bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

ジョエル・コトキン著『新しい封建制がやってくる―グローバル中流階級への警告』を読む

なんとも古めかしく、それでいて刺激的なタイトルの本だろう。かつては「封建的なオヤジ」という言葉もあったが、今はそれも死語になってしまった。封建的といわれても、それがどういうものであるかを感覚的に知っている人は少なくなってしまった。

日本の社会体制が封建制であったのは、平安時代後期から明治維新までであろう。その基盤となったのは、鎌倉時代の御恩と奉公の関係である。将軍は御家人(家臣)に対して、荘園(土地)を管理(支配)する職(地頭)に任じ、その代償として、御家人は軍事的に奉仕しなければならないという主従関係が築かれていた。荘園の耕作を実際に行うのは百姓(農民)で、年貢を納めるだけでなく夫役(労役)も課せられた。そして、御家人と百姓との間には大きな所得格差があった。

近代国家になって中間層が出現し、高所得者低所得者の間は、これら中間層の人々で埋められ、中間層に属する人々の割合も急激に増えた。日本では、一億総中流といったこともあった。そして、20世紀後半にソ連が崩壊し冷戦が終了したとき、多くの人がこれからは民主主義を享受できるようになると楽観的に考えた。しかし、グローバリゼーションの進展とともに、所得格差が目立ち始めた。

21世紀になると格差が極端に拡大していると指摘されるようになるが、それらの中で、セルビアの経済学者のブランコ・ミラノヴィッチさんが2012年に発表した「エレファント・カーブ」は衝撃的であった(図は総務省の令和元年版「情報通信白書」のポイントからである)。新興国ではその経済発展によって中間層の伸びが著しいのに対し、先進国では製造業の移転によって中間層が壊滅し、IT・金融分野の成長によって信じられないような富を有する層(富裕層)が出現した。

この本によると、1945年から1973年にかけて、アメリカの上位1%は、米国国民全体の所得の4.9%に過ぎなかった。それが現在は、アメリカの最富裕層400人の富の合計は、下位1億8500万人の富の合計を上回っている(なお、アメリカの総人口は3億4千万人である)。この傾向は欧米だけでなく、社会主義国を自任している中国でも同じである。

「エレファント・カーブ」は中流階級が消滅していることを示すが、本ではこれによって過去にどのようなことが生じたかを説明してくれる。古代アテネやローマの初期の民主主義は、強い発言力を持ち、財産を所有する中流階級に支えられていた。アリストテレスは、経済と国家を共に支配する寡頭制の危機に警鐘を鳴らした。実際、富の集中が進むにつれ、古代ギリシャの民主制や市民主体の共和政ローマは弱体化した。共和政末期になると、全財産の75%以上を人口の約3%が所有し、5分の4以上の人々は財産を所有しなかった。

経済格差は所得の面からとらえた一面であるが、それでは現在の社会はどのような構造になっているのであろうか。著者は次のように述べている。ヨーロッパの封建時代には、エリート聖職者と貴族が権力を分け合っていたが、現在の新しい封建制の中核には、有識者層と寡頭支配者層の連鎖関係があるとしている。二つの階級は、ニューヨーク、サンフランシスコ、ロンドンなどの都市において同じ学校に通い、同じような地区に住んでいる。そして、彼らは共通の世界観を持ち、大概の問題で協力するが、中世の貴族と聖職者の間に見られたように対立することもある。しかし、グローバリズムコスモポリタンニズム、学歴や資格の価値、専門家の権威については、間違いなく同じ見解を有している。

そして、権力連鎖を可能にしているのはテクノロジーである。テクノロジーはかつては草の根の民主主義や意思決定に役立つと期待されていたが、今や監視や権力強化の道具となっている。ブログの普及で情報民主主義の様相を呈しているものの、情報の流れや文化のあり方はアメリカ西海岸に拠点を置く少数の企業が厳しくコントロールしている。現在の新しい大領主は、鎖帷子(くさりかたびら)やシルクハット姿ではなく、ジーンズやパーカーを着込んで未来を導く。技術者エリートは科学的専門知識に立脚した「新しい権力の司祭たち」の21世紀版である。

革命前のフランスはアンシャンレジームと呼ばれる身分制で、第一身分は聖職者、第二身分は貴族で、第三身分は聖職者にも貴族にもなれない平民であった。封建制になりつつある今日の社会では、有識者が第一身分で、寡頭支配者が第二身分で、第三身分は二つの異なる集団から成り立っていると筆者はみている。

第一の集団は土地持ちの中流階級イングランドのヨーマン(独立自営農民)と似ていて、同じような独立精神を都市・郊外の文脈に持ち込んだ人々である。かつてのヨーマンは封建秩序を覆すのに重要な役割を演じたが、現代のヨーマンは寡頭支配者の下で逆に苦しめられている。

第二の集団は労働者階級で、中世の農奴のようになりつつあり、土地、建物などの重要な資産を所有する機会や、政府から受け取る給付金以外で自分の境遇を改善する機会を、失いつつある人たちである。現代の日本社会で見ると、前者は給与所得者、後者はパートやアルバイトで生活している人々となる。ロストジェネレーションと呼ばれる就職氷河期時代の人々は、ヨーマンの没落を典型的に表している例と言える。

第一身分は、聖職者から有識者へと変わったが、宗教の推進者であることには変わりはない。その典型は環境保護主義で、グリーン教と言っても良い、今日の時代の新しい宗教になりつつある。中世のカトリック信仰と同じように、グリーン教では人間の活動に起因する破滅の到来を予測している。グリーン教が中世の宗教と変わりない点は、貧しさを甘んじて受けるように他人に輸したり、貧しさを美徳として称賛する人々の中には偽善的な人がいることである。これについては、後でもう少し詳しく述べる。

本の中をすべて紹介することはできないので、特に興味を引いたところをいくつか紹介しよう。

最初は、アメリカをはじめとする先進国の間で、有識者と一般人の間での分断が大きくなり始めていることの典型的な例を示すものである。今年は4月に夏日を迎えるような気象変動に見舞われ、多くの人が何とかしないと大変なことになると思った。しかし、環境保護の推進者(先に述べたグリーン教の聖職者)は、贅沢な生活をしながらの口先だけの信頼できない人々だと指摘している箇所である。

中世においては、大半の司祭と信者は厳しい窮乏状態になったが、多くの司教は贅沢に暮らしていた。これと同じようなことが起きている。グリーン・リッチ(環境成金)と呼ばれる連中は、他人には消費を控えるように呼びかけながら、自分たちは炭素クレジットを購入したりして現代版の贖宥状を買っている。2019年の地球環境会議に出席する人々を乗せたおよそ1500基のプライベートジェットは温室効果ガスをまき散らしながらダボスに到着した。このように主張とは全く反対の行動をしている有識者いづれ激しい反発にあうと予想しているがどうだろう。

その次は、Anywhere族(どこでも行ける人々)とSomewhere族(どこかにいる人々)である。イギリスのジャーナリスト・デイヴィッド・グッドハートが『The Road to Somewhere』で提唱した概念で、現代社会におけるる文化的対立を指摘したものである。Anywhere族は、高い教育水準を持ち、グローバルな視点で物事を考え、移動性が高く、どこでも生活できる能力を持ち、個人主義的でリベラルな価値観を支持する傾向の人々である。これに対してSomewhere族は、地域やコミュニティに深い愛着を持ち、伝統や安定を重視する人々で、移動性が低く、地域にとどまる傾向があり、保守的な価値観を支持する人々である。Anywhere族とSomewhere族の対立は、イギリスではEUの離脱をめぐる分断を、アメリカではグローバリゼーション・国境政策をめぐる分裂を招いた。これらは有識者とヨーマン・労働者階級の激しい対立を示すもので、その解決は困難を極めそうである。

最後は本当に信じてよいのか疑うが、新しい封建制から逃れられるのはもしかすると日本と論じている部分である。日本は、たとえ経済の成長が止まっても、その代わりに精神的なものや生活の質の問題に関心を向けられる高所得国のモデルとなっていると考える学者もいる。日本は将来世界を征服するようなことはないであろうが、高齢化が急速に進む一方で快適な暮らしが送れる、アジアにおけるスイスのような存在になりうると考えている専門家もいる、となっている。このようになって欲しいと心から望むが、果たしてどうであろう。

一昨日、カリフォルニア州が日本をGDPで抜いたという記事があった。カリフォルニア州は、面積では日本より少し大きく、人口では1/3程度である。カリフォルニア州アメリカンドリームを実現できる素晴らしい地域と思われている、あるいは、これからの文脈ではかつては思われていた。サンフランシスコの近くには、世界のIT産業を牽引してきたシリコンバレーがある。かつては金を目指してカリフォルニアを目指してきたが、20世紀後半には、IT分野で一旗揚げようと世界中から若者がこの地に群がってきた。その頃のシリコンバレーは、活気と夢が溢れるユートピアであった。しかし、そのような状況もつかの間、少数の者だけが成功し、テックオリガルヒと呼ばれる極めて少数の超富裕層が台頭した。IT企業は、たくさんの雇用を生み出す製造業ではなく、少数の優秀な技術者によって支えられるソフトウェア産業であるため、雇用は増えず、多くの人はギグワークで糊口を凌ぐこととなった。その結果、シリコンバレーは、最も富んでいる人々が、そして、最も貧しい人々が生活しているところで、新しい封建制の最先端であると著者は述べている。このような現実を知ると、一昨日のニュースは喜べない。そして、何とも言えない恐ろしいデストピアを感じたのだが、私だけだろうか。日本がこのようにならないことを願ってこの本を閉じた。

町田市立国際版画美術館で『日本の版画1200年』を鑑賞する

「版画って、なに」と聞かれれば、真っ先に浮かぶのは浮世絵である。これらが生み出されたのは今から200年前の江戸の後期である。町田市の国際版画美術館での特別展は、『日本の版画1200年』となっている。さらに1000年も前なので、なぜなのだろうと興味を持って出かけた。

文化面で日本に大きな影響を与えたのは、中国からの仏教の伝来である。版画の歴史も同じようである。最初に大量印刷が行われたのは経である。絵ではなく文字である。奈良時代の中ごろに、孝謙上皇道鏡淳仁天皇恵美押勝との間で紛争が生じ、恵美押勝が乱を起こした。上皇側が勝利し、恵美押勝は斬られ、淳仁は廃位する。上皇重祚して称徳天皇となる。称徳は鎮護国家を祈って発願し、木製の小塔とその内部に納める無垢浄光大陀羅尼経(むくじょうこうだいだらにきょう)を、法隆寺などの十大寺に10万基ずつ施入した。現在は法隆寺だけに残されている。無垢浄光大陀羅尼経は、木版で作成されたようであるが、あまりにも摺る部数が多かったので、耐久性の観点から銅板の可能性もあるとされている。そして、これは制作年代が分かる世界最古の印刷物として貴重である。

平安時代後期になると、スタンプのように連続して押すことで、あるいは、連続して摺ることで仏教版画が造られる。前者は院仏、後者は摺仏と呼ばれる。これは毘沙門天立像印仏(1162年)である。

16世紀になるとイエズス会キリスト教布教のために中国を訪れるようになり、持ち込まれた文物が影響を及ぼし、中国の絵画分野では遠近表現が使われるようになる。これは西湖十景図(清18世紀)で、西洋から渡来した遠近法と、中国伝統の山水画が図中で入り混じっている。日本の版画でも後に同じことが起きる。

次の八種画譜は中国の明代(1610~20年)に編纂された木版画の画譜集で、文人画(南画*1 )の学習や模倣のために作られた。唐詩花鳥画などのテーマが含まれており、絵画の技法や構図を学ぶための教材として広く利用された。中国南宋画に強い憧憬を抱いていた日本の文人(南画家)にも多大な影響を及ぼした。展示されていたのは黄鳳池編の八種画譜(和刻本)(1672年)である。

南蘋(なんぴん)画*2で知られる江戸時代中期の画家・建部凌岱(りょうたい)は、弘前藩の家老・喜多村家の次男として生まれ、文武両道の教育を受けた。しかし、兄嫁との道ならぬ恋の噂により20歳で出奔し、俳諧で身を立てたがその道もあっさりと捨ててしまう。そして、俳諧を通して出会った彭城百川(さかきひゃくせん:日本南画の先駆者)に影響を受けて長崎へ遊学した。唐通事の熊代熊斐(ゆうひ)や唐絵目利の石崎元徳らに色鮮やかで写実的な花鳥画を学び、山水画で知られる来舶清人の費漢源(ひかんげん)に師事し、中国舶来の最新様式を自らのものにし、独自の画風を確立した。海の魚が乱れ泳ぐ「海錯図(1775年)」は、ユーモアにあふれている。

宋紫石も江戸時代中期の画家である。長崎で熊代熊斐・清人画家宋紫岩に画法を学び、江戸に帰り宋紫石を名乗る。沈南蘋の画風を江戸で広め当時の画壇に大きな影響を与えた。山水・花卉に優れている。これは古今画藪後八種(1771年)である。

司馬江漢は江戸時代中期の絵師で蘭学者である。青年時代は浮世絵師の鈴木春信門下で鈴木春重を名乗り、中国より伝わった南蘋派の写生画法や西洋絵画(遠近法をいち早く取り入れた)も学んで作品として発表した。日本で初めて腐蝕銅版画を制作した。彼の作品の不忍池(1784年)である。

葛飾北斎は、江戸時代後期を代表する浮世絵師である。風景画、人物画、妖怪画など多岐にわたるジャンルで活躍し、生涯にわたって約3万点以上の作品を残した。北斎の画業は欧州へと波及し、ジャポニスムと呼ばれるブームを巻き起こして19世紀後半のヨーロッパ美術に大きな影響を及ぼした。

初期の頃は、狂歌絵本に挿絵を寄せていた。これはその一つの東進(1799年)である。

次の作品は、『諸国瀧廻り』シリーズの一作品「相州大山ろうべんの瀧(1833年)」である。舶来の原料であるベロ藍を用いている。

歌川広重は江戸の定火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となった。風景を描いた木版画で大人気の画家となり、ゴッホやモネなどの西洋の画家にも影響を与えた。次の絵はシリーズ『東海道五拾三次之内』の一作品で「箱根 湖水図(1833~34年)」である。透視図的な視覚に基づいて風景を水平に捉え、豊かな奥行を確保し、実景感と情緒性豊かな画面を作り出している。

歌川国芳(くによし)は江戸時代末期を代表する浮世絵師の一人である。画想の豊かさ、斬新なデザイン力、奇想天外なアイデア、確実なデッサン力を持ち、浮世絵の枠にとどまらない作品を多数生み出した。これは『唐土廿四孝』の一つ「大舜(1848-50年)」である。廿四孝とは、二十四人の孝行者を指し、中国元代に確立した題材である。明確な陰影表現を用いている点に西洋画への傾倒を見ることができる。

月岡芳年(よしとし)は、幕末から明治時代前半にかけて活躍した浮世絵師で、武者絵は迫力ある大胆な構図が特色である。これは、『魁題百撰相』の中の一つの「駒木根八兵衛(1868年)」である。このシリーズは南北朝から江戸時代の賢臣を題材としているが、この時期の戊辰戦争の見立てでもある。下の図では分からないが、瞳には白い点が描かれている。これは瞳からの光の反射を表していて、西洋画からの影響である。

