

中世の封建制

西洋と日本における中世の封建制には明確な相違点があるものの、その支配構造を図示すると驚くほど多くの共通点が見えてくる。ここでは、読者にとって馴染み深い日本の封建制から考察を始めることにする。

日本における封建制の端緒は鎌倉時代に見出される。源頼朝が将軍として政権を掌握し、武士が支配層として台頭する新たな社会構造が形成された。将軍に仕える御家人は、恩賞として所領を賜与され、地頭としてその地域の治安維持および年貢(米・銭)の徴収といった経済的義務を負った。加えて、戦時には軍役の義務も課されていた。所領の保障は「御恩」と称され、それに対する軍事的・経済的奉仕は「奉公」と呼ばれ、この双方向的な主従関係が、封建制度の骨格をなしていた。

御家人による年貢徴収は、個々の農民を直接対象とするものではなく、「名(みょう)」と呼ばれる租税単位を通じて行われた。各「名」には「名主(みょうしゅ)」が存在し、彼らが土地を管理するとともに、耕作者を統括して年貢を集め、御家人へ納入する役割を担っていた。つまり、年貢は「名」という土地単位を媒介として徴収されており、この制度的構造を通じて、封建的支配は農村社会の深層にまで浸透し、地域社会の再生産構造に強く影響を及ぼすこととなった。

特筆すべきは、「名主」が農民との間で耕地の調整や年貢の取りまとめを行うなど、限定的ながら一定の裁量権を行使していた点である。このような自治的要素は、後の室町時代において、寄合や掟の制定、地下請制度などを有する惣村へと発展し、より広範な村落自治の展開へとつながっていく。

西洋の封建制は、構造的に日本の封建制とよく似ている。国王(領主)は封臣(貴族)に封土(土地)を授与し、封臣は忠誠を誓い、軍事的奉仕によってその義務を果たす。封臣は封土内に居住する農奴を保護する一方、賦役や貢納を課す支配者として振る舞った。

西洋における農奴は、封臣に対して隷属し、土地に付属する存在として扱われた。これに対し、鎌倉期の日本の農民は年貢を納める義務こそあったものの、「良民」として一定の身分的保護を受けており、農奴とは法的地位に明確な差があった。ただし、両者に共通していたのは移動の自由の制限であり、所在する土地から逃亡した場合には厳罰に処せられるという点で一致していた。

西洋の封建制における特徴の一つに、共有地(コモンズ)の存在が挙げられる。森林・牧草地・水域などの自然資源は、村落共同体によって共同利用され、法的・慣習的に共有地として認められていた。

しかし、16世紀に入るとイングランドでは、羊毛産業の拡大に伴い、土地所有者が慣習的な共有権を無視して、これらのコモンズを柵で囲い、私有地化する動きが広がった。囲い込み(Enclosure)によって、農民たちは従来の農場から排除され、生活の糧を失った。他方で領主は、生産する羊毛の価格に見合う値段で土地を貸し出すことを選択できるようになった。追い出された農奴は労働を提供して賃金をもらう選択もできた。あるいは、都市へ流入して賃金労働者となる自由も得た。彼らは農業が発明されたときに失った「選択の自由」を得たが、この自由は、マフィアが笑顔で「おたくが断れない提案をいたしましょう」と言っている類の自由だった。

初期の資本主義

コモンズの囲い込み運動により、農民層は土地を失い、都市部へと流入し始めた。この社会的変動は、初期資本主義の台頭を促す契機となる。流入した農民の一部は、家族労働を中心とする問屋制家内工業(毛織物・綿織物など)や、工場制手工業による小規模事業に従事し、これらの形態が各地で展開されていった。例として、パン職人、精肉店、酒造業者などの職人的生産を挙げることができる。

これらの事業においては、所有者兼経営者である小規模な商工業者が資金を投じ、原材料の仕入れから加工・商品化、そして販売までを担うことで利潤を得るという事業モデルが形成されつつあった。すなわち、利潤=売上−投資(原材料費・労働賃金・設備費等)という構造が次第に顕在化していったのである。

この段階で生産された商品は、単なる使用価値を超え、交換価値として市場に流通し、利潤の源泉となった。さらに、それらの生産に従事する労働者(家族や雇われ人)は、自らの労働力を商品として提供し、賃金を得るようになった。こうして、賃金=交換価値としての労働の対価という資本主義的原理が、徐々に社会に定着していったのである。

加えて、この時期の資本主義には、マックス・ヴェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』において論じた「禁欲的労働倫理」に根ざす精神性が濃厚に反映されていた。すなわち、生活必需品―日用品、衣料品、食品など―の生産が資本主義活動の中心を担い、誠実な努力を重ねることによって慎ましい利潤を追求する姿勢が重んじられていた。この倫理観は、勤勉、節制、責任感といった価値規範によって支えられており、利潤の獲得は単なる経済的成果ではなく、倫理的な自己実現の一形態として捉えられていた。結果として、この時代における生産活動は、精神性と経済性が結びついた時代性を示していた。

巨大企業による資本主義

小規模事業者によって支えられていた初期の資本主義は、イギリスの物理学者ジェームズ・クラーク・マクスウェルによる電磁気学の発見を契機に、大きな転換を迎えることとなった。トーマス・アルバ・エジソンはこの理論を応用し、ニューヨーク市発電所を設置して街灯の整備を試みるなど、電力インフラの構築に取り組んだ。しかし、こうした大規模なシステムを現実のものとするには、政府と財界が連携し、一体となって事業を推進する必要があった。

それまでの資本主義では、資本家と経営者が同一人物である場合が多かったが、このような巨大プロジェクトにおいては両者の役割が分離され、企業の実質的な支配権は株主ではなく、国家機関、民間の技術者、管理職、専門職といった知識集団へと移行していった。ジョン・ケネス・ガルブレイスが指摘する「テクノストラクチャー(技術的・管理的構造)」の時代が始まった。

20世紀の幕開けとともに、米国では鉄道や道路などの交通インフラが整備され、それに伴い鉄鋼、石油、自動車、通信、化学、電機といった産業分野で、巨大企業が次々と誕生した。これらは放任的な資本主義のもとで急成長を遂げ、米国経済は著しい活況を呈した。

1920年代のアメリカは、「狂騒の20年代」と呼ばれる好景気に沸き、株式市場は急騰し、過剰な投機が社会全体に蔓延した。だが、1929年10月24日、後に「暗黒の木曜日」と称される株式市場の暴落が発生すると、投資家の間に激しいパニックが広がった。その余波を受け、過剰融資を行っていた銀行は株価急落によって資金回収が困難となり、相次いで破綻。金融システムは深刻な混乱に陥り、アメリカ経済の崩壊は瞬く間に世界各国へ波及した。後年、ジョン・スタインベックの小説『怒りの葡萄』にも描かれているように、困窮した民衆の怒りと希望の喪失が社会の底流に蓄積され、閉塞感に満ちた時代が到来することとなった。

ニューディール政策

1930年代の世界恐慌に対応するため、フランクリン・D・ルーズベルト大統領は、ソヴィエト連邦の政策をそっくりそのまま真似しはじめて、公共事業を中心とした包括的な経済対策を打ち出した。これは「ニューディール政策」として知られ、失業者への雇用創出による所得と消費の迅速な回復、道路・電力・通信網などのインフラ整備による長期的な経済基盤の構築、さらには雇用の安定を通じた社会の秩序維持を主要な柱としていた。

この政策は、イギリスの経済学者ジョン・メイナード・ケインズが提唱した「有効需要の原理」に通じるものであり、国家が市場に積極的に介入するという従来とは異なる経済思想を体現していた。実際、ケインズの理論書『雇用、利子および貨幣の一般理論』(1936年刊)はニューディール政策の実施後に出版されたが、ルーズベルト政権の財政支出による景気刺激策は、結果的にケインズ的アプローチと一致する側面を持っていた。

こうした政策は、自由放任主義から計画的・管理的経済運営への転換を示すものであり、その後に勃発した第二次世界大戦終結まで継続され、戦時経済への橋渡しとしても機能した。加えて、この時期はガルブレイスが提唱した「テクノストラクチャー」が進展し、経済運営における企業内の専門家集団の影響力が増していった。

ブレトン=ウッズ体制

ケインズ的な政策アプローチは、第二次世界大戦後も経済運営の基本的枠組みとして継続された。ただし、戦時中に生産されていたのは武器であったのに対し、戦後は産業構造が民需中心へと転換された。こうした大量生産された民需品は、アメリカ国内市場だけでは吸収しきれず、市場は海外にも求められるようになった。そこで構築されたのが、アメリカ主導による国際経済の枠組みであるブレトン=ウッズ体制である。

この体制ではドルが基軸通貨とされ、ドルは金との交換が保証された(金1オンス=35ドル)。また、各国通貨はドルに対して一定の交換比率で固定され、たとえば1ドル=360円というように為替レートが安定的に設定された。これにより、基軸通貨としての地位が確立された。そして、ドル建てでの貿易決済が促進され、アメリカドルが事実上の世界共通通貨として機能するようになった。

体制の基本構造は以下の通りである。戦争によって疲弊したヨーロッパ諸国や日本に対して、アメリカは貸付や援助という形で資金を提供した。同時に、生産過剰となっていたアメリカの民需品をこれらの国々へと輸出し、経済再建を促した。各国からアメリカへの輸入も存在したが、輸出額がそれを上回ったため、アメリカの貿易収支は黒字となった。こうして提供されたアメリカからの資金は、資本収支黒字によって金融還流し、国際金融の循環構造が成立した。

しかし1960年代以降、アメリカはベトナム戦争や福祉支出の増加によって財政赤字を抱えるようになり、加えてヨーロッパや日本の経済復興が進むと、輸出入が逆転し貿易赤字が拡大した。その結果、世界中にドルが過剰供給され、アメリカの保有する金ではその価値を保証しきれなくなった。

1971年、アメリカはドルと金の交換を停止(いわゆるニクソン・ショック)し、ブレトン=ウッズ体制は事実上崩壊した。金本位制の崩壊により通貨の信認は揺らぎ、投機的な資本移動が急増。各国の中央銀行は為替介入によってレート維持を試みたが、投機的資本流入により中央銀行の介入が困難となり、変動為替相場制への移行を余儀なくされた。

この変化により、各国は独自の金融政策を柔軟に展開できるようになったが、日本やドイツなど、かつてアメリカ経済との密接な関係にあった国々は、アメリカとの経済的依存関係から徐々に脱却し、独自の成長戦略を模索するようになった。

新自由主義

20世紀後半、新自由主義は「政府主導型経済」への反動として登場した。登場には、複数の歴史的な転機が契機となっている。

まず1970年代には、原油価格の高騰による石油危機が発生し、先進国の経済は深刻な混乱に陥った。従来の政府主導型経済政策ではこの危機に十分対応できず、自由市場への期待が高まった。1991年のソ連崩壊によって社会主義モデルの限界が明らかとなり、資本主義の再構築が求められる中で、新自由主義がその理論的・政策的な枠組みとして台頭した。さらに、貿易自由化や資本移動の自由が加速し、国家の枠を超えたグローバルな経済活動が主流となったことで、政府の介入よりも市場の柔軟性・効率性・競争力の重視へと転換された。この潮流を理論的に支えたのが、ミルトン・フリードマンフリードリヒ・ハイエクといった経済思想家である。彼らは「市場の自律性」や「政府介入の弊害」を強調し、新自由主義の理論的基盤を確立した。

こうした背景のもと、新自由主義は世界経済の構造にも大きな影響を与えるようになる。アメリカの製造業は賃金での価格優位性を失い、労働コストの安価な国々—日本やドイツといった先進工業国、そして中国のような新興国から大量の工業製品が輸入されるようになった。その結果、アメリカは恒常的な貿易赤字を抱えることになった。しかし、アメリカはこうして輸出国に蓄積された莫大な海外資金を、米国債の購入という形で自国経済に還流させ、財政・金融安定を確保しようとした。この資金循環の構造があまりに貪欲かつ持続的であったため、経済学者ヤニス・バルファキスはこれをギリシャ神話の怪物になぞらえ「グローバル・ミノタウロス」と呼んだ。

このグローバル・ミノタウロスが呑み込んだ過剰資金は、デリバティブと呼ばれる新しい金融商品へと投資されていった。SNSやデジタル広告に見られるように、人々の関心や欲望すら資本の対象となる今日、これらの金融商品は従来の「使用価値」ではなく、欲望という心理的領域に根ざした「経験価値」までも商品(交換価値)として扱う性質を持ち、資本主義の構造に根本的な変容をもたらした。そして最終的には、2008年に行き過ぎた投機によってリーマンショックが発生し、グローバル経済は深刻な危機に直面することとなった。

テクノ封建制
今日、私たちはスマートフォンやパソコンを用いて、メールの送受信、Wikipediaによる情報検索、さらには生成AIとの対話まで、日常的に活用している。こうした機能が身近に存在するのは、コンピュータ技術およびインターネットの急速な進化に大きく支えられているためである。

コンピュータ技術の近年の進歩は目覚ましく、現代のスマートフォンの処理能力は、かつて「スーパーコンピュータ」と呼ばれた機械を凌ぐほどに向上している。また、インターネットの活用によって、私たちは地球の裏側にいる人々と瞬時に情報を共有し、リアルタイムでコミュニケーションを取ることが可能となった。

インターネットの起源は、アメリカで軍事目的のもと1966年に構想が始まり、1699年に運用が開始されたARPANET(アーパネット)にさかのぼる。現在では軍事色は薄れているものの、多くの研究資料では当初の構想が軍事的な要請に根ざしていたことが強調されている。ARPANETは、一つの拠点への依存を避け、国内の複数拠点に情報を分散させるため、蜘蛛の巣状に張り巡らされた非中央集権型のネットワークとして設計された。

やがてARPANETはインターネットへと進化し、大学や民間の研究者たちの間で、効率的な情報交換の手段として広く利用されるようになった。こうした技術やソフトウェアは、多くの場合、研究者たちによって無償で開発・提供され、インターネットは特定の権力や資本に囲われることなく、誰もが自由に利用できる「公共財(コモンズ)」として構想されたのである。

1990年代に入ると、ティム・バーナーズ=リーが「ワールド・ワイド・ウェブ」を発明し、Webページによる情報発信が可能になった。これにより知識の流通は爆発的に加速し、検索エンジンWikipediaのような情報ツールが普及し始めた。また、この時期からはAmazonのような私企業もインターネットを積極的に活用するようになり、グローバル資本主義の拡大とともに企業利用が一層活発化した。

2008年のリーマンショック以降、いわゆるインターネット企業は、これまでインターネットが公共財として利用されてきた精神とは対照的に、プラットフォームの囲い込みを急速に強めるようになった。その動きは、従来の資本主義の原理とも異なる様相を呈している。従来の資本主義が、投資を通じて利潤の獲得を目的としていたのに対し、インターネット企業は独自の情報基盤や利用環境を囲い込むことで、そこからレント(使用料/地代)を徴収し、利益を得る構造を築いている。

この構造は中世の封建制度に類似しているため、バルファキスはこれを「クラウド封建制」と名付けている。GAFAM(GoogleAppleFacebook=Meta、AmazonMicrosoft)の5社は、世界の株式市場において合計で1割以上の時価総額を占めるとされており、その膨大な資産力によって、現代の(クラウド)領主として君臨している。

クラウド領主は、配下で企業活動を行う事業者(クラウド封臣)に対し、クラウド内での利用権を付与し、その対価としてクラウド・レント(手数料)を徴収する。この関係性は、中世の封建領主が封臣に土地の使用を許し、年貢を徴収した構造に酷似している。

たとえば、Appleクラウド領主である場合、クラウド封臣はApp Storeを通じてアプリを提供するソフトウェア企業である。そして、その企業内で働く労働者は、クラウドプロレタリアートと位置づけられる。彼らは出来高制で働くギグワーカーとして、ソフトウェアの開発に従事している。

また、クラウドのサービスを利用する一般ユーザーは、クラウド農奴とみなされることもある。彼らはクラウドを無償で利用させてもらう代償として、個人情報などの貴重なデータを提供する。クラウドはその情報を集積し、さらなる事業拡大や収益化に活用することで、権力構造を一層強化している。

最後に

本書は、リーマンショックを契機に「グローバル資本主義の体制」が揺らぎ、「テクノ封建制」へと移行した激動の世界を、平易な語り口で鮮やかに描いている。現代の国際情勢は、米中間の政治的対立や、トランプ政権期に見られた取引型の政策決定など、多様な要素が複雑に絡み合っており、一貫した説明が難しい。特に、専門知識を持たない読者に向けてその実態を伝えるのは、容易なことではない。

著者は、ユートピアの到来を信じる共産主義者の父に向けて、現代世界がいかにして現在の姿に至ったのかを、物語形式で語りかける。本書は、学術書のように綿密な論理展開を重視するスタイルではなく、各章ごとに固有のテーマを設定し、技術革新やギリシャ神話などを巧みに織り交ぜながら、政治・経済状況に鮮やかな生命を吹き込んでいる。章単位でも十分に興味深く、それぞれに高い説得力があるが、経済構造の変遷を体系的に把握しようとする場合は、全体の骨格を抽出するための整理が求められる。

本記事では、その作業の助けとなるよう、時間の流れに沿って本書の主要な論点を再構成した。これを手がかりに、あらためて著者の語りに耳を澄ませ、物語に宿る深い洞察をじっくりと味わいたい。

バーキー ・テズジャン著『第二のオスマン帝国: 近世政治進化論』を読む

ある人に勧められて『第二のオスマン帝国──近世政治進化論』を読んだ。オスマン帝国については、高校の世界史で学んだ記憶があるものの、知識としてはほとんど残っていない。本を読み返すことは滅多にしないのだが、今回は見慣れないカタカナの用語や馴染みのない人名がなかなか覚えられず、ページを行きつ戻りつしながら、悪戦苦闘して読んだ。

そんな折、ふとした会話の中で「いまオスマン帝国の本を読んでいる」と話したところ、「『オスマン帝国外伝』をネット配信で楽しんだよ」という人がいた。驚いたことに、そのドラマは全312話もあるそうで、しかもすべて観たというのだから感心してしまった。

これは『オスマン帝国外伝』の宣伝用ポスターである。

中央に描かれている男性は、このドラマの主人公である第10代皇帝スレイマン1世。その右隣には、のちに皇妃となるヒュッレム、さらにその右には寵妃マヒデブランが並ぶ。スレイマンの左側には母后ハフサ・アイシュ、その隣の男性は、現在は小姓頭だが、のちに大宰相となるイブラヒムである。そしてその左には、皇女ハティジェが控えており、彼女の母もまたハフサである。

これらの人物たちは、スレイマン1世の治世を彩り、時代を動かしていくことになる。私にとっては驚きだったが、この時代を生きた人々にとっては常識だったのだろう。側室のヒュッレムも、役人のイブラヒムも、いずれも奴隷出身であるという事実が、この時代を物語っている。

レイマン1世は、いわゆる「第二のオスマン帝国」へと進化する以前の、古典的帝国としての最盛期を象徴する存在である。まずは、その時代背景を見ておこう。スレイマン1世(1494~1566年)が活躍した時期は、日本で言えば戦国時代にあたり、戦乱が続いたという点で両国には共通点があると言える。同時代の日本の武将と比較すると、スレイマン武田信玄より27歳年上であり、東アジアとの貿易や文化交流に積極的だった大内義隆よりも13歳年上である。

レイマン1世は26歳で皇帝の座に就いた。彼はバグダード遠征によってサファヴィー朝から南イラクを奪取し、さらに海軍力を駆使して北アフリカへの支配を拡大した。それだけにとどまらず、中央ヨーロッパにも進出し、ハンガリーを征服、1529年にはウィーンを包囲してヨーロッパ諸国に大きな脅威を与えた。さらに1538年のプレヴェザの海戦では、スペインとヴェネツィア連合艦隊を打ち破り、地中海の制海権を手中に収めた。黒海もまた、この頃には事実上オスマン帝国の内海と化していた。次の写真はスレイマン1世である(出典:ウィキペディア)。

レイマン1世が登場する以前、オスマン帝国の領土は次のような拡張の歴史をたどってきた。

11世紀初頭のアナトリアは、ギリシャ系やアルメニア系の人々が農耕を営み、キリスト教が支配的な地域であった。この地にトルコ系遊牧民流入しはじめたのも同じく11世紀初めとされる。

1071年、セルジューク朝がマルズギルトの戦いでビザンツ帝国を破ると、トルコ系民族の進出は一気に加速し、13世紀前半にはルーム・セルジューク朝アナトリア全体を支配下に置いた。しかし13世紀中葉、モンゴル軍に敗れてルーム・セルジューク朝は衰退し、その後のアナトリアは、複数のトルコ系小国家が並立する群雄割拠の時代へと移行していった。

オスマン帝国の創設者とされるオスマンは、当時アナトリアに無数に存在していた無頼集団の一つのリーダーだったとされる。彼は1299年ごろ、ビザンツ帝国の衰退に乗じて勢力を築き、帝国の礎を築いた。彼の息子オルハン1世は1326年、ブルサを攻略してそれをオスマン政権(当時は侯国)の最初の首都と定め、国家の体制づくりを本格化させていった。

1396年、バヤジット1世はニコポリスの戦いでバルカン諸国に加え、フランス・ドイツの連合軍を撃破した。しかしその後、1402年には東方から進撃してきたティムール軍にアンカラの戦いで大敗を喫し、帝国は一時的に弱体化する。その後、国力を回復させたメフメト2世は、1453年にコンスタンティノープルを攻略し、長く存続していたビザンツ帝国をついに滅ぼした。この都市はオスマン帝国の新たな首都とされ、やがて「イスタンブール」という呼称が広まっていく。

一方、セリム1世はサファヴィー朝の脅威に対抗し、イラン方面へと遠征。これを制したのち、さらにシリアへと軍を進め、1517年にはマムルーク朝を打ち破ってエジプトを併合した。こうしてオスマン帝国は、アナトリアから中東、北アフリカにいたる広大な領域を支配下に収めていく。これに続いたのがスレイマン1世である。

これは、オスマン帝国がどのように領土を拡大してきたかを示すものである(図の出典は:Encypropedia Britanica)。

それでは、スレイマン1世の時代におけるオスマン帝国の社会構造を見ていこう。この時代の社会は、制度的枠組みによって二重の構造を成しており、支配階層であるアスケリー(士分)と、被支配階層であるレアーヤー(群民)とに大別されていた。

アスケリーとは、国家に奉仕する身分の者たちであり、軍人(イェニチェリや騎兵)、官僚(宰相や州総督)、さらにはウラマーと呼ばれるイスラム法学者(カーディー、ムフティーなど)などが含まれていた。彼らは納税義務を免除され、一般の法廷では裁かれないといった特権を有していた。

一方、レアーヤーは国家に税を納める一般民衆であり、農民、職人、遊牧民、そして商人などがこれに含まれた。宗教の別を問わず、ムスリム・非ムスリムを問わず、すべてのレアーヤーには納税と国家への従属が義務づけられていた。彼らは人口の大多数を占め、帝国の経済的基盤を支える存在であった。

軍事力は主に騎兵(スィパーヒー)と常備歩兵(イェニチェリ)によって支えられていたが、それぞれの役割や背景は大きく異なり、帝国の軍事制度の二本柱を成していた。

スィパーヒーは、「ティマール制」と呼ばれる土地制度に基づいて徴税権を与えられた地方騎士であり、多くはトルコ系ムスリムの自由民で、地方に居住していた。彼らは国家から委託されたティマール(土地)からの収益を生活の糧とし、平時にはその土地の統治と農民の監督にあたり、戦時には自らの従者を率いて軽装の騎兵として出陣した。弓や槍を用いた機動性の高い戦法を得意とし、戦場で重要な役割を担っていた。

この制度は、鎌倉時代御家人による「御恩と奉公」の関係と類似している面もあるが、決定的な違いとして、スィパーヒーには土地の所有権や相続権は認められていなかった点が挙げられる。あくまで国家から一時的に徴税権を与えられた存在であり、土地を私有することはできなかった。

イェニチェリは、デヴシルメ制度によって徴用されたバルカン半島出身のキリスト教徒の少年たちをイスラム教に改宗させ、厳格な訓練と教育を経て編成された、スルタン直属の精鋭歩兵部隊であった。構成員の多くは異教徒出身の改宗ムスリムであり、忠誠心と規律がとくに重視された。彼らは当時としては非常に近代的な軍備を整え、火器(とくにマスケット銃)を装備した常備歩兵として軍の中核を担った。イスタンブールの兵営に常駐し、妻帯は原則として禁止されていた(のちに一部緩和)。その代わり、高い俸給と免税などの特権が与えられていた。

また、前述のように徴用された少年たちは改宗後、厳格な教育を受け、特に優秀な者はイスタンブールのエンデルン(宮廷学校)に進み、行政・法制度・言語・礼儀作法といった幅広い分野を修めた。その後は「カプクル(皇帝の奴隷)」として、書記官(カーティブ)や財務官(デフテルダール)、地方総督(ベイレルベイ)といった要職に就くことが可能であり、最終的には大宰相(ヴェジール=アーザム)にまで昇進する者も現れた。

ところで、スレイマン1世の時代は、軍事技術の大きな転換点でもあった。イェニチェリは比較的早い段階から火器を導入し、16世紀にはマスケット銃を装備した近代的な常備歩兵部隊として本格的に整備されていた。この時代には火器の重要性が一層高まり、それに伴ってイェニチェリの規模と軍事的役割も拡大していった。彼らは首都イスタンブールのみならず、帝国各地に駐屯し、軍の中核を担う存在となった。一方、ティマール制に基づいて地方に配置されていた騎兵(スィパーヒー)は、次第に時代遅れの戦力と見なされるようになり、その軍事的地位は徐々に低下していった。

このような歩兵主体への軍制転換は、実は日本の戦国時代にも見られる。たとえば、1575年の長篠の戦いでは、織田信長の鉄砲隊が武田軍の騎馬隊を打ち破ったことで、日本でも騎馬戦から鉄砲を用いた歩兵戦術への移行が決定づけられた。スレイマン1世の時代に起きた変化も、まさにこれと同様の軍事的転換であったと言える。

イェニチェリの重用は、オスマン帝国の軍事・政治・社会構造に大きな変化をもたらした。スレイマン1世の時代の帝国は、「カプクル(皇帝の奴隷)」制度に象徴されるように、領土や人民がスルタンの私的所有とみなされ、国家の統治権と君主の所有権が分離されない家産制国家として構築されていた。

しかし、イェニチェリの台頭により、ティマール制に基づいて組織されていた封建的な騎兵(スィパーヒー)の役割は次第に縮小し、代わって火器を装備する常備歩兵(イェニチェリ)が中心となる中央集権的な常備軍体制へと移行していった。さらに、イェニチェリは次第にスルタン直属の軍人という立場を離れ、独立した政治勢力としての性格を強めていく。すなわち、当初はスルタンに絶対的忠誠を誓う「国家の息子たち」であったものの、17世紀以降には世襲化と妻帯化が進行し、軍紀は大きく緩んだ。彼らは都市のギルドや商業活動にも関与し、次第に経済的利権を保有する既得権益層へと変質した。その結果、宰相の更迭やスルタンの廃位にまで関与するなど、政治への介入が常態化するようになった。このような変質と制度疲労の過程を詳細に描き出しているのが、冒頭で挙げた『第二のオスマン帝国──近世政治進化論』である。