明治時代の浮世絵師である小林清親が光線画(光と闇を強調して描いた作品)を手がけはじめたのは1876年である。まだ江戸時代に由来する伝統的な浮世絵が多かったころ、西洋の絵画に近い表現を木版画でも行おうとした。輪郭線を省略・排除し、色の面で人物を捉え、ぼかしや網目、短い横線によって陰影をつけた。その一つの作品である「新橋ステンション(1881年)」である。

明治から昭和にかけて活躍した石井柏亭は、幼少期から日本美術協会や日本青年絵画共進会などに日本画を出品し、その後、洋画を浅井忠に学び、中村不折(ふせつ)の指導も受けた。織田一磨山本鼎(かなえ)らと美術雑誌「方寸」を創刊、他方で木版画制作にも注力し、日本の版画運動の先駆者的存在となった。「よし町(1910年)」は、ジャポニズムを逆輸入するかたちで当時生みだされた「江戸趣味」の流れの中で描かれたもので、浮世絵の代表的な題材である美人画と風景(ここでは、木場の様子)を描き、江戸の趣を表現している

竹下夢二は、大正ロマンを代表する画家・詩人である。下図の「治兵衛(1914年)」は、やはり「江戸趣味」の流れに乗ったもので、彫師・刷師との協業によって制作され、近松門左衛門の世話浄瑠璃を題材としている。

織田一磨は明治から昭和にかけて活躍した版画家で石版画・木版画で知られている。「東京風景」や「大阪風景」といった連作を通じて都市風景を描き、独自の技法と美的感覚を発展させた。また、浮世絵研究にも力を注ぎ、葛飾北斎に心酔し浮世絵に関する著作も残した。晩年には花鳥画仏画風の石版も見られる。これは『東京風景』の中の一つで「愛宕山(1916年)」である。

橋口五葉は、明治から大正時代にかけて活躍した日本の画家、版画家、装幀家である。特に、浮世絵やアール・ヌーヴォーの影響を受けた美人画で知られている。この「髪梳ける女(1920年)」は、江戸時代の浮世絵のような、あるいは日本画のような作風の伝統に根ざした絵であるが、アール・ヌーヴォーの曲線を、自然な髪の流れを表すために使っている。

小早川清は、大正から昭和時代にかけて活躍した日本の画家で、特に美人画や版画で知られている。小児麻痺の後遺症のため左手一本で描いた。次の作品は、『近代時世粧』シリーズのなかの「瞳(1930年)」である。

川瀬巴水は、大正から昭和にかけて活躍した新版画運動を代表する版画家で、風景版画を中心に活動した。日本各地を旅して、その土地の美しい風景を情緒豊かに描き、「旅情詩人」とも「昭和の広重」とも称された。つぎの「霧之朝(四谷見附)(1932年)」には、北斎・広重などのジャポニズム絵画から学んで、目の前の松を画面いっぱいに表し(近像型)、遠近感を強調した大胆な構図がとられている。

山元中学校の教師であった無著成恭は、自身の「生活綴り方(作文教育)」の教育実践を「やまびこ学校ー山形県山元中学校生徒の生活記録」としてまとめた。無著が不在の時に、箕田源二郎・小口一郎が中国木刻を携えて「やまびこ学校」を訪問した。彼らから木版画の指導を受けた生徒たちは、版画文集『炭焼き物語』を制作した。これがつくられたのは1951年で、この頃は中学生が生活を支えるため、炭を作る仕事に携わっていたことが題材になっている。

棟方志功は、「板画」と呼ばれる独自の木版画技法で知られ、日本を代表する版画家である。幼少期から絵画に興味を持ち、ゴッホの作品に感銘を受けて画家を志した。次の作品は『二菩薩釈迦の十大弟子』シリーズのなかの「文殊菩薩の柵(1948年)」、「迦旃延の柵(1939年)」、「富樓那の柵(1939年)」、「阿難陀の柵(1939年)」、「羅睺羅の柵(1939年)」、「優婆難の柵(1939年)」である。この作品を作るとき、版木に向かって一気に掘り進めたとのことである。板が持っている性質を大切にし、木の魂を掘り起こすつもりで制作した。版木の端いっぱいまで使って彫られた仏たちはユーモラスでもある。

招瑞娟(ZHAO Ruijuan)は、中国出身の女性画家で、戦後の日本の美術界にも影響を与えた。東京美術学校の女性一期生として学び、民衆版画運動に参加した数少ない女性作家の一人で、現代社会に対する鋭い視点をもって制作活動した。次の『求む』もその一環の中で制作された。

特別展の展示を鑑賞した次の日に、あるところで「狩野派の歴史」の講義を受けた。狩野派の絵画は漢画(中国の山水画花鳥画)として始まったが、途中でやまと絵の手法も使い、江戸後期になると西洋画の影響を受けたというのがその大筋だった。そして、透視図法、光と影などが西洋画からの影響であると教えてもらったが、今回の版画の移り変わりとも重なるところがあり、大きな文化の流れは同じであったと納得した。

今回の展示は前期と後期とに分かれていて、後期にもすぐれた作品が展示されるようなので、もう一度訪れたいと思っている。

*1:南画とは、江戸時代に中国の文人画や南宗画の影響を受け、日本で独自の発展を遂げた絵画様式をいう。

*2:沈南蘋は中国清代の画家で、1731年に来朝、長崎に2年間弱滞在し写生的な花鳥画の技法を伝えた。

中野剛志著『政策の哲学』をよむ

アメリトランプ大統領の相互関税の発表は、世界の株式市場に大きな影響を及ぼし、世界恐慌を招くのではないかとの危惧も抱かせている。今回の政策のベースとなっているのは、おそらく、スティーブン・ミラン氏が2024年11月に発表したマールアラーゴ合意であろう。そこには、国際金融秩序の再編と持続的なドル高による経済不均衡の是正を目指すと提案されている。その骨子は、①関税政策の強化: アメリカは関税を段階的に引き上げることで、貿易不均衡の是正と国内産業の保護を図る、②通貨政策の調整: ドル高是正のため、多国間協定を通じて各国通貨との調整を行い、持続的なドル高による経済不均衡を是正する、すなわちドル安にする、③安全保障と経済政策の連携: 通商政策と安全保障を密接に関連付け、アメリカの安全保障の提供と引き換えに、各国が保有する米国債を100年満期の譲渡不可能なゼロクーポン債スワップしてドル安に誘導する、である。この提案はトランプ政権の政策(関税強化とドル安志向、安全保障との連携)となっているようである。

しかし、関税を上げてドル安に誘導するという政策は次の点から矛盾していると経済学者の池田信夫さんは指摘する。①貿易赤字の縮小:関税が上がると輸入品の価格が上昇して輸入が減る一方、輸出に対する直接的な制約はないため、貿易赤字が縮小し、外貨の供給が減って、ドルが上昇しやすくなる。②資本流入の増加:アメリカが関税を引き上げると、短期的には国内市場が強化されると期待されるため、投資家がアメリカ資産を買い求める、アメリカ債や株式市場への資本流入が増えて、ドルの需要が上がり、ドルが上がる。③アメリカのインフレ率上昇と金融政策:関税の引き上げは、輸入品の価格上昇を通じてインフレ圧力を高めるため、FRBが利上げを行う可能性が高まり、ドル高が加速する。

上の議論で、一方は関税強化とドル安は両立すると言い、他方はそれは矛盾すると言っている。両者とも経済学については深い学識を有しているはずなのに、真っ向から対立するのはなぜだろう。自然科学であれば、地球が太陽の周りをまわっているのか、太陽が地球の周りをまわっているのかのような議論ははるか前には存在したが、現在ではそのようなことは話題にも上らない。正しいとされた法則の上に次の新しい法則が追加されているので、進歩し続けている。それに対して、経済学の方は、そのようにはなっていないようである。なぜなのだろうかという問いに答えてくれるのがこの本である。

今日の経済学で重きをなしている理論はミルトン・フリードマンに代表される主流派経済学である。中野剛志さんは、主流派経済学は似非科学であると一刀両断に切り捨て、「批判的実在論」に立つべきであると主張する。科学の方法論(哲学)に関しては、いくつかの流れがある。社会科学の中で幅を利かせているのは実証主義(positivism)である。実証主義は、現象の背後に形而上的な原因を求めるような思弁を排し、事実を根拠とし、観察や実験によって実際に検証できる知識だけを認め、それらを体系化して理論としてまとめる哲学である。このため、理論の正しさは、現象の「説明」と「予測の正しさ」が成り立つことである*1

実証主義は自然科学の発展に大きく貢献した。自然科学の分野では実験によって再現できるため、理論の正しさを納得させることができる。ニュートン力学では、同じ高さから落下させると、どのようなものでも、同じ時間をかけて床に到着するとなっている。これは、真空の空間を用意すれば実験でき、その言説の正しさを確認できる。そこには、それを定める物理的な法則があることも確認できる。

しかし、経済活動の場合はどうであろう。そうはいかない。ニュートン力学のような法則を見出すことはできない。関税を上げたらどうなるかということに対して、ドル安になると予想する政策担当者もいるし、そうはならないと主張する経済学者もいる。社会科学では法則を見出せない場合が多い。法則が成り立つような体系を閉鎖系(closed system)といい、そうはならないものを開放系(open system)*2という。経済も開放系であるにもかかわらず、これを閉鎖系のように扱おうとすると無理が来る。主流派経済学では、「合理的経済人*3」や「一般均衡理論*4」を基礎としているが、現実の経済の実情からするとあまりにも単純な要素に還元しすぎている。

実証主義が経験に基づいて体系づけているのに対し、経験できないところにも実在(reality)があるという考え方をとる科学者がいる。これは自然科学ではごく自然な見方である。例えば、アインシュタイン相対性理論は、光の速さは一定であり、光速で移動している物体の時間は止まっていると主張した。今でこそ実験的に確認できるが、この理論は長いこと実験することができなかったが、正しいと見なされていた。同じことは、量子力学においても見ることができる。

このような考え方をする哲学は超越論的実在論(社会科学に応用したとき批判的実在論という)と名付けられ、その代表的な思想家はイギリスのロイ・バスカー(Roy Bhaskar)である。中野さんの本の中から抜き出してみよう。「バスカーは、自然科学について次のように論じた。科学とは、「物についての知識」である。知識とは、人間が生み出したものであり、科学者たちによる探求という、ある種の社会的な活動を通じて生産されるものである。その意味において科学は、人間の活動に依存するものといえる。(中略)、科学には、社会的な活動によって生み出された知識という次元と、科学的知識から独立した物体や運動といった「実在(reality)」という次元の両方がなければならない」と記述している。これは科学には二つの側面があり、人間の活動に依存する「他動的(transitive)」な側面と、人間の活動から独立して存在している自律的(intransive)な側面とがあることとなる。さらに、科学が探求するのは実在の構造やメカニズムであって、古典的経験論*5実証主義とは違って、単なる観察可能な現象ではないし、その構造やメカニズムは、超越論的観念論*6とは違って、「自動的」なもの、すなわち人間の主観から独立して存在するものであるとも述べている。

社会科学が対象とする社会を批判的実在論で考えてみよう。この哲学の特徴は観察できない実在が存在していると主張している点にあるので、社会的実在あるいは現実(social reality)について考えると、①社会という存在は人間活動に依存し、逆に人間活動のないところに社会は存在しない、②社会は人間活動に依存しているために、転換可能であって不変ではない、③人間は人間活動に依存する社会の影響を受けるので、人間もまた転換可能な存在である、とこのように社会を観察できない実在として捉えることができる。

上述の一般的な社会的現実を具体的な国家に当てはめると、①国家と呼ばれる社会的現実は、封建国家、市民国家、帝国、国民国家というように、時代あるいは地域によってさまざまな形態をとり、同じ国家であっても、その形態は歴史的経過を通じて変化する、②国家は、主体行為が相互に織りなす複雑な社会関係から創発した実在であると認識することによって、国家を、例えば、個人や階級など、特定の行為主体に還元して狭く理解するのではなく、あるいは、一枚岩的な個体として物象化するのでもなく、国家を支える様々な行為主体や社会関係を総合的に理解するという視座が得られる。

具体的に国家政策について考えると次のようになる。政策を決定するのは国家ではなく、政策決定者である。政策決定者は、政府・中央銀行などの公的機関、それらの職員などから成り立っている。政策決定者は、完全雇用や経済雇用といった特定の政策効果をもたらすメカニズムを特定する。そして、メカニズムを効果的に作動させるために、そのメカニズムを他のメカニズムの効果から遮断しなければならない。ただし、開放系である社会において閉鎖系を実現することは不可能であるが、部分的に規制することによって、「半・規則性」の社会を構築することができる。もちろん政策の受け手は市民あるいはその集団ということになる。図示すると次のようである。

上記の説明で「半・規則性」の社会をどのように構築できるのかについて疑問を持つ。これに答えてくれるのは歴史社会学である。歴史社会学者のマイケル・マンは、パワーには二つの次元があり、それらは専制的パワーと下部構造的パワーであるとしている。専制的パワーとは、「国家エリートの市民社会に対する分配的パワーである。それは国家エリートが市民社会集団との日常的な交渉なしに行動する範囲に由来する」としている。そして、下部構造的パワーは、「専制的か否かにかかわらず、中央国家がその領土に浸透させ、決定を合理的に実行できる制度的な能力である。これは国家インフラを通じて社会生活を調整する集合的パワー、社会を貫くパワーである。国家は領土内に浸透する集権的で根本的な一連の制度として認識される」としている。

マイケル・マンは、専制的パワーと下部構造的パワーの強弱に応じて、歴史上の国家形態を次のように分類している。

この後、政策立案に至るまでの議論が続く。結論だけ述べると、複雑系であることからアジャイル(漸変的)な政策形成を勧めている。今回のトランプ大統領の相互関税政策、あるいは、ミラン氏提案のマールアラーゴ合意は、漸変的とはかけ離れた跳躍的な政策変更である。このため、リスクの高いあるいは予測不可能な政策といえる。相互関税が発動されてから一週間余りだが、予想されたように大きな混乱を引き起こしている。このような現状を見ると、政策の立案に際しては批判的実在論のような科学的な方法に従って欲しいと望む次第である。

*1:主流派経済学は実証主義といわれている。しかし、フリードマンの方法論では、理論の正しさとは「現象の予測」のことであって、「現象の説明」に関してではないとしている。このため、実証主義ではなく、道具主義であると中野さんは断じている。しかも、予測も時々外れるので、科学といえるのかと苦言を呈してさえいる。

*2:開放系と不確実性とは同義である。そして、不確実性とは、事象が確率的にすらも規則的に起きないために、予測不可能であることを意味する。サイコロはどの目が出るか確率的に分かっているので、不確実性なものではない。株価の予想をすることが不可能であるように、経済社会の本質は不確実性である。

*3:主流派経済学では、経済活動をする人を、自己の経済的利益を最大化するという目的のために合理的に行動する原子論的な個人と仮定する

*4:経済全体におけるすべての財貨に対して需要と供給が同時に一致した状態を一般均衡という。

*5:デイヴィッド・ヒュームに代表され、「Aが起きたら、その後に必ずBが起きる」といったように、ある単独の事象と別の事象との間に「恒常的連接関係」が観察されれば、その恒常的連接関係が必然的な因果関係となる