この本は、オスマン2世の廃帝で始まる。オスマン2世(在位1618–1622年)は、オスマン帝国の第16代スルタンであり、若干14歳で即位した改革志向の君主であった。しかしその理想と行動は、最終的に彼自身の命を奪うことになった。彼は軍の規律の乱れや既得権益層の腐敗に強い危機感を抱き、特に強大な影響力を持っていた近衛歩兵団「イェニチェリ」の改革を試みた。彼は新たな軍団を創設し、イェニチェリに代わる軍事力を構築しようとしたのであるが、これが彼らの強い反発を招いた。1622年オスマン2世はメッカ巡礼を名目にシリアへ向かう計画を立てたが、これは実際には新軍団創設のための布石だったと見なされた。イェニチェリたちはこれに危機感を抱き、反乱を起こした。彼らはオスマン2世を捕らえ、「七塔の砦(イェディ・クレ)」に幽閉し、最終的には絞殺したとされている。オスマン2世はオスマン帝国史上、反乱によって殺害された最初のスルタンであり、享年わずか17歳であった。

20世紀の歴史学においては、オスマン2世の絞殺をオスマン帝国衰退の始まりとする見解が主流であった。しかし、本書の著者デズジャンはこれを、民主化の萌芽が見え始めた「プロト民主化」の時代と位置づけている。たとえば、イギリスでは1649年に清教徒革命によってチャールズ1世が処刑され、1688年には名誉革命によりジェームズ2世が退位に追い込まれた。同様の動きはオスマン帝国にも見られ、1648年にはイブラヒム1世*1が暗殺され、1687年にはメフメト4世*2が退位させられている。これらの出来事は、絶対君主制に対して制限を加えようとする中間層の出現、すなわち制限君主制を求める動きの表れと捉えることができる。

こうした変化は複数の制度改革に表れている。それまで帝位の継承時には、皇位継承権をめぐる内紛を避けるために「兄弟殺し」が慣例とされていたが、この時代には最年長者が即位する「年長制」へと移行した。これは、皇帝を神輿のように象徴的存在と見なし、人物にこだわらない傾向が背景にあったと考えられる。また、政治体制も皇帝と側近奴隷による中央集権から、大宰相を中心とする官僚機構へとシフトしていった。加えて、後述するように、有力家系による権力の分有も見られるようになった。

この時代において顕著であったのは、中間エリート層の台頭である。デヴシルメ制度の廃止に伴い、父親の身分を子が継承できるようになったことで、支配階級の特権を活用して経済的成功を収めたイェニチェリは、自らの家系の再生産を可能とした。このような背景の下、従来の階層構造の隙間を埋める形で、中小ブルジョアジーが新興社会層として台頭したのである。

ティマール制がイリティザーム(徴税請負制)へと移行したことは、オスマン帝国における社会構造の重大な変容をもたらした。イルティザームとは、国家が税の徴収業務を民間人(徴税請負人)に委託する制度であり、16世紀末以降、急速に制度化・普及していった。その基本構造として、徴税請負人は一定期間の徴税権を競売により取得し、国家に対して所定の金額を前納する見返りに、徴収によって生じる利益を享受することが可能であった。

この制度の導入によって、国家は徴税業務の負担を軽減し、即時の財源確保が可能となる一方、請負人による過度の徴収が発生し、農民層への圧迫という負の側面も顕在化した。1695年には、マリクハーネ(終身徴税請負制)が導入され、徴税権の終身化および実質的な世襲化が進められ、徴税権の地方固定化が一層強化されるに至った。

こうした制度的変化は、地方における有力者層、すなわちアヤーン(地方名士)の台頭を促す要因となった。彼らは当初、徴税請負人の下請けとして徴税業務に携わっていたが、次第に地方行政や軍事動員の分野にも関与し、実質的な影響力を及ぼすようになっていった。アヤーンの職能は、徴税にとどまらず、治安の維持や軍事力の動員など多岐にわたり、中央政府と地方社会をつなぐ媒介的存在として、帝国統治の一端を担うに至った。

アヤーンは、フランスにおける法服貴族、イギリスのジェントリー、あるいは日本の村における庄屋といった社会的存在に通じる役割を果たしており、近世に共通する中間層の形成という観点からも注目に値する。

統一市場の形成、市場経済の拡大、さらには通貨の統一に伴う金融の発展といった経済的基盤の変化は、イェニチェリから成長した中小ブルジョアジー層をも巻き込みつつ、町人文化および伝統文化の形成を促した。この現象は、下級武士層を包含するかたちで町人文化が展開した江戸時代の状況と類似している。また、18世紀前半においては「チューリップ時代」*3と称される安定期が続いたこともあり、文化的繁栄が見られた点は、江戸後期の文政文化の隆盛と相応するものと考えられる。

しかし、近代化に向けた諸改革を着実に進めつつあったオスマン帝国にも、江戸時代の日本における黒船来航に類似するかたちで、産業革命を経たヨーロッパ諸国の圧力が押し寄せた。宗教的・文化的多様性を内包しつつ、ある種のグローバルな秩序を維持してきたオスマン帝国であったが、ヨーロッパ列強による経済的・軍事的浸透により、その独自性は徐々に侵食されていった。さらに、民族意識の高揚と国民国家形成の潮流が帝国内部にも波及し、各地で分離独立運動が起こったことによって、領土の縮小は不可避のものとなっていった(図の出典:ウィキペディア)。

約600年にわたり(日本の鎌倉時代から大正時代に相当)、一つの王朝として存続してきたオスマン帝国も、第一次世界大戦後の1922年にその幕を閉じた。同時期には、ドイツ帝国オーストリア=ハンガリー帝国ロシア帝国といった他の大帝国も相次いで崩壊している。これらの帝国はいずれも、多民族・多宗教を包含する旧来の帝国モデルであり、第一次世界大戦後に高まった民族自決の理念と国民国家形成の潮流の中で、歴史の表舞台から姿を消すこととなった。まさに、「帝国の終焉」と呼ぶにふさわしい時代であった。

以上が、『第二のオスマン帝国──近世政治進化論』を出発点として私が得た、オスマン帝国に関する主たる知見である。ただし、この一書のみでは把握しきれない論点や理解の空白も多く見受けられたため、宮下遼著『オスマン帝国全史 「崇高なる国家」の物語 1299-1922』、小笠原弘幸著『オスマン帝国──繁栄と衰亡の600年史』、および林佳世子著『興亡の世界史 オスマン帝国500年の平和』を併読し、理解の補完と視野の拡張に努めた。

本稿の最後に、オスマン帝国における社会構造の変化を視覚的に明示するため、二つの図を作成した。最初の図は、古典的なオスマン帝国の構造を示すものである。この時期の帝国は、スルタンを中心とする家産的統治構造のもと、明確な身分差と階層的秩序を特徴としていた。


図においては、支配層であるアスケリー(Askerî)と、被支配層であるレアーヤー(Reâyâ)をピラミッド構造の上層と下層に配置し、社会的ヒエラルキーの明確な区分を表現した。アスケリーの内部はさらに機能別に区分されており、左側には軍事および行政機構が位置づけられる。軍事部門は、常備騎兵であるスィパーヒー(Sipahi)と、常備歩兵であるイェニチェリ(Yeniçeri)から構成され、帝国の軍事的基盤を支えていた。これに対して右側には、司法を司るウラマー(‘Ulamā’)が位置しており、宗教的正統性と法の執行を担う重要な役割を果たしていた。

このように、古典的オスマン帝国における社会構造は、軍事・行政・司法という三位一体的な支配装置を軸としながら、宗教的秩序と階層的統制のもとに構築されていたことがわかる。

次に示す図は、王権が一定の制約を受けるようになった「第二のオスマン帝国」における社会構造を視覚化したものである。

中間層の登場により、王権は彼らからの政治的な働きかけを受けるようになり、両者の関係は上下の支配被支配という構図ではなく、相互に影響を及ぼし合う関係として捉えられる。そのため本図では、階層的なピラミッドではなく、同心円構造を用いて表現した。
中央には、行政および司法を担う王権が位置し、その外側に中間層を配している。中間層は、内側の王権と外側の一般庶民との間に介在し、王権に対して一定の制約を加える存在として機能している。最も外側の円は、町人・職人(ギルド)、農民、遊牧民などから構成される一般庶民を表している。

また、日本の中世から近世にかけての社会構造の変容についても、本図と同様の形式で表現することが可能である。地理的には遠く隔たっていた両国でありながら、近代化へと至る過程で、類似した中間層を媒介とする社会構造が形成されていたことを図式化によって把握できた点は、極めて示唆に富み、有意義な発見となった。

オスマン帝国の旧領のうち、これまでに訪れたのはセルビアベオグラードのみである。今後機会があれば、イスタンブールをはじめとして、オスマン文化の面影を今に伝える静かな町々を訪ね、その歴史と暮らしの余韻に触れてみたいと願っている*4

*1:オスマン帝国第18代スルタン・イブラヒム1世(在位:1640–1648年)はその奇行と専制的な振る舞いから「狂人スルタン(デリ・イブラヒム)」と呼ばれ、最終的に政変によって廃位・殺害された。イブラヒムの治世末期、彼はハレムの女性や宦官ら約280人を袋詰めにしてボスポラス海峡に投げ込むという残虐な行為を行い、宮廷内外の反感を一気に買った。さらに、近衛軍イェニチェリへの課税を試みた大宰相ヘザルパレ・アフメト・パシャに対してイェニチェリが反乱を起こし、ウラマー宗教学者)や母后キョセム・スルタンまでもが反乱に同調した。その結果、イブラヒムは廃位され、幽閉ののちに絞殺された。彼の死は、オスマン帝国におけるスルタンの絶対的権威が揺らいでいる象徴的な事件とされている。

*2:メフメト4世(在位:1648–1687年)は、在位期間が約39年と長く、狩猟を好んだことから「アヴチ(狩人)・メフメト」とも呼ばれた。しかし晩年には国政への関心を失い、実権は大宰相や母后に委ねられた。退位の直接的な引き金となったのは、1683年の第二次ウィーン包囲の失敗と、それに続く「大トルコ戦争」での連敗である。この軍事的敗北により、帝国内では不満が高まり、イェニチェリを中心とする軍部が反乱を起こした。1687年、メフメト4世はイスタンブールでの暴動と軍の圧力に屈し、弟のスレイマン2世に帝位を譲って退位させられた。

*3:「チューリップ時代」(1703〜1730年、アフメト3世の治世)は、オスマン帝国における平和と繁栄を背景に、華やかな宮廷文化と都市文化が花開いた時期として知られています。以下にその文化的特徴を整理してご紹介する。①美と洗練を追求した耽美主義的文化:この時代は、花鳥・美酒・歌舞音曲といった感覚的な享楽が上流階級の間で重視され、耽美主義的なライフスタイルが広まった。チューリップは単なる観賞用植物ではなく、富と教養の象徴として扱われ、宴席や庭園、衣装、陶磁器などに頻繁に登場した。②ヨーロッパ文化の受容と融合:特にフランス文化の影響が顕著で、建築や装飾芸術においてはロココ様式が取り入れられた。イスタンブールのサーダバード離宮はその代表例で、西洋趣味とオスマン的装飾が融合した空間として知られている。③園芸と細密画の発展:チューリップの品種改良や栽培技術が高度化し、園芸文化が洗練された。また、細密画家レヴニーのような芸術家が活躍し、チューリップをモチーフとした絵画や装飾芸術が数多く制作された。④都市文化と祝祭の活況:イスタンブールを中心に、祝祭や夜会、詩の朗読会などが盛んに行われ、都市住民の間でも文化的活動が活発化した。チューリップはこうした場でも装飾や贈答品として重要な役割を果たした。

*4:Copilotからのお勧めの場所は、サフランボル(Safranbolu)。この町は、オスマン時代の木造建築と町並みがよく保存されており、ユネスコ世界遺産にも登録されている。観光地化されすぎていない落ち着いた雰囲気の中で、当時の生活文化を体感できるとのことである。

地球の歴史の中で最初に上陸した植物は?