*6:科学とは、単に事象間の恒常的連接関係を観察すれば足りるのではなく、さらに、自然界の秩序や構造に関するモデルや理念といった知識を構築するものである。

コロナに罹りました

今日はエープリルフールだけれども、この記事はフェイクではない。真実である。しかし、エープリルフールのこの日の記事にとてもかなっているように思える。最初の一言が、「え、ほんと!」となるだろうから。

楽しかった中国・四国の旅行から戻った二日目、高い熱が出てビックリした。その前の日は、旅行後の始末に追われ、疲れを感じたので早めに床に就いた。とてもよく眠れたのだが、起きたとき何となく熱っぽいと感じた。体温を測ると37.0度であった。このときは疲れのためと思い、朝食後に大事をとってベッドで横になった。

すごく疲れていたようで、目が覚めたのはお昼前であった。元気なのだが、熱が高いように感じる。検温してみるとなんと38.7度もあった。旅行を共にした仲間からコロナになったと連絡があったので、私もかととても不安な気分になった。病院が閉まりそうな時間だったが、ダメ元と思い妻に電話を入れてもらった。この病院は、午前中の診療が終了した後、高熱患者を診察している。そして、かかりつけ医でもある。快く受け入れてくれ、診療が可能になった時、電話をくれるとのことであった。

検査の結果は陽性であった。コロナに罹ると息も絶え絶えという凄い状態になると思い込んでいたが、全くそのようなことはなかった。熱があるだけで、とても元気で、食欲もある。熱さえなければ、近所の桜を見に出かけ、多くの人と遭遇したことだろう。お医者さんは、これほど元気にしていられるのは11月のワクチン接種が効いているためだという。ワクチン接種の目的は、重症化を防ぐことにあるそうである。

そして、抗ウィルス薬を使うかを尋ねられる。基礎疾患があるので、使える薬はラゲブリオだけだという。そして、かなり高価だそうだ。背に腹は代えられないのでお願いしますと答えた。この薬は12時間ごとに飲むこと、1カプセルは200㎎で、一回の飲む量は4カプセル(800mg)と言われた。5日分出すので飲み切ることと教えられた。さらに、発症後5日間は外出を控えることが勧められていること、そして、10日間は菌を排出している可能性があるので、この間も外出しない方がよいと説明された。また、風邪の症状が出たら来て欲しいと言われた。

薬局で薬をもらい、夕方から薬を飲んでくださいと言われた。帰宅後も高い熱が続いていたので、ベッドに横たわっていたら、そのまま夕方まで眠りこんでしまった。夕飯を食べ、薬を飲んで、20時には床に就いた。ラゲブリオの他に解熱剤ももらっていたので、寝間着がびっしょりになるくらい酷い汗をかいた。それでもなお朝起きたときの熱は37.9度もあった。振り返ってみると、コロナを発症してからここまで、診察と食事の時間を除いては、ずっと寝続けていることになる。旅行の疲れもあるのだろうが、コロナウィルスとの戦いのために体力はひどく疲弊しているようである。

日本でコロナが初めて発見されたのは今から5年前の1月16日である。中国から帰国した男性であった。衝撃的な光景は、多数のコロナ患者を乗船させて横浜港に着岸したダイヤモンド・プリンセス号だろう。検疫官が船に向かう場面を今でも鮮明に覚えている。しかし、この頃はまだ大丈夫だと思っていたが、そうではないと思わせてくれたのが、3月29日の志村けんさんの死亡である。この頃から、国民はコロナに罹ると大変と意識するようになった。

コロナへの対策が全くなかった当時と比べると、現在の環境は全く異なっている。重症化を防ぐためのワクチン、感染の有無を判別できる抗原キット、ウィルスと戦うための抗ウィルス薬が整っていて、予防・発見・治療のそれぞれの段階で防波堤ができている。私もこれらすべてから恩恵を受け、最初の二日間だけ熱があっただけですんでいる。痰がでるだけで、喉が痛いとか味覚・臭覚がなくなるなどの不都合は起きていない。今朝、ラゲブリオも飲み切った。このまま、順調に回復してくれることを願っている。最後に、献身的に介護してくれた妻にとても感謝している。

中国・四国を旅行するー小豆島

後半の旅行先は小豆島。この島は瀬戸内海にある島々の一つで、淡路島に次ぐ大きさである。香川県に属し、人口は2.6万人弱と多くない。昭和30年代には5万人ぐらいだったので、半分程度になっている。主要な産業は、オリーブ栽培、醤油醸造、手延べソーメン、佃煮製造、観光業、農業と漁業である。

小豆島から連想するものは何かと尋ねられたら、シニア世代は『二十四の瞳』、若い世代は『からかい上手の高木さん』と答えるだろう。これらの映画は、小豆島をロケ地としている。『二十四の瞳』は2回映画化され、昭和29(1954)年に公開された高峰秀子さん主演の作品(木下恵介監督)と、昭和62年(1987年)の田中裕子さん主演のリメイク作品(朝間義隆監督)がある。『からかい上手の高木さん』は、山本崇一朗による漫画がベースで、2018~19年にテレビアニメ化、昨年には実写映画化された。我々は、話題では若い人たちに負けないようにしようということで、『からかい上手の高木さん』とラッピングされたタクシーを利用して小豆島を巡った。

最初に訪れたのは『二十四の瞳』のゆかりの地である。作者は壷井栄さんで、小説は昭和27年(1952年)に発表された。昭和29年版の映画のストーリーは次のようである。師範学校を出たばかりの大石先生(高峰秀子)は、女性教師が珍しく、また、新米だったことなどから、「おなご先生」と呼ばれた。赴任してすぐの先生に12人の子供たちはなつくものの、洋服でさっそうと自転車に乗るハイカラな先生と保守的な親たちとの間には溝があった。子供たちがいたずらでつくった落とし穴で、大石先生がアキレス腱を切断したことがきっかけとなって、親たちの心も和んだ。そして、村の人々との心温まる交流へと変わり、大石先生が分教場を離れたあとも続く。しかし、時代は暗い方向へと向かい、教え子たちは出征していく。教え子の何人かは戦死し、ある者は体も心も病んで帰還する。戦後すぐに、英軍用機が島に不時着する。複雑な思いを抱えながらも、住民たちは英兵をサポートし、軍用機が飛び立てるようにする。そして、心を病んでいた教え子も分教場の先生になってやり直そうと決意する。ざっとこのような感じのストーリーだが、この時代をよく映した反戦映画である。

最初に見学したのは高峰秀子さん主演の映画に出てくる「岬の分教場」である。昭和46年まで苗羽(のうま)小学校田浦分校として利用されていた校舎である。

分教場の教室。とても懐かしい気がする。小学校での机と椅子は学年が上がるごとに少しずつ大きくなっていった。机の物入れは忘れることをおそれて、私はあまり使わなかった。

二十四の瞳映画村。ここは、昭和62年版の『二十四の瞳』の撮影で使用されたオープンセットを利用して作られた。昭和初期の村の風景を再現しているので、昭和ブームの昨今、テーマパークとして人気を博しているようである。
分教場が再現されている。手前・苗羽小学校田浦分校、奥・男先生の家である。

男先生の家。赴任してくる先生のために、村が用意したという想定なのだろうか。私は小学校の頃は社宅に住んでいたが、6畳・6畳・4.5畳の3部屋、玄関、台所、トイレのつつましい平屋だったのを思い出した。

大石先生と12人の子供たち。我々の頃はさすがに着物という子はいなかったが、小学校までは下駄で通っていた。時々、鼻緒が切れるので、子供たちはいっときのしのぎ方は知っていた。

平成3年(1991年)創建の二十四の瞳天満宮。九州・太宰府天満宮から分霊を受けた正式な神社で、菅原道真を祀ってる。

壷井栄文学館。名前の通り、壷井栄さんの生涯と作品を紹介している。夫で詩人の壺井繁治さんも紹介されている。二人とも小豆島生まれで、仲の良い夫婦だったようである。

ロケセットだったのだろう。左手前・みさき屋、左中・大正堂、左奥・海洋堂、右手前・瀬戸屋、右奥・からかさ亭。昭和初期の街並みの再現となっている。

この後は、醬の郷に向かう。小豆島の醤油醸造の起源は、記録に残っていないものの16世紀末の元禄年間とされている。小豆島では中世以前から製塩業が盛んで、赤穂に次いで生産高が多かった。ところが、江戸時代後期になると、瀬戸内海各地で製塩業が行われるようになった。活路を見出すために、塩を主原料とする醤油への転換が図られた。醤油を作るためには、塩の他に、大豆と小麦を必要とする。海上交通の要所であることを活かして、これらの産地から有利に搬入でき、また、製品としての醬油を搬出しやすかった。さらには、温暖少雨の気候も醤油醸造に適していた。これらの要因により、盛んになったようである。

マルキン醬油記念館。マルキン醤油は明治40年(1907年)の創業である。

記念館の内部。かつての醤油づくりの方法がミニチュアで再現されていた。

そして、魔女の宅急便のロケ地にもなったオリーブ公園である。世界でのオリーブ栽培の歴史は古く、5000年以前に小アジア(トルコやシリア周辺)で始まったとされ、地中海地方に伝わり、ギリシャローマ帝国を通じてヨーロッパに広がった。ギリシャ神話では、女神アテナが人々にオリーブの木をおくったと伝えられている。

日本では、1860年代に医師・林洞海がフランスから苗木を輸入し、試験的に栽培を始めた。本格的に成功したのは、明治41年(1908年)の小豆島での栽培試験がきっかけである。小豆島の温暖な気候がオリーブ栽培に適していて、国内最大の生産地となっている。

オリーブ公園の中心的な施設であるオリーブ記念館。

イベント広場モニュメント。古代ギリシャの「オストラキシモス」に使用された投票片をモチーフにしたモニュメントである。これは、中央の心棒があれば「無罪」、なければ「有罪」を示す。このモニュメントは、平和の象徴として「罪のないこと」を表現している(分かりにくいが中央の心棒がある)。周りの景色とマッチしていて、地中海的な落ち着きを感じる。

オリーブの木々とギリシャ風車。この風車は、ギリシャのミロス島との姉妹島提携を記念して平成4年(1992年)に建設された。エーゲ海を思わせる美しい景観を醸し出している。

「ハーブクラフト館ミロス」。ギリシャサントリーニ島をイメージした建物で、白い壁と青い屋根が特徴的である。

お昼は小豆島自慢の生そうめんを食べる。写真はオリーブ生そうめん。

お腹が満たされたところで、寒霞渓(かんかけい)を見学する。ここは、日本三大渓谷美の一つとして知られ、絶景スポットである。小豆島は、8000万年前ごろにできた花崗岩類が基盤になっている。そのうえに1300万年前の火山活動によって噴出した瀬戸内火山岩類が堆積し、そのあと1000年以上もの長いこと地殻変動や浸食を受けて形成された。寒霞渓は安山岩層や火山角礫岩層からなり、表12景、裏8景と称される奇岩や断崖が生まれた。

ここで、岩石の説明を加えておこう。マグマが冷えてできた岩を火成岩という。その中で急激に冷えてできたものを火山岩、ゆっくり冷えてできたものを深成岩という。火山岩には、流紋岩安山岩玄武岩があり、この順番で有色の鉱物を含む割合が多くなる。深成岩には、同じ順で花崗岩、閃緑(せんりょく)岩、斑糲(はんれい)岩がある。そして、同じ順位の岩は成分が似ている。例えば、流紋岩花崗岩はおなじような成分からなる。

ロープウェイから見た景色。



展望台より。

この島には「小豆島八十八ヶ所霊場」と呼ばれる巡礼地がある。これは、四国八十八ヶ所霊場を模したものである。宝生院は、小豆島霊場第54番札所として知られる高野山真言宗の寺院である。この寺院には、特別天然記念物に指定されている樹齢1600年以上の「シンパク」という巨樹がある。このシンパクは、古墳時代に第15代応神天皇が手植えしたと伝えられ、周囲約16.9メートル、樹高約20.9メートルの大きさである。また、境内には小豆島霊場第51番、第52番の札所も併設されている。

宝生院を見ていこう。客殿である。巡礼者や参拝者が休憩したり、祈祷や法要が行われる場である。

地蔵大菩薩を本尊として祀る本堂である。

内部。本尊は真正面に安置されていることだろう。

壁面に描かれている阿吽の双龍。
日の出を物事の始まりと控えて口を開いた阿龍。

口を閉じ、指馬4本から5本へと成長した吽龍。

特別天然記念物のシンパク。

龍。たしかに。

象。なるほど。

亀。そうですか。

弘法大師(空海)を祀る大師堂。

境内で桜が咲いていた。ヤマザクラサトザクラ系の栽培品種で静香という。別名はマツマエシズカ。ここは、51番札所宝幢坊の境内だそうだ。

さていよいよ小豆島で最後の見学地エンジェルロードに行く。潮の満ち引きによって現れる砂の道で、1日2回、干潮時に海の中から道が現れ、向かいの島まで歩いて渡ることができるようになる。もう少し待てば道がつながりそうだったが、船の時間があるのでここまで。

土庄港から高松港へ高速フェリーを利用し、高松駅から児島駅までマリンライナーを使い、この日は倉敷市・児島のホテルに泊まった。

次の日に見た日の出。

この日の見学場所は倉敷美観地区。まずは大原美術館へと思って近くの橋に着いた時、少しだけ説明させてと公認の腕章を付けたガイドさんが近づいてきた。イントロのところを説明した後で、詳細を聞きたければ10分で1,000円、20分で2,000円という。我々も、急ぐたびではないので、10分のガイドをお願いした。まずは、記念撮影。さらには思い出になりそうな場所の撮影もしてくれた。その中の一枚がこれ。江戸情緒豊かな川舟を利用しての結婚風景である。

大原美術館の前で美術館の説明を受け、彼が私のケータイを門の中に差し込んで撮影してくれたのが、ロダン作『洗礼者ヨハネ』である。

その後、美観地区の中心地を案内してくれた。そして、ガイドさんと別れて、大原美術館をゆっくり鑑賞、近くでお昼を食べ、散策しながら帰路に着いた。旅の最終場所となった倉敷駅

コロナが明けた2年前から、この時期になると、同じ仲間と小旅行を楽しんでいる。毎年、歳を重ねるので、だんだんとハプニングも増えている。一人が直前に手術をして不参加、私は足の痛みで参加が危ぶまれた。もう一人もやはり足に故障があったとのことである。姫路駅の待ち合わせ場所で顔を合わせるまで、参加者が判然としなかった。明らかに、不確実の度合いが増している。そして、別れたあと、誰も予想できなかった大ハプニングがおきた。それは、後の記事でのお楽しみである。

しかしともかく、無事に旅を終了できたことに感謝する。一緒に旅した友人の皆さん、運転手さん、美観地区のガイドさん、ありがとうございました。

中国・四国を旅行するー広島

今年の3月は気候の変化が激しく、寒かったり暑かったり晴れだったり雨だったりと、旅行は運まかせである。何が幸いしたのか今回はとてもついていて日和に恵まれた。目的は前後で分かれていて、前半は広島の友達を訪ねること、後半は大学時代の友人たちと小豆島・倉敷を巡ることであった。