舗装道の脇や古い石塀に、まるで鉄がさびたようなオレンジ色の斑点が点々と現れるのを目にする。あまりにあちこちに見かけるので、いたずら書きとは思えず、「もしかして、これは生き物なのでは」と感じたこともあったが、それ以上立ち止まって考えることはなかった。

先日、地球46億年の歴史を手っ取り早く学ぼうと思い、上野の国立科学博物館を訪れた。地上に最初に現れた生物に興味があったので、まずその展示へ向かい、説明書きを読んでみた。そこには次のように書かれていた――「生物がいつ、どのようにして陸上に進出したのかは、今なお多くの謎に包まれている。しかし、菌類や藻類、あるいは両者が共生する地衣類が、水辺に小さな生態系を形成していたことが、地層の特徴や炭素の同位体比などから推測されている。(中略)そして、およそ5億年前の古生代前半には、陸上への進出に適応した動植物が現れた」と。

古生代前半の地表は、現在のように土壌で覆われていたわけではなく、主に岩石がむき出しの状態だったと考えられている。その様子は、舗装された道路や石塀に似ていたのではないかとも想像される。こうした場所で見られるオレンジ色の小さな斑点は、「ツブダイダイゴケ」と呼ばれる地衣類である。名前に「コケ」とあるが、苔(コケ植物)ではなく、菌類と藻類が共生してできた地衣類に分類される。国立科学博物館の説明によれば、地衣類は以下のような構造を持っている(図は 国立科学技術博物館「地衣類の探求」 を参照):

  • 上皮層:菌糸が密に絡み合い、地衣体の表面を覆って外界から保護する。
  • 藻類層:共生する藻類が存在し、光合成によって有機物を生産する。
  • 髄層:菌糸がゆるやかに絡み合い、栄養や水分の移動を助ける役割を担っている。
  • 下皮層:岩や樹皮などの基物に付着するための構造である。


地衣類が巧みに生存している仕組みは、次のように考えられる。菌類は自ら栄養を摂取できないため、共生している藻類から栄養の供給を受けている。藻類は光合成によって糖分を生成し、それが菌類に渡される。菌類はこれをエネルギー源として利用し、菌糸から有機酸を合成・排出する。有機酸は酸性であるため、コンクリート中のカルシウム成分などを溶出させる。このカルシウムは、藻類にとって重要な栄養源となる。

こうしたプロセスは、地衣類が初めて地上に進出した時代にも起こっていたと考えられる。地衣類が排出する有機酸が岩石を化学的に風化させ、やがて砂や粘土といった粒子が形成された。そこに地衣類自身や初期の植物が加わることで、最初の土壌が生まれたとされている。つまり、地衣類の出す有機酸によって岩石が風化し、その表面に鉱物粒子が蓄積した。さらに、地衣類や初期植物の遺骸が有機物として混ざり合うことで、“土壌”と呼べる環境が少しずつ形成されていった。この初期の土壌は厚みも栄養も乏しいものだったが、それでも新たな生命の足がかりとなった。

地衣類に続いて(コケ類もこの時期に現れたとされている)、1億年後には根を持つ維管束植物のシダ類が広がることで、土壌は厚く、複雑なものへと進化した。図は桜の幹に生育したコケ(中央の小さな丸い緑色の群れ)と地衣類(左側の青白い斑点と右の黄色い斑点)である。

一見すると、それはただ道路の片隅に現れた、さび色の斑点にすぎないように見えたり、古木の幹にへばりつき、老いの哀れさを感じさせる媒介にすぎないかもしれない。だが、その奥には約5億年にわたる陸上生態系の誕生と進化の物語が秘められている。地衣類の営みは、単なる風景の一部ではなく、私たちの暮らしの基盤を形づくってきた生命史そのものだと知ると、その静かな営みに深い感銘を受けずにはいられない。

追伸:近所のアジサイがちょうど満開だったので撮影していたところ、擁壁にびっしりと生育した見事なコケの姿が写り込んでいた。

聞香を楽しんだ後で、源氏香の図柄数を求める

ある会合で、「香を聞く」を体験をした。これは「聞香(もんこう)」と呼ばれ、日本の伝統芸道の一つ「香道(こうどう)」における中核の所作であり、香木の香りを鑑賞する行いである。ここで言う「聞く」とは、単に嗅ぐのではなく、心を澄ませて香りと向き合い、五感と精神とで味わうという、深い意味合いを含んでいる。聞香は、
1)香炉の準備
聞香炉に香炉灰を入れ、炭団(たどん)を中央に埋めて熱源とし、その上に銀葉(ぎんよう)という雲母の薄片を置き、さらにその上に小さく割った香木を載せて間接的に熱する。
2)香りの聞き方
香炉を左手にのせ、右手で覆うようにして香りを逃がさず、三回(「三息」)ゆっくりと吸い込む。香りを「聞く」ことで心を落ち着け、自然や自分自身と向き合う。
3)香木の種類と分類
聞香で使われる香木には、伽羅(きゃら)、沈香(じんこう)、白檀(びゃくだん)などがあり、香りの特徴は「六国五味(りっこくごみ)」という分類法で表現される。これは産地や香りの味覚的印象(甘・酸・辛・鹹・苦)に拠っている。

組香
「聞香」を遊びのかたちに昇華させたのが、組香(くみこう)である。これは、複数の香木を焚き、その香りの違いや順序を聞き分けて当てるという、知的かつ風雅な遊びである。単なる嗅覚の競い合いにとどまらず、そこには文学的教養や季節の情趣、そして想像力が重ねられる。まさに、五感と精神の融合といえる香の芸術である。組香の基本形は、
1)試香(こころみこう)
最初に基準となる香りを焚いて、参加者全員が香りを記憶する。
2)焚き出し
いくつかの香包(こうづつみ)を無作為に選び、順に焚いて香りを聞く。
3)聞き分けと記録
それぞれの香りが基準と同じかどうかを判断し、記録用紙に記入する。
4)答え合わせ
最後に香包を開いて正解を確認し、点数をつける。ただし、勝敗よりも香りを通じて季節や物語に思いを馳せることが大切とされている。

雪月花香
今回は、素人向けの「雪月花香」を体験した。これは次のようである。
1)香種(こうだね):「雪」「月」「花」「客(これは、雪、月、花のどれかである)」の4種類の香木を用意する。
2)試香(こころみこう):客を焚いて記憶する。
3)出香(しゅっこう):3つの香り(雪、月、花)を順に焚き、試香と同じ香りがどれであるかを聞き分ける。
4)答えの記入:参加者は、どの香りが客と同一であったかを記録用紙に記入する。
参加者は、香りの違いを聞き分けるだけでなく、「雪=冬」「月=秋」「花=春」といった季節の象徴を香りで感じ取ることが求められる。そして、香りを通じて、季節の移ろいや自然の美を心に描く。感性と記憶の芸術を楽しむ(今回は2)と3)の順番が逆であった)。

ここでの「雪月花」という言葉は、唐代の詩人・ 白居易の詩「殷協律に寄す」に由来するとされる。

     雪月花時最憶君
     (雪・月・花の時、最も君を思う)

この詩情が香道にも取り入れられ、香りを通じて誰かを思い出す、あるいは季節の情景に心を寄せるという精神が、雪月花香の根底に流れているそうである。

今回の参加者は27名であった。選択肢が3つあることから、たとえ勘で答えたとしても、理論上は約3分の1、すなわち9人ほどは正解するはずである。ところが、実際の正解者はわずか6人にとどまった。この結果を受けて、参加者の多くがシニア層であったこともあり、「やはり加齢による嗅覚の衰えだろうか」と、思わずため息がもれた。

源氏香
組香の中でも特に人気が高いのが「源氏香」である。これは、5種類の香を順に聞き、その香りの異同を記憶し、図柄で答えるという遊びで、相応の記憶力と集中力が求められる。その名の通り、『源氏物語』の各帖にちなんだ52種類の図柄が用意されており、香りと物語が響き合う風雅な形式である。以下に、源氏香の基本構成を示す。
1)香木の準備:5種類の香木をそれぞれ5包ずつ、計25包用意する。
2)出香:その中から無作為に5包を選び、順に焚いて香りを聞く。
3)聞き分け:参加者は、5つの香りのうち、同じ香りがどれかを聞き分ける。
4)図柄で回答:香りの異同を、5本の縦線と横線で構成された「源氏香之図」で表現する。
例えば、次のようである。すべて異なる香りなら5本の縦線が並ぶだけ(「帚木」)、同じ香りが2つあればその縦線を横線で結ぶ。図柄は全部で52通りなので、『源氏物語』の54帖のうち「桐壺」と「夢浮橋」を除いた各帖の名まえが、図柄に付けられている(デジタル大辞泉より)。

この図柄は、香道の世界だけでなく、着物の文様、茶道具、和菓子、家紋などにも取り入れられ、日本文化の中で広く親しまれている。浮世絵にも描かれていて、三代目歌川豊国の「夜商内六夏撰 麦湯」では、着物の模様となっている(デジタル大辞泉より)。

主催者の方が、江戸時代、和算に秀でた学者が「源氏香の図柄が52種類である」ことを証明したと言われた。そこで、私も負けずに解いてみることにした。

源氏香の基本構成のところの2)で、無造作に5包選んでいる。そこで、ここに何種類の香が存在しているかによって場合分けして、考えることにした。

1)香は一種類だけ、すなわち5包ともすべて同じである場合。
これは一通りわしかないのはすぐわかる。源氏香の図柄でば「箒木」に当たる。

2)香は二種類で、4包が同じで1包は異なる場合。
種類数を求めるには、異なる1包が何番目に焚かれたかを考えればよいので 5 である。順列組合で考えると、緑の玉が4、赤の玉が1の時、何種類の異なる並び方があるかという問題と同じである。従って、  5!/(4! \times 1!)=5  である。

3)香は二種類で、3包が同じで、残りの2包も同じである場合。
緑の玉が3、赤の玉が2のときの順列組合せと同じ問題なので、 5!/(3! \times 2!)=10 となる*1

4)三種類のうち、3包が同じで、他の2包はそれぞれに異なる場合。
この問題は、異なっている2包の順番は問わないので、3)の場合と同じになり、  5!/(3! \times 2!)=10  となる。

5)三種類のうち二種類は2包で、残されたものは1包である場合。
これは、緑の玉が2、赤の玉が2、黄の玉が1あり、さらには、緑と赤に対しては後先を考慮しなくても良いとしたときの順列組合せと同じなので、  5!/(4! \times 1!) \times 4!/(2! \times 2!) / 2=15  となる。

6)四種類で、2包が同じ、他はそれぞれと異なる場合。
これは3)の場合と同じ順列組合せになるので、  5!/(3! \times 2!)=10  となる。

7)五種類、すなわち5包すべてがお互いに異なる場合。
これは1)の場合と同じで一種類である。

これらを合計すると、  1 + 5 + 10 + 10 + 15 + 10 + 1 = 52  となり、めでたく証明できた。

最後に、香道の歴史を簡単に示す。

1)起源:仏教とともに伝来(6〜8世紀)
香の文化は、仏教の伝来(6世紀頃)とともに日本に入った。最古の記録は『日本書紀』にあり、595年に淡路島に漂着した香木が朝廷に献上されたという逸話が残っている。当初は仏前で焚かれる供香(くこう)として、宗教的な意味合いが強いものであった。

2)平安時代:貴族文化と香の融合
平安時代になると、香は貴族の教養や風雅の象徴となり、個人が独自に調合した「薫物(たきもの)」を衣服や部屋に焚き染める文化が広がった。『源氏物語』や『枕草子』にも香の描写が多く登場し、香りは個人の美意識や感性を表す手段となった。

3)鎌倉〜室町時代:武士と禅の香
武士の台頭と禅宗の影響により、香は精神修養の一環として重視されるようになった。特に室町時代の東山文化の中で、香は茶道や能と並ぶ芸道として体系化され、香道の原型が形成された。志野宗信や三条西実隆といった人物が香道の礎を築いた。

4)江戸時代:町人文化への広がり
江戸時代には、香道は武士や町人、女性層にまで広がり、教養の一つとして定着した。組香や聞香の形式が整い、香道具も芸術品として発展した。家元制度も確立され、志野流・御家流などの流派が現在まで続いている。

5)近代〜現代:再興と新たな香文化
明治維新以降、西洋化の波により一時衰退するが、20世紀後半から再評価が進み、伝統文化としての香道が復興した。現代では、香道は心を整える芸道として見直され、国内外で体験教室や展示も増えている。

香道の始祖とされているのは、佐々木道誉(1296年?–1373年)である。彼は「婆娑羅(ばさら)大名」として知られ、常識にとらわれない華美で自由な振る舞いを好んだ。その一方で、香木の収集家としても知られ、177種類以上の香木を所有していたと伝えられている。このコレクションは後に室町幕府八代将軍・足利義政に引き継がれ、東山文化の中で香道が体系化される礎となった。『太平記』には、道誉が政敵・斯波高経の花見に対抗して、ひと抱えもある香木を一度に焚き上げたという逸話が記されている。その香りは風に乗って京の町に広がり、人々はまるで極楽浄土にいるかのような気分になったと言われている。通常、香木は「馬尾蚊足(ばびぶんそく)」といってごく少量を用いるのが作法だが、それを豪快に焚き上げた道誉の行為は、香を芸術として昇華させる先駆けと言える。なお、香道の正式な体系化は後の三条西実隆らによるものとされているが、道誉の香文化への情熱と審美眼が、その基盤を築いたという見方もある。

この日は、江戸時代に庶民の間でも親しまれていた「聞香(もんこう)」を体験することができ、非常に有意義なひとときを過ごした。さらに、源氏香に用いられる図柄の総数についても計算し、香りだけでなく知的な収穫も多い一日となった。

*1:少し、一般化して説明しておこう。赤い球が  m  個、青い球が n 個あったとしよう。それぞれの球は区別ができるように、赤い球には数字が、青い球にはアルファベットが付けられていたとしよう。初めに、これらの球を順番に並べることを考えることにしよう。最初は、 m+n 個の中から一つ取り出すので、 m+n の選択がある。次は、一つ選ばれているので、 m+n-1 通りある。これを繰り返すと、求めている球の並びは、 (m+n)! となる。それでは、次に赤の球だけを考えることとしよう。これも、その並び順は m! 通りとなる。それでは、全体の球の並び順の中で、赤の球の数字を無視して、同じ赤であれば一緒と見做すことにしよう。例えば、赤が 2 、青が 1 個の場合には、(1,2,a)と(2,1,a)は一緒、(1,a,2)と(2,a,1)も一緒、(a,1,2)と(a,2,1)も同じということにしよう。番号がついていた赤い球の並び順は、  m  通りあったので、これらを同一と見做すことになるので (m+n)!/m! 個の集まりとなる。赤が 2 、青が 1 個の先の例では、 3 通り、(a,赤,赤),(赤,a,赤),(赤,赤,a,)となる。同様に青い球のアルファベットを無視したときは何通りになるかを求めることにしよう。無視しないとすると n! 通りの並び順があったが、これを一緒と見做すため、いま求めたものを n! で割ればよいので、 (m+n)!/m!n! 通りとなる。さらに一般化すると、もう少し抽象的な数学の分野に入れそうだが、今回はここまで。

神代植物公園を訪れる

植物の多様性について学んだあと、帰宅するのにはまだ早すぎたので、ついでと言ってはなんだか、植物園を見学した。

園内では、菖翁生誕250年企画「薫風に香る江戸の華~はなしょうぶ」が開催されていた。江戸時代中期、旗本の松平定朝(さだとも)がハナショウブの育種を飛躍的に進め、多くの品種を作り出し、晩年には自らを「菖翁(しょうおう)」と号した。「菖翁」こと松平定朝の生誕250年を記念しての展示である。正門には代表的なものを選んだのだろう、とてもきれいな「ハナショウブ」が展示されていた。ハナショウブは水生植物園で見ることができるが、この公園とは別の区画にある。

この公園のウリであるバラ園は盛りを過ぎていたが、まだまだその美しさを誇っていた。

アジサイは期待していたのだが少し早すぎたようである。

シャクナゲの季節はすでに過ぎていた。葉ばかりとなったシャクナゲ畑のなかに、面影を伝えるかのように小ぶりの花を咲かせている野草を見つけた。

その後は、大温室にはいって見学。最初はラン、

続いて、ベコニア、

そして、スイレン

最後に化け物のショクダイオオコンニャク。世界最大の臭い花と紹介されていた。そして、次のような説明文があった。インドネシアスマトラ島だけに生育するサトイモ科の希少植物(絶滅危惧種)で、高さ3m、直径1mにもなる大きな花を咲かせることから、「世界で一番大きな花(花序)」と言われている。腐った肉のような強烈な悪臭を放つことで有名。地下に大きな芋(球茎)があり、そこから1枚の大きな葉を出して栄養を蓄えることを数年繰返し、球茎が充分に大きくなると花芽をつけ、花を咲かせる。開花したのは6月3日なので、一週間後の姿である。

神代植物園は広大で花の種類も多いので、好きな花が盛りの頃を狙っていくのが良さそうである。今回は、別件があっての訪問だったが、バラもハナショウブも、少し遅れたとはいえショクダイオオコンニャクの開花後も観察することができ、恵まれた時期の見学であった。

神代植物公園・生物多様性センターを訪れる

東京も梅雨に入ったと伝えられた日に、調布市にある神代植物公園を訪れた。とはいっても、ここのメインであるバラ園ではなく、伊豆諸島の草木を調べるためであった。

島は誕生した場所によって、大陸島か海洋島に区分される。大陸棚の上にある島を大陸島といい、大陸棚から離れている島を海洋島と呼ぶ。大陸があるところでは、大陸を構成する花崗岩が、海洋底を構成する玄武岩の上に浮いている。そして、大陸の周辺部が大陸棚となっている。大陸(大陸棚)で火山活動があり、その結果、生まれた島が大陸島である。このような島は大陸から余り離れていなかったり、接続していた時があったりするので、大陸の動植物が見られるのが通常である。これに対して、海洋島は誕生したときはもちろん、その後も偶然に運ばれてこない限り、動植物は存在しない。流木に乗って動物が漂流してきたり、鳥によって種子が運ばれてきたり、ぷかぷかと浮きながら種子が流れ着いたりしない限りは、鳥以外の生き物は存在しない。海洋島で生息する生き物は偶発的に定着したものであるために、これらの島々の生態系には偏りが見られるのが特徴である。

このため、伊豆諸島や小笠原諸島のような海洋島での生態系を調べることで、動植物の多様性を観察することができる。ここでの多様性という言葉は少々一般的すぎるが、そこには三つの多様性、すなわち、環境の多様性、種の多様性、遺伝子の多様性が含まれている。今回の目的は、この多様性を実感することで、多様性を保全することの大切さを知ろうとするものである。

神代植物公園には、京王線調布駅からバスで行くのが便利である。

植物多様性センターは、公園正門の左手方向にある。そこは三つの領域に分かれていて、下図で、右下が伊豆諸島ゾーン、左下が奥多摩ゾーン、上部が武蔵野ゾーンである。

伊豆諸島ゾーンはさらに三分割されていて、それらは火山性草地エリア、海岸砂地エリア、海岸岩地エリアである。

火山性草地エリアは、火山が噴火した後にできた不毛のスコリア(火山噴火で放出された多孔質の火山岩の一種)の荒地である。荒地に最初に侵入してくる植物は、シマタヌキラン、ハチジョウイタドリ、オオバヤシャブシである。下の写真はこのエリアの様子を示したものである。

オオバヤシャブシが不毛な地で生育できるのは、フランキア菌と共生しているためである。この菌はオオバヤシャブシの根に共生し、窒素を固定させる。すなわち、根に根粒を形成し、大気中の窒素を土壌に供給することで、オオバヤシャブシの生育を助けている。

さらに、これらの植物の腐食によって有機物の堆積が進むと、ハチジョウキブシ(写真左)、ハチジョウススキ(写真右)などが生育する。

このエリアの隅に、ハチジョウアザミがあつた。通常のアザミはとげがあるが、これを食べる動物がいなかったためにとげを失ったようである。

次は海岸砂地エリア(写真の手前)と海岸岩地エリア(写真の奥)である。もっとも手前にあるのはシマホテルブクロ、中程はオオシマハイネズで、いずれも砂地に適応した植物である。

まず、海岸砂地エリアから見ていこう。伊豆諸島の海岸部は、断崖や岩地が多く、浜も多くは礫浜で、砂浜はあまり発達していない。しかし、大島、新島、三宅島、八丈島などには、小規模な砂浜がある。海岸の砂浜では、波風による砂の移動の影響を受ける。このため、ここで生育する植物は、地下茎を地中に広げたり、強く長い走出枝を地上に広げたり、地中に深く根を下ろしたりと、安定しない砂地で生育できるように適応している。砂地では、ハマヒルガオハマボウフウ、ケカモノハシ、ネコノシタなどが生育している。

ハマボウフウは海岸に自生するセリ科の多年草で、潮風や乾燥に強く、砂浜や岩場などの厳しい環境でもたくましく育つ。白いレースのような花を夏に咲かせ、根は古くから薬用としても利用された。

ハマゴウはシソ科の常緑または半常緑の小低木で、砂浜を這うように広がり、夏の間に淡い紫色の花を咲かせる。果実は黒く熟し、コルク質の果皮によって海水に浮かび、波に乗って種子を広げる。海辺の暮らしに適応した植物である。

最後は、海岸岩地エリアである。海岸に接した切り立った地形で、波による浸食や潮風の影響を常に受ける。岩盤に生育している植物は、わずかな岩の切れ目や隙間、くぼみに根を深く張る。また、崖下の岩や砂が堆積した場所には、崖地とは違った植物、ハチジョウススキ、ツルナなどがみられる。次の写真が、海岸岩地での植生を示していた。

トベラは常緑低木で、潮風や乾燥に強く、防風・防潮の役割を果たす。光沢のある厚い葉と、春に咲く白い芳香のある花が特徴で、庭木や生垣としても人気がある。

ハマナデシコは、伊豆諸島の海岸に咲く可憐でたくましい多年草で、ナデシコ科に属し、5月から8月にかけて、紅紫色の花が群れ咲き、岩場や草地を彩る。葉は厚みがあり光沢があって、潮風や乾燥にも強く、海辺の環境に適応した植物である。種子は風によって散布される。

シマキンレイカは伊豆諸島の神津島御蔵島にのみ分布する、日本固有の絶滅危惧植物である。スイカズラ科の多年草で、湿った山中の岩場などにひっそりと生育する。

ガクアジサイは、海岸沿いの林縁や岩場に自生する日本原産のアジサイの原種で、「ハマアジサイ」とも呼ばれる。

シマガマズミは伊豆諸島に固有の落葉低木で、特に日当たりのよい林縁や路傍に自生する。ガマズミの島嶼型とされ、樹高はおよそ2〜4メートル。葉は厚みがあり光沢があって、縁には鋭い鋸歯が並ぶ。春(4〜5月)には白い小花を多数咲かせ、秋には赤く熟す果実をつける。この植物は、絶滅危惧種に指定されており、推定開花株数は1000個体未満とされている。

オトコエシは、秋の七草のひとつ「オミナエシの近縁種」で、白い小花を多数咲かせるスイカズラ科の多年草である。日本各地に分布するが、伊豆諸島には独自の「島型オトコエシ」が存在し、本土型とはいくつかの点で異なる。隔離された火山島で進化した「島嶼効果」の一例とされ、植物の進化や適応を学ぶうえで興味深い存在である。

サクユリは伊豆諸島に固有のユリで、世界最大級のユリとして知られている。ヤマユリの変種で、伊豆大島や利島、青ヶ島などで見られる。絶滅危惧種に指定されている。

小笠原諸島の植物は、植物公園のなかの温室で見られるということなので、そこにも足を運んだ。

オオハマギキョウはキキョウ科の固有植物で、 海岸近くの崖や日当たりの良い草地を好み、その姿はまるで木のように堂々としている。草丈は2〜3メートルに達し、茎は木質化して太くなる。葉は細長い披針形で光沢があり、輪生状に密集してつくことから、島では「千枚葉(センマイバ)」とも呼ばれている。花期は5〜7月で、一生に一度だけ花を咲かせる「一回結実性」の植物で、結実後は枯れてしまう。絶滅危惧種に指定されており、推定開花株数は1000個体未満とされている。

イオウノボタンは、北硫黄島にのみ自生するノボタン科の常緑低木で、小笠原諸島の中でも特に限られた環境に根付いた貴重な固有種である。樹高は1〜2メートルほどで、葉は楕円形、厚みがあり、表面には白い毛が密生している。花期は7〜8月で、枝先に濃い紅紫色の5弁花を咲かせる。絶滅危惧種に指定されている。

ムニンタツナミソウはシソ科の多年草で、島の春を彩る繊細で美しい花を咲かせまる。草丈は約15〜70cmで、茎には4つの稜があり、短毛が生えている。花期は3〜5月で、茎先に白〜淡紅色の唇形花を多数つける。父島の夜明平〜中央山東平、兄島の林縁や岩場など、乾燥しすぎない林地に群生する。絶滅危惧種に指定され、ヤギの食害により激減している。

テリアハマボウは、小笠原諸島に自生するアオイ科フヨウ属の固有植物で、オオハマボウの近縁種とされる。名前の「照葉」は、葉の表面がつやつやしていることに由来、葉はハート形で光沢があり、手触りはつるつるしている。花は大きな黄色の5弁花で、中心部が赤く、咲いたその日にしぼむ「一日花」。樹高は環境によって異なり、低木林では2〜3m、高木林では10m以上に達する。海辺に生えるオオハマボウと異なり、山地性の植物として知られている。「モンテンボク」という別名もあり、ハワイ語の「ハウ」=ハイビスカスに由来するとも言われている。

オガサワラグワは、小笠原諸島に固有のクワ科の落葉高木で、湿性高木林の林冠を構成する重要な樹種だった。美しい木目と耐久性から、明治期には家具材や工芸材として重宝され、乱伐により激減した歴史を持つ。樹高は10メートルを超えることもある。葉は大きく、クワ属らしい形状で、秋には黄葉する。実は黒紫色に熟し、かつては野鳥の重要な食料源でもあった。父島・母島・弟島に百数十個体のみが残存し、絶滅危惧種に指定されている。外来種のアカギやシマグワとの交雑問題、生育地の減少、天然更新の困難さなどが深刻な課題とされている。

伊豆諸島や小笠原諸島の植物を観察する中で、さまざまな要因によりこれらの島々に定着した植物たちが、現地の生態系に応じて巧みに適応した姿を目の当たりにした。こうした変化は、植物とその周囲の環境、さらには動物との間に深いかかわりがあり、この安定した関係が築かれるまでに、気の遠くなるような長い年月が費やされてきたことを想像させる。完成された生態系を壊すのは容易だが、それを維持し続けることの困難さ、そして尊さを改めて実感した。生物多様性センターの地道な活動が、今後も絶えることなく続いていくことを願いながら、神代植物公園へと足を運んだ。

町田市立国際版画美術館で『日本の版画1200年』の後期展示を鑑賞する

町田市立国際版画美術館では、毎月第4水曜日が「シルバーデー」となっており、シニア世代にとって嬉しい日である。「日本の版画1200年」の後期展示が公開されるとのことで、今回訪問した。前期展示に続く再訪であり、前回見逃した南北朝時代から室町時代にかけての仏教版画と、後期展示の作品を中心に鑑賞した。なお、作品の紹介については、図録に掲載されていた原文をそのまま使用している。

十二天像(与田寺版)の内の八天 地天・閻魔天帝釈天梵天
南北朝室町時代初期には京都五山の出版文化の隆盛とともに仏教版画の大型化が進み、至徳2年(1385)の大阪市立美術館本不動王明王像や応永9年(1402)の浄光寺本仏涅槃図が生まれた。《十二天像の内の八天》はこれらに続く優品で、讃岐国真言僧増吽(1366-1449)が応永14年に開版したことが銘文から判明する。開版地の与田寺には版木が現存し、「与田寺版十二天」として名高い。像容は均整が取れ、下絵の墨線の調子はいきいきと再現される。十二天像は密教儀礼の灌頂では不可欠で、版画によって多くの需要に応じたとみられる。(後略)。

風天像。
(前略)。小型の版本十二天像のうちの五尊である。風天像には「フ」、地天像には「チ」というように尊名を示す片かなが画中隅に記され、普及を前提とした配慮が読み取れる。

毘沙門天像。
(前略)。室町時代には肉質の仏画と同様に密教儀礼の場で使用可能な大型木版画の開版が進んだ。(中略)。室町時代の作例の多くは版刻線の味わいを残して彩色するが、《毘沙門天像》は濃密な彩色で版刻線を塗り籠めており、制作年代の下降を感じさせる。