広島までは、家から4時間程度。それほど遠さを感じる距離ではない。新幹線の中では、中野剛志著『政策の哲学』を読んだ。なかなかの良書なので、時間があるときに紹介したいと思っている。

広島の友達は、今年度で停年退官である。退職時の忙しい時にもかかわらず、わざわざ時間を作ってくれたのだろう。中心街のホテルで美味しい中華料理を食しながら話に興じた。その後、縮景園(1620年に広島藩初代藩主浅井長晟により造園)で大名庭園を散策し、広島名物のお好み焼きを楽しみ、退職後の彼の人生に幸が多いことを願って別れた。
縮景園

次の日は、後半の目的地に向かうまでの時間を利用して、広島平和記念公園を訪れた。「広島の復興を象徴する斬新で意欲的な橋」と紹介されている平和大橋。私の影がうつりこんで、少し気持ちの悪い写真になってしまった。

平和大橋から元安川を望む。

丹下健三さん設計の国立広島原爆死没者追悼平和祈念館。訪問者が多く、入場券を買うための長い列ができていた。漸く売り場に着くと、「東京から来てくれたのですか」と感謝された。館内は撮影禁止。80年前の原爆投下にもかかわらず、この惨状が今起きたことのように身近に感じた。

平和祈念館から、平和記念公園、慰霊碑、原爆ドームをみる。

慰霊碑。

原爆の子の像。 戦後に原爆症を発症して死去した佐々木禎子を始めとする原爆の犠牲となった子どもの慰霊碑である。

幼い子が鐘をついているのが印象的であった。

原爆ドーム(広島県産業奨励館)。

平和大通りを広島駅の方に歩き、電車道とぶつかったところに白神社があった。16世紀ごろまではこの辺は海で、船舶がしばしば座礁したため、岩上に白い紙を立て舟の安全をはかった。その後、小祠を建て白神と称した。後の毛利・福島時代には広島の総氏神となった。

神社の近くにあった旧国泰寺愛宕池。この寺は、毛利氏の時代に僧・恵瓊(えけい)が安国寺として創建、福島氏の時代に国泰寺として開基された。浅野氏が藩主として入国し菩提寺となった。現在は、別の場所に移転している。

この後、姫路経由で小豆島に向かう。姫路駅新幹線改札付近で見つけた「灘のけんか祭り」の神輿。

姫路港から小豆島・福田港にフェリーでいった。小豆島のホテルから見たサンセット。

旅の前半は無事に終了した。友達は、上海にある大学に特賓教授として招かれたそうで、今後5年間は日本と中国を行ったり来たりの生活になるとのことだった。国際関係が厳しくなっている時代にあって、広島の悲劇を再び繰り返さないためにも、民間での交流はとても大事なので尽力して欲しいと願っている次第である。

藤井一至著『土と生命の46億年史 土と進化の謎に迫る』を読む

土というタイトルを見たとき、あまり期待しなかった。空気や水と同じように身近な存在であるにもかかわらず、都市生活に馴染んでしまった私は、土に触れる機会はあまりない。外に出かける時は、舗装された道を歩くので、土のあの柔らかい感触を味わうことはない。小さな庭も、手をかけないで済むようにとほとんど芝で覆われている。季節の花を楽しめるように少しは花を植えてあるが、それとても、花鉢に入れてある土を入れ替える程度である。大事なものというよりも、この時期に舞う土埃のような迷惑なものとの認識が強い。

そのような中にあって、何となく読み始めたこの本だったが、読み進めて行くうちに興味を持ち始め、最後には素晴らしいとさえ思った。土がこんなにも我々の生命と深く関係を持っていることを知ったのは、恥ずかしいことだが、この本が初めてである。しかも46億年という気も遠くなるような長い時間をかけて、我々が生存できるようにしてくれているということを知らされ、いたく感激した。

土は地球の誕生とともに存在していたわけではない。この本の最大のテーマは、土がどのようにして生まれたのかという疑問に答えることである。

地球の始まりは、無数の微粒子(宇宙塵)を集めた小惑星同士が衝突しあってできたとされている。微粒子は鉱物によって構成されているが、その大きさは10μm程度の大きさで、造山鉱物と呼ばれる。これは粘土よりは大きく、やがて粘土を生み出す母体となる。小惑星が衝突すると、巨大な熱エネルギーが生じ、6000度以上の高温が微粒子を溶かしてマグマを生み出す。さらに小惑星を取り込んで巨大化し、惑星となったのが地球である。

そのうち地球は冷え始め、熱いマグマを内に秘めたまま、地表面では水蒸気が冷めて水となり、地球が誕生してから2億年後ぐらいには、海と小規模な陸が生まれた。地球の内部では、比重が大きいものが下の方に、小さいものが上の方に移動し、最も軽いガスの水素、ヘリウム、ネオンなどの多くの元素は、宇宙へと戻っていった。最終的に地球表層に残留したのは、中間の重さを持つ窒素、二酸化炭素、水蒸気(水)である。

地球の内部は、中心部から外側に向かって、コア、マントル、地殻で構成されている。地球中心部のコア内部(内核)は個体の鉄となり、コア表層(外核)はドロドロに溶けた鉄が対流している。これにより地球に磁場が造られ、太陽風宇宙線から地球を守ってくれている。

マントルは、酸化鉄や酸素と結びついたアルミニウム、珪素マグネシウムを構成成分としている。地表の表層近くのマントルでは、鉄より軽いアルミニウムと珪素の割合が多い。また、沈み込んだマントルの一部は地下深くで溶け、ドロドロのマグマになる。

水によって冷却されるとアルミニウムや珪素は単体では存在できなくなり地球に来た時の姿に戻り、石英、長石、雲母などの造岩鉱物となる。これが集まったのが花崗岩である。陸地の部分はほとんどが花崗岩である。

マグマが冷えたことでできる岩石には、上述の花崗岩の他に玄武岩がある。これは地中深くのマグマから誕生したもので、斜長石、輝石、カンラン岩などの造岩鉱物が集まったものである。噴火によって放出された火山灰は玄武岩質の造岩鉱物である。地殻およびマントル表面は岩石で覆われ、それぞれ大陸プレートと海洋プレートと呼ばれる。海洋プレートは玄武岩で、その上に海や大陸がのっている。そして、大陸プレートは花崗岩である。地球が生まれてからまもない頃には土は存在しない。花崗岩玄武岩、大気の状態からどのようにして土が生まれたのだろう。本の中では、岩石+大気⇒(風化作用)⇒土+海、として説明されている。

ここまで、土を定義せずに使ってきたが、ここではっきりさせておこう。土とは、「岩石が崩壊して生成した砂や粘土と生物遺体に由来する腐食の混合物」である。生まれた頃の地球には、粘土もなければもちろん生物も存在していない。土が生まれるためには、粘土が作られ、さらには生物が誕生する必要がある。石礫、砂、粘土は粒の大きさにより区分される。粒径が2.0mm以上のものを石礫、0.02mm以上のものを砂、0.002mm以上のものをシルト、それ以下のものを粘土という。すなわち、粘土は粒径が2μm以下のとても小さな粒である。

地球が生まれたころは、地上を大気(現在とは異なり、高濃度の二酸化炭素が含まれ、酸素は少なかった)が覆い、地表面にはわずかな陸(花崗岩)と広大な海があり、そして海面下にはマントルが冷えてできた岩(玄武岩)があった。原子地球の冷却化に伴って大量の雨が降ったが、それは火山ガス、二酸化炭素を溶かし込んだ酸性雨であった。酸性雨は海底の玄武岩によって中和されたが、そのとき岩石からは珪素やアルミニウムが海水中にどんどん流れ出した。珪素は相棒のアルミニウムと結合するとスメクタイトという粘土鉱物を析出する。生命よりも早く、海底に粘土が誕生した。

アルミニウム同士は横方向に結合する性質を有する。珪素もまた同様である。サンドイッチのようにアルミニウムの層を珪素の層で挟んだものができる。この三層構造(サンドイッチ)を重ねたものは粘土鉱物となる。すなわち、三層構造同士の間にカリウムを挟んだのが雲母、マグネシウムを多く含むのがスメクタイトセシウムを多く取り込んでいるのがバーミキュライトである。三層構造同士の間になぜこのような正電荷の原子を挟むことができるのだろうか。これは、三層構造の外側の層を構成しているアルミニウム(Al³⁺)の一部がマグネシウム(Mg²⁺)で置き換わる(同型置換)ことで生じる。より低い正電荷の原子で置き換わったことにより、この三層構造は負電荷となる。このため、正電荷の原子(陽イオン)を引き寄せる。引き寄せられた原子の種類によって、雲母になったり、スメクタイトになったり、バーミキュライトになったりする。

この中で、スメクタイトは水やイオンをよく吸収するという性質をもっている。スメクタイトは、マグネシウムだけでなく、ナトリウムもカルシウムも含む。これらはカチオンと呼ばれ、水の分子はこのカチオンに引き寄せられる。スメクタイトは水を含むことで数十倍にも体積が増える。バーミキュライトと雲母は、スメクタイトカオリナイト(珪素の層とアルミニウムの層の二層で構成される)とは異なり、地上では生成されず、地下の高温高圧条件で堆積岩や花崗岩の造岩鉱物として生成される。

これで土を構成するのに必要な粘土は備わったが、この他に腐食が必要である。このためには生命を必要とする。生命はどのようにして誕生したのだろうか。生命はアミノ酸を主要な材料としている。例えばヒトの細胞はタンパク質でできているが、これをバラバラに分解するとアミノ酸となる。アミノ酸に必要な元素は、酸素、水素、炭素、窒素である。アミノ酸を作るための元素は地球上にそろっているが、これからどのようにしてアミノ酸がつくられたかについては定まった説はないものの、粘土が大きな役割を果たしただろうとされている。

生命が誕生すると同じころに地殻変動が活発化した。35億~25億年前にかけて大陸が急激に拡大する。しかし、5億年前までは陸地に土はなかった。海中ではそれまでにシアノバクテリア、緑色植物が生まれ、それを食べるゴカイ類、さらにそれを食べる三葉虫、さらにこれを食べるアノマロカリスといった食物連鎖が生まれた。これに対して、陸地は荒涼とした岩石砂漠であり続けた。陸地に生命が誕生しなかったのは、大気中に十分な酸素がなかったことによる。

5億年前になると、地衣類とコケ類が上陸し、岩石を風化させ始める。しかし生活圏は川や池のほとりに限られていた。4億年前になるとシダ類が出現するがその状況は変わらなかった。ところが3億年前になるとタネを持つ裸子植物が登場し、乾燥した地域にも土が拡大した。2億年前には被子植物、キノコ(被子植物のリグニンを分解する)が誕生する。

この本では、この後の植物の進化、そして、動物の進化について、土と関連させて説明されている。とても面白いのだが、長くなるので割愛する。

最後に、生命が利用している成分は、花崗岩を例にすると、花崗岩+炭酸水=砂+粘土+珪素+塩(ナトリウム)である。この具体例が面白い。愛知県の濃尾平野豊橋平野の背後には、花崗岩質の山があり、戦国大名土岐氏にちなんで土岐花崗岩と呼ばれている。

花崗岩は風化すると、石英砂、長石、雲母の微粒子に分解される。重い砂は木曽川によって山のふもとに堆積し、守口大根を生む砂質土壌となる。長石が風化してできるカオリナイト粘土は水の力で運ばれ、かつて名古屋を含む下流域に広がっていた巨大湖に堆積する。これは陶器に使われる粘土層となる。岩石から放出されたカリウム珪素は田んぼで稲に吸収される。海に流れ込んだナトリウムは食塩となり、珪素は珪藻の材料となってウナギを育む。

上記の反応は、一つの重要なことを教えてくれる。山の恵みと海の恵みは岩石の反応速度に制限されているということである。生命は、土や海の栄養分の存在量よりもその循環によって支えられている。このことは、循環量を超えて資源を利用すれば、やがて生命は維持できなくなることを教えてくれる。環境を守ることの大切さを伝えてくれる。

この本には、関連する話題が豊富に含まれていて、読んでいて楽しくなる。時には、親父ギャグと思えるところもあるが、関心を呼び起こすための工夫があちらこちらに凝らされていて、読者のために努力している姿勢に好感が持てる。高校で習った化学の知識がなくても理解できると思うが、あるとなるほどと思わせてくれる。私は、推理小説を読んでいる気分になって、ワクワクしながら楽しんだ。

左足の疼痛と闘う

20日ぐらい前になるが、目覚めたとき左足がなんとなく重いように感じられた。歩くと痛みを感じる。この日は、オーストラリア人の夫妻と15年ぶりに会うことになっている。娘さんを伴って、3週間の日本旅行を楽しんでいる最中である。何の前触れもなく、長野の白馬に来ているというメッセージを突然受けて、それでは東京に戻ったときランチを一緒にしようということになった。

予約したレストランは飯田橋の大東京神宮近くのイタリアンレストランで、私が利用する地下鉄・九段下駅からは歩いて10分位である。レストランに向かうときは痛みを感じたものの、再会できることの嬉しさもあって余り気にすることはなかった。お互いに健康であることを喜び、昔話に花を咲かせて、美味しい料理を食べながら、楽しいひとときを過ごした。食事中は足のことを全く忘れていたが、帰り道では途中で休みたいと思うほどの痛みを感じた。

次の日は、立ち上がる時に強い痛みを感じるようになった。夕方に、近所の歯医者に行く予定が入っていた。長いこと通っていた歯科医院が廃業したため、通い始めた医院である。歯周ポケットがあるということで、その治療をしようということになっていた。なかなか人気のある歯医者のようで、一ヶ月半も待たされての治療となった。今回キャンセルすると、また、長いこと待たされそうなので、足の痛いのを我慢して治療を受けた。歩いて10分弱の距離のところだが、往きは痛みを感じながらもたどり着けた。歯周ポケットは少し深かったので、麻酔をしての治療であった。歯肉への注射は痛いという印象が強いが、ここではゲル状の表面麻酔を塗ってから注射をしてくれたので苦痛はほとんどなかった。歯石除去の治療が始まり、痛みを感じたら教えるようにと言われた。それよりも仰向けの姿勢からくる足の痛みのほうが心配で、治療のことを気にする暇はなかった。帰り道は少し強い痛みが出たため、途中でしばらく休んだ。私が住んでいるこの地域も高齢化の波が押し寄せていて、杖やカートに頼っているシニアが多い。このため、木に寄りかかって休んでも目立たなかったことと思う。

一ヶ月後には旅行が控えているので、整形外科に行った方が良いかなと考え、帰宅後にどのような治療になるのかをWEBで調べた。数年前にやはり足が痛くなり、整形外科で見てもらったところ、脊柱管狭窄症の始まりですかねと言われたことがあった。WEBでこの病気を得意としているところを調べてみると、整形外科だけでなく、整体院、整骨院、さらには手術だけを専門としているところなど、どのように選択したら良いのか困るほどたくさんあった。どれが本当に良いのか迷う。中には、長いこと治らないで困っていた患者さんを、特別な方法で元気にしてあげて感謝されたと宣伝している整体院もあった。溺れるもの藁をもつかむ状態の時は、このような施設を頼りにしかねないとも感じた。少し遠いが前に行ったことのある整形外科にとりあえず予約を入れた。

そして、次の朝はさらに痛みを感じる。これはまずいと思い、予約なしでも受け入れてくれるしかも馴染みでもある近くの整形外科に、開院時間少し前に駆け込んだ。強い痛みが左足太ももの前部にあると伝えると、とりあえず、腰椎と股関節のレントゲン写真を撮ってみようということになった。その結果、背骨が左右に蛇行していることと、腰椎の間隔が上部の方で縮まっていることが分かった。数年前にやはり足が痛くて診断してもらったときは、足の裏側だったそうである。今回は表側なので、原因が違うだろうということであった。腰椎は5個の椎骨から構成されていて、隣りあう椎骨の間から神経が出ている。腰椎上部の上の部分からは足の表側に、下の部分からは裏側に行く神経が出ているとのことだった。腰椎に原因があるとすると、上部が狭まっているためだろうと説明された。あるいは、股関節のほうに原因があるかもしれないので様子を見て、必要があればMRI検査をしましょうということになった。とりあえず、その後のリハビリと診察を予約し、痛み止めの薬ももらった。

診察を受けてからも、痛みは治まるどころか、ますます、激しくなってくる。あまりの痛さに、体を折り曲げて歩くさまとなった。診察4日後に、とても痛いので次の検診を待たずに診察して欲しいと電話すると、今日は担当の先生がいないので、明日来てくれということだった。5分程度のところなのに歩くことができず、車を運転してやっとのことで病院に行った。妻も一緒だったので、かなり大変な痛みなのだろうと容易に察してくれたようである。立ち上がった時に痛みが来るのは股関節の可能性が高いので、その部位のMRIを撮ろうということになり、その予約をすぐに取ってくれ、さらには座薬と飲み薬の痛み止めをもらった。

最近の医療機関は専門化が進んでいるようで、MRIやCTの撮影だけを専門に行う病院がある。その日の夕方に予約がとれていたので、タクシーで出かけた。病院の中に入ると、予約制のためなのだろう数人の患者しかいない。受付で紹介状を見せ、医師の問診を受け、MRIの部屋へと導かれた。仰向けになれますかと聞かれる。座薬の痛み止めが効いているので大丈夫そうなのだが、ダメですと言ったらどうなったのだろう。痛いときはその時と覚悟して、MRIの床に寝転ぶ。大丈夫そうである。次に、足の親指同士をつけてくださいと言われた。「えっ」と言いそうになった。我慢できない程ではないが、かなりの痛みを伴う。撮影には20分かかるそうで、この間はこの痛みからくる地獄に絶えなければならない。しかも動かないようにといわれている。痛みを忘れるために、ブログの記事を考えたり数学の問題を解こうとしたりと工夫を凝らすが、痛みの方が勝って思考が中断される。手元にはもしものためにとスイッチが渡されているのだが、押すわけにはいかない。もうこれ以上ダメだと思ったとき、終わりましたと天の声が聞こえた。この病院での診断結果も添えて、依頼先の病院に画像を届けてくれるとのことであった。

週が明け、痛みを感じ始めてから12日目に、MRIの診断結果を妻と二人で聞きに行く。MRIの病院の医師も、整形外科の医師も股関節に異常はないとの診断であった。重大なことが体の中で起きているわけではないようである。医者からは、長い時間、同じ姿勢で作業をし続けたのではないかといわれる。週末にリハビリと診断をしましょうと言われた。痛みの強さはMRI検査をした日(痛みを感じてから8日目)がピークであったようで、徐々に緩和されていて、この日は杖をついているものの、真っ直ぐに立って歩けるようになっていた。

週末に病院に行ったときは、立ち上がるときに痛みを感じるものの杖も使わずに普通に歩けるようになった。理学療法士のリハビリを受け、医者からも旅行に行っていいですよとの許可を得て、やっと安堵した。

今日で痛みを覚えてから19日目。痛みはほとんどなくなったものの、痺れが残っている。外出が大丈夫かどうかを試すために、マイナンバーカードを受け取りに市役所の地区センターへと出かけた。外の空気は美味しく、青空も見事なほどに透き通っていて、普段の生活のありがたさを十分に味わった。旅行まであと10日余り、普通に歩けるようになっていればいいのだがと願いながら、健康であることのありがたさを改めて感じた。

細見和之著『フランクフルト学派 ホルクハイマー、アドルノから21世紀の「批判理論」へ』を読む

なぜ、人間は戦争をするのだろう。20世紀が終わる頃、資本主義陣営と共産主義陣営の間で繰り広げられた冷戦はソ連の崩壊によって終了した。これによって、世界に民主主義が広く行き渡り、平和を享受できる時代が迎えられると夢を抱かさせてくれた。しかし、このはかない夢は、権威主義国家の台頭や新型コロナウィルスの猛威によって打ち消され、きな臭い匂いも漂い出し、ウクライナへの侵攻が始まった。まさかと思われていたヨーロッパで、人が亡くなり、家が失われ、町や村が破壊されるという状況が生じ、3年経った今でも続いている。中東でも同じように衝撃的な状況が起きている。

他方で、人類は生命科学や生成AIに代表されるような医療・科学技術を発展させた。賢いはずの人類が、なぜ、戦争のような愚かな行為を繰り返しするのだろう。20世紀の前半にもこのような状況が発生した。第一次世界大戦で多くの人の命が失われた後で、国際間の紛争を解決するための国際連盟が設けられたり、ドイツでは民主主義の典型とも言われるワイマール憲法が制定されるなど、人類の理性を結集したかに見える施策が施され、国家間の争いはこれからは起きないのではと期待をもたせてくれた。しかし、その期待は見事に裏切られ、膨大な人命が失われる第二次世界大戦が発生してしまう。このような状況をどのように見たらよいのだろう。

この時代にこのようなことがなぜ起こるのだろうという疑問を解明しようとしたのが、戦後になってフランクフルト学派と呼ばれる思想家たちである。第一次大戦終了後にフランクフルトに社会研究所が設立され、1930年前後から彼らは活動を始めた。この研究所の思想家たちはユダヤ系の出自を持つ人々で、しかも豊かな人々であった。社会研究所での活動を開始してからしばらく経つと、国家社会主義(ナチズム)が勢力を有するようになり、彼らは身の危険を感じて、国外に亡命する。そして、なぜこのようなことが起きたかについて研究する。この考察は、戦後ドイツに戻ってからも続けられる。

フランクフルト派の代名詞ともなっているのは「批判理論」である。社会研究所の設立当時の参加者であったマックス・ホルクハイマーは、1937年に長大な論文「伝統的理論*1と批判的理論*2」でこの言葉を使っている*3。伝統的理論は、自然科学に代表されるように、相互に矛盾のない法則によってその分野の現象を説明しようとする。この方法はデカルトに始まる。一方、批判的理論は、社会には矛盾が存在するとし、その矛盾を乗り越えていこうとするものである。カントの純粋理性批判にその根源がある。

フランクフルト派のもう一つの特徴は、水と油のように思われる二つの思想をまとめていることにある。フランクフルト派の始めの頃の思想家たちは、資本主義の矛盾を指摘したカール・マルクスと、無意識を心の深層としたジークムント・フロイトの理論を統合して、その当時の社会を批判した。それがホルクハイマーとテオドール・アドルノによる『啓蒙の弁証法』である。この第2章「オデュッセウスあるいは神話と啓蒙」では、ギリシャの詩人ホメロスの傑作「オデュッセイア」が引用されている。オデュッセイアは、ギリシャの英雄オデュッセウストロイアの戦いに勝利した後に、さまざまな海の冒険を経て、故郷のイタケーにたどり着き、妻と再会し家族と領土を回復するという長編叙事詩である。叙事詩の中には、「文明が自然を克服したはずなのに、逆に自然に支配されている」という矛盾が隠されているということを、フロイトの理論を応用しながら説明している*4。ここでの最終的なテーマは、「自然と文明との融和」である。ここで指摘されたテーマは、地球温暖化という課題を抱えた今日でも、重要な課題であることは言うまでもない。

ホルクハイマーとアドルノの後を引き継いだのは、ユルゲン・ハーバーマスたちである。彼らは、フランクフルト派の第2世代ともいわれる。ハーバーマスは多彩な人物で、アカデミックな理論家、社会的な批評家、果敢な論争家という面を持っている。ハーバーマスの著作の出発点は、教授資格論文の『公共性の構造転換』である。この本の前半で、18世紀から19世紀にかけてのヨーロッパで、「市民的公共性*5が形成されていた経緯を跡づけている。本の後半では、そのようにして成立した自律性を持った市民的公共性が、19世紀からの国家の介入と巨大なマスメディアの成立によって、失われてゆくさまを描いた。国家が主導権を握り、市民の生きる場は「社会圏」と「親密圏」という両極に分解していき、かつての「文化を議論する公衆」は「文化を消費する公衆」へと姿を変えたと分析した。ハーバーマスの最終的な関心は、そういう構造変換を経たのちの現在において、コミュニケーション的行為としての市民公共性をどのように再興できるかというところにあった。

フランクフルト学派は現在は第3世代となり、アクセル・ホネットなどが活躍している。彼の『承認をめぐる闘争』は、社会的な葛藤や不正義を理解するための理論を提供している。この本で、社会的なアイデンティティや人間関係の形成における「承認」の役割を探求している。ホネットは、承認論を3つの主要な形式に構成した。それらは、①親密な関係における愛、②市民社会における法(権利)、③社会的な連帯、である。これらはハーバーマスのコミュニケーション的行為の根底にあるものとして、承認ないし承認をめぐる闘争に改めて強い光を当てた。これらの承認形式が欠如すると個人はアイデンティティの危機や社会的疎外を経験する可能性があるので、これらの承認を求める闘争が、社会的な変革や進歩の原動力になると彼は主張した。この理論は、現代社会における不平等や差別、社会的排除の問題を分析するための強力なフレームワークを提供している。

矛盾を抱え込んでいる状況の中で、荒れ狂った争いを防ぐことは簡単に解決するような課題ではないようである。しかし、著者は、『啓蒙の弁証法』を説明する中で、オデュッセウスの中に潜んでいる悲惨さを語り継いでいくことが、将来に希望(メルヘン)を与えることになると指摘していた。特効薬はないが、「自然(人の欲望も含まれる)と文明との宥和」に向けての地道な努力を続けていくことの大切さを訴えていた。残念ながら、現実を見るとそう思わざるを得ないようである。

*1:ニコニコ大百科によれば、伝統(的)理論を一言で言ってしまえば、科学主義、統計主義のことである。デカルトから始まった近代科学理論は、いまではあらゆる分野に広まった。複雑な情報を統計的に処理し、理論化する。そこでは厳密なルールが定められた形式論理に基づいて、全ての部分で矛盾が取り除かれる。伝統(的)理論においては主観的な事柄と、客観的な事柄を完全に分離させる二元論[1]に基づいているのだ。客観的な数量データを統計処理し、主観によってそれを定式化する。そして逆にその定式に客観的なデータを当てはめたりすることもある。例えば心理学では、実験参加者はアンケート受け、心理学者はその結果を統計でまとめ、理論として確立する。またその理論を別のケース当てはめて問題解決の鍵とすることもできるだろう。このような用法こそが近代科学の意義である。

*2:ニコニコ大百科によれば、批判(的)理論は伝統(的)理論とは異なり、理論の内部に矛盾を持たないことを真理の証としない。というのはそもそも私たちが生きる現実社会というのは矛盾に満ちているものだからである。批判(的)理論はそんな矛盾に満ちた社会を総体として捉えるのだ。ホルクハイマーは社会というものを、個人の行為の集合体でありながら、総体としては独立した動きを示す存在であると解釈する。社会は個々の主体を超越し、彼らを従わせる巨大な主体なのである。そんな社会の持つ矛盾を積極的に意識したものが批判(的)理論であり、それは批判(的)理論が矛盾溢れる社会の自己意識であることを意味する。よって批判(的)理論は主観と客観を区別することをやめる。批判(的)理論にとって、社会は客体であるとともに主体でもあるからだ。批判(的)理論は、伝統(的)理論のように現状を観察、分析するだけのものではない。批判(的)理論の関心は、社会の総体が抱える矛盾の克服を目指すという実践的問題である。批判(的)理論は科学や学問の成果を、社会的実践に役立てることを目的とするのだ。

*3:批判を表すドイツ語の原文は、この論文では小文字の形容詞で、戦後は固有名詞の大文字で使われている、このため、著者もこの論文に対しては批判的とし、戦後のものに対しては批判を使っている。この批判(的)理論のモデルになっているのはマルクスの経済思想である。マルクスは当時の経済学者(古典派)が疑いなく前提としていた利子、地代、貨幣、そして資本主義をラディカルに(根底から)再検討し、そういうものが廃棄される新しい社会を展望していた。ホルクハイマーの批判理論もまた、これまでの理論の前提そのものの変化の可能性を信じ、最終的にそれらの前提が廃棄され社会が変革されることを望んでいたのである。

*4:ニコニコ大百科には次のような説明もある。オデュッセイアで引用されるのはそのエピソードの一つである、「セイレーンの歌」だ。オデュッセウスとその従者たちの船は、セイレーンのいる浜へさしかかる。この不気味な女共は近くにきた人間を歌で惑わして殺してしまうという恐ろしい魔女であった。オデュッセウスは娼婦の女神キルケーからこのことを聞いており、部下には耳に栓をさせ歌が聞こえないようにしてひたすら船を漕がせた。一方で自分は船のマストに手足を自ら括り付け、歌声を聞いても惑わされないようにした。こうしてオデュッセウスは見事この難所をくぐり抜けたのである。オデュッセウスは、①従者に耳を聞こえなくして船を漕がせる、②自身は身体を縛り付け魔女の誘惑に耐える、という2つの方法でこの場所を通過した。このアレゴリー(たとえ話)は自然に対する人間の支配。あるいは神話に対する支配と労働の関係性を示唆している。ここにおけるセイレーンは自然。オデュッセウス一行は自己(人類)を表している。先述したように、自然は野蛮サイドであり、(自然と区別された)自己は文明サイドの単語になる。ここでも野蛮と文明の対立があることがポイント。人類(オデュッセウス一行)というのは自己の統一性を保持し、自己の保全を目的として(つまりセイレーンに殺されないため)に、社会的分業を行う。支配者であるオデュッセウスはセイレーンの歌声による身の破滅を防ぐために、身体を縛り付ける。これは文明化した市民が身近になった幸福を、それに溺れることを厭って逆に遠ざける様子を表現している。一方で服従者である漕ぎ手はその歌声の魅力を知りながらも耳を塞がれ、ただただオデュッセウスの命令に従って労働に専念する。彼らは本来的な人間感覚(ここでは聴覚)を喪失し、命令に従うだけの被支配者になる。オデュッセウス(命令者)と従者(服従者)は、セイレーン(自然、野蛮)に打ち勝つ(自己保存する)ために、分業を行いながらも、それぞれが禁欲を強制される。自然を支配するつもりが、逆に自然に支配されてしまっているのです。ここから文明化社会の呪いが見て取れる。

*5:この時期、社交界のサロン、喫茶店、読書サークルなどを通じて、身分差を越えて人々が集い、語り合う場が成立していった。そこでは、自由に発言しあうために、貴族もまた一般市民と同等であることを望んだ。