円窓の二美人図。
(これらは)女性像を描いた作。明末徽派版画において典型化した仇英美人像を踏襲し、微笑を浮かべる瓜実顔が特徴である。そのうち《円窓の二美人図》には、窓の外に描かれた風景に透視図法が用いられている。さらには銅版画のハッチングの技法に基づく表現も成されており、西洋画の影響が窺われる一作である。

美人図。

歌川豊春:阿蘭陀フランスカノ伽藍之図。
歌川豊春(1735-1814)は、浮世絵最大流派である歌川派の祖。明和年間(1764-72)後期から天明年間(1871-89)を中心に、透視図法を強調的に用いた浮絵を手掛け、それまでと比べてより開放的な景観を画中で実現した。(中略)。《阿蘭陀フランスカノ伽藍之図》は、ロンドンで出版された『古代ローマの遺跡』(ロバート・セイヤー社)を原図として描いた作。画中には古代建築物が描かれるとともに、銅板画技法の線影表現を模した形跡が見られる。

司馬江漢:画室図。
司馬江漢(1747-1818)は、天明3年(1783)、腐食銅版画(エッチング)を日本で初めて製作した人物として名高い。はじめ狩野派を学んだ江漢は、明和年間には一世を風靡した浮世絵師の鈴木春信の作品を追随したのち、明和後期には宋紫石から南蘋画を学び、安永9年(1780)以降は洋画家に転向した。(中略)。銅板画《画室図》は画家の自画像である。背景には西洋風建築が描かれ、江漢の異国憧憬を明確にものがたる。(後略)。

葛飾北斎:冨獄三十六景
染料の顔料であるベロ藍は、ドイツのベルリンで発見されたことに因み命名され、幕末期に輸入された浮世絵の色彩表現に革命をもたらした。ベロ藍を大胆に用いた初期の浮世絵版画として、葛飾北斎の代表作「冨獄三十六景」が挙げられる。富士山を題材とした本シリーズは、「三十六景」とあるが、往時からその人気はすさまじく、結果として46図制作された。《遠江山中》は、現在の静岡県からの眺望を描いた作で、巨木とそれを支える柱から富士を覗き見る構図をとる。(後略)。

歌川広重東海道五拾三次之内 沼津 黄昏図。
北斎と並んで浮世絵風景画を代表する絵師として知られる歌川広重(1797-1858)の出世作となった揃物。従来の東海道物の錦絵が海道風俗を主体とした描写であったのに比べ、風景描写を格段に充実させたことが成功の要因であった。透視図法的な視覚に基づいて風景を水平に捉え、豊かな奥行を確保するとともに、雨、雪、霧などの気象現象を巧みに織り込み、実景感と情緒性豊かな画面を作り出している。空や海、あるいは草原などにベロ藍およびその混色を巧みに用いて画面に清新感を生み出している。北斎の「冨獄三十六景」とともに浮世絵風景画の確立期を代表する揃物となっている。

歌川国芳唐土二廿四孝 呉猛
二十四孝とは、24人の孝行者を指し、中国元代において確立した題材である。舶来後、日本においても家訓画として親しまれた。本作は幕末の人気絵師・歌川国芳(1797-1861)による「二十四孝」の揃物であり、明確な陰影表現を用いる点に西洋画への傾倒が看取される。国芳は初代歌川豊国の門人で、「通俗水滸伝豪傑百八人之一個」をきっかけに武者絵を代表する絵師となる。美人画や戯画など幅広いジャンルを手掛けた国芳であるが、天保年間には既に洋画表現を自作に取り入れている。「唐土二廿四孝」のうち、《大舜》と《呉猛》に描かれたモチーフは、それぞれニューホフ著「東西海陸紀行」を典拠としていることが判明しており、国芳は同書から想を得た洋風表現を多数の作で用いている。

月岡芳年:魁題百撰相 鷺家平九郎。
本揃物は、南北朝から江戸時代の賢臣を題材とするが、刊行開始時に勃発していた戊辰戦争の見立絵でもある。戦いの中で負傷し、流血する武士たちが残酷でありながらも美しく描かれ、月岡芳年の代名詞(1839-92)とされる「血みどろ絵」の一作に数えられる。(中略)。芳年嘉永3年(1850)に歌川国芳の門人となり、明治浮世絵を牽引した絵師。本揃物では人物の瞳に反射する光が白い点として描写されているが、これは国芳が揃物「誠忠義士肖像」で試みた洋風表現を踏襲したものである。

小林清親:海運橋 第一銀行雪中。
小林清親(1847-1915)は明治期に活躍した浮世絵師。旧幕臣の出身で、幕府崩壊後は柴田是真、川鍋暁斎のほか、チャールズ・ワーグマンから絵を学んだとされる。明治9年(1876)から14年にかけて版元・松本平吉と福田熊次郎から刊行された一連の風景画は、「東京名所図」と総称され清親の代表作。従来の浮世絵風景画と一線を画し、光の微妙な移り変わりをとらえた点が特徴であり、その表現から「光線画」と呼ばれている。《東京銀座街日報社》や《海運橋 第一銀行雪中》は、同所を描いた浮世絵版画と比較すると、水彩スケッチに基づく風景画であるがゆえ、淡い色彩表現が巧みに用いられている。加えて清親画は、西洋画由来の陰影表現を活用しており、まさに文明開化という新時代を象徴する風景画ともいえる。

先日、ある学芸員の方から「日本美術の歴史」について話を伺った際、平安・鎌倉時代から江戸時代までの絵画を比較すると、古い時代の作品には「緊張感」があり、時代が下るにつれて「緩み」が感じられるようになると説明された。今回の展示では、南北朝室町時代の作品は仏教絵画であり、江戸時代の作品は浮世絵、しかも人物画や風景画が中心であった。そのため、前者は仏教の普及という使命を担っているのに対し、後者はエンターテインメントの要素が強くなっている。この学芸員の方の説明は的を射ており、改めてその見解に納得させられた。また、この日は、その後、この前に書いたように上野の森美術館で『五大浮世絵師展』を鑑賞し、版画三昧の充実した一日を過ごした。

上野の森美術館で『五大浮世絵師展』を鑑賞する

この特別展を訪れたのは、もう10日前のことになる。NHK大河ドラマ『べらぼう』の影響もあり、この展示は特に混むだろうと予想して、開幕2日目に訪れた。予想はほぼ的中し、どの作品の前にも人だかりができていた。しかし、少し待っていると隙間ができる程度なので、丁寧に鑑賞する妨げとはならず、落ち着いた雰囲気の中で楽しめた。

江戸時代後期を代表する5人の浮世絵師の作品がずらっと並んでいるのはまさに圧巻であった。彼らの作品を見比べる機会は本を通してしか叶わないので行ったり来たりと往復しながら、それぞれの作品を見比べた。日ごろ広重の版画も素晴らしいと感じていたのだが、並べて見比べると、北斎の版画が群を抜いているという印象を強く受けた。

五人の浮世絵師に対して、一つの版画が写真の撮影を許されていたので(北斎だけ2版画)、それらとその作者を紹介することにしよう。

喜多川歌麿(1753年頃 - 1806年)は、版元の蔦屋重三郎と協力し、華やかで洗練された美人画を数多く制作した。代表作には、女性の性格や気質を描き分けたシリーズの「婦女人相十品」、江戸の美人を描いた作品で個性豊かな表現が特徴の「当時三美人」、吉原の遊女たちの生活を時間ごとに描いた連作「青楼十二時」などがある。彼の作品は人気を博したが、幕府の風紀取締りの対象となり、1804年には「太閤五妻洛東遊観之図」を描いたことで処罰を受け、晩年は厳しい状況に置かれた。

喜多川歌麿・教訓親の目鑑「俗二伝 ばくれん」。
この版画に対して次のような内容の説明があった(展示での原文のまま)。「ばくれん」とはすれっからしのことであるが、よく言えば伝法肌の粋な女性である。画中の文では、人目をはばからず、思わせぶりで、不届きなもの、なおかつ奉公の経験のない女性は浅はかだ、と嘆いているのである。しかしながら、これはお上向けの建前。こざっぱりとした美人が胸元を露にしながら、グラスで酒を勢いよくあおっている。酒の肴であろうか、片手で茹でた渡蟹を豪快に掴んでいる。着物は、剣菱、男山などの銘酒の商標柄になっており、酒好きであることを示唆している。

東洲斎写楽は役者絵で知られている。彼の活動期間はわずか約10か月(1794年~1795年)と非常に短く、その後、忽然と姿を消したため、「謎の絵師」として語られている。彼の作品は、役者の顔の特徴を誇張し、表情や仕草を大胆に描く大首絵が特徴的である。代表作には、「三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛」、「市川蝦蔵の竹村定之進」、「嵐龍蔵の金貸石部金吉」などがある。写楽の正体については長年議論されているが不明である。また、彼の作品は当時の江戸では賛否が分かれたが、後世では高く評価され、特にドイツの心理学者ユリウス・クルトが彼の作品を絶賛したことで、世界的に知られるようになった。また、東洲斎写楽の作品は、蔦重によって世に送り出された。彼の浮世絵のすべてが蔦屋から出版されているため、彼が写楽をプロデュースしたことは間違いないとされている。

東洲斎写楽・三代目坂東彦三郎の鷺坂左内。

葛飾北斎(1760年 - 1849年)は、日本美術史において最も影響力のある画家の一人で、風景画、特に「冨嶽三十六景」で知られ、世界的な評価を受けている。北斎は江戸に生まれ、若い頃から絵に没頭していた。生涯にわたり30回以上も画号を変え、常に新しい表現を追求した。代表作には、「冨嶽三十六景」、弟子向けの絵手本である「北斎漫画」、滝を題材にしたシリーズの「諸国瀧廻り」がある。彼の作品は、日本国内だけでなく、19世紀のヨーロッパ美術にも大きなインパクトを与え、特に印象派の画家ゴッホやモネは、彼の構図や色彩に影響を受けたとされている。彼の画業は「ジャポニスム」と呼ばれる西洋の日本美術ブームを引き起こした。また、蔦重との関係は次のようである。北斎がまだ「勝川春朗」と名乗っていた若い頃からその才能を見抜き、蔦重は彼を出版事業に起用した。

葛飾北斎・冨獄三十六景「江戸日本橋」。

葛飾北斎・冨獄三十六景「神奈川沖浪裏」。
千円札の裏側に描かれている北斎の有名な作品である。この版画の説明は次のようであった(展示での原文のまま)。荒々しい波が狂ったようにうねりあがり、波にもまれた3艘の押し送り舟は、いまにも吞み込まれそう。激しく揺さぶられた船上の人々は為す術もなく、ただ必死にしがみつくばかり。遠くには富士の山容が見える。本図は世界的に良く知られた北斎の傑作で、《凱風海風》(未出品)《山下白雨》(No.52)とともに、《冨獄三十六景》中の三大名作といわれる。波が飛沫を上げながら高くせりあがった一瞬をとらえるという大胆な構図は、見るものを圧倒する。

歌川広重(1797年 - 1858年)は、風景画の名手として知られている。江戸の定火消同心の家に生まれ、若い頃から絵に興味を持ち、歌川豊広に師事した。彼の代表作には、「東海道五十三次」、「名所江戸百景」などがあり、江戸の名所を描いたシリーズで、構図の大胆さと色彩の美しさが際立っている。彼の作品は、特に「ヒロシゲブルー」と呼ばれる鮮やかな藍色が特徴で、彼もフランスの印象派画家に影響を与えた。

歌川広重東海道五拾三次之内「日本橋 朝之景」。
この版画にも説明があった(展示での原文のまま)。このシリーズは旅人や土着の人々の哀歓や、四季折々の自然の風物、人情を詩情豊かに謳いあげ、当時、人気者だった弥次喜多もどきの滑稽な人物を画中に組み入れ、爆発的な人気を博した。広重はこのシリーズで一躍人気絵師に躍り出た。早朝の日本橋大名行列の先頭が渡り始める。荷物の天秤棒を担いだ魚屋が、それぞれの店へと急ぐ。魚河岸でにぎわう日本橋が描かれ、シリーズの最初を飾るにふさわしい秀作に仕上げている。

歌川国芳(1798年 - 1861年)は、武者絵や戯画(風刺画)で知られ、ダイナミックな構図と斬新な発想に満ちており、従来の浮世絵の枠を超えた独創性を持っている。国芳は、特に「通俗水滸伝豪傑百八人」で人気を博し、武者絵の第一人者としての地位を確立した。巨大な骸骨が登場する幻想的な武者絵の「相馬の古内裏」、武蔵が巨大な鯨と戦う迫力ある構図に特徴のある「宮本武蔵の鯨退治」、寄せ絵の技法を用いたユーモラスな作品の「みかけハこハゐが とんだいゝ人だ」などが有名である。彼は幕府の厳しい統制に対して風刺画を描き、庶民の支持を集めた。例えば「源頼光公館土蜘作妖怪図」には、幕府の政策を批判する隠喩が込められている。これにより、彼は何度も奉行所に呼び出されることとなった。国芳の作品もまた、日本国内だけでなく、現代のアートや漫画にも影響を与えている。特に、彼のダイナミックな構図や奇抜な発想は、後の浮世絵師や現代のイラストレーターに受け継がれている。

歌川国芳・「小子部拪軽浦里捕雷」。

前述したように、江戸時代後期を代表する五人の浮世絵師の版画を見比べることができ、とても良い内容であった。歌麿美人画の革新性と繊細な表現、写楽の豪快なデフォルメと役者の個性を際立させる表現、北斎の大胆な構図と卓越した描写、広重の詩的な風景描写と独特の構図、国芳のダイナミックな構図、奇抜な発想、風刺的要素を堪能することができた。もう一度鑑賞したいと思っているが、近ごろ訪れた人に聞くと、とても混んでいるということなので、二の足を踏んでいる。