田中史生編『日中関係史』を読む

日本と中国との関係は、世界の歴史の中でも最も長く続いている二国間関係の一つだろう。『後漢書』には、後漢光武帝朝貢してきた「倭の奴の国」に「印・綬」を与えた(西暦57年)という記載がある。そして、これに符合するとされる金印は、江戸時代に博多湾口の志賀島で発見されている。二国間の関係はこれよりも前にさかのぼることとなるので、少なくとも2000年以上は続いていることが分かる。このように長い二国間の関係をたどってみようというのがこの本である。

両国の関係は、日本の戦国時代を境にして変化する。室町時代までは朝貢貿易により中国の文化を積極的に受け入れていたが、江戸時代になると長崎の出島を窓口とした国交なき貿易から分かるように細々とした交流になり、明治以降は競合するようになる。

大陸国の中国は、農業を生業とする人々と遊牧をそれとする人々の間でのせめぎあいの歴史であった。このような環境の中にあって、国家を統治する方法は早い時期に確立された。最初の王朝が成立したのは、今から4000年以上も前のこととされている(この頃は日本はまだ縄文時代である)。長い歴史を経る中で、中国が育んできた外交政策冊封*1である。先に金印を説明する中で、奴国が朝貢したと説明したが、これがそうである。冊封が終了したのは19世紀末とされている。

中国は、後漢のあと、短命の国が複数分立した五胡十六国の時代を迎える。この時代に、倭の王権の体制保証と国際的優位性を付与してもらうために、5世紀には倭の5代の王が南朝の宋に入貢し冊封を受けている。

6世紀末には中国大陸を統一した隋が出現する。これを受けて、朝鮮半島の三国が冊封を受ける。倭国冊封を受けないものの、これに遅れまじと遣隋使を送って朝貢する。その後すぐに隋が倒れ唐が建国すると、すかさず遣唐使を送る。さらに、8世紀初頭には中国の律令制度に倣って大宝律令を制定し、その少し前には国名を日本、倭国の大王を天皇と称した。

8世紀前半に10~15年おきぐらいに遣唐使が派遣されたものの、その後半には唐で安史の乱が発生したこともあり国家間の交流は消極的になる。しかし、天武系から天智系へと天皇の系統が変わった9世紀初めの平安時代初頭には、唐の勢いが衰えているにも関わらず王権の力を誇示する目的から遣唐使が派遣された。遣使には、この後の時代の仏教を興隆に導く最澄空海が含まれていた。しかし、9世紀末になると、予定された遣唐使は唐の衰えを理由に菅原道真によって中断された。

10世紀初めに唐が滅びると、中国は再び短命国が複数並び立つ五代十国の時代となる。この頃の日本は、平安時代後期から鎌倉時代前半で、交流したのは宋である(五胡十六国時代の宋とは異なる)。宋は10世紀後半から13世紀後半まで続いた王朝であるが、12世紀半ばに女真族の金に華北を奪われて南遷した。これより前を北宋、後を南宋という。宋は、貿易振興の目的で各地に市舶司を設置し、日本、高麗、南海との貿易を行った。日本は、大宰府の統制下で鴻臚館貿易を行ったが、刀伊の入寇の頃から太宰府権能の衰微が始まった。日宋間では正式の外交貿易は行われず、一般人の渡航は表向き禁止されたが、宋の商人は主に博多や薩摩坊津そして越前敦賀まで来航し、私貿易を盛んに行った。

11世紀初めには入宋僧の活躍も目立つ。例えば、奝然は円融天皇から宣旨を受け、海商陳仁爽・鄭仁満の船で入宋している。寂照・成尋も同様である。彼らは依頼主の罪業消滅を期待されている場合もあった。12世紀中頃には、東大寺大仏殿を再建した重源、禅宗を伝えた栄西も入宋している。

鎌倉時代の13世紀から14世紀初めには、禅宗を広めた俊芿(しゅんじょう)・道元円爾も入宋するが、反対に宋からの渡来僧も目立つようになる。蘭渓道隆(時頼)・兀庵普寧(ごったんふねい、時頼)・無学祖元(時宗)・東明慧日(貞時)などが招聘され、鎌倉の建長寺建仁寺円覚寺の住持となった。

鎌倉幕府が倒された後の南北朝時代(14世紀)は戦いに明け暮れ、中国も明王朝が誕生する激動期にあり、両国とも国内体制は安定していなかった。このため、両国の間の安全な貿易は保障されず、前期倭寇と呼ばれる海賊が跋扈した。

14世紀後半に、足利義満永楽帝室町幕府明王朝の政権を確かなものにする。義満は民間貿易を禁じている明と貿易をするための方便として、冊封を受けた。朝貢貿易は、一時的な中断はあったものの室町幕府が衰退するまで続けられた。しかし、幕府の力が衰えた時代には、朝貢貿易を実際に実施したのは、管領細川氏守護大名大内氏であった。室町時代朝貢貿易は、勘合符を用いて行われた。勘合を所持している船が、朝貢貿易の権利を持っていると見做された。

16世紀前半には、勘合符の所持で争っていた大内氏細川氏が、中国の寧波で中国側も巻き込んで遣明船を焼き払うなどの激しい争いを起こした。この事件をきっかけにして、私貿易・密貿易が活発化し、後期倭寇が跋扈した。後期倭寇として知られているのは、王直である。後期倭寇(わこう)の首領。中国安徽省出身で、塩商だったが失敗して密貿易に転じた。16世紀半頃の海禁政策のゆるみに乗じて、広東で禁制品の密貿易をした巨大な富をたくわえた。その後、日本の五島列島に拠点を移し、嘉靖の大倭寇とよばれる海賊活動をおこし、数百隻の船団で中国沿岸を襲撃したが、明の総督胡宗憲の勧めに応じて投降し斬首された。

16世紀後半には、織田信長豊臣秀吉徳川家康によって国内は統一され、中国や南アジアとの貿易が盛んとなる。しかし、徳川幕府が落ち着いた17世後半以降、幕府の貿易制限策によって鉱物の輸出は制限された。しかし、生糸・砂糖・朝鮮人参に対する輸入の需要は強かった。8代将軍徳川吉宗の時、これまでの主要な輸入品の国産化が進められた。生糸は18世紀前半には生産が増大し、西陣織に代表される絹織物の生産を発展させ、18世紀後半には中国産生糸・絹織物の輸入は大幅に減少した。砂糖は日本ではほとんど生産できずオランダ船による輸入砂糖に依存していたが、18世紀前半より高松藩薩摩藩国産化が推進され、19世紀初めには国産砂糖が輸入品を圧倒するようになった。また、朝鮮人参の国産化にも成功した。

貿易の変化は、長崎経由の貿易だけでなく、琉球対馬にも及んだ。琉球は、薬種・唐雑物を輸入し、海産物(日本産の俵物・諸色)を輸出し、対馬は銅の輸出と薬種を輸入するようになった。こうして、銀・生糸による日中貿易の時代は終わり、18世紀の日本市場は中国経済から自立していった。

本の後半では近代・現代の日中関係が説明されているが、ここでは割愛する。

ここまで見てきたように日中間では、政権がしっかりしているときは振興策あるいは制限策は官主導の貿易で行われ、そうでないときは海賊行為を伴うこともありえる私貿易が盛んであった。この本を読む前に、上田信著『戦国日本を見た中国人 海の物語『日本一鑑』を読む』を読んだばかりだったので、戦国時代についての私貿易についてはさらに理解を深めることができた。特に、上田さんの本には、 倭寇の取り締まりを行った鄭舜功の目を通しての戦国時代の日本人像が描かれていたので、この二つの本を合わせて読むと、戦国時代から江戸時代にかけての両国の関係を知るうえで助けになることが多いと感じた。

最後に両国間の貿易品目の推移をあげておく。

・唐との貿易
  輸出:琥珀(蝦夷)・瑪瑙(メノウ)・紙・美濃絁(あしぎぬ)・水織絁(みずおりのあしぎぬ)
  輸入:あらゆる分野の書物・仏教関係(仏像、図像、香薬)・高級絹織物・高級工芸品

北宋との貿易(平安後期)
  輸出:金・硫黄・巻貝(奄美諸島以南、螺鈿細工)・工芸品(刀剣・扇・蒔絵)
     南宋では木材も加わる
  輸入:陶磁器・香薬・織物

・遣明船での貿易(室町時代)
  輸出:硫黄・工芸品(刀剣・扇・蒔絵)・銅
  輸入:生糸・絹織物・銅銭・香薬・書籍

・清との貿易→高級品・奢侈品から民生品へ

*1:冊封の原義は「冊(文書)を授けて封建する」という意味である。冊封体制は、二国間の外交関係を著し、中国王朝の天子と周辺国の君主が臣下の関係になることを指す。君主が臣下となった周辺国には、毎年の朝貢、中国の元号・暦(正朔)を使用する義務があり、中国からの出兵命令に応じなければならない。その逆に、攻撃を受けた場合は中国に対して救援を求めることができる。

田口善弘著「知能とは何か」を読む

高校生の頃、物理は悩ましい科目だった。授業で出てくる式がなぜ正しいのかが理解できず悩んだ。まるで、神の啓示でもあるかのように提示されるので、何も考えずに受け入れなければならないように感じ、それに反抗する感情さえ生まれた。

半世紀以上も経って、高校生の時に抱いた疑問をやっと解消してくれたのがこの本である。この本には、物理は物理現象をシミュレーションすると書かれている。そう、物理的な現象を正確に再現できるようにしてくれるものである。そうであるとすれば、高校で教わった方法(いわゆる物理学)だけでなく、他にもいくつかの方法があっていいことになる。物理学は、神の啓示ではなく、物理現象を説明するための一つの物語に過ぎないこととなる。あの時、授業での内容に従わずに、自分で新たな物語を作ってもよいのだと、一言教えてもらっていれば、随分と救われたことだろう。

この本の内容は、私の高校時代の再現でもある。AIは人間の力を超える恐ろしいものであると思われているが、そうではないというのがこの本の主張である。人間の脳は現実世界をシミュレーションしているとみなしている。そして、人工知能も脳と同じように現実世界のシミュレーションをしているに過ぎないと看破している。それぞれが、別の方法でシミュレーションしていると、著者は考えている。

著者は、物理学者で、非線形非平衡多自由度系の研究者である。非線形非平衡多自由度系は、「線形」でなく、「平衡」でなく、「少ない自由度」ではない物理現象である。ここで、「線形」は、二つのものが同時に存在する時、二つのものが別々に存在した場合の重ね合わせで理解できるというものである(例えば、1.5ボルトの乾電池を直列につなげば3ボルトとなる)。「平衡」は、時間的変化がないことである(今見た状態が永遠に続く)。少ない自由度は、数少ないものによって決定されるということである。

1990年代に、非線形非平衡多自由度系の研究が盛んに行われたそうである。チャットGPTに代表される大規模言語モデル(LLM)は、その中身において、非線形非平衡多自由度系と何ら変わらないそうである。この時の研究から類推して、大規模言語モデルというのが現実世界のシミュレーションの範囲にとどまるだろうというのが、筆者の論点である。

人工知能研究史、大規模言語モデルで用いられている深層学習、効率的な脳などの興味を惹く話題が、平易な言葉で説明されていたので、半日ほどで読むことができた。高校時代に抱いた疑問にも答えてくれた素晴らしい本であった。

憂世(うきよ)と浮世(うきよ)

所属しているアマチュアの歴史研究会では、メンバーがそれぞれの研究成果を紹介することになっている。今月は私の番だったので、『憂世(うきよ)と浮世(うきよ)』ということで発表した。

江戸時代は、高い年貢をとられる食うや食わずの百姓や傘張りの内職で糊口を凌ぐ浪人たちのイメージが強く、とても過酷であったと学校教育で教えられた。しかし、浮世絵に代表されるこの時代の文化は、西洋ではジャポニズムとしてもてはやされた。緊縮財政・質実剛健を強いてくる幕府の政策下にありながら、自由奔放・享楽的とも見える江戸の文化はなぜ開花したのだろう。この謎を解くカギは「中間層の拡大」と「知的欲望の湧出」と考えた。そして、なぜこのような結論に至ったかについて、経済学や精神分析での理論を利用して、謎解きを行った。

憂世(ゆうせい)は、元々は仏教用語で、平安後期から中世にかけて無常観や穢土観など仏教的厭世思想の色合いをもって使われたと、司会者の方から教わった。タイトルだけから判断した人は、仏教的な内容と思った人もいたようだ。この論文ではそうではなく、憂世は、つらいことの多い世の中、苦しみに満ちたこの世という意味で使っているので、あらかじめ断っておく。

また、浮世は「ふせい」とも読むそうで、仏門に入られた司会者の方は、題名を「憂世(ゆうせい)と浮世(ふせい)」といわれたが、ここでは少ししゃれて、「憂世(うきよ)と浮世(うきよ)」とした。興味を持たれた方は、以下の論文を読んでほしい。

エルヴェ・ル・テリエ著『異常 アノマリー』と虚数との関連について

3年前、フランスの作家・テリエさんが書いた『異常 アノマリー』が日本でも評判になった。彼はフランスで最高峰の文学賞ともいえるゴンクール賞を、2020年にこの小説で受賞している。多くの書評で紹介されているので、読まれた方も多いことと思う。私も友達に勧められて、楽しく読んだ。読後感は、「デリダ差延(彼の造語でdifféranceと綴る。différerが異なるという意味と遅らせるという意味を持っていたので、差異+遅延を意味する名詞を作りだした。)という言葉を、推理小説のなかで素晴らしく上手に表現している」である。この本は筋を追っていくことに醍醐味があるので、タネを明かしてしまうと読む楽しみが半減してしまう。したがって、触れない方がよい。

しかし、今日の話題を進めるためには、少しだけその筋を説明しなければならない。この本には、殺し屋、小説家、建築家、弁護士など関連のなさそうな11人が登場する。そして、三部構成になっている。第一部では、それぞれの人のこれまでの人生が綴られる。そして、彼らは一つの事件を共有する。同じ飛行機に乗り合わせ、その飛行機は乱気流に巻き込まれてしまう。第二部では、この事件の3か月後の彼らの姿を描き出す。最後の第三部では、3か月後にタイムスリップした人々と、事故直後の彼らとの出会いが語られる。この出会いの部分はスリリングでとても面白い。本の中で楽しんで欲しい

この本が刺激的だったこともあり、しっかりと頭の中に記憶されていたことと思う。といっても、最近では思い出すことはなかった。そのようなとき、妙な夢を見た。数学での虚の世界が、何の脈略もなく、登場した。起きてからなぜだろうとしばらく考えた。先日、この本を勧めてくれた友人が突然入院した。そのことが刺激となって、頭の中を駆け巡ったためだろう。寝ているとき、友人をキーワードにしてこの本が呼び起こされ、そして、同一の人を別々の二人として見る世界、どちらが真でどちらが虚であるかが判然としない二つの不思議な世界で悩んでいるうちに、解決策として虚を扱った数学の世界が現れたのだ。