アジサイが咲き始めの円覚寺を訪れる

かつては学芸員として活躍され、今も歴史遺産を精力的に紹介し、その情熱からは老いを感じさせない方に案内されて、久しぶりに鎌倉の円覚寺を訪れた。この寺院は鎌倉時代後期の弘安5年(1282)、第8代執権・北条時宗によって創建された臨済宗の寺院で、鎌倉五山の第二位に位置する格式高い禅寺である。開山は無学祖元で、元寇戦没者を弔う目的で建立された。

最近、あちらこちらからアジサイがきれいだという便りがあるので、今回の訪問では、目を楽しませてくれるのではないかと期待していた。しかし、訪れた時はまだ咲き始めの段階で、少し早かったようだ。あと1~2週間も経てば、見頃を迎えることだろう。

通常のコースに従い、総門(入口)を入ってすぐの三門*1で、禅宗様式の特色を色濃く残す建築構造について詳しい説明を受けた。しかし、禅宗そのものに関する説明はほとんどなく、少し残念に感じた。

このあとは、仏殿や大方丈などでも寺院の禅宗様式についての説明を受け、そして、道沿いに点在する塔所(とうしょ)*2ごとに、そこに遺灰が納められた高僧についての解説を聞いた。ちなみに、一番奥には、夢窓疎石塔頭(たっちゅう)として知られる黄梅院(おうばいいん)がある。落ち着いた美しさで視線を引きつけてくれたのは、大方丈の裏手にある枯山水の庭園であった。


後半は、有名な大きな鐘を見学した。円覚寺には何度も訪れているが、長い階段の先にある鐘まで足を運ぼうと思ったことはほとんどなかった。いつも黄梅院まで散策した後に引き返してしまい、左手に鐘があるという案内を目にするころには、気力も体力も尽きているため、よほどのことがない限り行こうとは思わなかった。しかし今回は案内されながらの訪問だったため、迷うことなく見学することとなった。

階段を上りきると、鎌倉の街並みを一望できた。富士山も見えたが、写真にははっきりと写っていないようだ。

円覚寺の鐘は『洪鐘(おおがね)』と呼ばれる国宝であり、鎌倉時代を代表する梵鐘の一つである。正安3年(1301)、北条貞時の寄進によって鋳造された。その特徴は関東最大級の大きさを誇り、総高259.4cm、口径142cmに達する。洪鐘は60年に一度の『洪鐘祭』で特別に撞かれる伝統があり、前回は2023年に行われた。

洪鐘の近くには、洪鐘弁財天が祀られている。この弁財天は江島神社の弁財天と深い関係を持ち、神仏習合の信仰に基づいている。その由来の一つは、洪鐘の鋳造成功の祈願とされる。1301年、北条貞時は洪鐘の鋳造を試みたが、二度失敗した。そこで江島神社の弁財天に参籠し、夢のお告げを受けた後、鋳造に成功したと伝えられている。

もう一つの由来は「夫婦弁天」とされる。洪鐘の完成を記念し、江島神社から人頭蛇身の弁財天(宇賀神)を円覚寺に勧請した。これにより、江島神社円覚寺の弁財天は『夫婦弁天』と呼ばれ、60年に一度の洪鐘弁天大祭で再会するとされている。

最後に訪れたのは、塔頭寺院の一つである帰源院。創建は永和4年(1378)頃で、第38世・傑翁是英(けつおうぜえい)の塔所として建立された。また、夏目漱石明治27年(1894)に約2週間参禅した場所としても知られている。この体験は彼の小説『門』に描かれ、禅の思想と文学の融合を象徴する場となっている。


見学を終えた後、仲間とともに近くの店のガーデンでお茶を楽しんだ。庭にはいろいろな野花がきれいに咲いていた。その中に見慣れない三角形の白い花を見つけた。店主に名前を尋ねたが、分からないという。自然に生えてきたものらしい。

昨日までの肌寒い雨の日とは一変し、この日は夏を思わせるような蒸し暑さだった。解説に集中できる雰囲気ではなく、近くに座れる場所を探しながら何となく聞くという、いささか不真面目な参加者になってしまった。しかし、もう訪れることはないと思っていた洪鐘を見学できたのは、大きな成果だった。次は紅葉が美しい秋に、再び訪れる機会があればと思う。

*1:円覚寺の山門が『三門』と呼ばれるのは、『三解脱門』の略だからである。これは禅宗寺院に見られる門の名称で、仏教の教えに基づく「空」「無相」「無願」という三つの境地を象徴している。この門をくぐることで煩悩を断ち、悟りへの道を歩むことを意味するとされており、単なる建築物ではなく、精神的修行の一環としての役割を持つ。円覚寺の三門は、1783~1785年に第189世住持・誠拙周樗(せいせつしゅうちょ)によって再建され、神奈川県の重要文化財にも指定されている。

*2:「塔所」は、仏教寺院において高僧や祖師の墓塔がある場所を指す。特に 禅宗では、師の徳を慕う弟子たちがその墓の近くに庵を構え、これが「塔頭」として発展した。

会田弘継著『それでもなぜ、トランプは支持されるのか―アメリカ地殻変動の思想史』を読む

本書のタイトルからは、大衆向けの本のような印象を受けるかもしれない。しかし、実際には後半の内容こそが本来の趣旨であり、学術書に近い構成となっている。特に、アメリカの現在の政治と思想を理解するうえで有意義な一冊である。

最近、ドナルド・トランプ大統領に関するニュースが連日報じられているが、これほど露出度の高いアメリカ大統領は過去に例がないかもしれない。それほど彼の政策は従来の政治とは大きく異なり、物議を醸しているためである。彼の台頭の背景にはポピュリズムの影響があるとされてきた。2017年に大統領に就任した後、次の選挙ではジョー・バイデンに僅差で敗北した。しかし、2024年の大統領選挙ではカマラ・ハリスに勝利し、今年1月から再び大統領の職に就いている。

政治家としての彼の人気がこれほど長く続いているのは、単なるポピュリズムの現象とは言い切れないのではないか。むしろ、アメリカの思想や政治において、より根本的な変化が生じているのではないだろうか。そんな疑問を抱きつつ、本書を手に取ってみた。

本書は、会田さんが2017年以降に執筆した約20編の論評をまとめたものであり、アメリカの政治・思想史、特に保守政治の流れを詳細かつ分かりやすく解説している。その内容は、アメリカ政治をより深く理解するための貴重な視点を提供してくれる一冊となっている。

アメリカ政治の大きなサイクル
会田さんは、アメリカの政治を大きなサイクルで分け、それを以下のように整理している。

ニューディール期(1930年代~1970年代)

ニューディール期の支持層は、今日とは逆の構図を持っていた。当時の共和党は金持ちエリートの政党であり、東部エスタブリッシュメントによって主導されていた。1920年代初頭に「改革の時代」を率いたセオドア・ルーズベルト大統領の伝統を受け継ぎ、民主党が始めたニューディールの革新的政策にも一定の理解を示していた。

一方、民主党は農業地帯である南部を主要な基盤とし、かつては奴隷制を許容する政党であった。しかし、大恐慌を経て、都市部の進歩的な労働者層、知識人、マイノリティを取り込みつつ、伝統的な地盤である南部の保守層も抱える政党へと変貌した。そして、フランクリン・ルーズベルト大統領のもとで革新的な政治を推進し、ニューディール連合を形成した。

この民主党共和党の協力によるニューディール連合によるリベラル政治の優位は、1970年代まで続くこととなった。

しかし、ニューディール政策の時代も後半になると、その軋みが顕著になってくる。民主党ジョン・F・ケネディ大統領と、それに続くリンドン・ジョンソン大統領は、ベトナム戦争による財政負担と福祉拡大によって政府債務を増大させた。さらに、石油危機による物価高騰が重なり、景気が停滞しながら物価が上昇する「スタグフレーション」を招いてしまう。

共和党リチャード・ニクソン大統領は、物価賃金統制や飢餓対策など、「大きな政府ニューディール政策)」による対策を打ち出した。しかし、彼の政権はウォーターゲート事件というスキャンダルによって失脚し、経済政策の転換を果たすことなく終焉を迎えた。

ネオリベラル期(1980年代~2010年代)

従来の流れに抗し、共和党内ではニューディール政策に親和的な東部エスタブリッシュメントに対抗する動きが生じていた。彼らは民間の活力を重視し、「小さな政府」を主張する一方で、伝統的価値観の復活や強い反共主義に力点を置く「融合主義(Fusionism)」の保守勢力として着々と地歩を固めていった。

そして、1980年の大統領選でロナルド・レーガンが当選したことは、30年にわたる保守勢力の準備期間を経た勝利であった。この結果、「ニューディール連合」は崩壊し、アメリカは経済政策的に「小さな政府」と規制緩和を基調とするネオリベラリズムの時代に突入したとされている。

しかし、会田さんは、こうした政治の転換が単純な図式で説明できるものではないとし、少し異なる視点を提示している。彼によれば、ネオリベラリズムの始まりは、規制緩和を打ち出した民主党ジミー・カーター大統領(レーガン大統領の前任者)にあるとされる。カーターは政治的にも強い宗教色を持ち込み、外交に人権問題を前面に出すなど、従来の民主党の路線とは異なるアプローチを取った。そのため、保守政治への転換はレーガンではなくカーターから始まったと指摘している。

また、ニューディール連合の崩壊はレーガン時代を待たず、すでにニクソン政権下で始まっていたとする。ジョンソン政権下で成立した公民権法や投票権法(黒人の法的平等化)は南部白人の反発を招き、ニクソンはこの間隙を突いて「南部戦略」を展開し、民主党が長年支配していた南部へ共和党の進出を図った。この結果、ニューディール連合の重要な票田を民主党は失うことになった。

さらに、ニクソンは労働者票の取り込みにも力を入れ、民主党の支持基盤を侵食した。この動きは数年後、労働者層のレーガン支持へとつながり、共和党の勢力拡大に寄与することとなった。

労働者層と南部の支持を侵食され、存亡の危機に陥った民主党は、ネオリベラリズムのもとで再起を図る大きな転換を迎えた。その契機となったのが、1990年代に登場した中道派政治グループ「ニューデモクラット」である。このグループの旗手として大統領に選ばれたのが、ビル・クリントンであった。

ニューデモクラットは、情報技術など当時の先端産業の将来性を見越し、そこへの集中投資を提唱した。共和党が製造業やエネルギー産業などの旧来型産業と結びついていたのに対し、民主党労働組合依存から脱却し、新興産業との結びつきを強めていった。その結果、民主党は21世紀に飛躍的に発展する新産業と、そこで高収入を得るエリート層と結託する企業政党へと変貌した。

一方、共和党は衰退する製造業と結びつき、そこで職を失いサービス産業へ流入した労働者層を取り込んでいった。彼らは不安定な雇用環境に置かれた労働者の支持を、ナショナリズムを通じて引き付ける政党へと変化していった。

民主党の再編と新たな転換期(2020年代~)

1970年代末から両政党を席巻したネオリベラリズムは、40年後に終焉を迎える。共和党では、トランプによる党の乗っ取りを契機に、経済リベラリズムネオコン型安全保障政策を核とするレーガニズムの否定が進み、新たな思想運動が巻き起こった。

一方、民主党では、民主社会主義者を自任するサンダーズの躍進が、1980年代以降のネオリベラル化によってミニ共和党化した民主党への批判となり、ニューディール型政策への回帰を促した。

アメリカの政治思想の変遷

アメリカの政治思想、特に近年の保守主義がどのように推移してきたのかを見ていこう。全体的な流れを整理すると、アメリカの政治思想はジョン・ロックに始まり、その影響がリベラルと保守の双方に及んだ。20世紀の保守主義リバタリアニズムや伝統主義へと展開し、21世紀はポピュリズムと結びついた。

ジョン・ロックの思想とアメリカ政治への影響

アメリカの政治思想は、ジョン・ロックに始まるとされる。彼は、すべての人間が生まれながらにして生命・自由・財産の権利を持っているとし、これらの権利を守るために政府が存在すると考えた。そして、政府が権利を侵害する場合、国民には抵抗権があると主張した。

また、ロックは経験論の立場を取り、人間の知識は生まれつき備わっているものではなく、経験を通じて形成されると考えた。このような彼の思想は、民主主義と資本主義の発展に深く結びついている。

彼の思想は、アメリカのリベラルと保守の双方に大きな影響を与えた。リベラル派にとって、彼の「生命・自由・財産の権利」という考え方は、個人の自由と権利の尊重という理念の基盤となり、公民権運動や社会福祉政策の根拠として活用された。また、ロックの社会契約説に基づき、リベラル派は政府が国民の権利を守るために積極的に介入すべきだと考え、福祉政策や経済規制を支持する立場を取った。

一方、保守派にとっては、ロックの「労働によって得た財産は個人の正当な権利である」という考え方が、自由市場経済や小さな政府の理念を支えるものとなった。また、彼の「政府は人民の同意に基づくべき」という思想は、保守派の政府介入の最小化という立場に結びつき、国家の権限を制限するべきだという主張の根拠となった。

このように、ロックの思想はアメリカの政治思想の基盤となり、リベラルと保守の双方に異なる形で影響を与えている。

20世紀の保守主義の展開

20世紀のアメリカにおける保守主義は、大きくリバタリアニズムと伝統主義の二つの潮流として展開された。

リバタリアニズムは、個人の自由、経済的自由、小さな政府を重視する政治思想であり、本来「リベラル」という言葉はこの意味で使われていた。しかし、アメリカの政治においてはニューディール政策公民権運動などの影響により、大きな政府を通じて人権を擁護する立場が「リベラル」として定着した。その結果、従来の自由主義的な立場を持つ人々は、自らを「リバタリアン」と称するようになった。