そこで、ここからは夢に現れてきた世界である。虚数を習うのは高校の2年生ごろなので、それほど高等な数学の分野ではない。でも、ここでは数学の常套的な説明ではなく、できるだけ物語的な説明になろよう試みることにしよう。人が左回りに半径$a$の円を描きながら移動しているとしよう。$t$を移動した長さとすると、直交座標系$(x,y)$では次のように表すことができる。

\begin{eqnarray}
x &=& a \cos t \nonumber \\
y &=& a \sin t \nonumber \\
\end{eqnarray}
また、円の周りを歩いていることから
\begin{eqnarray}
x^2 + y^2 = a^2
\end{eqnarray}
が成り立たないといけない。

上記の式で、$a=1$としても一般性は失われないので、ここからは$a=1$とする。

ところで、ここでの$x$と$y$は何を表しているのだろう。人が円の周りを移動している時、水平方向にプロジェクションしたのが$x$であり、垂直方向に写し出したのが$y$である。両者とも、水平方向、垂直方向に写っているイメージの動きを表していると見てよい。

もちろん、人とイメージの間には、距離がある。先の$x$と$y$ではこれを表していない。そこで、見えていないものを表すことにしよう。見えていない世界を虚数$i$で表すことにする。例えば、人とイメージの間の長さが$h$であったとき、これを$ih$で表すことにする。ここで、$i^2=-1$である。整数や実数は、自分自身をかけ合わせたものは正の数になると教わっている。それに対して虚数は自分自身をかけ合わせると負の数になってしまう。違う世界に属していると感じさせてくれるのが虚数である。

そこでイメージの位置とそこまでの長さをともに表すことにする。それらを、水平方向は$x'$、垂直方向は$y'$とすると、それぞれは次のようになる。
\begin{eqnarray}
x' &=& \cos t + i \sin t \nonumber \\
y' &=& \sin t +i \cos t
\end{eqnarray}
数学の世界では、虚数を用いた数を複素数と呼んでいる。そして、イメージの位置を実部、イメージまでの長さ(虚数の部分)を虚部と呼んでいる。

これらの式から次の関係が成り立つことがわかる。
\begin{eqnarray}
x^2+y^2 &=& \cos^2 t +\sin^2 t\ \nonumber \\
&=& ( \cos t + i \sin t)( \cos t - i \sin t) \nonumber \\
&=& x' (-iy') \nonumber \\
&=& 1
\end{eqnarray}
これは何を表しているのだろうか。$x'$と$y'$とは、プロジェクションした場所が異なっているだけで、実は同じものをそれぞれの方法で表現している。垂直方向にプロジェクションして得られている$y'$を、水平方向のそれに変えるためには、それの虚像を作ればよいので(鏡に写して左右が反対になってしまった鏡像をもとに戻すには、それを別の鏡に写せばよいのと同じ原理)、$iy'$とすればよい。ところが、$i$は$i^2=-1$なので、垂直方向にプロジェクションし直したときは、符号を反対にする必要がある。そこで、
\begin{eqnarray}
{-} i y' = \cos t - i \sin t
\end{eqnarray}
を得る。$x'$と$-iy'$との違いは、虚部の符号が異なるだけである。イメージへの長さを表すときには、正負の符号にこだわらなくてよかったことが分かる。数学では、虚数の符号が入れ替わったものを共役数という。表現上は異なっているが同じものである。

同じように、次のこともいえる。
\begin{eqnarray}
y^2+x^2 &=& \sin^2 t +\cos^2 t\ \nonumber \\
&=& ( \sin t - i \cos t)( \sin t + i \cos t) \nonumber \\
&=& (-ix') y' \nonumber \\
&=& 1
\end{eqnarray}

数学的な話はここまでにして、テラリさんの『異常』に戻ろう。飛行機事故の後、3年後を生きている人を$y'$、事故直後を生きている人を$x'$としよう。同じ人なのだが、$y'$と$x'$として、別の二つの世界を生きている。それでは、二人が出会った瞬間、例えば$y'$が$x'$になるときどのようなことが起きるのだろう。$y'$は$x'$に戻ろうとするので、$-iy'$となる。従って、
\begin{eqnarray}
x' &=& \cos t + i \sin t \nonumber \\
{-} i y' &=& \cos t - i \sin t
\end{eqnarray}
となる。ここで、前述したように虚部の符号が違っていることに気がつく。これを同じとみるのだろうか、あるいは「デリダ差延」と見るのだろうか。私は、後者と見たのだが、皆さんはいかがだろう。

ラカン精神分析によれば、幼児は鏡に写った姿をみて自身を認識する。しかし、それは鏡に写っている者なので本当の自分ではない。左右も逆なのでその通りである。彼の理論では、自身を他人として認識しているとしている。それでは、鏡に写った姿を別の鏡に写したのは、真実の自分だろうか。確かに左右は逆ではない。元に戻っている。他の人が見ている自分とも同じである。でも、他人としての自分を鏡に写したことで、本当の自分になるのだろうか。そこに写っている自分は、いつも鏡で見ている自分でもない。やはり、他人としての自分ではないだろうか。このため、デリダが言う差延なのではと思った次第である。

最後に、参考までにそれぞれの関係を圏論で示しておく。

熊本・宮崎の古墳・神社巡り(三日目)―大規模古墳群

いよいよ旅行の最終日になった。この日は、大規模な古墳群を見るために、熊本から人吉盆地を抜けて宮崎への大移動である。

そして、天気の方も荒い歓迎をしてあげようと思ったのだろうか、熊本の山間部では雪が予想されていた。案の定、八代から人吉へと山中を抜けていく九州縦貫自動車道では、長いトンネルを出ると必ず雪に見舞われた。運転手さんは大変だったことだろうが、乗客である私は久しぶりの雪景色を楽しんだ。

人吉盆地に到着し、ここでの見学場所は青井阿蘇神社である。この神社の境内にある楼門・拝殿・幣殿・廊・本殿は国宝である。人吉藩主・相良氏による江戸時代初期の建築で、球磨地方独自の意匠が施されていることが評価されての結果である。これらの建物は、黒漆を基調とし、組物を赤漆で装飾し、急勾配の茅葺屋根を特徴としている。創建は大同元年(806)とされ、阿蘇神社から12柱のうち3柱(阿蘇大明神(健磐龍命)、阿蘇津媛命(妃)、速甕玉命(はやみかたまのみこと・初代阿蘇国造))を勧請したとなっている。
楼門。

組物の赤漆。

拝殿。

左が拝殿、右が幣殿。

左が幣殿、中央が廊、右が本殿。

幣殿の内部。

欄間は仏教様式。一般に、寺院は装飾し、神社は簡素にするが、青井阿蘇神社はそうなっていない。仏教様式の装飾になっているのは、江戸時代は神仏習合であったことによる。

「みそぎばし」から楼門を望む。

左は御神木(くすのき)、右は建築家の隈研吾さんが設計した参集殿。

次の見学場所は、かつては新婚旅行のメッカであった宮崎・青島である。

青島への橋。左が青島、中央が青島神社の鳥居、右が奇岩「鬼の洗濯板」である。「鬼の洗濯板」は、中新世後期(約700万年前)に海中で出来た水成岩(固い砂岩と軟らかい泥岩が繰り返し積み重なった地層)が隆起し、長年にわたって波に洗われ、砂岩層だけが板のように積み重なって残り、このような形状になった。

「鬼の洗濯板」。亀の頭みたいである。

亀甲のような小さな枠が造られ、その内側が削られている。

青島神社拝殿。

元宮。

亜熱帯性植物のビロウ樹。樹林の中を散歩していると、南国にいるような気がしてきた。

やっと、古墳群の見学である。訪れる場所は宮崎市の生見(いきめ)古墳群と西都市の西都原(さいとばる)古墳群である。宮崎県には3600基の古墳があるとされている。川の流域ごとにどのような古墳があるかは、シンポジウム「世界文化遺産としての古墳を考える Part IV」から読み取ることができる。

上図から、生見古墳群は前期(4世紀)がピークで、中期(5世紀)には勢いを失っていくことが分かる。それに対して、西都原古墳群は前期には小規模な古墳が多数あり、中期の初めになると突然大規模な古墳が造られ、その後同じように威勢がなくなる。

それでは、生見古墳群から見ていこう。この古墳群は、宮崎市街地の西部に位置し、大淀川右岸の標高約20mの丘陵上に南北約1.3㎞、東西約1.2㎞の広さである。Google Mapで見ると南北に展開していることが分かる。

Google Earthを用いて3次元で見る。墓の形状が分かりやすい。

2003年の宮崎市教育委員会発行の「史跡生見古墳群―保存整備事業 発掘調査概要報告書Ⅳ―」によると古墳群の概略は以下のようである。また、この古墳群の前方後円墳は4世紀から5世紀初めに造られたとされている。

生見古墳群のガイドブックから、それぞれの古墳が造られた時期が分かる。

5世紀初めに造られた5号墳。前方後円墳で墳長は57mである。この古墳では、後円部と前方部は2段に造られ、墳丘の表面は河原石を並べた葺石になっている。また、墳丘の東側の平坦な場所に埴輪が並べられていたことが分かっている。この古墳の復元は当時と同じようにほとんど手作業で行われ、表面には約90,000個の葺石が当時の並べ方そのままに再現されている。

前方部より後円部を望む。埴輪が並んでいたのは、左側の奥の平坦なところだろう。

4世紀に造られた14号墳。前方後円墳で墳長は63mである。発掘調査では、当時のままを残す葺石が発見された。また、5号墳で出土した埴輪と同じ形状のものが発見された。

4世紀中ごろに造られた3号墳。前方後円墳で墳長は143m、高さ12.7mである。この古墳群の中で最大で、九州でも3番目の大きさである。

4世紀に造られた21号墳。前方後円墳で墳長は35mである。この古墳群の中では最小の規模である。この古墳の周りで13基の地下式横穴墓が確認された。ここでの地下式横穴墓は、周溝の底に竪穴を堀り、そのあと周溝の外側に向けて横穴を掘り、羨道と玄室を設けて墓を造っている。

生見の杜遊古館では発掘品を見ることができる。

円筒埴輪。

復元埴輪。

須恵器(7号墳)。

地下式横穴墓。古墳時代の南九州には、「地下式横穴墓」が多く存在し、これは名前の通り地下に造られた墓で、平坦な大地の上に造られた。これまでに1000基以上見つかっていて、中には前方後円墳に埋葬された人物の副葬品と見劣りしない多様な品々を出土するものもある。地域の有力者が前方後円墳ではなく、地下式横穴墓に埋葬されたこともあったとされている。ここの古墳群では50基を超えている。また、前方後円墳の周囲で発見されることが特徴である。写真で人がいるところに竪坑が掘られ、そのあと横穴が掘られる。そして、死者が埋葬されたら竪穴は埋め戻される。

地下式横穴墓からの頭蓋骨、土師器と須恵器。

同じく土師器と須恵器。

同じく高坏。

同じく鉄刀・鉄斧・鉄鏃。

それでは最後の訪問地である西都原古墳群を見ていこう。この古墳群は、標高50~80mの台地上に東西約2.6㎞、南北4.2㎞と広大である。3世紀後半から7世紀前半にかけての古墳が300基あまり、点在している。
Google Mapで見た古墳群。

Google Earthで俯瞰してみる。

九州に古墳を見に行きたいと思うようになったのは、ある人から宮崎には広大な古墳群があると知らされたときからである。それがこの西都原古墳群である。このため、ゆっくりと見学したいという希望を抱いていたが、帰りの高速道路が交通事故のため使用不可能ということで、帰りの飛行機に間に合わせるための急いでの見学となった。

見学できた古墳は、鬼の窟古墳だけとなった。この古墳の名前は通称で、正式には206号墳である。西都原台地のほぼ中央部に位置し、直径37m、高さ7.3m、土塁の高さ約2~2.6m、土塁の基底部幅約9mを有している円墳である。西都原古墳群では唯一の横穴式石室を持ち、墳丘の周囲には土塁(外堤)を廻らす特異な形状をなし、全国的にみても他に例がない。

石室の天井石は畳3枚程の大きな石を使用し、石室の規模は、羨道の長さが4.82m、幅2.29m、高さ1.8m、奥方の玄室は、長さが4.82m、幅2.29m、高さ2.15mである。全てが加工された切石で積み上げられている。築造時期は、古墳時代後期から終末期の6世紀後半から7世紀初頭頃とされている。

鬼の窟古墳の外堤手前。

横穴式石室入口。

石室内部。

外堤より周囲を望む。周りには古墳が見える。

宮崎県立西都原考古博物館近くの古墳。

西都原考古博物館。地元の那須設計が設計した。

埴輪 子持家。

埴輪 船。

壺。

器台。

さて、埴輪に関係するものが出てきたので、埴輪の起源について説明しておこう。古墳時代に先立つ弥生時代に、器台の上に壺を逆さにして乗せたものを、農耕祭祀の道具として用いた。古墳時代になると、この形式が死者を祀るために使われるようになった。そのとき、器台と壺は特殊器台と特殊壺に変化し、昨年のトーハクの『ハニワ展』で見たような形となった。

地下式横穴墓から出土した頭蓋骨。

女性の頭髪復元模型。竪櫛が付いたままの頭蓋骨が発見されたので、それをもとに復元された古墳時代の女性の頭髪である。

西都原古墳群には、九州地区では最大級の古墳が二つある。男狭穂塚(おさほづか)・女狭穂塚(めさほづか)で、前者は天孫降臨したニニギノミコト、後者はその妻のコノハナサクヤヒメの御陵である*1。男狭穂塚古墳は墳長154.6mで国内最大の帆立貝形古墳であり、女狭穂塚古墳は、墳長176.3mの前方後円墳で九州最大規模を誇っている。陵墓参考地であるため、特別参拝日以外は見学できない。館内では映像で紹介している。左側が女狭穂塚、右側が男狭穂塚である。

3日間かけて、古墳と神社を巡った。一人で計画を立てて廻ったとしたならば、このような短い時間の中で、これだけのものを見学することは不可能だっただろう。この分野に詳しいガイドさんが、上手に選択し、効率よく見学させてくれたことで、予想以上に大きな収穫を得ることができた。特に、装飾古墳と地下式横穴墓については全く知識がなかったので、古墳時代の九州の特殊性を知るうえで、良い材料が得られたと感謝している。最後の西都原遺跡は見学する時間が短く消化不足であった。しかし、これだけの広大な古墳群を見ようとすると、少なくとも一日はかかるので、次の機会があることを期待したい。

*1:神話では二人は次のように伝えられている。高千穂の地に天下った天つ神の皇子「ニニギノミコト」は、ある日小川で美しい姫「コノハナサクヤヒメ」に出会い、一目で心を奪われてしまう。ニニギノミコトコノハナサクヤヒメの父「オオヤマツミノカミ」に姫との結婚を申し入れ、めでたく結婚する。しかし、夫婦としてともに過ごした一夜が明けるとニニギノミコトは反乱部族の討伐へと旅立って行く。時が過ぎ、無事帰還したニニギノミコトコノハナサクヤヒメの懐妊を告げられる。一夜限りの逢瀬で子どもを授かったことが信じられないニニギノミコトは姫の貞節を疑う。「子どもはほかの国つ神の子ではないのか」と言われ、姫の心は深く傷つく。あらぬ疑いを掛けられ、悲しみに怒りをおぼえた姫は、「もし生まれてくる子がほかの国つ神の子であるなら、無事に生まれないだろう。 しかし、天つ神ニニギノミコトの子であれば、たとえ火の中でもきっと無事に生まれるだろう。」と言って、姫は出口のない産屋にこもった。出産の時が近づき、姫は産屋に火を放った。燃えさかる炎の中で無事に3人もの子を産み、姫は身の潔白を証明した。

熊本・宮崎の古墳・神社巡り(二日目)―装飾古墳

この日に見る古墳は、日本全国にたくさんある古墳の中でも変わりものであろう。石室の中に装飾が施されている。このような装飾古墳は、熊本県におよそ200基あり、全国には約700基である。熊本から全国へ広がったとみられている。装飾という様式を伝える独自のネットワークが存在したようだ。

ところで、古墳はなぜ生まれたのだろう。松木武彦さんの『はじめての考古学』によれば、今から紀元前3000年前の中央ユーラシアに起源があるようだ。この地に「地面に木材などで墓室を作り、その上に高く大きく土を盛り上げた墓」が出現し、紀元前の数百年で急速に大型化しながら東西に広がった。中国には紀元前5世紀頃の戦国時代から土を盛り上げた同じ系統の墓が発達し、秦の始皇帝の時に頂点に達した。紀元後になると、地球規模の寒冷化に伴って、巨大な帝国(漢・ローマ帝国)が衰退し、滅亡していく。漢の歴代の皇帝も大きな墳墓を築いたが、その滅亡とともに墳墓の造営は廃れていく。逆に、周辺地域の高句麗百済新羅・加那・大和の各国では、漢の皇帝たちに倣って、王の権威を示す手段として大きな墓を作るようになる(西ヨーロッパでも同じようなことが起きる)。

中央ユーラシア、中国、新羅、加那では、地面に墓を作って王を埋葬し、その上に礫や土を盛り上げて墳丘を完成させた。高句麗百済では石を積み上げていく途中で石室を設けた。これに対して、日本列島の古墳は、まず土を盛り石を葺いて墳丘を作り、その後で、頂上に浅い墓穴を作り、その中に作られた石室に王を埋葬した。日本列島だけが埋葬が最後であるのも特徴の一つである。また、墓が墳丘の上部にあるのも特徴で、亡くなると天に登るという思想を、反映したのではないかと松木さんはみている。さらには、中国、高句麗新羅百済では大きな墓はほぼ王だけに限定されているのに対し、日本ではあちらこちらに大きな墓が存在しているのも異なる。これはヤマト王権が軍事的な統一ではなく、卑弥呼という女性をみんなの王にしたと魏志倭人伝で書かれているように、合意と連合の産物によるとされている。すなわち、中心のヤマトには大王(王の中の王)の古墳が築かれ、地方にはその土地の王(首長)の古墳が築かれた。墓の大きさは、大王を中心とする連合の中での王の序列を表現していると考えられている。

大和王権が発足したのは3世紀中ごろとされている。奈良盆地で最大の古墳である箸墓古墳が、初代の大王の墓とみられている。この墓と同じ前方後円墳は、大和を中心に近畿・瀬戸内・九州北部に主に分布し、東日本にも小規模のものが散在する。また、前方後方墳は、その最大のものは近畿を中心に分布するが、たくさんのものが東日本に存在する。そのほか、円墳と方墳もかなりの大きさを有するものが全国にある。それぞれの古墳の形には地域性も見られることから、大王との結びつきの濃淡や強弱を表しているのではないかと考えられている。

大和王権成立当初の副葬品は、鏡、腕輪型石製品、銅鏃(どうざく)だが、埋められている数の多さは大和王権との繋がりの強弱を表しているとされている。また、種類での偏りは、大和王権と地方の王たちの間に異なるネットワークが種類毎に存在していたのではとされている。また、副葬品の内容から埋葬者の性別を知ることができる。そこからは、大和政権が発足した当初は埋葬者の男女比は6対4であり、ジェンダーによる違いが小さかったことが分かっている。

大和王権は3世紀中ごろから4世紀中ごろまで奈良盆地に大規模な古墳を築いていたが、4世紀の終わりごろになると大阪平野に築くようになる。ここからは古墳時代の中期とされる。この時代になると大王により強い権力が集中し、前期が重なり合う弱いネットワークであったのに対し、中期になるとネットワークは一元化される。各地の王や有力者の大多数は男性が占めるようになり、甲冑や矢が副葬されるようになる。中期は、中国の史書に記される倭の五王の時代で、朝鮮半島での権益の獲得と保持を狙って、中国南朝・宋からのお墨付きを求め、朝鮮半島の勢力の一部とは緊張関係にあった。この時期の大王の前方後円墳は巨大化し、外交の窓口であった大阪湾沿岸に築かれ、国威を発揚したと考えられている。また、前期にはバラエティに富んでいた各地の王の墓も、中期には前方後円墳に統一されるようになる。さらに、各地の王の古墳にも賑やかな埴輪が飾られるようになる。須恵器や馬など、朝鮮半島から先端の技術が導入されたのもこの時期である。

6世紀は後期と区分される。巨大だった前方後円墳は、規模が小さくなり始める。この時代、5世紀に大陸から伝わってきた横穴式石室が爆発的に普及する。この石室は墳丘の底に近いところに造られる。このため、墳丘を高く大きく作ることの意味が薄れて、石室の内部やその空間を大きく美しく示すようになる。中期の前方後円墳が三段で築かれたのに対し、後期は二段が通例となる。穀類の生産が発展したことで生活に余裕がでてきて、地域のリーダーも小さな円墳や山すそなどに数十あるいは数百基にも及ぶ墓(「群集墳」と呼ばれる)を副葬品を伴って造ることになる。しかし、7世紀になると仏教の影響を受けて寺院建設が盛んとなり、前方後円墳は消滅し、古墳時代の終末期を迎える。

少し、前置きが長くなったが、それでは、熊本の装飾された古墳を見ていこう。この日の行程は下図のように、菊池川に沿って下流に向かう。

熊本の古墳は他の地域ではあまり見られない横穴式石室を持つ。肥後型横穴式石室と呼ばれるが、これには二つの構造がある。一つは単室構造、もう一つは複室構造と呼ばれる。単室構造は羨道と玄室からなり、複室構造は羨道と玄室の間に前室が設けられる。この場合には、玄室は後室と呼ばれることもある。玄室には、主たる埋葬者の遺体が安置される石屋形がある。石屋形は前面に開いていて、死者が見えるようになっている。そして、後方と側面には装飾が施されている。側面の屍床にも死者を安置できるので、この墓には複数人が埋葬される。また、天井がドーム型になっているのも特徴である。図は熊本県装飾古墳総合調査報告書(1984)からのコピーである。

最初はチブサン古墳とオブサン古墳である。チブサンは、石屋形に描かれた文様が乳房に見え、オブサンは「お産」に由来しているとのことである。チブサン遺産の横穴式石室には、山鹿市の職員の方が扉の鍵を開けてくれたので、石室の中を見ることができた。石室は複式構造で、扉の中に入るとそこは羨道である。さらに進むと保護扉に行きつく。そこの扉も開けてもらい、這うようにして中に入ると前室である。前室と玄室の間には観察窓が設けられているので、そこから、石屋形を観察する。内部は写真を撮れなかったが、近くにその複製がある。壁面には三角形や丸を用いて幾何学模様が描かれている。そして、左側に、白い大きな丸の中に小さな黒い丸が二つ並んでいるが、乳房に見えるだろうか。私にはどうしても目のように見える。

この古墳は、6世紀初め(古墳時代後期)に造られた前方後円墳で、墳丘長が約55m、後円部の高さが約7mである。

前方部と後円部の間のくびれ部分に立てられていたと伝えられている石人(石人は九州地方に多く出土する)、

朝顔形埴輪と円筒埴輪が出土している。このほかには、須恵器・土師器が見つかっている。

次のオブサン古墳は円墳で、直径は約22m、高さは約5mである。6世紀後半に造られたとされた。複室構造の横穴式石室で、その入口両脇は突き出している(この形は珍しい)。

前室を閉じるための閉塞石。この辺りは西南戦争の時の激戦地で、薩摩軍はこの石室の中に立てこもった。閉塞石には砲弾のあとが残っている。

玄室を閉じるための閉塞石。途中で折れてしまったようで、下部だけが展示されている。元の大きさは、壁面に沿って描かれているとおりである。

出土品の復元。古代から近世のものまで多数見つかっているが、玄室付近からはあまり発見されていない。これは盗掘にあったためとされている。また、石室の装飾の多くも傷つけられ、ほとんど残っていない。

二つの古墳を見学する前に、山鹿市立博物館を訪れた。展示を撮影することは禁じられていたので、玄関先にあった首のない石人を撮影した。山鹿市の臼塚古墳に立っていた武装石人のレプリカである。

次は、熊本県立装飾古墳館(左側)と岩原(いわばる)古墳群である。古墳群は5世紀(古墳時代中期)に造営され、双子塚古墳(右側)とその周りに大小11木の円墳がある(図は右側が北)。

熊本県内最大級で、全長107mある前方後円墳の双子塚古墳。左側が祭式を行うための前方部で、右側が死者を埋葬する後円部である。墳丘は3段築盛で、墳長は107m、高さ9m、後円部直径97mである。発掘調査が行われていないため埋葬施設については不明だが、地中レーダー探査などからは家形石棺が直接埋められているとみられている。

双子塚古墳(左側)と周囲の円墳。

円墳。

それでは館内で、復元された装飾古墳を見ることにする。

鴨籠(かもこ)石棺(宇城市)。5世紀の後半円墳で、直弧文を浮き彫りで描いて、赤・灰で彩色している。

井寺古墳(嘉島町)。6世紀の円墳で、直弧文、同心円文などを線刻のあと、赤、白、緑で彩色している。

小田良古墳(宇城市)。5世紀の円墳で、円文、鞘、楯などを浮き彫りで描いている。


千金甲1号墳(熊本市)。5世紀の円墳で、鞘、同心円文などを浮き彫りのあと、赤・黄・緑で彩色している。

チブサン古墳(山鹿市)。6世紀の前方後円墳で、人物、三角文、円文などを赤・白・黒で彩色している。

大坊古墳(玉名市)。6世紀の前方後円墳で、連続三角文や円文などを赤・灰・黒で彩色している。

弁慶が穴古墳(山鹿市)。6世紀の円墳で、同心円文、舟や馬などを赤・白・灰で彩色している。


永安寺東古墳(玉名市)。7世紀の円墳で、三角文や円文、舟などを赤で彩色している。

以上は熊本県の装飾古墳であるが、参考に、福岡県の王塚古墳(嘉穂郡桂川町)も、復元されていた。6世紀の前方後円墳で、鞘、楯、騎馬、星、双脚輪状文、わらびて文、三角文などを赤・黄・緑・黒・白で彩色している。

装飾古墳館。建築家の安藤忠雄さんが設計した。

次の訪問地は江田船山古墳。この古墳は5世紀末から6世紀初頭にかけて築造され、全長が62m、高さが10mの前方後円墳である。

大刀復元。この古墳は銀象嵌の銘文入りの鉄刀が出土したことで有名である。

刀の峰に銀象嵌の銘文が記されている。読み下し文で表すと、「天の下治らしめししワカタケル大王の世、典曹に奉仕せし人、名はムリテ。此の刀を服する者は、長寿にして子孫は洋々、□恩を得る也、其の統ぶるところを失わず、刀を作る者、名はイタワ、書する者は張安なり」と記されていた。ワカタケル大王は雄略天皇とされている。

江田船山古墳の周りにはいくつかの古墳が存在し、公園になっている。肥後古代の森には、無人和水町歴史民俗資料館があって、銀象嵌銘大刀を始めとする江田船山古墳からの副葬品を復元したものが展示されている。本物はトーハクにある。

この日の最後の訪問地は大坊古墳と玉名市博物館である。ここの古墳のレプリカは装飾博物館で見学したが、現地で実際に確認した。パンフレットには次のように紹介されている。大坊古墳は、菊池川右岸の玉名平野を望む丘陵の先端に位置しており、6世紀前半から中頃に造られた古墳で、全長40mを超える前方後円墳と考えられている。大坊の集落の北側丘陵裾部に大坊天満宮が位置し、その背後に古墳が築かれている。後円部には、南に開口する横穴式石室が設けられている。石室内部は、手前に前室、その奥に玄室(奥室)があり、複室と呼ばれる構造である。玄室は、平たい石を積み上げて構築され、中に遺体を安置する石屋形が設けられている。石屋形は、板状の石を組み合わせて箱状に造られており、奥壁には、赤・黒・青・灰色などの顔料で連続三角文、円文が描かれている。
山梨の職員の方が内部を案内してくれ、前室前に設けられた見学窓から見ることができる。

毛綱毅曠(もづなきこう) さんが設計した玉名市立博物館。

この博物館では玉名市の歴史が紹介されているが、今回見学したのは、古墳時代に関するものだけである。

舟形石棺(山下古墳)。古墳時代前期から中期を中心とした、九州の刳抜式(くりぬきしき)石棺が始まったのは、讃岐地域と考えられている。これとつながりのある舟形石棺は、菊池川流域に50基ほど分布し、下流域には34 基が確認されている。また、この玉名で製作された石棺は、5 世紀中頃になると大牟田・みやま・佐賀の他、瀬戸内海沿岸、大阪の有力者古墳の棺として舟で運ばれた。

これだけ古墳を見たのだから古代人の死生観を知りたくなる。装飾博物館にその説明があったので、その部分をコピーすると次のようである。古代の人たちはこの世で死ぬことは、あの世で生まれることであると固く信じていた。したがって、あの世の生活のために、大きな古墳を作り永遠に壊れないように石積みの堅固な家を作り、部屋を少しでも美しくしようと、赤や青や白などの絵を描いたり、いろいろな文様を彫ったりした。その絵や文様から、古代の人の死生観が想察される。

古代人が死後の世界と考えた所は、①あの世は地下にある:古事記日本書紀に、愛する妻を失ったイザナギノミコトが妻を訪ねてユモツヒラザカから、黄泉の国に下りて行き妻と問答する話がある。この物語をよく示しているのが横穴式石室である。

②死ねば魂は鳥になる:神話の中にヤマトタケルノミコトの話がある。東国退治に行ったミコトはノボノで死ぬ。塚を築いてミコトを葬り祭っているとミコトの魂は白鳥となって古里ヤマトをさして飛んでいく、という話である。弁慶が穴古墳や珍敷塚(めずらしづか)古墳に描かれている鳥の絵はその好例である。

③あの世は海の彼方にある。万葉集の「おきつ国しらさむ君がしめ屋形 黄染めのやかた 神の門わたる」の歌は「あの世の君となるべき貴人を乗せた舟が山の狭門を静かに流れていく」という光景をうたったものとされる。隋書倭国伝には「葬におよび、屍を船上におき陸地にこれを牽く」とある。

④あの世は山の上にある:民俗学では、「死出の山といわれるように死ねば魂はそれぞれの村を見下ろせるような高山や霊山に行くという信仰があった」という。万葉集にも柿本人麻呂が、死んだ妻を求めて山に行こうと詠んだ歌がある。村を見下ろす高いところに古墳があることが多い。装飾古墳の文様にはないが、古代から確かにその思想はあったものと思われる。

古代の人々の死生観が分かったところで、次の日は日向国(宮崎)の古墳巡りである。