リバタリアニズムが思想的に体系化される契機となったのは、フリードリヒ・ハイエクアメリカ移住である。彼はイギリス在住中に執筆した『隷従への道―全体主義と自由』がアメリカでベストセラーとなり、その影響でリバタリアニズムは単なる経済思想から政治思想へと深化した。これにより、経済的自由主義を求める人々の理論的支柱となった。

これに対して、ラッセル・カークはリバタリアニズムを真の保守思想とは異なるものとし、独自の立場を主張した。彼が依拠したのは、フランス革命を批判した英国の政治思想家・エドマンド・バークと、アメリカ建国の父祖の一人であるジョン・アダムズである。カークは単に伝統的な社会を肯定するだけでなく、リベラリズム功利主義プラグマティズムなど、ほとんどの近代思想を厳しく批判した。

カークがアメリカに持ち込んだヨーロッパ的な権威主義保守主義は、アメリカでは「伝統主義」と呼ばれるようになった。彼の思想は、リバタリアニズムとは異なり、社会の秩序や歴史的な価値観を重視する保守主義として、アメリカの政治思想に新たな視点をもたらした。

このように戦後のアメリカには、リバタリアニズムと伝統主義の二つの流れがあり、両者の間で大論争が繰り広げられることもあった。さらに、1950〜60年代にかけてはソ連共産主義との戦いが最大の政治課題となり、反共主義の思想も台頭した。これらの思想の共通点を見出し、融合を目指したのがウィリアム・バックリーやフランク・マイヤーであり、彼らの試みは「融合主義」と称された。

21世紀のポピュリズムの展開

21世紀のアメリカ政治において、ポピュリズムは重要な潮流となった。その中心には、政治から疎外されていると感じるミドル・アメリカン・ラディカル(MARs)と呼ばれるグループが存在する。彼らは、自分たちの声が政治に届かないと考え、Qアノンやディープ・ステート(DS)といった陰謀論を生み出す温床となった。

アメリカでは1940年代から50年代にかけて、人民の意向とはかけ離れたエリート層が政治を支配しているという問題意識が存在していた。その代表的な論者が、元トロツキストのジェームズ・バーナムである。彼の著作『経営者革命』では、官僚支配の共産主義国家であれ、大企業支配の資本主義国家であれ、今後はエリート・テクノクラートが権力を握り、一般大衆は彼らに搾取されるだけの存在になると説かれた。

バーナムの思想を継承し、エリート・テクノクラート支配の打破を模索したのがサミュエル・フランシスである。彼は大統領候補者になることを目指していたパトリック・ブキャナンに助言し、以下の3つの政策を提唱した。

これらの政策は、バーナムの思想を受け継ぎ、ブキャナンを通じてドナルド・トランプ大統領の「ポピュリスト経済政策」へと援用された。

このように、21世紀のポピュリズムは、エリート支配への反発を基盤としながら、経済政策や外交政策においても大きな影響を与えた。トランプ政権の誕生は、こうした思想の集大成とも言えるものであり、その良し悪しは別として、アメリカ政治の新たな局面を切り開いたのである。

終りに
トランプ大統領の登場は、アメリカ大統領のイメージを大きく変える出来事だった。

歴代の大統領の中で最も印象に残っているのは、ジョン・F・ケネディである。若く、理想に燃えた彼は、まさにアメリカを体現する存在だった。しかし、そのケネディ大統領が暗殺されるという衝撃的な出来事が、初めての「日米宇宙中継」によって日本のテレビで伝えられたとき、私は仰天した。通信技術の進歩により、日米同時に大統領の閲覧式を見学できるようになったことに感心し、さらに技術革新が進めば、どれほど素晴らしい時代が訪れるのだろうと期待に胸を膨らませていた。そのため、この暗殺の衝撃は計り知れないものがあった。

次に印象深いのは、ロナルド・レーガン大統領だろうか。日米貿易戦争の影響で両国の関係は緊張状態にあったが、彼はナンシー夫人とともに、アメリカの温かい家庭の姿を感じさせてくれた。

さらに時が進み、印象に残っているのは バラク・オバマである。白人ではない大統領が選出されたことで、アメリカの素晴らしい良識を感じた。

トランプ大統領が登場するまでは、アメリカの大統領に対して「世界をリードしてくれている」という感謝の気持ちを抱いていた。しかし、最近は残念ながら、以前のような良い印象を持てなくなってしまった。

とはいえ、トランプ大統領の異質な存在がきっかけとなり、私はアメリカの政治史に興味を持つようになった。これまではアメリカが抱える問題について深く考えることは少なかったが、理解が進んできたことで、さらに学びを深めたいと思っている。


最後に、カーター大統領以降の歴代のアメリカ大統領を列挙しておく。

ジョージアのワインと料理を楽しむ

ジョージアのワイン

ジョージアワインの本を読んだことで、ワインと料理に関する知識を深める貴重な機会を得た。そこで、他の資料も参考にしながらまとめてみた。ジョージアがワイン発祥の地のようである。その歴史は約8,000年前にまでさかのぼり、現在もクヴェヴリ製法と呼ばれる伝統的な技術を用いたワイン造りが続いている。この製法は、2013年にユネスコ無形文化遺産として登録され、世界的に高く評価されている。

しかし、ソ連時代には画一的な大量生産が奨励された結果、伝統的なクヴェヴリ製法は衰退し、消滅の危機に瀕した。この時代、ワイン造りは効率重視のスタイルに移行し、ジョージアの誇る固有の製法は一時存続が危ぶまれた。しかし、1991年のソ連崩壊によるジョージア独立を契機に、この伝統技術は復興を遂げた。

このように、ジョージアワインは長い歴史を持ちながらも、時代の変遷を経てルネサンス(再生)を果たし、国が誇る伝統として受け継がれている。

クヴェヴリ製法の特徴と製造工程

クヴェヴリ製法は、ジョージアの伝統的なワイン醸造技術であり、素焼きの壺(クヴェヴリ)を使用することが最大の特徴である。地中に埋められたクヴェヴリの中でワインが自然発酵と熟成を経て、独特の風味が生まれる。

クヴェヴリ製法によるワイン造りのプロセス
1.圧搾と準備
  ブドウを木桶の中で踏み潰し、果皮・果肉・種を含めてクヴェヴリに投入する。この工程でブドウの豊かな風味が抽出される。
2.自然発酵
  クヴェヴリの中で自然発酵が始まり、地中に埋められていることで温度が一定に保たれる。この環境が発酵を安定させ、ワインに深みのある味わいをもたらす。
3.熟成と濾過
  約5〜6か月後、ワインを別のクヴェヴリへ移し、自然濾過を施すことで不要な不純物を取り除く。
4.瓶詰めまたは追加熟成
  最終段階では、さらに熟成を続けるか瓶詰めして完成。熟成期間に応じて風味が変化し、より洗練されたワインへと仕上がる。

ジョージアには500種類以上の固有のブドウがあり、ルカツィテリ(白)やサペラヴィ(赤)が有名だそうだ。また、アンバーワイン(オレンジワイン)は、白ブドウを果皮や種とともに発酵させることで、琥珀色のワインができ、ドライアプリコットやナッツ、スパイスのような独特の風味が楽しめるそうである。

ジョージアの料理

ジョージアの料理は、スパイスやハーブを活用した風味豊かな料理が特徴である。代表的なものに、①ヒンカリ(肉汁たっぷりのジューシーな味わいのジョージア風の小籠包)、②ハチャプリ(チーズ入りのパンで、特に「アジャルリ・ハチャプリ」は卵とバターを混ぜながら食べる)、③シュクメルリ(にんにくとクリームソースで煮込んだ鶏肉料理)、④オジャクリ(シンプルながらも深い味わいの豚肉とジャガイモを炒めた料理)、⑤ハルチョー(スパイシーな風味が特徴の牛肉と米を煮込んだスープ)などがある。

母の日に、日頃の感謝の気持ちを込めて、妻のためにジョージア料理に挑戦した。今回作ったのはシュクメルリ。この料理は、ニンニクとクリームソースで鶏肉を煮込む、濃厚でコクのある一品である。実はシュクメルリは、日本では牛めしチェーンの松屋が期間限定で販売したことで広く知られるようになった。その独特な風味が話題となり、多くの人がこのジョージアの郷土料理に興味を持つきっかけとなったようである。

シュクメルリの材料(2皿分):

鶏肉(もも・皮つき) 1枚
シチューミクスクリーム 2皿分
塩 少々
コショー 少々
玉ねぎ 中1/2個
さつまいも 中3/4本
生にんにく 小さじ2
サラダ油 小さじ1
牛乳 300ml
バター 10g
レモン汁 小さじ1
溶けるチーズ 50g
パセリ(みじん切り) 少々

レシピ

1.鶏肉を一口大に切り、軽く塩、コショーを振る。玉ねぎを薄切りにする。


2.さつまいもを一口大に切って、水にさらす。水気を切って耐熱性の容器に入れ、ふんわりとラップをかけ、電子レンジ600Wで約4分を目途にして、柔らかくなるまで加熱する。


3.フライパンにサラダ油を熱し、(1)の鶏肉を皮面から入れて焼き色がつくまで両面を焼く。

4.玉ねぎ、にんにくを加えてさらによく炒める。牛乳とバターを加え、沸騰したら弱火で約5分煮る。


5.いったん火を止めた後、ルウを少しずつ振り入れて溶かす。(2)のさつまいもを加え弱火でとろみが出るまで時々かき混ぜながら約5分煮る。

6.火を止め、レモン汁を加えて混ぜ、チーズを加える。器に盛りつけ、パセリを振る。

ワインは、GEORGIAN LEGEND(ジョージアンレジェント) MW-GL1 ジョージア原産白ワイン RKATSITELI QVEVRI (ルカツィテリ・クヴェヴリ 白 750mL)である。商品は白ワインとなっているが、ワインのラベルにはオレンジワインと書いてある。また、このワインの特徴は次のように説明されていた。このワインは、ドライフルーツとバニラの活気に満ちた柔らかなアロマを備えた独特の豊かな味わいを提供する。金色のような琥珀色。干しイチジクとレーズンのエレガントさが味覚を引き起こし、ローストアーモンドの豊かな風味に発展する。滑らかで繊細な味わいに、上質なタンニンとバランスの取れた酸味があり、心地よい長い余韻が続く。サラダ、肉バーベキュー、その他のコーカサス地方料理と中央アジア料理の肉料理に最適である。

子供たちが母の日にとプレゼントしてくれた花と並べる。

感想

今日飲んだオレンジワインは、これまで親しんできたワインとは大きく異なり、独特の苦みと個性的な風味が際立っていて、そのクセの強さに少し驚かされた。飲み慣れることで、その独特の味わいを楽しめるようになるのかもしれないが、今回は少し抵抗感があった。それでも、このユニークなワインの個性に触れたことで、新たな味の世界を知る良い機会となった。

その日の夜、「世界の果てまでイッテQ!」というテレビ番組でシュクメルリが紹介されていたと聞き、興味を持ってTVerで早速視聴してみた。そこで見たレシピは、ここで用いたものとはかなり異なり、にんにくの量が驚くほど多かったのが印象的だった。また、さつまいもやチーズは使用されていなかった。そして、Webで紹介されているシュクメルリは、日本風にアレンジされたレシピであることが分かった。そのためか、今回作ったものは舌に馴染みやすくとてもおいしく感じられた。次の機会には、本場ジョージアのスタイルに忠実なレシピを試してみようと思う。

最後に簡単にジョージアの説明をしておく。この国は、ユーラシア大陸南コーカサス地域に位置する共和制国家で、首都はトビリシである。黒海に面し、北はロシア、南はトルコ、アルメニア、東はアゼルバイジャンと接している。面積は日本の1/5、人口は400万人弱ととても少ない。公用語ジョージア語でジョージア文字を用いる。歴史は次のようである。①紀元前6世紀に西部にコルキス王国が成立(ギリシャ神話の「黄金の羊毛」の伝説の舞台である)、②4世紀にキリスト教国となりジョージア正教会が形成、③11~13世紀にかけてジョージア王国の最盛期を迎えて文化が繁栄、④1801年にロシア帝国に併合、⑤1991年にソ連崩壊に伴い、ジョージア共和国として独立した。

「金目鯛の姿煮」を料理する

最近は訪れる機会が減ってしまったが、伊豆によく足を運んでいた頃は、定食屋を探しては金目鯛の煮つけを楽しんでいた。東京のレストランで金目鯛を食べようとすると、値段が高く感じられ、この頃はなかなか口にする機会がなかった。

そんな折、孫たちから「すき焼きを食べに行きたい」と連絡があり、食材を調達するために少し遠くの格安スーパーへ足を運んだ。孫たちが喜びそうなブランドの牛肉をたっぷり購入した後、魚売り場をのぞくと、鮮度の良い金目鯛がずらりと並んでいた。夕飯はこれにしようと迷わず購入した。

格安店なので、魚は下処理されていない。鱗と内臓の処理は自分でしなければならないが、それさえ済ませれば、調理は簡単だ。

砂糖大さじ1、みりん大さじ2、醤油大さじ2、酒50cc、昆布だし100cc、細かく刻んだ生姜1片をフライパンに入れて火にかける。煮立ったら、下処理した金目鯛を加える。水に半分ほど浸かる状態だが問題ない。落し蓋をして、弱めの中火で10分ほど煮る。途中、煮汁を上からかけると全体に味がよく染みる。これで出来上がりだ。

皿に美しく盛り付ければ、さらに高級感が増す。

追伸:煮つけは、身が崩れてしまい元の形がわからなくなることが多い。しかし、今回は美しい姿を保ったまま食卓に並べることができた。濃いめの醤油を使ったことで少し辛めの味付けになったが、それがふっくらとした甘みのあるご飯と絶妙に調和し、伊豆で食べたものと遜色ない味わいを楽しめた。ちなみに、レシピは伊豆の方が書かれたものを参考にした。